機能主義とメディアの現在-情報社会とデータベースと人間の死と(講演) ※補論:土井隆義の『個性を煽られる若者たち』における個性論 2011年04月18日
※この講演は「知的生産の技術」研究会(http://tiken.org/modules/news/article.php?storyid=66)の定期セミナーに呼ばれてお話ししたものです(昨年の12月13日、虎ノ門商工会館)。知研の八木哲郎前理事長とは、現在の理事長・久恒啓一さんとも長い付き合いで、生涯学習組織の理想的なモデルとでも言うべき活動を行ってきている会です。八木先生が師と仰ぐ梅棹忠夫の『知的生産の技術』(岩波新書)自体が「生涯学習」の宣言とでも言うべき名著でした。八木先生は梅棹の『知的生産の技術』をまさに“実践”されたわけです。そんな会のセミナーに呼ばれて(これで2回目の登壇ですが)、ちょっと張り切りすぎました(笑)。文字興しは八木先生自身がされて、それに修正・補筆を加えています。見出しはもちろん後から私が付けたものです。講演(トーク)に後付で見出しを付けていますので重複もありますが、お許し下さい。
※八木先生と私の交流についてはこちらに比較的詳しく書いてあります→http://www.ashida.info/blog/2006/10/post_169.html#more
---------------------
1)はじめに
●寝ても覚めても「形而上学」とは何か、が問題です
2)機能主義とは何か
●機能主義の起源はパブロフの犬
●機能主義はインプットとアウトプットの〈中間〉にあるものは無視する
●コントロールできないものとコントロールできるもの
●サイバネティクスの原理は「実際の」行動に対応すること
●フィードバックシステムとは「思考」と同じ(=考える機械)
●機能主義から行動主義へ
●チューリングテスト
3)機能主義の蹉跌
●フレーム問題
●〈関係のないもの〉を無視する、忘れることができる人間
4)環境とは、後からやって来るもの
●因果を辿れない「環境」
●自伝は、自分の人生を二度殺しているのと同じ
5)データベースと後悔
●〈後悔先に立たず〉を解消するためのデータベース
●なぜ〈検索〉なのか
6)近代の問題
●近代的主体性=自由の問題 ― 人間性をいうのは差別主義、階級主義
●マークシート試験、○×試験、選択問題こそが、近代的自由の源泉
7)Twitterにおける自由と平等
●検索主義の解体
●Twitterにおけるストックの時間性 ― 専門性とは入力と出力の間に時間差があること
●ハイパーリンクの課題 ― 強力な学びの主体がないと機能しない
8)Twitterにおける検索主義の解消
●Twitterの5つの特徴
1) Twitterはデータベース(ストック)ではない
2) 単にフローではなく、〈現在〉を共有している
3) 現在の共有=inputとoutputとが同時に存在する
4) 情報の先に、いつも同時に書き手と読者が存在している(情報の身体化)
5) この書き手と読者との同時存在は、いつも断片化し、ストック化に抗う
9)1990年前後から始まったオンライン自己現象
●ネット上の人間関係でしか自己を形成できない人たちの群れ
●ハイパーメリトクラシー教育
10)消費社会とオンライン自己
●消費社会の深化はストック人材をますます不要にしていく
●「主体」が未形成の人に「主体」を強要する矛盾
11)IT社会(高度情報化社会)とオンライン自己
●人間関係重視の社会
●高卒求人数の10分の一の激減
●「主体」が未形成の若者に「主体」を強要する矛盾
●小さな共同体における他者の肥大
●内面の肥大とTwitter現象
●現在を微分することの他者化機能
12)Twitterの〈現在〉の限界とポストモダン
●現在の微分は、身体と死の微分
●「時間を忘れること」と「死を忘れること」
●「セックスなう」と「死ぬなう」
-------------------
補論:土井隆義の個性論(『個性を煽られる若者たち』における個性論)
●個性とは、内在の別名か?― 土井隆義の個性論(1)
●〈現在〉を書き留める「濃密手帳」― 土井隆義の個性論(2)
---------------------
1)はじめに
●寝ても覚めても「形而上学」とは何か、が問題です
「形而上学(メタフィジックス)」というのは、ラテン中世を通じて変質してしまい、デカルトの「主観性」で完全に停滞して、その反省が20世紀に入ってハイデガーとかヴィントゲンシュタインの思想に流れこんでいくという話を私の日経BPnet連載「ストック情報武装化論」(http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20100902/244122/)でふれましたが、アリストテレス自身は「形而上学」という言葉を知らなかった。それは後の編纂者の用語です。
アリストテレス自身は「プロテ-・フィロソフィア」としか言っていない。
彼が「プロテ-・フィロソフィア」と言ったのは哲学中の哲学という意味での「初源の(根源の)」哲学という意味でのことですが、そもそもギリシアで「フィロソフィア」というのは、ギリシャでは、サイエンスも含めた学問全体を指していた。「フィロソフィア」は、今よりも、ずっと広い意味を持っていたわけです。
だから「フィロソフィア」は今みたいな抽象的な原理(思想)だけを問う思考ではなかった。アリストテレスが言っていた「プロテ-・フィロソフィア」は後に「メタフィジクス」=形而上学と言われているものですけれども、その「プロテ-・フィロソフィア」は、編纂上の都合で「自然学(フィジックス)」の「あと」(メタ)に置かれてしまった。編纂上の都合で、「自然学」の「後の巻」というのを「形而上学」と呼んでいるわけです。
アリストテレスも知らない編纂上の都合でつくられた「メタ・フィジックス」という言葉は現代に至るこの2000年間を支配し、悪く言えば2000年間もアリストテレスの「プロテ-」構想は隠れ続けて今に至っているわけです。
「プロテ-・フィロソフィア」の主題は存在論です。つまり〈人間(魂)〉、〈自然〉も含めたあれこれの存在者が「在る」という問題です(アリストテレスが言った「様々な仕方で存在は語られる」というもの)。「無」ではなくなぜ「在る」のか(ライプニッツの問い)。「無」も在るわけだから、「在る」ということの問題をどう解くかが一番大きな問題だった。それなのに、「メタフィジックス」という編纂上の言葉とともに消えてしまったのが、ハイデガーの言う「存在忘却」の歴史であります。
今日、お話しする隠れた主題は、この存在論の問題ですが、このことを真正面からお話し始めると限られた時間の中でほかの話ができなくなってしまいますから、とにかくレジュメに書いたことを全部話すつもりでまとめました。綱渡りのような話し方になると思いますが、2,3箇所くらい「なるほど」と思って下されば今日の話は成功です(笑)。
この「プロテ-・フィロソフィア」の話は、今日のお話の最後のところのお話です。パワポ15枚目の4に「形而上学の存在―神―論的体制の、存在者(範例的存在者としての現存在=人間)から存在へのベクトル」のところが「存在忘却」の問題ですが、このラストの話につながるようにうまく話せるかどうかはわかりませんが、とにかくやってみます(笑)。
2)機能主義とは何か
●機能主義の起源はパブロフの犬
まずは、諸悪の根源、機能主義からお話しします。機能主義は高度情報化社会の今日のみならず、近代という時代そのものを画している思考です。だから、最初にこの問題を取り上げます。
機能主義というのはファンクショナリズムと言います。機能主義と訳した原語はファンクション(function)ですから、関数です。だから機能主義とは「関数主義」と言うことです。機能主義というと実益主義ととってしまう人がいますが、そう訳すと誤解する人が多くなる(実益と無関係ではありませんが)。
私はこの言葉を、先代の研究者たちはちゃんと訳しておくべきだったと、日経BPnetの先の連載で書きました。
それというのも、私が十代後半から20代前半にかけて圧倒的に影響をうけた吉本隆明が、ひたすら自分がやってきたことを話し続ける長い講演会(NHKのETV特集)で、自分にとっては〈自己表出論〉がすべてだったといい、この自己表出論は蔓延する機能主義に対する戦いだったのだということをポツリと言ったのです。
私はそれがすごくピンときて(たぶん、この吉本の言葉を理解できるのは私だけだと自負していました・笑)、やはり機能主義が問題なのかと思いました。吉本の〈自己表出〉論は、もともと〈指示表出〉における機能主義的な言語論を意識していたわけです。
ハイデガーも、サイバネティクスを最後まで機能主義と見なして闘ってきましたが、吉本もそうだったのか、それを私なりに整理しなければいけないなと思いました。かねてから機能主義については触れてきたのですが、たまたま、私のTwitter都庁講演を聴いてくれていた日経BPnetの編集部がそれを聞いて書いてくれと言ってきました。それで連載を始めたのが「ストック情報論」(http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20100524/227559/)です。
ところが、依頼した編集部はあんな記事になるとは思っていなかったらしい(笑)。あんな堅い話が日経BPのようなマスメディアに載って、いったい誰が読むのかしらないが、きめて異例(笑い)。
●機能主義はインプットとアウトプットの〈中間〉にあるものは無視する
さて、機能主義のファンクショナリズムは、私が考えるところ、パブロフの犬の条件反射論が最初だと思います。
パブロフの条件反射論というのは、ベルを鳴らしてから犬に食べ物を反復的に与え続けると、そのうちにベルを鳴らしただけで犬に唾液が出てくるようになるというもの。
このことはどういうことかというと、とあるインプットを反復的に、規則的に流し続けると、とあるアウトプットが生じる。インプットがあってアウトプットがある。しかし真ん中の部分(食べられるから唾液が出るという因果関係を担っている〈犬〉の実体)はブラックボックスで、真ん中を無視している思考なわけです。
ある刺激を与え続けるとどんなアウトプットが出てくるか、そこにある傾向性、規則性が見出されれば、それが何で〈ある〉かはその傾向性、規則性が決めるのであって、その中間(担っている実体)が何であるのかは無視してよろしいというのが条件反射論です。そういうinputにそういうoutputが生じれば、そういうのが犬〈である〉と、そう考えるのが条件反射論の思考なわけです。
刺激―反応の一定の規則性こそが、その存在者の実体性を構成するものであって、〈主体〉や〈内部(内面性)〉や〈心〉というものは存在しない。この考え方がウィナーのサイバネティクスの一番の基本になります。
●コントロールできないものとコントロールできるもの
ウィナー(1894―1964)のサイバネティクス論が出たのは第二次大戦前後です。
サイバネティクスという言葉は、語源はギリシア語ですが、元々は操舵者、舵を取る人という意味です。100キロくらいの沖合から港に船を着けるには、沖から吹いてくる風の強さ、波の強さ、それから手漕ぎの動力や舵の方向などの諸要素を勘案しながら風や波に流されないように舵を切ったり、出力を調整していきますが、これはウィナーのサイバネティクスの原理そのものです。
コントロールの変数(制御変数)とアンコントロールの変数(非制御変数)の2つの変数ですべての世界を見て行く。
船の操舵者(船頭)にとっては舵や手こぎの動力はコントロールできますが、風だとか波だとかは制御できない。通常我々が「自然と人間」と言う場合の〈自然〉とは、ウィナーにとっては非制御変数、つまり自分でコントロールできない要素のことを言っているわけです。
一方、船頭は舵の向きや自分の船の動力は制御できる。したがって船頭は自分が制御できる変数を通じて、制御できないもの(風や波の変化)をコントロールできる。船頭は風や波に押し流される分を計算して(フィードバックして)、舵や動力を調整するのです。制御できないもの(風や波)を、制御できるもの(舵や動力)を使って相対的に支配する(コントロールする)ということは、工学分野、人文分野を超えてあらゆるものに応用できるとウィナーは考えました。
