(続々)「学び合い」小学校教員からの再々反論がありました(3) ― 謹んでご紹介します。 2011年03月02日
予想通りの反論が返ってきたので、再度整理しておきます。
芦)(芦田の前回の発言の小学校教員による引用)1)+2)合わせて:毎時毎のレフェランスを明確にしろってどこで私が言いましたか? 「単元毎」というまとめ評価は、あくまでも生徒に対する評価。単元の終わりにいたって、生徒評価をしても意味がない。私はそれを「後の祭り」評価と言っている。
生徒評価はいつでも教員の教育力評価。単元の終わりでまとめて行われる評価が存在するときには、つねにすでにその教員の単元教育目標とその結果の生徒の履修情況がイメージできていないといけない。
自らに課した教育目標が順当に達成できているという評価(単元学力評価)ができていなければならない。
では「自らに課した教育目標」の達成評価はどうやって可能になるのか。それは日々の授業進行の成否を問うことの中でしか可能にならない。「学び合い」であれ「一斉授業」であれ教員の課題は同じ。
「成否を問う」とは、自分が単元全体で教えなければならないことと授業進行の現状の中での個々の生徒の履修状況の把握を付き合わせる作業のこと。それが予想通りに進んでいない場合には、授業はコマ内で、あるいはコマ単位に修正を余儀なくさせられる。生徒の予復習ばかりではなく、教員自身の予復習が膨大化する。
特にあなたの「学び合い」では履修進行がまちまちのため一斉テストをするのが難しい。やったとしても評価が難しい。100点が満点とは言えないからだ。「学び合い」サークルの、理解や進度やサジェスションの乱反射によって生徒への履修評価がノイズに満ちたものにならざるをえない。それらを間引かないと生徒たちへの正確な履修評価ができない。一斉授業はその分一斉テストがしやすい。点数が悪ければその分補習をすればいいだけ。
双方に言えるのは、授業コマが進めば進むほど(まとまればまとまるほど)、教育課題が増えて取り返し(修正)が効かなくなるということ。能力の高い教員であれば、3コマ分や4コマ分くらいのミスが重なっても取り返しはできるかも知れないが、既成市販教材とトークしかないあの授業では授業コマが貯まっていくことは致命的だと言える。
それでも、あなたがいい加減なことを言っていられるのは、単元単位の試験(レフェランス)のイメージがないか(抽象的な指導要領が目標だと言っているくらいだから)、あってもそのレベルが低いか、あるいは必ずしも実際の授業テーマ・進行とはそぐわない既成市販業者のテストを行っているか、授業進行に応じた個人相対評価(さらにその上意欲、態度、関心の情意評価が加わった相対評価)しか念頭にないかのいずれか。
いずれにしても、生徒への評価が、担任主義的にクラス内で丸まられているために、評価軸が主観的に過ぎるため、日々の授業の進捗意識がない。生徒への評価が相対主義だということは、教員に教育目標意識(レフェランス)が存在しないというのと同じ。目標意識はあるとすれば授業参加しているかいないか、だけなのである。
【小学校教員】当日の話を覚えていらっしゃらないまま批判をいただきました。まずは、「あとの祭り評価」ですが、私は単元の終わりに確かに評価テストをかけます。その時数は、単元総時数の2/3時間と話したはずです。なぜ単元がそれだけ速く進行できるかは、家庭での予習だと話したはずです。学校では、その考え方や意味、図にかいて説明することを重視していることを話しました。その中での進行度には違いが当然うまれるということです。
単元を達成をそこでいったん評価することで、下位の子どもは弱い部分や再度学び直すべき点を何度でもやり直せる時間を授業の中で確保していると話したはずです。(覚えていらっしゃいますよね?) そいうしなければ子どもの学力など向上するはずがありません。
【芦田】何を言ってるのでしょうか。「予習」とは何ですか? レフェランスはその場合何ですか? 業者の練習問題のことですか? 予習とは練習問題を解いてくるという公文的な“作業”のことですか? 「進行度の違い」が出て来るのなら、「単元の終わり」の「評価テスト」は意味がありません。
「私は単元の終わりに確かに評価テストをかけます。その時数は、単元総時数の2/3時間と話したはずです」。この文章意味不明。この点に関して、私があなたから聞いたのは、3学期「3ヶ月分を1ヶ月でできました」というもの。その1ヶ月後の単元テストをやって、その残りの3分の2で復習をやるということですか。
