(続)「学び合い」小学校教員からの再反論がありました ― 謹んでご紹介します。 2011年02月27日
「 『学び合い』小学校教員からの反論がありました ― 謹んでご紹介します」http://www.ashida.info/blog/2011/02/post_405.html#more の私の記事に対してふたたび当事者の先生から意見を頂きました。ありがたいことです。再度誤解を解きたいと思います。
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1)芦田先生の毎時ごとのリファレンスを明確にした授業とは、西川先生の提唱する「学び合い」の典型的な授業の形態に近いものです。1時間で到達する目標を明確にし、全員の到達を目指すという極めてシンプルで単純な授業です。一斉型の授業では下位の子どもは「どうでもいい」とか「分からなくても黙っているしかない」という授業にしかなりません。それに評価をかけても、到達できない子どもを明確にするだけでそれをフォローすることもままなりません。だから、「家でもっと勉強しろ」だの「塾に行かないとダメ」だのという話になります。
2)私は連続的な学びを維持するために、毎時間ごとの評価の設定を省き、単元での評価を重視しています。指摘された理科の授業では、最初に学習指導要領をもとに、 子どもたちとその単元で何が分かるべきで、どのような道筋で学ぶべきかを20分ほどかけて説明し、子どものまとめの用紙に課題とまとめ方の手順、黒板のホワイドボードには実験の進め方を掲示してあります。この流れで授業が連続的に行われています。ですから部分を切り取ると、何か無目的に学んでいるように見られますし、評価が見えにくいのも当然です。
【芦田】1)+2)合わせて:毎時毎のレフェランスを明確にしろってどこで私が言いましたか? 「単元毎」というまとめ評価は、あくまでも生徒に対する評価。単元の終わりにいたって、生徒評価をしても意味がない。私はそれを「後の祭り」評価と言っている。
生徒評価はいつでも教員の教育力評価。単元の終わりでまとめて行われる評価が存在するときには、つねにすでにその教員の単元教育目標とその結果の生徒の履修情況がイメージできていないといけない。
自らに課した教育目標が順当に達成できているという評価(単元学力評価)ができていなければならない。
では「自らに課した教育目標」の達成評価はどうやって可能になるのか。それは日々の授業進行の成否を問うことの中でしか可能にならない。「学び合い」であれ「一斉授業」であれ教員の課題は同じ。
「成否を問う」とは、自分が単元全体で教えなければならないことと授業進行の現状の中での個々の生徒の履修状況の把握を付き合わせる作業のこと。それが予想通りに進んでいない場合には、授業はコマ内で、あるいはコマ単位に修正を余儀なくさせられる。生徒の予復習ばかりではなく、教員自身の予復習が膨大化する。
特にあなたの「学び合い」では履修進行がまちまちのため一斉テストをするのが難しい。やったとしても評価が難しい。100点が満点とは言えないからだ。「学び合い」サークルの、理解や進度やサジェスションの乱反射によって生徒への履修評価がノイズに満ちたものにならざるをえない。それらを間引かないと生徒たちへの正確な履修評価ができない。一斉授業はその分一斉テストがしやすい。点数が悪ければその分補習をすればいいだけ。
双方に言えるのは、授業コマが進めば進むほど(まとまればまとまるほど)、教育課題が増えて取り返し(修正)が効かなくなるということ。能力の高い教員であれば、3コマ分や4コマ分くらいのミスが重なっても取り返しはできるかも知れないが、既成市販教材とトークしかないあの授業では授業コマが貯まっていくことは致命的だと言える。
それでも、あなたがいい加減なことを言っていられるのは、単元単位の試験(レフェランス)のイメージがないか(抽象的な指導要領が目標だと言っているくらいだから)、あってもそのレベルが低いか、あるいは必ずしも実際の授業テーマ・進行とはそぐわない既成市販業者のテストを行っているか、授業進行に応じた個人相対評価(さらにその上意欲、態度、関心の情意評価が加わった相対評価)しか念頭にないかのいずれか。