たとえば、女性が美しい服を着たり、化粧をしたり髪形をいじったりするのは仮に顔が醜い人がいたとするとそれをコントロールしていることになります。醜く生まれてしまったというのは非制御変数です(笑)。
それでそのことをすこしでも制御するために化粧をしたりきれいな衣装を着たりする。つまり制御変数でもって、自分の有限性や受動性を突破しようとする。自然科学も文学も全部そういった制御できないものと制御できるものをその都度踏まえながら、そうやって自分の有限性や自分の環境の有限性、受動性を突破しよとする試みなのです。それがサイバネティクスの思考です。
●サイバネティクスの原理は「実際の」行動に対応すること
この思考は製品の原理などにも身近なところで応用されています。使い古された例で言えば、コタツのサーモスタットは熱膨張率の異なる2枚の金属板をくっつけておいて、温度が高くなってくると熱膨張率の高い方が伸びて膨張率の低い板を引っ張りますから反りかえる。するとそこに接点があって電気が通じて暖かくなる。暖かくなりすぎると、その逆が起こってスイッチが自動的に切れる、というふうに温度を調節しています。こんな素朴なこたつは今はありませんが(笑)、原理は単純。これもサイバネティクス。
ビルの自動ドアはいつ人間がそこを通行するかわからないけれども、人間がくると、自動ドアは自動的に開き、自動的に閉じます。そうしてちゃんと「実際の」、つまり不意の、偶然の出入りを制御しています。
ウィナーはまさに「実際」という言葉を使った。「実際の行動」に対応することがすごく大事で、この“実際の”変化に対応する制御を彼はフィードバックといいました。
「実際の行動」という言葉をウイナーは、「予定の行動」の対立語として使っている。「機械的」とは「予定の行動」にしか対応できないということです。これはどういうことかというと、input(入力値)がoutputされたらそれはもうそのまま放置される。
ドアは開ければ開けっ放し、閉めれば閉めっぱなしです。これはinput(開けるという行為)からoutput(ドアが開くという結果)への流れが片方向です。この場合、入力値はドアを開けるか閉めるか、出力値はドアが実際に開いてるか、閉じてるかです。
通常の「機械的」操作では、開ければ開けっ放し、閉じれば閉じっぱなしですが、自動ドアは開けても閉じるし、閉じても開ける。「実際の」必要に応じて。〈自動〉とはそういうことです。
●フィードバックシステムとは「思考」と同じ(=考える機械)
開けても閉じるし、閉じても開けるというoutputからinputへの差し戻しの過程を「フィードバック」と言います。それは結果を反省するプロセスのことです。
結果(output)を見て、態度(input)を変更するということを「フィードバック」というのです。様子をよく見て行動しろということです。
例えば、人がいるときだけ点いて、いなくなったら消えるという電灯システムを作るとすれば、それはフィードバック制御を持った電灯のオン・オフシステムです。
つまりウィナーはそれを「考える」スイッチとみなしました。自動ドアもまた「考える」ドアです。
彼は人間の思考についても、フィードバック制御のことではないかと考えました。つまりあの人は思慮深い人だと言うとき、思慮深いというのは、自分が起こしたアウトプットに対して、再度インプットの変更の可能性を見込んでおいて、インプットのやり直しを絶えずやり続けていることを言います。
そうなってくると人間と機械の区別はなくなってきます。コンピュータが進歩して複数の制御を瞬時にすることができるようなXが存在したときに、それを果たして人間ではないと言い切れるのか。ウィナーはそんなものは区別する必要はないと考えた。大変な挑戦だったわけです。
今のITを使ったテクノロジーはものすごく高度な制御をするようになっていて、例えばホンダのアシモは中に人間が入っているのではないかと思うくらいです。ぬいぐるみに話しかけて泣きながら寝る女の人もいますが、もしそのぬいぐるみがしゃべり始めてご覧なさい。その人は下手な恋人よりも、もっと感情移入するかもしれません。
●機能主義から行動主義へ
HONDAのアシモの中に人間が入っているのではないかと思うというのは機能主義の次の段階の「行動主義」です。
「行動主義」というのは、英語のbehaviorismの日本語訳です。
この「行動」という翻訳がまた間違っています。behaviorを「行動」と訳すと何か「理論」との対立のように見えますが、要するに外見=外貌(behavior)が中身を決めるという考え方なのです。「行動」主義の「行動」(behavior)と対立しているのは、むしろ〈内部〉、〈内面〉なのです。
〈内部〉なんてものは〈外部(behavior)〉なしにはない、と考えるのが行動主義。中なんて見た人はないでしょう。中というのは外からの推論なのです。外がもし人間らしければ、それは「人間」と言っていい。そういうのがウィナーや行動科学の考え方です。
中に血が流れているとか、心臓があるとか、肝臓があるとか、高度に発達した脳があるとか、挙げ句の果てに「人間的な能力」の「存在」、ギリシャ的には〈魂〉を指摘して「人間らしさ」を言い張るのは、差別だと言いたいわけです。〈外部(behavior)〉が同じであれば、中身も同じだということでいいではないか、と。
●チューリングテスト
アラン・チューリングという人は、機械が人間であるかどうかをテストするチューリングテストというものを考えました。
AとBの部屋に人間とコンピュータを入れておきます。それで人間である第三者がどちらの部屋にコンピュータが入っていて、どっちに人間が入っているかをコンピュータのインプット、アウトプットのやり取りで判断して当ててみるというテストです。
どっちがコンピュータのように杓子定規で、どっちが人間の実際のチャットのように回答したかということをあてさせるテストですが、この実験を何度かやるうちにテストする人間が当てそこなう率がどんどん高くなって、機械がしゃべっている方が人間だとみなす誤答率が増えてくれば、Bは人間であると考えてよろしい。その時にテストした人間がBの部屋を開けて「なんだ、お前、機械か」というのは“差別”だとみなしました。
東大生らしい賢そうな青年がいた。学歴をしらべたら中卒だった。なんだ、お前、中卒か、と言ったら差別でしょ。それと同じです。ビヘイビアリズムにおいてはまったくイコールなのだから。民主主義はビヘイビアリズムという立場とまったく一致します。アウトプットとインプットの関係がすべてを決めるので、中身が中卒であろうと、小卒であろうと実力でアウトプットを示せばいいんです。それを差別したらいけない。
ジョン・サールという哲学者がチューリングの人工知能テストは間違っている、それはコンピュータがただ単に記号的な処理をしているだけで、人間的な処理ではない、と反論しました。しかしこれは変ないいがかりです。イノウットとアウトプットで差がなければ、それを人間とみなしてよいという議論をしているときに、「人間的」でないと言ってしまったら、ジョン・サールは、ふたたび「人間的」とは何かについて不問にしたにすぎない。ひょっとしたら人間は単純な記号処理をしているだけの存在かもしれない。
2,30年前にイライザという精神分裂病者と話すためのコンピューができて、真剣に患者がコンピュータに話しているんです。見ているとI(私)がYOU(あなた)になったり、YOUがIになったり、人称代名詞が転換をしているだけでも、20分、30分話せるということが非常によくわかる。チョムスキーがやっていたことは結局そういうことです。そういうある種のやり取りをよくみてみると非常に単純なコードで人間の会話が成立していることがわかります。だからジョン・サールの批判は一番大事な問題に答えていなくて、ひょっとしたら人間というのは単純な存在かもしれないという問題があって、それに反論しようと思ったら人間は複雑なのだということを証明しなければならない。人間は、自分が人間「である」ために、「人間的」と言えばすべてがわかっているような気でいますが(「だって人間だもの」なんて言う詩人もいましたが)、ことはそれほど自明ではない。
3)機能主義の蹉跌
●フレーム問題
このように機能主義というのは強力な思考なわけで、私の日経BPnetの連載でも触れましたが、「フレーム問題」というのが1990年の手前ぐらいから出てきました。「スターウォーズ」という映画に出てくるR2D2というロボットは限りなく人間の頭脳=知性に近い(あるいはそれを超える)能力をもったロボットとして登場しています。
このR2D2が開発される手前の段階にR1D1というロボットがいたのだというふうに議論する認知科学者がいます。まずこのR1D1ロボットにどういう課題を与えたかと言いますと、自分の充電バッテリーが切れそうになったので、自分の動力源である充電バッテリーを取りに行けと命令した。その充電バッテリーはある倉庫のワゴンの上に置いてあると指示した。R1D1はワゴンを認知してバッテリーを取り出して持ち帰ろうとした。しかし、充電バッテリーの下に時限爆弾が仕掛けてあって、それが爆発してRIDIは死んでしまった。どうして失敗したのかというと、R1D1は自分が行動する段になって副産物のコードを入れることができなかった。つまりワゴンの上に置いてある充電バッテリーを取り出すためには、ワゴン全体の中に入っている副産物も取り出すことになるから、その副産物を認知してそれを除外するための副産物のコードをいれておかなければならなかったが、R2D2はR1D1にそれをさせることができなかった。これが失敗の原因だった。
これを反省して今度は副産物をとりこむコードをいれたR1D2に同じことをやらせた。R1D2はワゴンのところまで行ったが、じっと考えて動かなかった。その間に時限爆弾が爆発してこれも死んでしまった。
R1D2はたしかに副産物を考えようとしたが、副産物なんていっぱいある。たとえばテーブルを持ち出すときにテーブルはゴトゴト音がするし、テーブルの上にはゴミも落ちている。テーブルを動かすと部屋の気流が変化して何かが起こるかもしれない。つまり1つのテーマ主義的な行動を起こそうとすると、かなりの副産物が生じる。
皆さん、ちょっと考えたらわかりますよね。風邪を引いて風邪を治すための薬を飲む。これはテーマ主義(知識主義)ですよね。風邪の薬というのは風邪だけに作用するわけではないから、それを飲んだことによって副作用が起きて逆に病気が重くなったという問題と同じ、というか、副産物なんて考え始めたら、何もできないわけです。副産物を“考える”と、何もできなくなる。
次に科学者たちは何をロボットにやらせたかと言うと、副産物の中にも、どうでもいい副産物とちゃんと処理しなければならない副産物の2つがある。したがってちゃんとした行動をさせるためには、大事な副産物とどうでもいい副産物を見分ける必要がある。科学者たちはそう考えた。
それでまたR2D1という新しいロボットに副産物を見分けて二重の処置をするプログラムを入れた。
ところがまたR2D1はうずくまってしまって動かなくなった。つまり重要なものとそうでないものを分けているのだけれども、その種類がいっぱいあって大変だとR2D1は言って、また爆死してしまった。行動のテーマと副産物とを分けるのだけでも大変だったのに、さらにその上、その副産物を重要なものと重要でないものとに分けるのだから、「作業量」は格段に増えているわけです。だからもっとじっとしたままR2D1は爆死してしまった。
これがテーマのフレームとその外(この場合でいえば副産物)というフレーム問題というものです。ロボットに人工知能をつけて人間と同じようにやらせようと思ったら、これは大変なんです。人間が行動するということは、いつもその外部を保持しているけれども、その外部の保持が、ロボットは難しい。というのもロボットは、その外部をプログラム化しなければいけないからです。
●〈関係のないもの〉を無視する、忘れることができる人間
人間は確かに薬を飲んで副作用で死んでしまう人もいるけれども、いろんな副作用を乗り越えて、それなりになんとなく処置している。つまり人間はなんとなくフレームの問題に関して処置できる能力を持っているということがいえます。それはどういうことなのかというと、人間は、関係のないものや関係のあるものについてのある種の処理装置を内部に持っているということです。
