「学び合い」教育の諸問題(1) ― 上越教育大学・西川純とのやりとりを通じて思ったこと 2011年02月17日
【「学び合い」教育の諸問題(1)】この教育「実践」を行う教員たちは「子供の潜在的能力」や「子供の可能性」に期待する教員が多いが、学校教育「以前」、教員の教育「以前」、教室授業「以前」の子供の「潜在的能力」、「可能性」とは、結局のところ家族の環境や地域の環境に色濃く影響を受けたものでしかない。
【「学び合い」教育の諸問題(2)】その意味で、抽象的な「子供の潜在的能力」や「子供の可能性」一般などというものは存在しない。「純粋な子供」というのも低俗なロマン主義でしかない。「かわいい」少女もまたただ単に大人が喜びそうな表情、仕草、トークとは何かを心得ている「ませた」少女に過ぎない。まあ、その意味では〈少女〉は男の子よりはるかにませてはいるが。
【「学び合い」教育の諸問題(3)】学校「以前」、教員「指導」以前の素質や潜在的可能性に依存する分、この教育にこだわる教員たちは、いつも「子供は100人いれば、みんなそれぞれの個性や可能性を持っている」と言うことになる。当たり前のことだ。親や育った環境が違えば、子供の諸傾向はばらばらに決まっている。「子供」の「素質」と言いながら、「それぞれ」と言うのだから、教育以前の“個体”のことを言ってるに過ぎない。
【「学び合い」教育の諸問題(4)】家族の環境や地域の環境に影響された子供の存在を肯定してしまうと、階層を再生産することになる。家族の環境や地域の環境とは、階層構造そのものだからだ。最近の研究者の報告では、子供の大学進学率は母親の学歴に依存するというものもある。
【「学び合い」教育の諸問題(5)】貧乏人は金持ちとは一緒に住まないし、金持ちも貧乏人とは一緒に住まない(階層や階級は厳密には経済的条件と直接には一致しないが)。住まないばかりか交流も限られてくる。自ずと立ち居振る舞いも「それなり」のものになる。
【「学び合い」教育の諸問題(6)】学校教育「以前」の「子供の潜在的能力」や「子供の可能性」は、フィッシュキンが指摘したように「家族の自律性(親の子供への教育権)」と相関しているが、その分、階層格差を再認する構造でしかない。
【「学び合い」教育の諸問題(7)】その意味で言えば、近代的な学校教育(福沢諭吉が明治四年に『学問のすすめ』で高らかに宣言したような「国民皆学」のメリトクラシー)は、子供は「家族の子供」ではなくて、「社会の子供」という立場に立っている。イスラエルのキブツもそうだし、ついでに言えば「母子手当」の民主党もそうだ。
【「学び合い」教育の諸問題(8)】それは、出自(生まれ育った環境)と関係なく、子供に等しく同等な教育を受けさせるということ。福沢諭吉が言ったように、貴賤や貧富の差は、学ぶか、学ばないかの差によって決定されるできものあって、階級的な出自に依存すべきではないというもの。
【「学び合い」教育の諸問題(9)】したがって、「学校教育」は出自の“地上性”に反して、いつでも「上から目線」でしかない。「上から目線」だからこそ、「自由平等」なのである。この自由平等の「上から目線」構造を「学び合い教育」論は、「権力的」(西川純・上越教育大学)と言う。
【「学び合い」教育の諸問題(10)】“地上”に降りれば降りるほど、「それなり」教育にしかならない。教育目標は相対化し、「上から」の一般目標は、「自主性」、「協調性」、「個性」、「人間性」、あるいは「コミュニケーション能力」といったハイパーメリトクラシー教育目標に限りなく近づく。目標も評価も曖昧なテーマ群である。
【「学び合い」教育の諸問題(11)】ハイパーメリトクラシー教育の諸徴表の特長はただ一つ。家族や地域の環境、つまり個々人が育った環境(=パーソナリティー)に色濃く影響を受けるというものだ。この点でも学び合い教育の学校教育「以前」、教員指導「以前」の「子供の可能性」論と軌を一にしている。
【「学び合い」教育の諸問題(12)】「学び合い」教育が成功している事例があるとすれば、かぎりなく家族や地域の可能性、つまり子供の個性に乗っかった実績でしかない。〈個性〉とは、この場合、〈階層〉=〈家族〉性、〈地域〉性のことでしかない。
【「学び合い」教育の諸問題(13)】1980年代後半中曽根臨調の教育路線は「知識」の「詰め込み型」教育から脱却、生徒の〈個性〉や〈自主性〉を引き出すことに力点を置いた教育を、というものだった。教員は教える立場から「学び合い」型のサポーター主義に傾向を変えることになる。
