「『学び合い』教育の諸問題」を読んで ― 元中学校教員からのメールが届きました。 2011年02月19日
「学び合い」教育の諸問題(1) ― 上越教育大学・西川純とのやりとりを通じて思ったこと(2011年02月17日)http://www.ashida.info/blog/2011/02/post_403.html#more、「学び合い」教育の諸問題(2) ― 上越教育大学・西川純とのやりとりを通じて思ったこと(2011年02月18日)http://www.ashida.info/blog/2011/02/_2.html#moreの二つの記事に、今日感想を寄せてくれた元中学校教員がいます。関連固有名を伏せて、原文のまま、掲載します。
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芦田様
私は、10年前まで(福島県の)中学校の教員をしておりました。
芦田さんの教育に関する話題、私にはかなり高度な内容ではありますが、自分なりにかみくだいて理解し、大変興味深く読ませていただいております。
私は16年間、中学校の音楽教師をしていたのですが、教育改革に対して、いろいろな思いを抱き退職するに至りました。一番大きな問題は、私が思う学校教育、教師のあるべき姿と、文部省が求めるもの、あるいは教育委員会や校長から押し付けられる教育目標やら教育課程というものに大きなギャップを感じ、教師を続けていく自信を失ったという感じでした。
現場の一教員が問題に感じ騒いだところで、何も始まらない。「生徒たちがわかってくれれば、それでいい」という思いで、しばらくはやっておりましたが、それは私自身の自己満足に過ぎないのではないか・・・と思うようになりました。
その頃の自分の悶々とした思いが、芦田さんのブログを読むことで、非常にクリアになってきたので、こうしてお礼を申し上げたく、メールさせていただきました。
当時、現場では「個性を生かす」という言葉が流行し、各学校の現職教育の研究課題には、必ず「個を生かす」「自主的に」「生きる力」というような単語が盛り込まれた時代の走りです。
教育評価には「絶対評価を加味した相対評価」が始まり、「意欲・関心・態度」という項目が第一主義となった時です。音楽で言えば、ちょっとくらい音痴でも一生懸命、口を開けて大きい声で歌う、それによってみんなとのハーモニーを崩しても「意欲が高い」という点で、評価が高くなる。
学年で一、二を争う生徒が期末テストで満点をとっても、歌うことに抵抗があってほとんど口があいてなければ評価が下がる・・・などという評価をしていた覚えがあります。
もっとも、私はちょっとくらい調子っぱずれでも元気に歌う子、主要五教科で点数が取れなくても、自分が開放できて表現できる生徒はとても重要だと思っています。(笑)
そして、中学校教育の現場に「総合学習」というものが始まりました。グループによる課題追求学習が主流で、現場の先生方は非常に苦痛な時間でもありました。
あくまでも生徒の自主性を重んじ、グループで課題を設定し解決させる・・・・そして学習発表会では、その発表を行う。
子供たちの楽しい文化祭は形を変え、合唱祭と総合学習のグループ発表会が主流となりました。
「生きる力」を身につけさせるための進路指導。これも将来の目標をさだめて、それを実現させるためには、どんな学校へ進み、その職業に就けるようにするか・・・という指導に変更されました。そこで「職場体験」というものが流行りはじめたのです。
そこで、私は多くの疑問を抱き、職員会議等で議論をしましたが、現場での意見というのは校長止まり、何も解決には至りませんでした。
1)「個を生かす」というのは、教師の指導力がなければ、わがままを許すという危険性を伴うこと→学級崩壊がその見本
2)「意欲・関心・態度」を重視するという点において、教師の主観でしかない評価は ある意味、パワハラにも匹敵するということ→中には「通知票」「内申書」という言葉を手段に生徒を脅すような教師も存在しました。