認知科学者は驚くことができるロボットはなぜできないのかという問題を提起しました。驚くロボットってどういうことかというと、僕が今、皆さんに話しているときに、急にこの部屋の電気が消えるとしたら、皆、驚きますよね。それは僕が話すという行為と、電灯が消えるという事態には因果関係がないということをなんとなくわかっているからです。
つまり関係のないものは無視するということを人間は心得ているということです。私が話すというテーマ的な行動には、いちいちプログラマーがプログラムに書き込むように、私がしゃべっても電灯は消えたりしない、あるいは壁が倒れたりしない、急に風が強くなって窓ガラスが割れるというようなことはない、ということを無限に取り込んでいるからです。
私が話しているときにもしそういうことが起こったら、ここの会場の人たちは皆驚きますね。そういうことをもしロボットにさせようと思ったら関係ないことを無限に書き込んでおいてそれが起こったときには驚きなさいとプログラムに書かざるを得ないことになります。だから、驚くって大変なんです。驚くということが哲学の始まりだといったのはアリストテレスです。だからロボットは哲学が出来ないんです。驚くということは高度な行為なのです。
犬や猫も時々驚いていますが、その問題をどう考えるかは、また別の問題です(アガンベンというイタリアの哲学者が突っ込んで、その差異と連関について論じていますが、それは今置いておきます)。
4)環境とは、後からやって来るもの
●因果を辿れない「環境」
関係ないものというのは考えなくてもいいものです。だから人間の偉大さは関係のないものを無視したり、忘れたりすることができるということにあります。
ニーチェはそれを「能動的な健忘」といいました(特にユダヤ-キリスト教的な怨恨の思考に対して)。生活に差しつかえる健忘ではなくて、むしろ忘れるということが人間がもっとも健康的に生きていられる条件。それによって考える能力を活性化できる。駄目な人ほどくよくよしていますよね。どこの職場でも悩み好きという社員がいるでしょ。そんなのはクビ(笑)。「問題」「課題」というのは、自らの無能を遅延させる言葉。結局、解決したくない、何もしたくないだけのこと。さっさと何とかしろよ、お前、と言いたくなる。ロボットR2D2はそういった問題を解決したらこんなロボットになるという想定で造られたロボットなんです。
だから関係のないものを無視したり忘れるということはすごく大事なことで、先ほどの大澤真幸の言葉に「無視」とか「忘却」とは、「自らが存在することの現実性を、その操作が直接に帰属する時点には確立できず、その時点の後に確立する・・」とあったわけです。
つまり、僕が今ここでしゃべっているときに、急に風が吹くことはない、電灯が消えることはないとかいうのは、しゃべっている時点ではせず、その時点の「後に」確立する。
あれこれの操作や行動の〈現在〉にではなく、その操作や行動にとって未来であるような場所に、存在の現実性をはじめて確保することができる。したがって未来からの逆投影として「かつてあったもの」として発見される。
つまり電灯というのは、それが急に消えたことによってはじめて電灯があったことが発見されるというふうに存在する。この時間性を人工機能はどうするのだという問題がフレーム問題です。フレーム問題とは「フレーム」という言葉に引きずられて空間的な問題のように思われがちですが、実はその根本は、こういった特殊な時間構造なのです。
これは普通に人間的な言葉で言うと、人間が育つ環境というものは先の大澤真幸の規定そのものだということです。フレーム問題の時間性とは、環境の時間性のことです。
自分はどういう環境に育ったから、今の自分になったという話はいくらでも聞きますね。今の自分が将来に向かってなるであろうところのものを想定しないで、自分を育てた環境なんて言えないということです。
●自伝は、自分の人生を二度殺しているのと同じ
僕は日経BPの連載に黒柳徹子の「窓際のトットちゃん」を例にしてこれを説明しました(かつて吉本隆明も触れていたような気がします)。
「窓ぎわのトットちゃん」という超ベストセラーになった本は黒柳さんが小さいときのことを書いたものですが、彼女は小学校のとき悪さのし放題で、授業も受けず、授業中でも先生と追いかけっこをして逃げ回っていた、というようなことが書いてあります。
あれを真に受ける親がいたら、とんでもない話になりますね。何でそんなことを平気で書けるかというと、黒柳徹子はそういう自由奔放な小さいときの教育を許してくれた学園の雰囲気があったから今の自分があるのだということにして、自分の環境を自分で語っているわけです。
だけど、そんなものをありがたく思う人間は、今の黒柳徹子を立派な人だと思っている人だけなのですね。逆に「お前、そういう環境に育ったから、そういう過去があったから駄目なんだよ」と言われたら終わりではないですか。もっと言えば、そのときもっとちゃんと勉強していれば、もっとすごい大人になっていたかもわからない。
結局、過去の悪さを平気で人前で公言できる人は、自分の現在(過去にとっての将来)を自己肯定している人なわけです。つまり過去の悪さの指摘はは、今の自分の、形を変えた“自慢”にすぎない。自伝を読む人というのは、大概のところその著者の支持者にすぎないわけです。
ピカソの話もそうです。ピカソもデッサンをすごくしっかりやったから今のような抽象画が描けるんだ、と(もっともなことを)言う人がいますが、ピカソがデッサンがあまり出来なかったら、もっとすごい抽象画を描いたかもしれないではないですか。
僕の身近で言うとフッサールという哲学者がいますが、彼は「論理学研究」という私が一番評価する著作を書いています。そのときにフッサールはカントとかの哲学史の勉強はほとんどしていなかった。悪口を言う人はあいつは哲学者としての素養がない、デカルトもカントもまともに勉強していないと言いますが、だけどフッサールはちゃんと正統派の哲学を勉強しなかったからこそ、形而上学全体を覆すような「現象学」という学問を確立することができたと言えるかもしれないではないですか。彼の一番の弟子がハイデガーです。だから学問体系の中で哲学史を勉強していたら、フッサール現象学はもちろんのこと、ハイデガーの存在論も生まれなかったかもしれない。
何が言いたいかというと、フッサールが哲学を勉強していなかったとか、黒柳徹子が小学校のときに勉強していなかったとかいう話自体は、〈環境〉でもなんでもないということです。そんな〈環境〉や〈過去〉など存在していない。
イチローなんかは小さいときからバットを持っていたからあのような選手になったと、いずれ書かれるに決まっています。
しかし、バットを持っている子供はイチロー以外にいくらでもいたではないですか。しかし、彼らは野球選手にならなかったから、野球のことに注目して過去が見られないだけの話です。
だから環境というものを意識のうちに入ってくるものとして考えてしまったら、もう身も蓋もなくて、あ、そうか、あのときのあれかというふうな仕方でしか見えてこないものが環境問題なんです。
だから機能=関数主義というのは忘れられた、無視されたものではなくて、いつも環境を意識に取り込んでいって、どういう関数でもって自分を構成するかということを考え続けるわけだから、ここに大きな断層があります。考えられたり、意識したりすると逃れていくもの、それが人間にとっての〈環境〉〈過去〉だからです。それがフレーム問題です。どんどん環境を意識化するということが、機能主義の野望のどこにつながっていくかというと、これは〈データベース〉という問題です。
5)データベースと後悔
●〈後悔先に立たず〉を解消するためのデータベース
「後悔先に立たず」という格言がありますが、ニーチェは「かくあったは意志の歯ぎしり」と言っています。かくあったというときには意志は役に立たない。かくあった=過去というのは後悔の対象なんです。
データベースとは何か。情報社会のデータベースは何を目標にしているかというと、何でもいいからデータにしておけということなのです。昨日、「NHKスペシャル」でアメリカのゲーム会社がゲーム開発のプロジェクトをやっている話が放映されました。ゲームだけを専門にやる人が、まだ製品として出していないもののテスターになって、ゲームをするわけです。脳波をどれくらい刺激させるか、顔の表情の変化を見ていて、このゲームは売れないのではないか。興奮しつづけっぱなしのゲームも疲れて二度とやらないようだ。ゲームマーケティング会社の社長は一回のゲームを終えるのに、全体で50回ぐらい刺激=緊張を与えるのが一番いいという係数を出していました。脳波の緊張の山がゲーム全体が一回終わるまでに50回ぐらいあって、それに対応するリラックス場面と追い込まれる場面を交互に上手にもっていくのがよい、という結論を出した。
それは全部、機能主義ですよね。どういうゲームのインプットを与えると頭の中でどんな変化が起こって、その変化のどんなモデルが快感モデルなのかを追求して売れるか売れないかを判断する。ゲーム会社の社長にとっては売れなかったという後悔をしないですますよう出来るだけデータを集めておくためにはどうすればよいか考えているわけです。
そうなると、データベースの構築で何が起こってくるかと言うと、「どんなデータでもいいから入れておけ」ということになってきます。
何が必要なのかは後でしかわからない。後でしかわからないことを先立たせるためには、何を入力するかを含めて入力値を差別化しては駄目だということです。
皆さん、名刺ってたくさんもらいますが、こんなやつとは絶対に二度と会わないなといって捨てた名刺が六ヵ月後に必要になったということはありませんか。そう考えたら、もらった名刺の人物評価は後にして、その評価を押し殺して、ちゃんと名前を書いて、いつ会った人なのか、どんな人なのか、記憶にしたがって書いて置くしかないんです。そこは気持ちを押し殺して機械になるしかない(笑)。
〈評価〉というのは、実は平均値(積分)なのです。だから情報が丸まってしまう。そこに人間、ヒューマニズムを入れては駄目なんです。データは絶対に入力では差別しない。
しかし大半の入力データは使われない。それに無駄なものを選別と消去なしに累積していけばデータは膨大になって使いづらくなってしまう。どこかで差別(選別)する必要が出てくる。
その差別と選別のために存在しているのが〈検索〉です。最近のコンピュータは入力で差別しなくていいぐらいデータを無制限に入れることが出来るようになった。しかし、ノートだとか日記帳だとかの紙の媒体にアナログで入れていたときにはこれ以上入れていったらとんでもないことになるということで入力で差別するしかなかった。連絡帳なんかやがて書ききれなくなってぼろぼろになって字が読めなくなってしまいますから、途中で捨てていましたね。
ところがIT時代になって、CPUが高速になり、ハードディスクが安くなって、高性能なコンピュータ自体が安くなってきた。今、2テラとか3テラでも1万か2万円で買えるようになっている。1000年、データを、それも無駄なデータを入力し続けても大丈夫なデータベースができるようになっています。
そもそも〈情報〉とは、入力することの差別のない知識のことです。つまり評価を得ないで蓄積されるデータのことです。無駄な知識とはそれ自体知識ではありませんが、情報はもともと無駄な情報の集まりのことなのですから。この無駄が、フレーム問題なのです。
●なぜ〈検索〉なのか
それで〈検索〉というものが出てきた。〈検索〉とは何をやっているのかというと、無時間的、無選別的に蓄積された情報を〈現在〉という時点における情報にまで持ち来たらすということです。データは入力で差別せずに検索で差別すればいい。どこから出てきたのか知らないけれども、そのとき自分の行動に役立つデータがそこに出てくることが検索ということになります。〈検索〉の機能は現前化=現在化ということです。
だから〈検索〉データベースは、データ量(HDD容量)だけの問題ではなく、時間(CPUの高速化)の問題でもあるのです。
検索には強大なサーバーと超高速のCPUが必要です。すごい量の情報があったとしても必要な情報を出してくるのに時間がかかってしまったら意味ないですから。強大なサーバー、データベースと超高速のCPUが存在すれば、人間が一生の間に必要であるようなデータはいつでも現在の手元に持ち来たらすことが出来ます。それが後悔を先立たせるということです。データベースの根源的な欲望なのです。