【「学び合い」教育の諸問題(14)】 中曽根臨調答申以降90年代初頭から高校出口の就職指導も偏差値による指導から、生徒の「希望」を重視した進路指導に転換する(後に本田由紀が指摘する「ダブルトラック」格差の温床になるもの)。偏差値序列を中心とした進路指導ではなく、本人の「やる気」を尊重した指導をすべきだということから、法政大学の児美川孝一郎が指摘するように、業者の偏差値テストを校内でやることも減少していく。
【「学び合い」教育の諸問題(15)】それに呼応して、大学の「大綱化」(91年)。個性的で特長ある教育を、ということになる。すべては、学生の〈自己表現〉としての教育に走り始める。選択制(コース制、専攻制)科目主義が一挙に広がり始める。
【「学び合い」教育の諸問題(16)】 大学「大綱化」は、大学全入化に備えての処置だった。試験選抜(学力試験)が不可能になってしまえば、後は、学生の個性を活かすということにしかならないからだ。好きやって(大綱化=規制緩和による大学カリキュラムの自由化によって)、募集減でつぶれたら大学の責任という文科省の大学施策と「学び合い」の生徒の自主性論とは似ている。
【「学び合い」教育の諸問題(17)】そこまで言わないにしても、一定の学力(一定の知的なストック)を想定した教育が不可能になるという自体が大学の「大綱化」施策の事態だ。
【「学び合い」教育の諸問題(18)】学校教育体系の仕上がりが大学全入(バカでも大学に入学できる)になるのだから、小学校の通知表も昔よりもはるかにずさんになってきている。極端なのは「できる」と「よくできる」の二段階。三段階になっても「ふつう」が加わる程度。その評価自体も絶対評価であるべきか相対評価であるべきかと議論されるくらいに評価を嫌う傾向が教員自身に存在している。
【「学び合い」教育の諸問題(19)】〈学校〉の最後としての大学入学が「個性」と「全入」(的な無試験状態、およびそれに近いアドミッション入学)になるのなら、その最初の入り口の初等教育は国語・算数・理科・社会の明確な目標意識をもたなくなる。科目自体も体験型「生活」が加わり始める。俯瞰すればこの動向は家族や地域の解体に呼応した傾向だが、その解体に応じて〈学校〉も解体し始めている。事態はそう単純ではない。
【「学び合い」教育の諸問題(20)】さて、「大綱化」と「大学全入」によって、〈学校〉の出口(大学)が〈学校〉の入り口(小学校)に接続されてハイパーメリトクラシーの「学び合い」教育誕生ということになる。
【「学び合い」教育の諸問題(21)】通知表の二段階評価に満足しない保護者は自己防衛に走るしかない。きちんと「先生が」教えてくれる塾に子供に預けるしかない(最近は「落ちこぼれ」塾がまた「学び合い」教育をやっているものだから格差は広がるばかりなのだが)。全体的に「学び合い」教育が許されたとしても「地域的」=「階層的」に許されているだけのこと。
【「学び合い」教育の諸問題(22)】「しっかりした子供」は、教科書や「課題」に付属した教材、教員のわずかなサジェションで、大概の場合、自習学習できるからこのようなことも可能になる。
【「学び合い」教育の諸問題(23)】では「しっかりした子供」自身は何を学ぶのか? 1)「自分で」学ぶ自主性 2)教えることによって「さらに」しっかりと学ぶことができるということ 3)エリートぶらない協調性やグルーピングのノウハウ、また説明能力etcを学ぶというものだ。
【「学び合い」教育の諸問題(24)】これらは、ぐるっと一周してハイパーメリトクラシーの諸徴表だ。だから「学び合い」教育はキャリア教育、研修屋のワークショップ型教育と大変相性がよい。
【「学び合い」教育の諸問題(25)】このグループウエア教育の特質は何か。一つには教員や講師の専門性(教育的な専門性、内容的な専門性)を要求されることがない。実務家教員が学校の中に入ってくると、一二ヶ月も経たないうちにワークショップ型教育に変節してしまうのはよくあること。学び合い教育が初等教育で導入されやすいのも小学校の国語・算数・理科・社会の、かつ「できの悪い子」教育くらいなら誰でも教えられるという意識が働いている。
【「学び合い」教育の諸問題(26)】たしかに「できの悪い子」たちは、1( 一人の教員)対n個(30人を超えるクラス生徒)の教育よりも、授業で「寝てはいない」。「寝てはいない」どころか「生き生きしている」(西川純)。