いずれにしても、生徒への評価が、担任主義的にクラス内で丸まられているために、評価軸が主観的に過ぎるため、日々の授業の進捗意識がない。生徒への評価が相対主義だということは、教員に教育目標意識(レフェランス)が存在しないというのと同じ。目標意識はあるとすれば授業参加しているかいないか、だけなのである。
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3)なぜ、毎時間ごとの評価を止めてこうした「学び合い」に移行したか? それは毎時ごとの到達では、ぞれからこぼれてしまう子どもが出てしまうこと。また、「子ども」が毎時間全員の到達を達成しようとすれば、どうしてもできる子どもが何とかしようと変な動きをし始めるからです。「ゆるめる学び合い」は「ルーズにする」と「ぱっと見」には非常に似ていますが、決定的に異なります。「ゆるめる学び合い」により、子どもたちはずっと安定して学び続けられます。芦田氏はこれを「子どもの相対的な関わり合い」で個々の評価が見えにくいと言いますが、確かにその通りです。でも毎時ごとの評価など必要などなく、その単元で何がどうできたか、終わりで判断すればよいということです。私たち(私とfuru-tさん)は「二度目のバンジージャンプ」と呼んでいます。これは単元の流れや構成が分かっていないとできないことです。効力は高い反面、ルーズになってしまう危険もあるのでとても怖い学習でもあります。ただ、こうした「学び合い」を全方位でやっているのは、「学び合い」グループでも本校の教員だけだと認識しています。「学び合い」で誰もがやっている授業ではありません。
【芦田】「毎時ごとに」こぼれる生徒、という診断があるのなら、毎時ごとに対策を行う必要がある。それだけのことです。すでにそこで破綻している。この診断と対策を延ばすのは、「こぼれる」生徒にとって、さらに過負担な学習を強いられることになるということです。
「ゆるやか」とあなたが言っているのは目標を下げているだけのこと。真っ先に、できない生徒を見限っているわけです。「できない子はできない子なりに」というものです。
それは、一斉授業で脱落する生徒が放置されるのと内容的には何も変わらない。「学び続ける」ことに意義があるという意欲主義は、その真っ先の見限りを隠すためのもの。そんな見限りを一介の教員がどんな権利でもってやることができるのか。結局のところクラスが平和であればいいというクラス内管理主義なのです。
それを言うと必ず西川もあなたも「よりまし」論になる。それ自体が相対論なわけです。よりダメな奴に向かってよりましと言い続ける。上を目指さず、内に閉じこもる。つまり教員業者論(教員内輪論)です。生徒のことなんかまったく考えていない。あなたたちが「子供は素晴らしい」と言うのは、自分たちの本質的な内輪論を隠すためのこと。くだらない。
私が許せないのは、地方格差が声高に叫ばれる今こそ、地方の公立学校は、地域に依存せず、東京の進学校も含めた全国レベルとは何かをクラス内に持ち込むべきだということです(そのレベルを個々の教員が実現できるかどうかは別にして)。私立学校は上は上で、下は下で固まっています。公立学校こそが、クラスの中に、平均的に上位~下位を反映させるべきなのです。まさに多様性こそが公立学校の存在する意義。公務員とは全国格差を跳ね返すために存在しているのですから。
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4)また、ホワイドボードと「学び合い」のマッチングがよいのが分かります。ホワイドボードの魅力は「すぐ消える」ことです。「すぐ消える」から子どもらは書くことにためらいなく自分の考えを出すことができます。逆に紙に残るものは上位子どもしか書きません。ですから「グループ学習」だと書く人がいつも決まってしまうのです。消えることが前提になっているからこそ、それを再構成して紙に出力できるのです。そのために「オープンクエスチョン」は非常に有効な手段ではあります。オープンクエスチョンを取り入れることで子どもの理解の曖昧さが解消されつつあります。そのために本教室では、壁に掲示してあります。ただ、こうした試みは1か月前からであり、もちろんのこと「学び合い」グループでもそんな実践者はほとんどおられないと思います。 しかし、非常に効果の高いものだと考えています。これからの学習と言えるでしょう。
【芦田】意味不明。