IBMのディープブルーという、ロシアのチェスの名士と戦うコンピューターがありましたが、このコンピューターに、過去のいろんな手を無制限に入れておいて、こう打てばこう勝った事例、こう負けた事例がある、というデータを、相手が一手ごと打つたびに、超高速で検索をかけて出力しているだけのことです。
棋士の羽生名人はデータベースをすごく意識しているけれども、逆に羽生さんは何手もあるうちから選んでいるということではなくて、むしろやり始めると捨てるものが何なのかという手が見えてくる、こううちしかない手が見えてくるという言い方をします。選択(事例主義)ではないということです。
でもそれは、データを拾うのではなく捨てると、言わば反データベース的なことを言ってるようにも見えますが、それでもそれは彼ふうの検索術を述べているのかもしれない。そうでないかもしれない。興味深いところです。
後悔を先立たせるデータベースというのは、フレーム問題における無視と忘却という部分を情報の膨大性(と超高速)というところでカバーしている装置です。〈データベース〉とは機能主義(ファンクショナリズム)の極限にいます。ロボットもデータベースの一つです。アクチュエータ付きのデータベースがロボットです。だからロボットは忘却もしないし後悔もしない。
情報が膨大になるということはむしろ忘却の別表現だというのが機能主義の考えです。それは当然であって、インターネットの情報なんて知らないことが多いんだし、我々が日常使っているワード、エクセルだって使っていない機能のほうがはるかに多い。5千円のATOKでも、その機能をどれくらい使っているのかというと、ほんの20円分ぐらいでしょ。ワードやエクセルなら1円分もない。それがデータベースの忘却と無意識です。ATOKは膨大な辞典類を内蔵しているからこそ、長文をすらすら書けるように単語変換してくれます。つまり人間性の有限性(空間的、時間的有限性)をATOKがクリアしているわけです。
膨大な情報量(と超高速CPU)という事実が、機能主義を機能主義的に見せないで、どんどん人間に近づいているかのように見せている一番大きな要因だと思います。
そういった膨大な情報量が〈現在〉という場面に持ちきたらされる理由は何なのかと言うと、それは自分が行動するときに出来るだけ無制約でいたいということにほかなりません。「必要な」情報が欲しいというのはそういうことです。あらゆる情報を勘案した上で1つの正当な(=後悔をしない)行動を決定する意思が存在することがもっとも幸せなことだという前提があるからです。
6)近代の問題
●近代的主体性=自由の問題 ― 人間性をいうのは差別主義、階級主義
機能主義というのは、民主主義が人間を出自で差別したらいけない、実力があればそのとおりに評価されるべきだという考え方と同じであるということを先ほど述べました。
人間というものは自分でつくろうとしているところのそれが自分である、という考え方です。自分のビヘイビアは自分の主体に所属するという考え方です。一言でいうと主体性。
だから近代的な自由において、例えば、女性はこうあるべきだなどと言ったら差別だとかみつかれてしまいます(笑)。女性だからなどと言ってはいけないのです。
近代的な自由の最大の限界(敵対物)は自分が自分の意志や選択なしに生まれたことの有限性です。
何のことかと言うと、自分は主体的に生まれてきたのではなくて、親という先行者によって生まれた。親は近代的に言ったらノイズですよね(笑い)。親が禿げていたら子供も頭が禿げるに決まっている。親の遺伝子にガン細胞があれば自分の命が危ない。今のテクノロジーはそれまでデータベース化しようとしています。遺伝子も組み替えてガン細胞を取ってしまおうという話になってきます。最後は顔かたちの遺伝子情報もいじりたくなってくるでしょうね。出来れば親なしで自分を自由に作りたかった。
そういう意味で家族の存在と近代的自由とは対立するわけです。自分に家族があるということは親がいるというわけだから、親から自由になるということはありえない。出来れば家族なしですましたいというのが近代的な自由です。原理的に突っ込んでいくと必ずそこにぶち当たります。
家族は階級社会のつけ。天皇家を見ればわかるように階級というのはその子は生まれた家族によって決まる。家族という血統なしに持続性は存在しない。差別というのは大概が出自(受動性)の問題であり、出自の起源は大外が家族の問題です。
そういう家族から自由になるための最大の武器は、近代でいうと学歴主義(メリトクラシー)です。学歴主義って皆悪く言いますが、学歴主義に対立する概念は階級主義、家族主義です。
つまり日本では学歴主義が特に発達しているわけですが、東京大学さえ出れば、家が貧乏人であろうと、犯罪者の息子であろうと、問題はない。
一方で、とりあえず自分たちの家柄だとか身分だとか、それなりに同じ雰囲気(メンバーシップ)をもっている人しかうちの学校には入れません、というのが家族主義です。だから頭がいい(メリット=能力がある)というのが基準ではない。
学歴主義にフィットとする最適の選抜方法がマークシートです。これには親の痕跡はついていません。すくなくとも記述式だとか面接に比べれば、自分の出世(自分の主体性)にとってマークシート方式は決定的に自由。重要な選抜方式です。
●マークシート試験、○×試験、選択問題こそが、近代的自由の源泉
そういう意味でいうと〈人間性〉(パーソナリティー)というものを選抜の対象にするということはすごく差別主義的です。その人の身なりだとかしゃべり方とか、“総合的な”能力だとかを言い始めたら、点数化するのがすごく難しくなるから、いきおい、その先生の好みが前面化するに決まっています。
そんなことになってしまったら何が起こってくるかというと、どうやってその人に好かれるようになるかということばかり考えるようになるでしょう。
ユネスコから日本の受験社会を見に来た視察官が、「たった1日の受験で人生が決まる」とは、日本はきわめておかしな国だと言って帰ったという話がありますが、日本の学歴社会がすごく優れているのはたった1日の受験(=点数主義、○×ペーパー試験)で決まるから、逆に良いんです。
三流の高校を出ていようと、四流の中学校を出ていようと、高校三年生のときに良い先生に出会うか、良い予備校に行くか、そうやってしゃにむに勉強したとすれば、それまでのマイナスの自分の過去を全部チャラにできるんです。これは竹内洋の言葉を借りれば、「敗者復活装置」としての受験制度です。
アメリカは実力至上主義だといっているけれども、大学に入るには、高校のときにボランティア活動をどのくらいしたか、親の推薦状がどのくらい書けているのか、高校の先生はどう評価しているのか、などなどいっぱいそういう“人間的なこと”を聞かれます。試験点数以外の家族主義的な履歴を問うわけです。それこそ差別主義で、1日で満塁逆転ホームランが打てる日本のマークシート方式こそウルトラ近代主義だと言ってよいのです。
この点と関わって、Twitterの話になりますが、とんでもないものが出てきた。私もかなり早い時期からブログやmixiをやっていましたが、ブログやmixiをやり始めたころに比べて、僕はTwitterにはるかに衝撃を受けました。
人間主義的な差別は何で起こるのかと言うと、その人間の観察を長いスパンで見る場合、例えば民族差別だとか、国内のいろんな差別がありますが、そういう差別って、その人間がどこで生まれたか。どんな親許で育ったかということに密接に関わっています。民族なんて言い出したら何千年という歴史時間を背景に担っている個人という見方をしていることになります。例えばボランティア活動をどれくらいやったかとか、親の評価がどれくらい推薦状にちゃんと書けているのかということを基準にして大学の選抜が行われているとしたら、それまでずっと親の顔色を伺いながら育たないといけないわけですよね。ある程度長い時間を意識して自分の表現を考えていかなければいけなくなります。
その意味でも日本の受験制度における「たった1日」という短い時間は、自由と平等に関わっていると言えます。差別は、“長い時間”が関与しているのです。深刻な差別ほどそうです。Twitterは、この「たった1日」を、140文字にまで縮めたわけです。「1日」ではなくて、「いまどうしてる?」というように。
7)Twitterにおける自由と平等
●検索主義の解体
Twitterというのは、人の自他にわたる長期の観察や省察、つまりデータベース主義(ストック主義)をやめようというメディアなわけです。つまりTwitterの入力の窓自体に「いまどうしている?」という問いかけが入っているわけです。140文字の文章は「いまどうしている?」ということに対する回答なわけです。
検索的なデータベースは入力と出力を分けているため、長い時間の累積の結果に過ぎません。入力と出力との間には長い時間差があり、しかもそれらの間には必然的な関係がありません。データベースに〈検索〉が必要なのは、データベースが、因果が消えるほどの“長い時間”の象徴だからです。
僕がTwitterするということは、今起きてそれをしているというしるしですから、Twitterというのは、その人が今、生きているのか死んでいるのかを告知する道具なんです。
僕がTwitterを始めると電話をかけてくる人がいます。今、かけても、Twitterをやってるから暇だろう、怒られることはないと思うからでしょう。
今メールを出したらきっと見てくれると思うからでしょう。メールも打たずにTwitterのDMでやり取りする人もいます。タイムライン上につぶやきが出てくるときは、その人は今DMを読んでくれるぞという間接的な表現になっているわけです。その人間が現在どういう状態か、現在という短い時間で切りとっていくとその人が今、食事をしていたり、あるところに行って、あることをしているなどといろんな像が見えてくるわけです。
時間と表現を微分していくと、何が見えてくるかというと、どんどん身体表現に近くなっていく。身体は、平等なわけです。どんなエライ人も親から生まれてきたし、どんなエライ人も老いて死ぬ。
すごく有名な人も立派なことばかり考えているわけではなく、ご飯が美味しかったとか、家族と今遊んでいますとか、と書いている。
なるほど、この人も人間なんだな、と皆思い始めるわけです。短い時間で切り取っていけば、人間誰でもけっこう同じなんだと。
タイムスパンを長く取ると、〈主体〉とか〈人格〉とか〈人間性〉とか、また〈専門性〉とかみたいなものになっていって、この種の《人間》には近づきにくい、やめておこうということになりますが、タイムスパンを短くきり取っていくと様々な仕方でその人間との接点が生じてきます。つまり《人間》とは、元々「ある」ものではなくて、自己観察(自己省察)であれ、他者による観察であれ、その観察のタイムスパンによるものなのです。長い時間の観察なしには、《人間》は存在しない。
それがTwitterのメディアが表現しようとしているものです。〈現在〉という状態で微分していくと、賢い人も馬鹿な人も一緒になってコミュニケーションが出来るようになってくる。Twitterは〈人間〉や〈専門性〉を超えているからこそ、交流が活発化するのです。この点が、コミュニケーションを〈人間〉で括るmixiやFacebookとの大きな違いです。※TwitterとmixiやFacebookとの違いはこちらを→http://www.ashida.info/blog/2011/01/post_399.html#more
皆が小躍りするようにTwitterで時間をつぶすもう一つの理由は、グーグルの検索主義に対する反動です。インターネット利用の活性化の鍵は〈検索〉の利便性の向上だと皆思っていた。
検索というのは、なぜ情報活用としてよくないのかと言うと、情報が帰属する時間性が見えづらいということがあるからです。つまり、この情報は結構面白そうだけれども、10年も前のことだ。そう知ってがっかりすることがある。もちろん時間は書いてあるが、その時間がビビットなものなのかどうかということの判断がすごくしづらい。
それは情報が新鮮でない(古くさい)から良くないということではなくて、検索の現在と情報の時間性が遠すぎて、利用者はその間を埋める作業を強いられざるを得ないからです。検索が役に立った、というのは、その時間差を埋める能力が使い手にあった、ということです。