その点に関して言えば、生徒たちは、その評価の結果を受けた授業など一切やっていません。個別の対策授業なんてなかったからです。あなたは単元テストをやった上でもなお「弱い部分や再度学び直すべき点を何度でもやり直せる時間を授業の中で確保している」と生徒の「学び合い」に任せている。
試験評価という一番大切な教員の仕事をまだなお放置している。あなたがここで言おうとしていることは、練習問題を予習作業も含めて早く進めた。だから時間が余る。余裕があるから充分復習や補習ができる、と言ってるだけ。つまり“時間”を指摘しているだけ。どこにも〈教育〉(レフェランス)がない。
しかもここで言われている「速く」進むというのは、業者のドリル練習問題の進度が速く進むということであって、〈理解〉が進むこととは何の関係もない。教科書+ドリル既成教材しかない、あの授業の現場を見る限り、業者依存作業進行的な進度しか存在しない。だから速く進んでも、それは高度な品質の高い手法によってではなく、練習問題のページ数の進行をしか意味していない。私はずーっとそれを批判している。
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【小学校教員】また、「学び合い」の評価はリアルタイムです。通常は早くても時間ごとですが、子どもの像全体を見取るために、課題のブレや子どものつまずきが即座に見えます。それを主観として否定するならば、教師の役割そのものを批判するのと同じです。
【芦田】「『学び合い』の評価はリアルタイムです」。それはそうでしょう。だって、授業レフェランス(時間+内容双方の)がないのですから。時間意識、内容意識のない生徒同士の「学び合い」ではその場その場の出たとこ勝負の指示や示唆があるだけです。だからリアルタイムな分、それが教育的に適切で充分なものかどうかは、わからない。うまくいったときはうまくいく、ダメな場合はダメ。それが「学び合い」における「リアルタイム」の意味です。
「子どもの像全体を見取るために、課題のブレや子どものつまずきが即座に見えます」。見えません。グループに分散しているため、一方に目をやれば、他方には背中を向けることになる。一望で監視した場合には、その上、肝心の子供のやりとりの声が聞こえない。「即座」には「つまづき」は「見え」ない。そもそも「つまづき」を「見る」対象として動作では判断できない。すらすら解いているように見えてもわかっていない場合はいくらでもある。そういった“監視”は社会体育的なファシリテータに留まる“視”でしかない。教員の“視”はもっと知的(専門的)でなくてはならない。
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【小学校教員】全国の小学校で補習授業をやっているところは数%もありません。大抵の一斉授業の単元テストは「成績をつけるため」のものであり、テストの点数がいかに低かろうと補習をすることはほぼありません。せいぜい宿題です。私は、それを「無責任」だと感じます。そのために、上位は十分にレベルを上げて、下位の子どもは何度でも学べるようにしています。
【芦田】これはまた「よりまし」論です。くだらない指摘です。ダメな教員などどんな授業をやっていてもいます。ダメな一斉授業があるのなら、ダメな「学び合い」もある。ダメ同士を比較して「よりまし」というのなら、改善課題には一切向かわないと宣言しているようなもの。
それに私が「補習」を持ち出したのは、補習をやるべきだというコンテキストではなく、個々の生徒に対する教員としての履修情況判断をどこで(どのタイムスパン)判断しているのかというもの。
少なくもあなたは一ヶ月間(単元テストの)は「学び合い」によって放置しているのですから、それでは遅いと言っているのです。
あなたは3ヶ月という長いスパンの単元テストを1ヶ月目という短いスパンでやっている。その上、2ヶ月も補習時間を設けていると言いたいのでしょうが、その二ヶ月もまた「学び合い」でやっているのですから、ひろーくうすーく履修判断を曖昧にしているだけのことです。
1ヶ月目の単元テスト結果に基づいた再編成された学び合い履修課題や学習課題の教材が作られているわけでもない。あなたは、それを私が指摘したら「時間がない」と言った。であれば、個別の上位生徒、下位生徒に対する「学び合い」などできるはずがない。
