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 明けましておめでとうございます(年賀状・前半) ― 新年からFacebook論 2011年01月07日

あけめしておめでとうございます。

遅まきながらやっと年賀状を書く気分になりました(笑)。ただしまだ前半です。


●mixiばかりではなく、Facebookも終わっている

昨年のメディア界は、Twitter現象に代表されるように「ソーシャル元年」と言われました。

私のSNS(Social Networking Service)体験は、mixiが最初でしたが、Social Networking Serviceとは言いながら、人の交流がそこで活発になるとは思えなかった。

ミクシィ(MIXI)は2ちゃんねるや一般的な掲示板にくらべて、会員制による属人性が高い分、荒れる度合いは格段に減りましたが、結果的には、孤独なBLOGの書き手が、より反応性の高い媒体に移っただけのこと。Facebookもその点では全く変わりありません。

この反応性は囲い込まれた分、生じた反応性であって、決して〈ソーシャル〉と言えるものではなかった。ブログに同じ傾向の人間が集まったように、ミクシィ(MIXI)にも同種の人間が集まっただけだった。

孤独なブログの書き手に比べて、反応性が高くなる分、メールしか打てなかった若者たちも少しは長い文章を書くようになった。それがブログとミクシィ(MIXI)との差異、ミクシィ(MIXI)の意義でした。

強い専門性や趣向性、つまり強い発信力を持たなくてはいけないブログにない会員制の魅力は反応性の有無だったのです。読んでくれる人がいるのなら、書いてもいいかと。

しかし、会員制SNSはミクシィ「村」と言われてもいるように、同種の人間が集まることでしかない。


●長い時間の観察や分析が、人間性を構成している。

同種の人間が集まることは、なぜ〈ソーシャル〉でないのか。それはいつも排除の論理を前提にしている。

なぜ、ブログやミクシィ(MIXI)は排除を含むのか。それは平均性や傾向性を前提にするから。

平均性や傾向性はなぜ生まれるのか。それは反省の時間や観察時間のスパンを長く取る記述の形式を取っているから。

忙しいお昼に手軽なカレーライスを一人で食べて、そこそこ美味しくても、ディナーで彼氏や彼女と素敵なご馳走を食べたら、その日の(終わりの)日記は、ディナーの話になる。

たった1日の出来事でさえ、それを就寝前にまとめようとすると、一番印象に残ったものによって、1日が「まとめられる」。

もともと「まとめる」という行為は、観察や分析の時間スパンを長く取るということだ。

「まとめる」とは、一つの、あるいはいくつかのテーマによって、1日の出来事の凹凸が平均化され、傾向を持った一つの塊として見なすということ。

まとめなければ、安いお昼のカレーライスだって、朝食抜きで昼に至った、その「いま」の食事の感想としては「おいしかった」と言えるはず。その「いま」が、1日の反省(編集)では、消えてしまう。

「人間性」「人格」「個性」「自主性」「性差」などもまた、時間のより長い観察や分析の結果、「まとめられた」ものに過ぎない。

「まとめる」という長い時間の観察・分析は、「人間性」「人格」「個性」「自主性」「性差」、あるいは「メーカーと消費者」などのそれぞれの凸凹を取り去って(つまり昼食のカレーライスの出来事をないものとして)、ひとつの抽象物(物語)を作る上げているわけです。

「性差」でさえ、Twitterの「いま」では男女差が消えてる場合が多いのですから。


●情報を〈人〉で「まとめる」ミクシィ(MIXI)とFacebook

ブログ、ミクシィ(MIXI)、Facebookなどのソーシャル性は、結局、この凸凹を平均化した「人間」を前提しています。人の行動を一人の名前や仕事や趣味を持った「人間」の「行動」、「主体の行動」として前提しているわけです。

ここでの(ブログ、ミクシィ(MIXI)、Facebookなどの)情報は、詳細化すればするほど、「人間」に帰属するものとして表れます。人間性(=名前)が強化されていくわけです。いま、ミクシィ(MIXI)とFacebookとは、この帰属性を強化する度合いを競っているわけです。

しかし、情報を、一個人に帰属させるという意味では、両者は同じもの(にすぎない)。

言い換えれば、人間には色んな断面があるということを、「色んな断面を持つこの人間」というように〈名前〉に帰属させるのが、ミクシィ(MIXI)やFacebookのもつ属人性の特長です。

そこでは、どんなに情報交流を活性化させても、各人の所有物のようにそれらの情報を扱うため、結局、AさんはAさん、BさんはBさんというように人間的人格的に再認されるしかない。これらの情報交流は人格的、社会的差別を再認するためのものでしかない。

だからこそ、ブログ、ミクシィ(MIXI)、Facebookなどのソーシャル性は、ぐるっと一周して同種のものの交流にしかならない。会ってみよう、という気にならない。「なんとなくわかる」からです。そこには「驚き」がない。「他者」がいない。その意味での「広がり」がないわけです。

結局、それは、まとめてしまうからです。そもそも〈名前〉とは、まとめの総称。「ソーシャルグラフ」もまとめです。「グラフ」と言われれば空間的なように見えますが、実はそれらは付き合いの時間の累積です。時間を貯めるというのは、結局は平均化に過ぎない。平均下による同質化と差別に過ぎない。つまり全然「ソーシャル」ではない。