つまり、情報の評価が必要になる。この評価は、専門的な評価になります。なぜかと言えば、データベース=ストック情報(古い、時間をかけて形成された情報)の評価は、それ自体、ストックの持ち主=専門家でないとできないからです。
検索情報は、データベースに向かう以上は、その向かう人自体がデーターベース=専門家でなければ使いこなすのに難しい。
●Twitterにおけるストックの時間性 ― 専門性とは入力と出力の間に時間差があること
Wikipediaを活用する人は、メディアに関する知識をもっていないと駄目です。知らない人がWikipediaを見て知った気になるのがいちばんこわい。情報の専門性のストック度が見えない。つまりそれがどのくらいの時間の蓄積によってできあがっているものかということが見えてこない。したがって利用する主体自体に情報の取捨選択の専門性が要求される。
専門性の時間性(ストック度=信頼性)があるかどうかということ。つまり入力と出力との間に差があることを〈専門性〉と言います。専門家というのは、安易に発言したりはしません。あることを学び始めてから、自分の考えをつくりあげるまでにある一定の時間をかけて、これなら自信があるという段階まで自分の意見の発表は避けています。馬鹿とはその時間差のない者のことを言うのです。馬鹿な課長は、土日に読んだノウハウ本やドラッカーの話をすぐに月曜日の朝礼で話してしまう。まさに馬鹿なわけです(笑)。
僕が今この講演レジュメに書いたことについても、僕が今考えつつあることとかなり差があるわけです。もったいないですよね、ホントのいま考えていることをしゃべるのは(笑)。今、不用意にしゃべるといろいろけちがつくかもしれない。だからまだまだ検証が必要。入力と出力の間に5年も10年も時間をかけたものは皆、情報として信用できる度合いが高いわけです。したがって専門性というのは時間性なんです。どれぐらいそこに時間が蓄積しているかというストック度のことをそれは言うのです。
ブログやmixiでも学者の論文でも時間差度というものがつきまといます。mixiというのは日記であるにもかかわらず、Twitterのように、今、カレー食べていて美味しい、なんて書きません。
1日を終えて、自宅に帰ってすべてを終えて寝るときに、今日食べたカレーは美味しかったなというふうに反省して書くわけですよね。しかし、昼飯にカレーを食べた後、夜、美味しいディナーを食べたら、カレーの話は捨ててディナーの話を書くのがmixiやブログです。発信する側が情報を選択、評価してしまっているわけです。
ところがTwitterというものには、そんな長い時間で丸められる〈選択〉はない。昼飯を食べていて美味しければ、美味しいと書くわけです。夜、ディナーがおいしかったら、また美味しいと書き続けるわけです。すると、そこに味覚の専門性は関係なくて、美味しいと思えばそう書けばいいじゃないかというのがTwitterです。
〈反省〉ではなく、〈現在〉がもっていることの迫力が前面化しているのがTwitterなのです。あいつ今、カレーを食っているから、俺もカレーを食おう、という現在の時間の共有性がツイートに説得力を持たせています。
●ハイパーリンクの課題 ― 強力な学びの主体がないと機能しない
テッド・ネルソンのハイパーリンクというのは、60年代に出された概念ですが、現在のインターネット利用の思想的な源になっています。
それは学ぶ順番というのは自分が感じる、自分が判るということを基にしてたどっていくことが、その人にとっていちばんいい学び方であって、学校教育体系のように小学校はまずやさしくて、中学校は中級で、高校大学で難しいことを学んでいくというような学ぶ順序を他者に強制される筋合いはないというものです。頂上は同じであったにしても、学ぶ道筋は100人いれば100あるはずです。
今、皆さんがインターネット上でハイパーリンクをたどっているのと同じことをテッド・ネルソンは今からずっと前に〈ハイパーテキスト〉という概念で提案していたわけです。自分の気持ちの赴くままにリンクをたどっていって、自分の知識をブラッシュアップしていく。
この考え方の何が問題なのか。学び方の自由というのは、すごく魅力的だけど、それは、かなり一所懸命学ぶぞという意欲がないとやっていられないわけです。
たとえば、「いつでもどこでも」学べるe-ラーニングというものが存在している。e-ラーニングは「いつでもどこでも」の上にさらに「どんなふうにでも」「自分の基礎能力と進度に応じて」が付け加わっているわけです。
しかし「いつでもどこでも」「どんなふうにでも」「自分の基礎能力と進度に応じて」というように“自由な”分、e-ラーニングは、強い学習意欲、禁欲的なまでの学ぶ意欲を要求するわけです。なぜか? 自由な分、「いつでもどこでも」の時空は、「いつでもどこでも」他のことをなし得る時空でもあるからです。
勉強をする理由、しない理由をその都度強く自覚していないと「いつでもどこでも」の学びはうまくいかないのです。
〈学校〉は、たしかに窮屈なものですが、まさに校門と塀と教室に囲まれてこそ、学べる〈形式〉を整えている。なんとなく学ぶ気にさせる仕掛けが存在している。みんなが学ぶから学ぶというように。〈学校〉の“不自由”はそれなりに意味を持っているのです。〈学校〉の“不自由”は、〈学ぶ主体〉なしでも学べることと引き替えの不自由でもあるわけです。
結局、ハイパーリンク主義も検索主義も、強力な〈学ぶ主体〉というものを前提にしているわけです。しかし、〈学ぶ主体〉なんて実は架空の存在。人は、普通は勉強などしたくないものなのです(笑)。
Twitterは、その意味で、検索=学ぶ主体の意欲と選択なしで、ネット情報を活用できるはじめてのメディアだったわけです。
7)Twitterにおける検索主義の解消
●Twitterの5つの特徴
1)Twitterはデータベース=ストック情報ではない
2)単にフローではなく、〈現在〉を共有している
3) 現在の共有=inputとoutputとが同時に存在する
4) 情報の先に、いつも同時に書き手と読者が存在している
5) この書き手と読者は、いつも断片化し、ストック化に抗う
以上のように、その特徴は5点あります。
Twitterはストック情報ではない。つまりTwitterは〈データベース〉ではない。「いまどうしている」というのは、単にフローでなく、〈現在〉を共有している。〈現在〉を分かち合うというのはインプットとアウトプットとが同時に存在しているということです。情報の先に、いつも同時に書き手(input)と読者(output)とが存在している。これがTwitterが時間差で成り立つデータベースと違うところ。Twitterの反データベース主義なわけです。同時に反Google的、反検索主義でもあるわけです。つまりツイートする人間とそれを読む人間とがタイムラインの上にいつも同時に存在しているということです。
ストックで一度貯まったものに対して波長を合わせるのは大変難しい。私がつぶやいたら、その中身がわからない難しいことをつぶやいたとしても、あいつは今の時間起きているということだけでさえも実感できるから、別にツイートの中身はある意味どうでもいい。
恋人同士のやりとりがたわいのない時間(現在)の共有であるように、ついのつぶやきも、実際は現在の共有なのです。時間自体が意味なのです。〈今〉を伝えるのには140文字で充分とも言える。
恋人同志の会話が端(はた)から見ていてくだらなくても成り立つのは、それが友達同士の“意味を問う”会話と違って、〈現在〉の共有、つまり身体を共有しているからです。
“有名人”がツイートしている時に無名の我々がそれに対してなんぼのもんじゃいと書くと、急に怒ってくる人がいるわけです。しかし、毎回毎回、現在を共有する短文を書くことによって何か書き続けるとどこかで波長が合う人がでてくるわけです。
宇宙の果てで迷子になっていた「ハヤブサ」も信号を送り続けてやっと見つかったでしょ。そうやって現在RT(リツイート)やり続けていると“有名人”と会話できるチャンスが出来て、“有名人”と会話が出来ると突然フォロワーがいっぱい増える。自分の発言を聞いてくれる人がいっぱい増えるチャンスになってくる。それがどうして起こったかというとインプットとアウトプットが同時だからです。〈現在〉というのが、最大の共通語なのです。
これが、長い時間をかけて出来上がった著作の作家と読者という関係になるとそうはいかない。読んだ感想を著者の送りつけても、たいていの場合、自分の浅知恵を著者に見ぬかれて相手にされない。それはストックの勝負になるからです。負けるに決まってる。テーマ主義の2ちゃんねるでもそう。テーマ主義では専門家が勝つに決まってる。ストック(〈現在〉の否定)は格差の象徴なのです。しかし、〈現在〉という波長は、限りなく平等で自由。どこにでも結びつき、どこにでも拡散していく。
そういう意味では、Twitterはチャットと近い。チャットと違うのは、テーマの拡散という事態です。Twitterに於ける書き手と読者はいつもタイムラインによって断片化してストックにあらがう。なぜかというと、ずっとタイムラインは秒刻みで微分されているから、ずっと流れていくわけです。現在というのは流れますから。僕は、それをタイムラインは「水洗便所」だと言ってきたわけです(笑)。
チャットも同じように〈現在〉に関わっていますよね。確かに相手と向き合っているから、その点ではTwitterと似ている。
その意味で言えば、電話もそうです。チャットは、テキスト化された電話にすぎない。しかし両者に共通するのは、特定の他者との現在だということです。
Twitterでは500人、1000人単位で微分化された現在を共有できる。その分、Twitterの〈現在〉は、特定の主題による特定の他者とのコミュニケーションのきつさを免れている。ずっと緊迫した現在を追い続けないといけないですよね、チャットの現在は。
その緊張はテーマの特定性、他者の特性性にあるわけです。だから緊張感を伴っているわけです。テーマに集中しなければならない。テーマに沿って相手の気持ちも斟酌する必要がある。トイレに行きたいけれども、トイレに行くことも許可を取ったりしないといけない。ところがタイムラインではトイレに行っちゃったらもうその人もその話題もどこに行ったかわからなくなります。〈現在〉のタイムラインからは消える。ずっと流されながら生成する現在を共有するという非常にゆるい、弛緩する場面と緊張する場面とが交互に表れるいうのがタイムラインという単純ではあるけれど不思議な装置によって保持されている。
要するに、タイムラインは、人物の特定化、話題の特定化に抗う。テーマ主義は、ストックの文化。必ず専門家が勝つ、必ず素人は負けるというのがストックの文化でしたが(そもそも“素人”は長い文章が書けない、読めない)、タイムラインでは自由な“交流”が日常化している。
さて、どんな人間も現在という瞬間の軸で微分すればすべての人間に共通する要素を持ち始めます。有名人だと知らずにタイムラインの流れに任せて反応することがいくらでも出来る。その人の実績だとか業績だとかを知らないままでやれる。あとで大変なことになるかもしれないが(笑)、その理由は長文の名手である専門家(知識人)というのは、結論を先送りして出し惜しみしているだけなわけです。長文を書いておけば、馬鹿な人からは絶対に非難を受けない(笑)。
馬鹿は長文を読めないし、どこに結論があるかもわからない(笑)。それで最後は著者の年齢はいくつだとかどこの大学をでたかとか、何をやっていた人だとか、何冊本を出している人かなどでごまかしてしまう。最後の著者略歴しか読まない。しかし、そういうやり方で逃げ切れないのがTwitterで、どんな長い文章を書くのが好きな人も140文字で書かなきゃいけないから、どんな馬鹿でも有名な人の結論を瞬時に見ることができます。結論というものは、いつでも短いし、単純なものです。だから誰でも判断できる。
ゲーテは「行動する者は良心がない」と言いましたが、それに準じて言えば、「結論だけを見るものは良心がない」わけです。
だから下克上が起こってしまって、すごく賢くなったような気になってしまう。誰でも賛成反対が言えるということによって、Twitterにおける微分とか短文というのは、たった1日の受験の平等性と同じだということです。今、何をしているか、という話を有名人であれ、ストックの権威であれ、関係なく交わることが出来る。それがTwitter革命です。