1ヶ月目も既成教材、残りの2ヶ月間も既成教材(がほとんど)。これでどうやって上位と下位の生徒対策ができるというのですか。「何度でも」とあなたが言うとおり、「何度でも」練習問題をやり続けて時間を消化できる“作業”が授業時間の中で蔓延しているだけです。
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芦)(芦田の前回の発言の小学校教員による引用)抽象的な指導要領が目標だと言っているくらいだから)、あってもそのレベルが低いか、あるいは必ずしも実際の授業テーマ・進行とはそぐわない既成市販業者のテストを行っているか、授業進行に応じた個人相対評価(さらにその上意欲、態度、関心の情意評価が加わった相対評価)しか念頭にないかのいずれか。
学習指導要領は極めて具体的です。読んだことがないのですね。解説編を読めば学習の進行や各セクションでどのようなことをとらえさせるべきかきちんと明記されています。一度、全学習指導要領の解説編を読まれることをお勧めします。とても分かりやすいと思います。
公教育に学習指導要領以上のものを求め、達成できないことに「レベルが低い」というのはフェアーではありません。また、小学校の評価テストは既成市販業者テストしかありません。または年間の学習の達成状況を把握する、NRTやCRTしかありません。そこについては全国の小学校で使っています。そこは「学び合い」の批判とは異なりますよね。
【芦田】いいですか。指導要領は最低限のものというのは小学校教員なら誰でも心得ています。最低限のものでも教えられていない教員がたくさんいる、という問題はまた別のものです。問題は解説も含めて、それに従ってあなたが〈何を〉教えようとしたのかです。それを私は指導要領の〈解釈〉だと言っている。「公教育に学習指導要領以上のものを求め」とあなたはこともなげに書きますが、そう簡単なことではない。
「This is a pen.がわかればよい」と言う場合、あなたはこの文章の何に着目しますか。「訳せればいい(意味がわかればいい)」としたところで、その〈意味〉とは何ですか。ここには代名詞、be動詞、不定冠詞、名詞など教えようとしたら英語の本質そのものに迫るような内容がいくつでも含まれています。これは指導要領の〈解釈〉に関わるものです。
こんな簡単な英文にさえ、教員の専門性や教育目標の解釈が含まれるのですから、人材育成目標、そしてまた個々の授業時間での教育目標や内容を開示するというのは、何文字書いても〈説明〉などできないのです。私の経験ではそれがはっきりするのは教員自身が一時間毎のテキスト(授業の進行に100%沿った)を作り上げるときだけです。詳細なコマシラバスを書いてさえ難しい。
そういったテキストを身を粉にして作れ、と無理難題を言っているわけではありません。今のあなたには無理です。それくらいに、指導要領やその解説書を読んでも、個々の教員や個々の授業における教育目標はでてきはしない。つまりそんな状態で、あなたの授業評価はできないということです。指導要領のようなものを引き合いに出すのだから、あなたには元から授業評価の意識がないのです。あなた自身にレフェレンス(目的)がない授業評価などできるはずがないのです。
「指導要領に基づく」と一口に言っても、結局は、教員が何を教えようと思って日々の教壇に立っているのかがいつも問われているのです。
あなた達の言い方でいつも気になるのは、「公教育」「指導要領」という言葉が出てくるときのニュアンスです。私立学校よりも一段低い教育目標を引き合いに出すときにしか、あなた達はこの言葉を使いません。子供たちの能力は「学び合い」でどこまでも伸びる、と吹聴しながら、レフェランスは一段低い(とあなた達が見なす)「公教育」「指導要領」。要するに余興で(自分たち公務員の責任外で)伸びる生徒は伸びると見なしているだけ。ふざけた話しです。
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【小学校教員】また、話し合いで私は「結果主義です」と話したはずです。私のクラスの子どもにも「分かったか」「できたか」が大事であって「どう頑張ったかは評価はできない」と話していると、説明したと思います。相対評価なんて一言も言ったことはありませんし、私の見せた授業でいつ情意を評価する場面があったのでしょうか?