●Twitterはまとめない

Twitterが従来の人間的なソーシャルメディアと異なるのは、情報(つぶやき)を、人という単位にまとめないことです。

たしかに誰のつぶやき?ということを意識しようと思えば意識できますが、タイムラインには〈現在〉という同じ権利でもって「つぶやき」が並列して流れていきます。

人は観察の時間や分析の時間を短くすればするほど共通点が見えてきます。それは物理の加速器の原理に似ています。極小化の度合いは、宇宙の果て(end)の遠さの度合いに相関しているわけです。

人間の観測・分析も身長や顔の大きさで切り取れば、まだなお自他の差は目立ちますが、刻みをどんどん小さくしていけば、共通“部品”度は増大します。現に臓器移植の原理はそうです。個性、自己表現ばやりの昨今ですが「細胞の個性」まで訴える人は細胞学者くらいなわけです。

加速器の性能は物質を小さくすることの性能に相関していますが、観察や分析の単位を小さくすることは、その場合、広がりを大きくすることに繋がっているわけです。Twitterの場合には、それが〈現在〉という時間の単位。

傾向性の最小値を求めるという点で、Twitterに於ける〈現在〉は、人間の時間微分なわけです。

夕食のディナーは、オレは貧乏だし、恋人もいないから関係ない、と言っていた人も、お昼のカレーライスには関心を示すかも知れない。1日の関心の当て方には、その人のライフスタイル、社会性、人格が反映しますが、〈現在〉で切り取れば、接点が出てきます。

Twitterが「いまどうしてる?」で、問おうとしているものは、人間同士の接点の加速性=〈現在〉なわけです。


●Twitterこそ、ソーシャルな属人性と情報の信頼性を構成する

Twitterは、しかし、ある種の人間の微分化、断片化によって属人性を拒否しているのではありません。むしろ属人度を、ミクシィ(MIXI)やFacebookよりも高めているのです。

つぶやきによる微分によって接点を拡大するということこそが、人への関心の窓口が広がることになるからです。

しかもそれは、趣味や専門性や社会性という丸められた接点ではなくて、〈現在〉に定位している。〈現在〉というのは、〈身体〉=〈行為〉の場処でもある。それは、ウソが一番少ない単位なわけです。

1日や一ヶ月をまとめて記述すれば、ウソはあるかも知れない。あるいは学者の長い論文も、数々の剽窃の結果でもある。長い時間は、〈テーマ〉を形成してしまうため、書き手のウソ意識と関係なく、個々の出来事の記述は丸まってしまうわけです。それが〈反省〉という形式です。

しかし、「いまどうしてる?」という問い-応答には、長い時間の記述にみられる信憑性評価ほどの神経質な対応は求められることはない。それは〈現在〉が等しく人間に共有されているため、時間が検証装置そのものになっているためです。

「いまどうしてる?」ということについて、嘘などついてもしようがない。次にいまと違う何をしてもいいのと同じように、「いま」はそれ自身を裏切るからです。「いま」は過ぎ去ることによって、それ自身が否定にさらされているために、わざわざ嘘をつく必要がない。いわばそれ自体がウソであるからです。

結局ツイートによって表明されているのは、個々の発言の真否と言うよりは、〈時間〉なのです。

「いまどうしてる?」と聞かれて答えるのだから、その場に居合わせないとすぐに陳腐になってしまうような応答の連続がツイート。つまり人々は〈内容〉を追っていると言うよりは〈時間〉を追っているわけです。

時間に影響されない格言めいたことをツイートしたとしても、それは、その時の(いまの)気分でそう思っただけのこと。長い瞑想の結果の格言ではない。ただその時そう思ったという点では“正しい”。


●現在という時間性こそが、信頼性の源泉

そんな気まぐれなツイートになぜ人々が価値を認めるのか。それは、〈現在〉というのが同時に、出力(発信)したり、受容(受信)したりする人間の身体の同伴を伴っているからです。

Facebookのような警察の身上調書のように情報を囲まなくても、ツイートは内容よりも時間を刻んでいる。時間を刻むということは、行動=身体の位置を刻んでいるのと同じ。これほど信憑性のある身上調書はない。

現在の〈そこ〉に書き手・読み手がいるという身体感覚が、情報内容の精査指標以上に、信頼性の基盤をなしているわけです。

「ばか」とか「アホ」といった感情的な言葉の応酬が生じがちなのも、入出力に時間差が生じるメディアではなかなかありえない。時間差はそのまま冷静を要求する。というよりも、「冷静」とは、入出力の間に時間を貯めることなのです。

感情的か、理性的かは、あれこれの人間の素性の問題ではなく、時間性に属する問題であって、入出力の時間差=反省の時間性(反省の時間化度)であったわけです。

入出力の時間差度はそのまま専門性の度と相関します。「大学教授」などと言われる人ほど、仕込んだネタを長い時間にわたって精査し、時には何十年にもわたって精査し、最後に〈論文〉として出力する。その滞留がTwitterのタイムラインにはない。

こういった滞留性は、大概の場合、ウソをつく場処でもあったわけです。そもそも滞留性の一番長い大学教授=専門家ほど、一番大切な資料や他者の研究は、自分の論文には書かないのですから。

つまり、時間差のあるinputとoutputの情報は、信憑性評価が難しい。インターネットで検索によって得られる情報はすべて、この時間差情報であって、したがって、検索の真の活用は一部の専門家に限られていたのです。

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投稿者 : ashida1670  /  この記事の訪問者数 :
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