Facebookが旧態依然なのは、最初から交流の単位が(ストックとしての)〈人間〉だからです。すでに人間が、人間の評価が平均化されている。だからFacebookではエライ人はエライ人でしかない。なんたってデフォルトで〈学歴〉を聞いてくるのですから(笑)。〈人間〉は、〈人間〉という長い時間の単位で括ると、逆に多様な交流ができないのです。その人はその人でしかないという再認しかできない。これでは〈ソーシャル〉とは言えない。
8)1990年前後から始まったオンライン自己現象
●ネット上の人間関係でしか自己を形成できない人たちの群れ
さて、僕は「オンライン自己」という言葉を造りましたが、その意味は、ネット上の人間関係でしか自己を形成できない人たちのことを言います。1990年前後、バブルが終わったあたりから始まりますが、中曽根臨教審が1988年を前後して、これまでの教育の転換をしようということで、1991年に今の全入時代の幕開けである「大学大綱化」がはじまります。124単位を4年間で取得すれば、中のカリキュラムは自由につくってよい。必修科目だとか選択科目は自由に組んでよろしいという宣言のことです。たとえば、僕の世代は大学入っても体育は必修だったし、語学も必修だったし、バレーボールとかマラソンとかやらされて、俺は大学に来てまで何をやっているんだと思っていましたが、それを絶対にやらなければならなかった。日本国憲法も勉強しなければいけなかった。あるいは文学部に入っても自然科学で何単位とか、工学部に入ろうと文系の勉強を必修でやらなければいけなかった。
でも、91年以降、そんな窮屈な制度は制度としてはなくなった。大学によっては絶対それは必要だといってはずさないところもありますが、大学によってはそれを全部取っ払って、カリキュラムを変え始めたのが91年からです。今の40才くらいまでの人はそういう教育に切り替わった大学を経た人たちです。
こうして進路指導の変化が出てくるんです。このあたりで中高の進路指導において偏差値業者テストを学校でやってはいけないということになった。教員がその教室にいてもいけないということを文科省が通達で出しはじめた。
偏差値に関係なくどの大学でも入れるようになっているから、それまでは教員はお前のこの偏差値だったらこの大学しかいけないよ。もし行きたいんだったらもう少し勉強しろよと言っていたんですが、それを言ってはいけないことになった。進路は学生が決める、教員は「指導者」ではなくて、サポーターに過ぎない。教員は上から目線の指導者であってはいけないというのがこの90年代頭からはじまったのです。僕は馬鹿だけども大学行きたいんだといったら、そんな馬鹿な(笑い)と教員は言ってはいけないことになった。
お前は専門学校でこういうことをやったほうがいいよとは絶対言ってはいけなくなった。(お前が望むなら)「じゃあ受けてみるか」と言わなければいけなくなった。このあたりから学びあい教育だとか、ワークショップスタイルの授業が始まった。「学び」という変な自動詞も出てきた。
〈個性教育〉とか〈自主性教育〉とか〈学びあい〉が重要だという人たちはは、知識をたくさんもっている人間が知識を持たない人間に対して“外的に”注入しようとするのは権力主義だとかファシズムだとか言うんです。大事な事は学び合いだと言う。でも、何を僕はここに来ているあなたたちから今日学ぶんですか(笑)。学ぶためにお金払ってきているんだから、こんな寒い日に。そこでさあ、皆さん一緒に学び合いましょうなんて僕が言ったら、あほかと言われる(笑い)。そういう問題があるんです。
●ハイパーメリトクラシー教育
そういう教育の傾向は、今、厚生労働省や経産省や総務省や文科省はハイパーメリットクラシー教育=「力」教育(人間力、課題発見・解決能力、社会人基礎力、コミュニケーション能力)が必要であると考えていて、大学、短大に次ぐ第3番目の高等教育機関をつくろうと考えています。専門教養主義ではなくて、キャリア教育に特化する新しい大学を作る。
その教育目標は、僕は〈力〉能力(りょくのうりょく)と言っていますが、〈人間力〉とか〈コミュニケーション能力〉です。これは90年代初めから始まった自主性、個性教育というもので、今の大学生は選択科目がすごく多くて、「哲学」なんていう最も大学らしい科目はなくて「人生論」だとかの科目になっています。数学も「数と生活」、英文学部も「英語コミュニケーション学部」と変わっています。やっていることはシェイクスピアですが、英語コミュニケーション学部とつければ、英語のできない者もやってみようかなという気になります。英語コミュニケーション学部という名がついたために、「自己表現力技法」なんていう科目を置かざるをえなくなり、街のNPOや年齢不詳の女性の来て話している。大学というストックの牙城が、そういったフロー科目に取り込まれるようになってきている。キャリア教育における実務家講師のキャンパス侵入も同じ事態です。
9)消費社会とオンライン自己
●消費社会の深化はストック人材をますます不要にしていく
なんでそうなってきたのかというと、1つは消費社会です。サービス産業化がどんどん進んでいって、80年代後半で言うと、個人消費が70%にまで迫る。個人消費がGDPの一番大きな要素になってきて1億総営業マン化が起こってきます。市場が飽和した高度消費社会だと、〈作る〉ことよりも〈売る〉ことに力点がかかってくる。専門学校がいくら建築の技術者の優秀な人材を出したって、ミサワホームも大成建設でさえも、〈作る〉奴はいらない、〈売る〉人間を一人でも出してくれと言い始めるわけです。
そうすると、知識や技術は、売ることに対する貢献度合においては、作ることに対する貢献度合いに比べればはるかに少ないんです。車をよく売る営業マンは車好きだと売れるかというと売れないです。トヨタは徹底的にそう考えています。ホンダはわりと車好きを採りますけれどもトヨタは車好きは絶対に採らない。なぜかと言うと自分の好きな車しか乗ろうとしないから。車好きは「なんでこんなの買うのか」と思いながら仕事するに違いない。顔に表れる。他社の車の良いところまで自分のショールームでコンコンとしゃべってほめている(笑)。
一番売れない車を売るのが営業マンの仕事だから、そうすると、1億総営業マン化社会の教育って何が必要なのかというと、知識や技術をきちんと蓄える、体系的に勉強するということになってこないわけです。
体系的に、ものが売れるのなら、学者と経営者は同じでなければいけない。そんなことあるわけがない(笑)
客の顔色を見ながら、何を言えば喜ぶかと言うことに対するサーチ力が必要になってきます。営業マンの鉄則の一つに、客がほめるものをほめろと言ったりもします。僕には絶対そんな仕事は合わない。「お前の好みは間違っている」と言うに決まってる(笑)。
「買う」とは知識や技術で買うのではなくて〈心理〉で買う。心理の基準は〈納得〉ですから納得となれば馬鹿も賢い人も平等です。納得しないと終わりなのですから。〈納得〉には、正しい納得も間違っている納得も存在しない。〈納得〉は〈評価〉ではない。むしろお金を出すことに対する決断のための心理主義な訳です。僕が、どんなふうにこんこんと原稿用紙3000枚の内容を費やしてしゃべっても、相手がわかりませんと言われたらもう終わりなんだから(笑)。
〈納得〉ということを基準にした社会では学校教育体系はどんどん廃れていきます。つまり体系的に知識や技術を積み上げてちゃんとしたストック人材を作らなければいけないという方向に動かない。
10)IT社会(高度情報化社会)とオンライン自己
●人間関係重視の社会
人間関係が重視されて消費社会が飽和している高度な消費社会では、そのひとつが人間関係論に走っていくという傾向と、もう一つはIT技術が進んできて24時間の連絡体制が人間をしばるようになってくるということ。ポケベル自体は1960年頃からありましたけれども、それがサラリーマンが日常的に使い始めるのが1980年後半からで、中曽根臨教審が自主性、個性と言いはじめた時期と重なっています。
「ポケベルが鳴らなくて」という緒方拳が演じた切ないドラマをおぼえていますか。このドラマは1993年のものですが、ポケベルで男女関係が影響されることも起こってくる。
24時間、人間の個人同士が連絡を取れる体制って何なのかというと、24時間覚醒していなければいけないということです。24時間、意識を張り巡らしている必要がある。〈内面〉とは、本来は、昼(覚醒)と夜(沈黙)があっての出来事です。ところが今はそうではない。
24時間の覚醒とは、電気の時代であって、電気の時代は、サーバーの時代によって成熟を迎えましたが、サーバーの起源は電気冷蔵庫です。電気冷蔵庫が家庭に入り込んではじめて24時間付きっぱなしの電気時代が始まった。今はそれがサーバーなわけです。
たとえば、メールを送って10分以内に返信がないと彼氏が怒るとか彼女が怒るということが起こってくると、〈内面〉がすごく肥大してきます。私は今、何をしなければいけないのかということを24時間ずっと問い詰める体制ができてくる。
その上、情報利用が、90年代後半からプル型からプッシュ型に変わっていくでしょ。これは検索主義への最初の批判でした。プッシュ型って反検索主義なんです。放っておいても手元に「お前、反応しろ、反応しろ、返事しろ、返事しろ」という要求が潜在的に存在している。メールやスケジュールさえもがプッシュ配信される。検索は意志を前提しますが、何もしたくなければそのままでいられる。しかしプッシュ配信は、受動的なままで反応を強要される。そこでは、無反応も反応のあり方の一つになってしまう。〈内面〉を強要されるわけです。
mixiが人気があったのも、ホーム画面に自分の「マイミク」が何をやっているかがいつも現前化しているわけです。手元に現前化するというのが、mixiがすごく便利に思えた瞬間でした。これがRSSになっていくわけです。自分がいつも必要として見ているサイトとかブログをRSSリーダーに登録しておけば、ブックマーク検索をしなくても誰がどこで何をしたかというニュースが自分の手元に現前化される。これは検索を中和する方法です。検索というのがまずいぞということに対してmixiも手を打ったわけだし、RSSがすごく重要になったということです。それは何かというと、先ほど機能主義で問題にした忘れることとか、無意識であることを許さない社会になったということです。常にプッシュがあって常にそれに対して(無回答も含めた)回答を出し続けなきゃいけないということになる。
車のショールームでずーっと相手の顔色を伺い続ける、あるいは人格的なふれあいで相手に気に入られようとする。人は自動ドアのフィードバック装置のように、進入者、あるいは他者に敏感になっていく。そういった〈関係function〉に敏感になってく。そういった〈人間〉を作っていく場面がIT技術の進展と共に強固なものになっていく。まさにマクルーハンの言うように「メディアはメッセージ」なわけです。リオタールのように、「技術の強化は現実の強化でもある」と言ってもいい。
●高卒求人数の10分の一の激減
もう一つの理由は、サービス社会(消費社会)は、製造業を海外に追いやることになること、あるいは外国人労働者に任せること。IT社会が中途半端に複雑な仕事を全部コンピュータ化したこと。このことによって、大学大綱化の翌年1992年には167,000件存在していた高卒求人数(高卒求人数のピーク)が2003年には19,800件(落ち込みのピーク)に落ち込み、2010年でもくしくも19,800件と落ち込みのピークを再現しています。
学校教育がハイパーメリトクラシーに走るのは、高卒新卒求人が激減、その分、大学全入が高卒者を進学者(言わば疑似進学者)として吸収しているからです。専門学校も偏差値の低い大学も、法政大学の児美川孝一郎の言うように「潜在的失業者のプール」でしかない。この疑似進学者達は、体系的な教育を嫌う。その分、評価の曖昧な意欲、個性教育に、学校側も文科省も走るわけです。
●「主体」が未形成の若者に「主体」を強要する矛盾
だから、馬鹿でも主体や選択する主体を形成せざるを得ない社会になる。これまで馬鹿はけっこう平和に、選択なしで生きていけたのですが(笑)、街を歩いている馬鹿でも今自分は何をすべきかをたえず気にしている。馬鹿でも就職の試験で〈自己分析〉テストをやっているでしょ。馬鹿って自己がないやつのことなのに(笑)。馬鹿が自己内面調査して何になりますか(笑)。ますますバカになる(笑)。