【芦田】何をおっしゃる。レフェランスのない「結果」というのは、意味がない。目標(レフェランス)があっての「結果」。あなたの言う「結果主義」というのは結果論のことです。目標を参照しないような結果は意味がない。あなたのレフェランスは、単元テストですか? 指導要領ですか? それとも全国の進学校も含めた小学生の「つるかめ算」学力のことですか? 一体、あなたは3学期を開始するに当たって、あなたが指導要領を含めて教員として解釈形成した教育目標は何だったのですか。それを示す文書や資料や教材はどこに存在していますか? それがない結果は結果論です。結果主義ではない。結果論はすべて相対論(努力・意欲主義)。レフェランスの否定です。
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芦田)(芦田の前回の発言の小学校教員による引用)いずれにしても、生徒への評価が、担任主義的にクラス内で丸まられているために、評価軸が主観的に過ぎるため、日々の授業の進捗意識がない。生徒への評価が相対主義だということは、教員に教育目標意識(レフェランス)が存在しないというのと同じ。目標意識はあるとすれば授業参加しているかいないか、だけなのである。
【小学校教員】「評価軸が主観的」と勝手に決めつけて話を進めています。さらには「授業に参加しているか、いないか」そのレベルの話を私はしたでしょうか?「参加するのは当たり前」と話したはずです。「参加もしていない一斉授業は、おかしい」とは言いました。それを「参加しているかしていないか」にこだわっているようにすり替えられています。参加するのは当たり前で、そこで何ができたかが大切だと今のクラスでも1年間子どもには話してきています。その上で「改めて評価は大切ですね」という話をさせていただいたはずです。
【芦田】あなたが一斉授業の教員より「まし」というのは、いつも参加度(理解度ではない)との比較です。なぜか。レフェランスがないからです。少なくとも私が見た授業のすべてでは、なにがどうなったらこの授業はこの授業(全コマの中のこの授業分)として成功だったのか失敗だったのかの判断ができない、できない以上にしないままに終わっていました。全員が意欲的に授業に参加していた。これだけがあなたの関心です。理解度に関心のある教員ならあんな終わり方はしない。お得意の予習、復習課題に付いてすら、この授業の個々人の履修状況を踏まえて言及しないのだから。
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【小学校教員】批判は続くのですがこのようにびっくりすることだらけです。嫌気が指すので一つ一つ潰すのは止めたいと思います。授業の後にどんな話し合いがなされたかはレコーダーに残っています。授業を参観されるのも、話し合うのもよいのですが、事実をきちんと出していただければと思います。これではまるで「学び合い」は教師が子どもを放りっぱなしで、評価も情意面とぐちゃぐちゃにし、目的意識もなく授業している見たいな話です。そんな授業で子どもが学ぶわけも、学力が上がるわけもございません。こんな話が「意図的」ではないことを願っています。
【芦田】私の20年にわたる授業指導の経験からすれば、まさに「放りっぱなし」です。あなたの授業にはレフェランスが不在です。それを「放りっぱなし」と言うのなら言っても良い。「目的意識もなく授業している見たい授業」。その通りだと思います。「見たい」ではありません。
「学力が上がる」というのも「指導要領」「公教育」と言ってるだけなのだから、何をもって「上がる」と言っているのか意味不明。三ヶ月かかるところを一ヶ月で早く終わった、というだけのものです。それもそのあと長々と補習をやるのですから、「早く終わった」ことの意味がない。結局、レフェランスがないのです。授業参観が終わった後の会議で指摘し続けたのは「レフェランスがない」ということでした。レコーダーに残っているとおりです。「意図的」も何も、私はあの事後会議で話したことを(特にあなたではなくて若い将来性のある教員に話したことを)少々整理してお話ししているだけです。何も付け加えていません。
私があなたに具体的に指摘したことがあるとすれば、なぜ一斉に集めて話すときにトークで終わらせるのか、参照資料をなぜ使わない? トークでは徹底しないというものでした。あなたがその時答えたことは(私の記憶の範囲内でのまとめでは)3つある。
1)その時々で生じる問題を指摘するのだから、前もって資料を準備するのは意味のないこと。
2)生徒の理解能力は「脳の発達」(脳差)に依存しており、個々人の履修情況を踏まえたテキストを作るのは不可能。
3)そもそもそんな時間はない。
この三点でした。3点目は上の2つの理由を無効にする認識です。必要だとは思う、ということを言っているのですから。1点目についてはその場でも言った通り、間違い。生徒が授業の中の何で躓くかは、大概の教員は知っています。つるかめ算のできない子は何で躓くのか。いくつかの段階化とモデル化ができるに決まっている。それを前もって知っているから「先」生と言うのです。そしてそれを反映したものを教材(テキスト+サブテキスト+あるいは参考書)というのです。
〈教材〉というのは、長年の「先」生の授業経験の中で、数々の躓きを見てきたその対策集であるわけです。そのもっとも「先」生的な仕事をトークとできあいのドリルで済ますあなたの授業が手抜き授業でないはずがない。
2点目はもはやえせ科学的な認識でしかない(すでにこの問題は指摘しました。何も回答はありませんが)。脳差を個々の授業の個々の生徒の履修情況にまで演繹的、帰納的に還元などできるはずがない。その前に教員の教育脳差を問う方がはるかに「まし」です。
こういったこともすべて、「レコーダー」に残っているはずです。「意図的」なはずがない。一貫してレフェランスの不在による授業法主義の錯誤を指摘しているのです。→「にほんブログ村」
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