【「学び合い」教育の諸問題(27)】「しっかりとした子供」はクラスに何人もいるから、その子供たちが(一人の教員では見落としがちな細部まで)「できの悪い」(授業参加率の悪い)生徒たちを喚起し続けるのである。この喚起(世話)のおかげで「しっかりした子供」も忙しい。教科書の先を自習・予習するヒマもないくらいに忙しい。
【「学び合い」教育の諸問題(28)】場合によっては、対教員に対してよりも、対同級生の指示の方が有効である場合も多く、「しっかりした」子供による指導は効いて、遙かに授業は荒れない。「講義」では寝ているが、グループ実習授業で寝ている学生がいない専門学校や三流の大学と同じ現象だ。
【「学び合い」教育の諸問題(29)】それもあって、1対n個の授業をにわかには制御できない新人教員は、「学び合い」スタイルに飛びつくことになる。生徒が教員に向かってこない分、心理的に楽になるからだ。まさに生徒は生徒に向かい合っているのである。
【「学び合い」教育の諸問題(30)】「運が悪い」のは担任との相性ではなく、グループ内、教室内の生徒との向かい合いの所為になる。この教員たちが“研究”することは生徒からの、教員(専門性)への視線を軽減させることなのである。
【「学び合い」教育の諸問題(31)】それはむしろ学生の自主性を導き出すための積極的な“研究”であるように吹聴される。この教員たちが国語・算数・理科・社会の科目指導法に集中しないのはその部分を「しっかりした子供」が担っているからだ。教員は向かい合わせの技法ばかり(特には「課題」の出し方)を研究することになる。
【「学び合い」教育の諸問題(32)】この教員が教員としてやることは、授業時間に、生徒が教員に直接向かわないようにするための自主学習課題プリント作成。「学び合い」教員にとっての教材とは、国語・算数・理科・社会の教科書記述を補う教材ではなくて、自主学習「課題」作成のこと。
【学び合いの諸課題(33)】「課題」教材さえ作成すれば、授業における生徒の視線は教室内に乱反射するため、先生の責任も拡散する。だから専門性の高い教員は要らない。教員は「わからないことがあれば聞いて」という向かい合いに留まる(私は、これを以前から教員の「徘徊授業」と呼んできた)。そもそもこの教育論では、教員は指導者ではなく、「サポーター」役なのだから、介入は害悪視される。
【「学び合い」教育の諸問題(34)】そんな「乱反射」と「拡散」の象徴的なテーマが(再びぐるっと一周して)ハイパーメリトクラシーである。いわく画一評価はよくない、総合力が本当の能力だ、点数では能力ははかれない、試験は抑圧だなどと言ったもの。最後は心理主義的な満足度評価かパーソナリティー評価で終わる。西川純も教育の目標は「人格の完成」であり、「人格」とは「コミュニケーション能力」のことだと(勝手に)言っているくらいだから、評価そのものを拒否していると言っても良い。
【「学び合い」教育の諸問題(35)】「満足度」評価は、2003年から続いてきた大学教育改革プログラム(特色GP、教育GP)でも花盛り。高等教育の専門段階に入っても受講学生による「満足度」評価によって何十億もの改革補助費が拠出されてきたのだから問題の根は深い。
【「学び合い」教育の諸問題(36)】この「学び合い」教育が一部の教員に熱烈に歓迎されるのは、もしこの乱反射と拡散がないなら、明日からでも教室内で孤立し、まともな授業運営にならないからだ。しかもライン意識のない教員の平等主義によって〈担任〉は学校組織からは孤立している。
【「学び合い」教育の諸問題(37)】〈担任〉に「雑務」が多いのは、学校がライン化されず、すべての教員が基本的に平等に存在しているため。「雑務」が多い分、しかし教員は自由裁量でいられる。要領の良い教員はそれで済むが、全ての教員でそうはいかない。
【「学び合い」教育の諸問題(38)】通常の会社であれば新人研修やライン管理や指示を通じて組織的な訓練がなされるところ、そのような組織的な指導がない分(評価がずさんな通知表は管理職が具体的な指示を出す要素を見出せない)、授業=教室内をまとめることばかりに心を砕く(校長や教育委員会に介入されたくない)。担任主義に特有な裁量評価が前面化する。
【「学び合い」教育の諸問題(39)】その裁量主義的な評価に、「学び合い」の生徒評価、つまりハイパーメリトクラシー評価は大変相性がいい。