そのような教師はそれでしか生徒を押さえつけられないという側面もあります。また、表面的な意欲や態度を評価することが先で、本来到達すべき学習目標の技能や知識というものが正しく評価されない、極論すれば、評価しなくても済んでしまう弊害が出てくると感じました。
3)評価が五段階から三段階になったり、あるいは評価項目に○しかつけない。生徒ひとりひとりの定着度や伸びた点を評価するというが理想論でしかない。私が教師だった時代、音楽の先生で全ての生徒に3をつけて話題になった方がいます。自分は評価できない・・・・と。教師自身がきちんとした専門的な知識、技能とそれを指導する力、そして大事なのは生徒一人一人をきちんと「見る目」を持っていなければ、自信をもって評価することができない。上から点数順に並べて%で評価していくことの問題点はもちろん多々あるけれども、それがなければ評価できない教師も多数いる。
4)「総合学習」は生徒指導の時間・・・グループ学習に加われない生徒、離脱する生徒を押さえるために目を配ることに全力を使わざるを得ない。ひどい教師は、見て見ぬふり→教師の手抜きグループ学習しているようで、実はできる生徒、二、三人で調べ学習。何もしていない生徒すらいる。
5)「総合学習」のグループ学習により、仲間はずれ、いじめ等の問題も多く発生する。そもそも生徒をグルーピングするのも自主的って・・・絶対無理に決まってる!(と当時嘆きました・・・泣)。そこにはきちんとした導くべき教師自らの目標と専門性、指導力がなければ成立しない! 自主性を重んじ、課題設定も多岐に渡れば一人の教師で対応できるわけがない。
6)自分がなりたい職業を考えて高校を選択する→『今からなりたい仕事なんか決められないよ』って何度言われたことか。『かえって夢がなくなるよ~』と。なりたい仕事に就くだけが人生の全てではないよな・・・と、自分自身も思っていました(笑)
7)通知表の所見には決してマイナス面を書かない。記載するのは「良いところ」だけ。結局、褒める言葉しか形として残さない。マイナス面って、教師がきちんと見て自信がなければ書けない。プラスな面というのは何でも書けるから、ある意味、楽です(笑)。わが子を褒められて喜ばない親はいない。
数え上げたらキリがありませんが、いつもこんな問題や不安を感じながら当時教師生活を送っておりました。私が退職した後、モンスターペアレンツやらゆとり世代やら、学校教育での問題が社会問題となり度々ニュースで取り上げられるようになりました。
これだけ、生徒に迎合する教育改革が進めば親が強くなり自分勝手なことを言うようになるに決まってますよ。「個を生かす」=親のわがままも許すってことにもなりますから。「ゆとり世代」なんて、文部省が強いてきた教育改革によって生まれたことなのに、さも子供たちが悪いような社会現象。子供たちは犠牲者です!! 「ゆとり世代」という言葉自体、許せない!!
私の娘二人は、まさしくこの「ゆとり世代」。ニュースでこの言葉を耳にするたび、「私たちが悪いわけじゃないのに」って憤慨します。(笑)
なんて、教師を辞めた私が息巻いても仕方ないですね。すみません。教師を辞めてしまったことに悔いはありませんが、芦田先生のように、大声をあげて問題点を指摘し、文部省まで届くように発言ができる方がいらっしゃることに、感動すらおぼえるのです。当時、一教員の戯言でしかないといじけていた自分。結局は何もできなかっただけ、というか、その力がなかった。
退職後もスクールカウンセラーの資格を取ろうかとも思いましたが、現状、生きることに必死になってしまい、夢のまた夢となってしまいました。
どうか、「ゆとり世代」などと批判される子供たちが、これ以上、生まれないよう文部省が教育改革を進めれが進めるほど、学校教育の現場が荒廃していくようなことにならないよう、どんどん発信していってください。
先生のご活躍、とても楽しみにしております。
先生の教育に関する話題を拝見し、つい当時のことを思い出し、くだらないメールを差し上げましたこと、お許しください。長々と稚拙な文章を読んでくださり、本当にありがとうございました。→「にほんブログ村」
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