まだ実体を形成し終えていない者を馬鹿というのだから(そもそもその意味では若者はみんな馬鹿です)、そんなところで、わざとらしい心理試験を受けて、〈私〉はこの方に「向いている」とか、そちらには「向いていない」という結論を出して動いたら、とんでもないことになってしまう。若者たちはこれから〈自己〉を形成していくのだから。
もともと〈学校教育〉体制における生徒や学生というのは、〈主体〉がないから学校に入るわけで、自己分析テストを受けてどうするのですか。アリストテレスは誰か、何かというテストを受けることはあっても、自己分析テストを受ける資格はまだないのです。僕の教育の経験だとどんな若い学生でもどうにでもなります。向きや不向きなんて、教育の不成熟の結果にすぎない。偏差値40で入ってきたって偏差値70以上の大卒の就職企業に就職させることも出来る。18才の選択だとか、大学3年生の夏の選択なんていうことは何のあてにもならない。そのことに実体など無い。
今の大学は学生を「お客様」と言っています。「お客様」というのは消費者ということでしょ。〈主体〉として認めてしまっている。だけど生徒とか学生というのは〈主体〉ではない。どれだけストックを持たせるかという学校側の主体性がいつも問われているのが学校という場所なんです。お医者さんも「患者様」と言うんでしたっけ。世も末だと思います(笑)。笑顔が素敵でベッドサイドマナーが優れているのに、病気に関しては誤診と誤治療を繰り返す医者ってヘンでしょ。もはや「先生」ではない。
●小さな共同体における他者の肥大
そういう問題があって、そういう意味でコミュニケーション能力が全盛になっていくというのは、人間のビヘイビアにすべて意味があると考えてしまう行動主義的な強迫神経症なんです。あの人はああいう目線で私をみているけれども、ひょっとしたら私を嫌っているんではないかとかどんな仕草も有意味と見なして、過剰に恐怖を感じる。
今、若い人たちはメールとかでそうしたことを絶えず体験しているわけです。あの子はいくらメールを送っても返信をくれないから仲間から排除しょうなどと、わずか3,4人の付き合いであっても、ファシズムみたいな関係になってきて、〈内面〉がすごく肥大していてずっと友達に気を使い続けている。その心理的に肥大した仲間の外に出てしまうと、あの秋葉原の殺人事件のようなことが起こる。その外はもはや内面を持たない人間なわけです。
2,3人だけど、すごく大きく世界大に内面が肥大化しているから、外が共同性としてみえない。外の者は人間でないみたいになる。人間がいないのではなくて、2、3人だけで十分人間的に疲れている状態なのです。24時間やりとりすれば絶対にそうなるに決まっています。寝る寸前まで電話で、しかもソフトバンクでは24時間無料だから、受話器をオンにした状態でベットの中で寝る。お互いがサーバー状態になってしまっている。
情報ツールが拡大したにもかかわらず、リアルな交友関係が広がらなかったのは、24時間の「関係(function)」が内面を異常に肥大化させたからです。内面の肥大化で携帯ツールの24時間化は2人3人の身近な友人関係にとどまったにしても、非常な配慮や気遣いを脅迫的に要求する。たった2人3人であっても世界大の情報処理力を必要とする。だから外から見ていると2人3人に好かれるぐらいたいしたことはないではないかと思うけれども、2、3人が24時間内面を管理しているとすごくそれに力を取られてしまう。かつては恋人同士のきめこまやかな心遣いにとどまっていたものが今ではn個の友人関係に拡大していて、〈恋愛〉も〈セックス〉も面倒くさいと思う若者がいっぱい出てきているわけです。なぜかと言うと、それは恋愛を嫌がっているのではなくて、毎日毎晩同性同士、友達同士で恋愛みたいな関係になってしまっているから。わざわざ男女関係に入るまでもない。1日でも中断すると、友達同士でも「冷たいじゃないの」と言われる。それで何の役にもたたない話をずっとしている。役に立つかどうかではなく、ずーっと話し続けているというのが大切なのです。
だから家族や地域を超えた少数の共同体が他者の存在を極端に排除する。それは他者が不在なのではなく、内部にすごく巨大な他者を抱えてしまっているからです。
●内面の肥大とTwitter現象
Twitterの微分機能はそれに対して携帯でもないし、電話でもないし、チャットでもない新しい次元を切り開いたわけです。これは内面を現在で微分しているという意味ではすごく強化しているけれども、タイムラインがどんどん内面を解体していきますから、携帯電話やメールのようなきつい感じにはなっていかない。
飽きず疲れず時間を忘れるのがTwitterの本分で、僕なんか何回自分の駅を通りすぎたことか(笑)。もう着いちゃったみたいな。〈現在〉という時間はむしろ時間を無化するのです。
新幹線の大阪・東京ぐらいだったらどこまででもいけるというのがTwitterの面白さで、内面の現在を共有することということは、少数の他者との関係を知ることであったにもかかわらず、Twitterでは多数の他者との現在を簡単に増大させることが出来る。よくフォロワーを増やすには大変だと言う人がいますけれども、フォローを増やせば、フォロワーは増えます。フォローを2000人もすれば500人ぐらいはフォロワーは絶対に出てきます。メディアに登場したことのない無名の人が500人も読者をもつなんて、これまでの歴史にはなかったでしょう(笑)。そういう意味でいうとすごい革命的なツールで、そこがmixiとは違うところです。mixiで500人集めようとすれば大変でしょ。僕なんかいろんな作戦をたてて足跡を追跡しまくりました。1年かけて500名がやっとです。しかし、Twitterはただクリックすればいいだけだからどうということはない。1週間で1000名くらいは集められます。フォローすればフォロワーは増える。
このフォロー者とフォロワーとの非対称性が、内面のきつさを緩和しているのです。
ミクシィもFacebookも、“承認”が必要ですから、互報性の原理が機能しています。必ず相手にしてよね、というものです。どちらも村落的で奴隷的なのです。それがTwitterの他者関係にはない。
現在と他者を微分によって拡大し、3千人も4千人もの現在のつぶやきを見ていけば、かならず自分と話題が共通するツイートがタイムライン上に出てきます。だから、どんなに性格の曲がった人間であったって、(ある種の社会性)を獲得することができるわけ。どんなにストックのない人でも社会性を獲得できる。しかもその社会性は著名人の日常と接触することによって著名人とカレーライスの話をすることも出来るし、僕なんか(有名人ではないのですが)牛丼のときしか話題に入ってこない人がいるわけです(笑)。そこじゃないだろうと思っていても(笑)、牛丼が好きな人とはそういうチャンネルになっていきます。すると牛丼喰っている人から「趣味が合う」ということになります(まさに合っているわけです)。そういう人がやっている哲学とは何だろうかと思い始める。すると牛丼しか関心を持っていなかった人がハイデガーなんて言い始める(笑)。これが〈ソーシャル〉です。
〈ソーシャル〉とはセグメントから離れているということです。セグメントマーケティングはTwitterで完全に解体しました。
※逆にこんな簡単なことでも〈ソーシャル〉と呼ばれることによって、何のストックもない若者の軽薄な起業家志向が高まっています。〈ソーシャル〉とはインフレした社会でもあるわけです。大学のキャンパスに、まともな大学院を経ない実務家講師が侵入拡大しているのも同じ事態です。
●現在を微分することの他者化機能
Twitterで現在が何千人もの人によって微分されていくというのは、そこに世界大の他者が入り込んでいて、これまでに長いストックにおいてしか他者と出会えなかったのが、過去や未来も包含して現在の微分の中に並列的に展開するということですから、ニーチェの「かくあったは意志の歯ぎしり」というものの最大の防止策になるわけです。
Twitterはデータベースならざるデータベースで、検索する必要もないのにどんどんプッシュで入ってきて、プッシュで入ってきてうっとうしいと思ったら目をつぶっおけば嫌な奴は流れていく。僕は“タイムラインは水洗便所”と言っています。要するに、「タイムライン」は極限のプッシュ通知なのです。流れないという人はフォロー数が少ない人です。100人とか200人ぐらいだったらやはり変な奴は目立ちます。それでは「タイムライン」の革命性は見えてこない。100人や200人だと、「短文の限界」と「人間の限界」が露呈するだけです。
僕がツイートし始めるとすぐに外すやつがいるんです。芦田がツイートし始めたって(笑)。そんな人のフォロー数を除いてみると、100名以下か200名とか300名なんです。200名とか300名というのは、〈現在〉の微分度が少ないということですから、〈現在〉という時間の拡散度が少なくて、ストック性だけが目立つことになる。〈現在〉を1000人とか2000人で微分してしまえば、ストック性は解体するわけです。どんどん解体していくから何やろうとどうってことないんですけれども、100人とか50人だとそれはmixiです。特定の情報(ストック、あるいはテーマ主義)を検索的に取りに行こうとする。それならブログでやれば良いではないですか。あるいは著作(の読者として)でやればいい。
Twitterは過去と未来を忘れることの出来る究極のメディアなわけです。つまりストックなしでも生きていける希望の原理がTwitterで、馬鹿も頭が良いと言われている人も平等だという意味で、だから皆が面白がっている。
11)Twitterの〈現在〉の限界とポストモダン
●現在の微分は、身体と死の微分
果たしてそうかという問題があって、〈現在〉はどこまでいったって現在に過ぎない。Twitterの〈現在〉というのは、〈現在〉を細かく微分することによって、過去と未来とをラディカルに忘却する装置になっているという問題。
そこで、ラディカルに忘れ去られているものは、人間が死ぬこと、です。
なぜかと言うと人間の死というのは、現在においてこそ不在であるような唯一の出来事です。死が現前化するということは自分がいなくなることです。現前化に一番あらがっているわけです。人が死ぬのを見た人はいるけれども、自分が死ぬところを見た人はいないんだから。
丹波哲郎は、あの世を見てきたといっていたけれども、あの人は死にそこなったわけであって、生きているわけで、本当に死んだら何もしゃべれない。あの世から帰ってきた人を死んだ人とは言わない。現に彼はもういない。
人間が死ぬということはTwitterの微分がどんなに細分化されても現前化できない出来事です。死のデータベースをいくら巨大化し、高速化しても、それは一つの〈現在〉に留まる。
しかも現前化できないのに絶対にやってくるものです。完結しているのに未決であるような出来事が人間が死ぬということで、ハイデガーは「つねにすでに、未だないこと」と言った。人間が死ぬということは人間の全体を形成していて、つねにすでにいつもないこと。いつもないということがつねにすでに存在している。未決がいつも完結的に存在しているというふうに言いました。
彼のこのモデルは、アリストテレスのエネルゲイア解釈から来ています。アリストテレスのエネルゲイア論はノエイン論であり、ノエインのモデルは〈見る(テオレイン)〉ことです。『存在と時間』でもさかんにSicht(視)という単語が使われ「存在論的視」とまで言われています(ここではあまり詳しく触れませんが)。〈見る〉ということは見終えているということであるにもかかわらず、継続している。つまりアリストテレスの言う「不動の動者」に関わっている。それはハイデガーの立場からすると、人間は死に続けている存在だということです。『存在と時間』のハイデガーは、現存在(人間)の死こそ、「不動の動者」だとするわけです。彼がトマスやデカルトまで飛び越えて先祖帰りまでして言いたかったことは、そこにある。
●「時間を忘れること」と「死を忘れること」
Twitterの微分が進めば進むほど、忘れるのがこの出来事なんです。過去や未来が実在性でないという意味ではTwitterの心理主義的な現前性は効力を持っている。