【「学び合い」教育の諸問題(40)】その裁量主義とは、事前の評価指標(教育目標)を覆す評価ということだから、この種の「民主的な」学び合い授業の教員こそ、「権力的」(西川純)だと言える。
【「学び合い」教育の諸問題(41)】むしろ、事前の評価指標(教育目標)を持ち出すことを嫌うのが、この「学び合い」教育の傾向。
【「学び合い」教育の諸問題(42)】裁量主義とは、その場に居合わせないとわからない成り行き次第の評価。つまり一切の第三者評価を受け付けない「腹づもり」評価である。だからこの教育の評価は一般的に多段階化しない。あっても並列指標になる。
【「学び合い」教育の諸問題(43)】「腹づもり」評価の合い言葉は「みんなそれなりに頑張った」というもの。生徒は「それなり」に成長したという評価が裁量主義。
【「学び合い」教育の諸問題(44)】裁量主義の特質は、(授業内での)生徒や学生の仕上がりを基本的に否定(批判)しないこと。
【「学び合い」教育の諸問題(45)】なぜか? 教員が「教育」に関与しない分(生徒の「学習」という自主性に依存した分)、その成果を評価する基準は根源的には生徒自身の中にあるという「考え方」が支配しているから。
【「学び合い」教育の諸問題(46)】それを飛び越えて、「教育的」=(西川純的には「権力的」)な基準を、「評価」だと言って(外面的に)持ち出すことは、自主的に学び合ってきた生徒からすれば「何を今さら」ということになる。「先生」は「徘徊」指導してきただけなのだから。
【「学び合い」教育の諸問題(47)】教員からの働きかけが少ないグループ型の教育の場合、評価が裁量評価になるのは、その、(「教育的な」)働きかけが少ないこと自体に原因を持っている。
【「学び合い」教育の諸問題(48)】教員による達成評価を客観的に細かくすればするほど、評価される生徒や学生は、そんな評価を授業の出口で急に持ち出すのだったら、きちんと事前に細かく教えてよ、ということになる。いわゆる「後出しはずるい」というもの。
【「学び合い」教育の諸問題(49)】たとえば、グループ内で一つの作品や課題プログラムを(自主的に)取り組ませて、それを(外側から)最後に評価して「否定的な」評価を行うとどうなるか? 「先生、授業時間中にそれを言ってよ」ということだ。
【「学び合い」教育の諸問題(50)】つまり、「学び合い」型の成果を教員が否定するということは自分の“指導”自体を否定することに他ならない。だから「学び合い」型授業や研修はボトムアップ型授業アンケートか「それなり」評価の裁量主義になってしまう。あるいは「平均点は高い」というものだ。0点から60点の幅の方が伸びしろが大きいのだから、「しっかりした子」のがんばり点が加わってる分、「平均点」が高いのは当たり前。100点(いくら頑張ってもこれ以上伸びない)の生徒と0点(100点分の伸びしろがある)の生徒の「平均点」は50点。「平均点」で教育成績を評価すること自体がふざけた履修評価だということをわかっていない。
【「学び合い」教育の諸問題(51)】つまり、それは結局のところ、教育目標自体が存在しないことに他ならない。西川の場合の教育目標は、「憲法」と「人格の完成」である。これは何でもありの教育目標でしかない。
【「学び合い」教育の諸問題(52)】そして、西川にいまさら「憲法」とは何かと聞くことは野暮だとしても、「人格の完成」とは何かと聞けば、「コミュニケーション」能力のことだと言い始める。結局、これは「学び合い」コミュニケーションそのものを指していることになる。学び合い教育の目標は学び合いコミュニケーションそのものだと言うのだから堂々巡りの議論になる。国語・算数・理科・社会は、手段でしかない。場合によってはそれは教える必要もない内容でしかない。教える必要もない手段、ということは特にそれらの科目の成績が悪くても「コミュニケーション能力」があれば「良い子」ということになる。まるで営業マンのような、あるいはオレオレ詐欺のような子供が「良い子」ということになる。
【「学び合い」教育の諸問題(53)】そのうえ、この「コミュニケーション能力」は人間の「DNA」の中に「組み込まれている」とまで言い始めるのだから(手引き書)、もはや「コミュニケーション能力」=「学び合い」は宗教の域にまで達している。(まだまだ続く)
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