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5)芦田氏のいう「とても容認できない姿」は最近転校して「学び合い」を始めた子どもらです。それでも授業の9割は主体的に学んでいます。保護者と話していて、子どもの急速な成長に驚いています。そして、「家で進んでも自分から勉強するようになった」と言います。とても力のあり、理解力の速い子どもですが、家では「クラスの学習レベルに中々追いついていけない。周りの子の力がすごい。」と言います。もしも、芦田氏のいうような「評価が甘く、いい加減に学習している」ならこんな話にはならないことでしょう。
6)「学び合い」を保護者の方も寛容に見てくれる(毎時間きちんと教えない)のは、子ども学習の向き方が変わるのが見えるからです。家庭での学習の取り組み方、家庭で授業のことを話す時間が変わるからです。最初は保護者も否定的です。そして「うちの子どもには合うかどうか心配」と言います。しかし、それは次第に変わっていきます。
【芦田】5)+6)合わせて:「とても容認できない姿」なんて言葉は使っていない(笑)。あなたが致命的に間違っているのは、「主体的に学んでいます」と主体的な(意欲的な)学びをいつも強調することです。それなら断言してもいい、「9割」どころか、生徒たちはみんな主体的で意欲的に取り組んでいました。間違いない。
しかしわかっていなかった、と言っているのです。つるかめ算をわかっていない生徒が少なからずいたということです。しかもあなたはその子供を授業内で発見できずに終わっていた。だから私の発言を「転校生」の問題にすり替えているのです。あなたの授業指標は学び合い参加度しかない。参加度と理解度は何の関係もない。それは社会体育的なファシリテーションの指標に留まるものです。
もちろん〈意欲があること〉と〈理解していること〉とは何の関係もありません。バカほど意欲的であることも良く眼にすることです。おとなしかったり、コミュニケーションが苦手な子、引きこもりの子供=低学力ではないからです。それは人と話すのが得意な営業マンが必ずしも頭がいいとは言えないのと同じこと。オレオレ詐欺などは、何千万円、何億円と元手なしにお金を集めるくらいに他者と「仲良くなる」能力を有していますが、学力があるとは言えないし、西川の言う「人格の完成」とはほど遠いはず。
「家では『クラスの学習レベルに中々追いついていけない。周りの子の力がすごい。』」と言います」。そんなこと関係ない。「周りの子の力がすごい」ってどうやってできない子が判断できるの? その子供がそう思っていることは正しいというだけのこと。まさに社会体育的なアンケート主義です。こんなに話(レフェランスとは何かという)を詰めてきているにもかかわらず、ここで生徒と保護者の発言を当てにする。それがあなたが教育指標をもててない証拠なのです。こういうアンケート村意識が学び合い教育をダメにしている。
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7)芦田氏に西川先生の提唱する基本的な「学び合い」から、少しかけ離れた授業をみせることを大変迷いましたが、お見せすることにしました。西川先生の提唱するそのものの姿を見せた方がよいのではないかとも思いましたが、これまでどんな人に授業を見せてもデメリットになった試しはありません。芦田先生から指摘していただいた話は、子どもたちに全て伝え、要点をまとめて教室に貼ってあります。子どもたちの学習が「甘いな」と思うときには、「芦田先生のアドバイス」をちょっと読んでみて!と話します。
【芦田】あなたがわかっていないことを生徒がわかるはずがない(笑)。そんなものを貼るくらいなら、全国の3年生の上位から下位までの中で、自分たちのあのつるかめ算能力がどれくらいなのかを、〈隣の仲間〉と〈クラス〉と〈学年〉と〈学校〉と〈地域〉と〈保護者〉の能力を超えて教えてやるのが一条校の教員資格を有した教員の使命。
8)これらもちろん私の授業の甘さも同じです。ただこんなものはどんどん改善していけばいい。まさに「食っちゃう」です。指摘していただいた内容はまさに宝、だから「ごちそうさま」なのです。でも、私は「学び合い」でしか子どもは真に救えないと思っています。その話はまたの機会に。
【芦田】基本的な考え方がわかっていないのに、食えるはずがない(苦笑)。→「にほんブログ村」
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