つまりTwitterというのはいろいろな人のストックだとか専門性というのを微分において解体するという点では、そしてまた今現在に存在して並列に並べているという点では、俺は実はこう見えてもえらいんだぞとツイートする馬鹿がいるけれども、それはまったく通用しない。それは、ニーチェ的には「背後世界の倒錯」というものです。
今書いているツイートに魅力的でなければ、その人がすごく偉い人であろうと、すごい実績を持っていようと馬鹿は馬鹿だというところで、実在的な過去をつぶすだけの十分な威力を持っているわけ。皆が興奮しているところはそこです。「タイムライン」は、そういう輩に、ニーチェのように、死を宣告しているのです。「話せばわかる」というような担保は、人間には元々ない。「話せばわかる」というのも一つの態度表明だからです。そこだけは、自分の態度の意味作用を抑えるなんてできるわけない。どんな場合も、人間は表れているのですから。このかたときも抑えようのない現れを、フッサールは〈現象〉と呼んでいたわけです。
つまり人間は動物のように時間を担保しながら生きてきて、その結果朽ち果てて死ぬのではなく、死んでいるやつは生きていても死んでいるわけです。「タイムライン」の生成は間断ない生死の象徴だとも言えるし、死の日常化でもある(と、とりあえずは言えます)。〈終わり〉は、日常の些事によって相対化されたのではなく(「終わりなき日常を生きろ」というように相対化されたわけではなく)、毎日が死だ、現在こそが死だというように日常化されたのです。
動物が生きている理由は彼が生まれたからです。人間は生まれた理由を全否定することができます。いつでも死のうと思えば死ねたのに、なぜ自分は現にこうやって存在しているのかということを自分の現在に問い続けることが出来るのは、人間の生と動物の生が違うからです。
ツイートで要求されているのは、自分は現在をどう選択するかということを極限で問われ続けていて、自分が動物のような自然時間で過去から将来に向かって時間が延びていて、生まれた始点があって60年間経つと最後に死ぬというこの時間構造は動物の生死の構造です。
人間の生死って生まれたときから確実なのは生きることより死ぬことなんだから、いつも選択しなおされ続けているわけです。生きることの影が死ぬことなのではなくて、死ぬことの影が生きることなわけです。生の結果が信濃ではなくて、死の結果が生きていることなわけです。
動物の死は朽ち果てる死に方ですけれども(ドイツ語でablebenと言います)、人間の死はいつでも死のうと思えば死ねたという現在を抱えながら存在しているという意味で、Twitterの現前性の微分というのはそういった緊迫感を隠喩している点ではすごく革命的です。
これはポストモダンの思想家たちが〈主体〉とか〈人間〉というのは、実は幻想なんだと言ったことにかなり近い。Twitterの微分作用は、ドゥルーズの言葉を借りれば「平立的多面体」とほとんど同じです。ドゥルーズの言う“意味の反復性”が力動的なのも「タイムライン」そのものです。デリダの「差延」もそう。
身体感覚と並行している私にしかわからない個別性ということについて、身体がどんどん微分していくことによって、様々な観念に分配・接合していくことができるという事態がTwitterで生じています。それは、〈身体〉の心理主義化という事態です。心理主義的な相対化をTwitterはやっているわけです。つまり加速器のように人間を微分記述すれば、人間の身体も相対化できるのではないか。これが、Twitterの予感です。われわれ哲学者、あるいは現代人は、Twitterの挑戦を受けているわけです。
デカルトの〈主観〉の現前性よりもヘーゲルの〈精神〉の現前性。ヘーゲルの〈精神〉の現前性よりもフッサールの〈現象〉の現前性と、〈現在〉は近代哲学以降、多様に拡張され続けてきたわけですが、Twitterの現前性は、どこに位置付くのか、まだ誰も見定めていません。
Twitterの微分は何で起こるのかというと、未決の継続をうながし続けている人間が死ぬということに対して人間が忘れ続けているからです。厳密に言えば、忘れようとしても忘れられないからです。だから、現在を微分しながら忙しくしているのです。Twitterで「時が経つのを忘れる」というのはそういうことです。
要するに、タイムラインでフォロー数を増やして毎秒死ねば、最後には「死ぬなう」とつぶやきながら死ねるかもしれない、というのがTwitterの予感です。すでに「セックスなう」は登場している。あとは「死ぬなう」を待つばかり(笑)。速度は死を乗り越えられるのか、ということなのです。フレーム問題におけるフレームも微分で刻んで相対化しようとしているわけです。
終わりたくないということと終わりたいということとが同時に存在するという事態。
ハイデガーはそのときヘルダーリンの「危険のあるところに、救うものもまた育つ」という言葉をひいています。そうやっていつも彼はこの問題から逃げています(笑)。私も逃げたい(大笑)。
結局、この問題はハイデガーが「形而上学の存在-神-論-的体制(Die onto-theo-logishe Verfassung der Metaphysik)」と呼んだものに関わっています。ハイデガーもこの問題に関わって「ナチ荷担」してしまったくらいの大問題です。この「形而上学の存在-神-論-的体制(Die onto-theo-logishe Verfassung der Metaphysik)」という言葉は、『存在と時間』の未完に終わった(終わらざるを得なかった)自己反省の言葉でもあるのです。
その問題は、(腕時計を見ながら)、あっ、もう時間が、やっぱり、ない(笑)。
日経BPnetの最終回(http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20100521/227290/)では(逃げずに)書こうと思っています。御期待下さい(笑) これで終わりにします(拍手)。→「にほんブログ村」
(Version 10.0)
【特別付録(日経BPnet「ストック情報武装化論最終回(第三章)の一部】
●個性とは、内在の別名か?― 土井隆義の『個性を煽られる若者たち』における個性論(1)
土井隆義は、「最近の若者」の個性幻想について、「彼らにとっての個性とは、人間関係の関数としてではなく、固有の実在として甘受されている」(26※)と言う。〈個性〉の「固有の実在化」とは、個性の〈内在〉幻想に他ならない。※以後土井隆義のテキストの引用、および括弧内のページ数は『「個性」を煽られる子どもたち』(岩波書店)からのものとする)
「現在の若者たちにとっての個性とは、他者との比較のなかで自らの独自性に気づき、その人間関係の中で培っていくものではありません。あたかも自己の深淵に発見される実体であるかのように、そして大切に研磨されるべきダイヤの原石であるかのように甘受されています。その原石こそが『本当の自分』というわけです。『私にだってダイヤの原石が秘められているはずだ』と、さしたる根拠もなく誰もが信じているのです」(27)
成績が悪くても「私は絶対に大学が行く」と大学受験用の選択科目ばかりとってしまう高校生、国語能力が低いにもかかわらず「ジャーナリストを目指す」専門学校志望者、地味な性格にもかかわらず「タレントになる」と言って芸能スクールを目指す若者に対して、教師の側が「考え直した方がいいのではないか」「君にはもっと別の道があるのではないか」と“指導”すると彼らは「先生がそんなふうに決めつけるのは良くない」「やれば出来るかもしれないじゃないですか」と「猛反発」してくる、という高校教員の体験を土井は紹介している。
3人の高校生の前半の思いは、私には少しも悪く思えないが、後半の教員の指導に対する反応は確かに気になる。土井は、この反応の仕方を「他者の存在が希薄」「本源的に自己に備わった実体の発現過程として個性を理解する感受性」と受け止め、そういった個性幻想を〈内閉的個性志向〉と呼んでいる。
「最近の若者」たちの「むかつく」という表現の多用もまた、「怒りの矛先を示す目的語を必要としない自己完結した表現」であって、「そこではそう感じてしまった自分の感覚こそが、ともかく優先されます」(30)。
そしてこういった「内発的な衝動を重視するメンタリティー」は、むしろ「自己意識を断片化する」(34)
というのも、「自己の深淵からふつふつと沸き上がってくる自然な感情の在り方こそ、自分の本当の『キャラ』」であるとしても、「自らの生理的な感覚や内発的な衝動に依拠した直感は、『いま』のこの一瞬にしか成立しえない刹那的なものであり、状況次第でいかようにも変化しうるもの」(33)。だとしたら、「個性とは一貫したもののはずだという幻想」と矛盾することになり、「その持続性と統合性を維持することが困難」になる。「『本当の自分』がわからないという事態」は、この「持続性」「統合性」「一貫性」と刹那的な内発性の「パラドクス」から生じている、と土井は言う。
●〈現在〉を書き留める「濃密手帳」― 土井隆義の個性論(2)
ここで、土井は、「近年、少女たちの多くが持ち歩いている濃密手帳」について触れている。
「濃密手帳」とは、(土井の説明によれば)、「日々の出来事を日記のように書き連ねたもの(…)。彼女たちは、自分の所有する時間の濃密性を表すメタファーとして、極度に小さく凝縮された微細な文字を使いこなします。その細かな文字によって埋め尽くされた紙面を眺めることによって、この世界における自分の存在を確認し、そこに生のリアリティを定着させようと試みているのでしょう。時間軸が有効でないと記憶は成立しません。記憶が成立しないから、記憶しようと懸命になる」(36)、それが「濃密手帳」。
土井は、個性の「持続性」「統合性」「一貫性」幻想と刹那的な内発性幻想との「パラドクス」の解消要求が、この「濃密手帳」の存在に表れていると解説する。
「未来にも過去にも実感がなく、時間に対する余裕の感覚を見失ってしまった自己は、かけがいのないたった『いま』のこの瞬間にしか、その生の感触を得ることができません。したがって、つねに疲労困憊してしまうまで、この『いま』を濃密な時間で埋めつくさないと安心していられない(…)。『いま』という時間にポッカリできた空白は、自分の存在そのものをまるで全否定しているかのように思えてしまいます。だから、彼女たちは、半ば強迫神経症的に、その空白を埋めようと躍起になる」(36)。
「身近な人間からの絶えざる承認」の「必要」も、その脅迫的な不安を少しでも取り除くため」のものであって、「皮肉なことに、内閉的に『個性』を希求する人間にとって、他者からの承認は絶対なのです」(48)。「お互いに過剰なほど配慮しあう友だち関係は、このような状況から生まれています。それは他者への配慮ではなく、強力な自己承認が欲しいという自己への配慮の産物」にすぎない。
これが、土井の個性論のすべてである。土井の個性論の力点は、個性はもともと内在的に存在しているものではないにもかかわらず、「根拠もなく」、つまり「過去から未来へという時間の流れのなかに、現在の自分を位置づけること」ができないまま、それを信じようとするから〈現在〉を過剰に拡大するしかないということである。
土井の議論は、「若者たちが切望する個性とは、社会の中で作り上げていくものではなく…」(25)、「現代の若者たちは、自分をとりまく人間関係や自分自身を変えていくことで得られるものをではなく…」(26)、「社会的な成長のなかで形成されていくものとして自分の本質をとらえていない…」(28)、「社会化に対するリアリティを喪失している…」(29)、「個性とは本来は相対的なものであるはずなのに、内閉化した世界ではそれが絶対的なものとして甘受されている」(42)などと、土井自身の主観的で幼稚な信念のようなものを前提にしている分、鼻につくところがある。
繰り返される、土井のこの「社会的」個性論は、それ自体が機能主義に他ならない。土井が「本来の個性とは相対的なものであり、社会的な函数です」(27)と言う通りに。
しかし「若者」の個性幻想は、むしろその機能主義から発生している。(最終回に続く・乞うご期待)→「にほんブログ村」
※このブログの現在のブログランキングを知りたい方は上記「教育ブログ」アイコンをクリック、開いて「大学」「専門学校教育」を選択していただければ現在のランキングがわかります)
この記事へのトラックバックURL:
http://www.ashida.info/blog/mt-tb.cgi/1278