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 【第二版】女性とは何か ― 女性にとって男性とは何か 2010年10月12日

以下の30講は、昨晩22:47:20から深夜の00:03:12まで約1時間20分にわたって(twitter上に)連続ツイートした内容です(http://ow.ly/2RGK2)。ひょんなことから、女性論の話になり、ちょっと本格的に、女性という性はどんな性なのか、男性とどこが違うのかを論じてみたくなりました。もちろん突然の主題でしたので、充分な準備をしていません(私の議論はほとんどフロイト論です)。しかも書き殴り(笑)。言い過ぎているところは読者の知性で修正しながら読んでみて下さい。※なお、この記事は最初にツイートした文言を、わかりやすさを配慮してかなり修正しています。

【女性について(1)】〈女性〉とは、最初に愛し愛された人間が〈同性〉である者のことを言う。反対に〈男性〉とは、最初に愛し愛された人間が〈異性〉であるもののことを言う。

【女性について(2)】この場合、〈同性〉も〈異性〉も、大概は、〈母親(女性)〉のことを指している。従って、男性は思春期の異性イメージの原型を〈母親〉再生するだけでよい。が、女性は、そう単純にいかない。最初に愛し・愛された者が「同性である」女性だからだ。

【女性について(3)】しかし、これは“定義”にはならない。というのも、同性か異性かがわかっているのであれば、最初から、女性とは、男性とは、と問い返す必要などないだろうから。同性である、異性である、というのは、まだこれからその性が何であるかの問いの答えを先取しているわけだ。だから、これは性器的な差異などを先取しながら形成される構造的な規制、あるいはクリプキ的な共同体の規制と考えるしかない。つまり同性/異性という概念、あるいは男/女という概念は、論理的にではなく、つねにすでにア・プリオリだということだ。経験的・学習的に作られると言っても、作る・作られる作為が、個人的な作為にとどまるものではない以上(個人的に作為しても、対他的には単に〈異常〉と思われるだけ)、同性/異性、男/女という対はいつも循環的な“定義”に陥らざるを得ない。ここでの同性、異性は、対他・対自的にそう思われている〈同性〉、〈異性〉という概念にすぎない。「すぎない」というのは、経験的には乗り越え不能な無力という意味で。

【女性について(4)】さて、その女性は〈同性である母親〉から〈異性である父親〉への移行を通じてしか異性原型が出来ない。同性への愛は基本的には(=対他、対自的には)禁じられているからだ。

【女性について(5)】女性にはもう一つの移行がある。それはクリトリスからヴァギナへの移行。乳幼児期に、女性もまた無意識も含めてクリトリスを刺激してオナニーを行うが、これを思春期に反復する(男子は言うまでもない)。しかし女性の特有性はヴァギナ快感(男性と異なる過剰な性感)。クリトリスからヴァギナへの移行が存在するこの移行性も女性の〈性〉を特長付けている。

【女性について(6)】女性には男性には存在しない過剰な性感が存在している。この意味でも、思春期以降の男性には乳児期の性感の単純で単調な反復しか存在しないが、女性はヴァギナ快感を(ある意味で)一から学ばなくてはならない。乳幼児期にもない経験を新たに経る必要が生じる。

【女性について(7)】このクリトリスからヴァギナへの移行は、基本的に、愛し愛される男性との邂逅以外には達成されることはない。これに失敗するとセックス体験(=挿入体験)は豊富であるにもかかわらず、死ぬまでクリトリス派にとどまる。

【女性について(8)】「処女性」をめぐる諸問題(「最初の男性が大切」などと言われたりする)、は、このクリトリス反復の問題に関わっている。「クリトリスでしか感じない」という問題は、性感について男性の関与を認めないのと同じか、かえって「男性との性交は鬱陶しい」ということになる。つまり男性がペニス快感を女性の身体を道具化する仕方で実現するのと同じようにしか、女〈性〉もまた自らの身体を外面的にしか受容できないのと相似している。つまりその女性は男性的なのだ。

【女性について(9)】女性が、1)母親から父親へ移行すること 2)クリトリスからヴァギナへと快感を並存させつつ移行させること。この二重の移行は男性にはない危うい綱渡りである。というか、移行はいつでも危うい。この危うい移行の〈性〉を〈女性〉と言う。〈男性〉は精神としても肉体(快感)としても単純で安定しており、乳幼児期を反復すれば性的には大人になれる。つまり自分が誰(どんな異性)を愛すべきなのかの〈像(異性像)〉が出来あがっている。

【女性について(10)】〈男性〉が遊ぶ性(遊びうる性)である理由は簡単だ。本命(母親原型)がいつでもあるからである。どんな女性が好きなのかが出来上がっているからだ。だから容易に順番も付けられる。だから遊ぶことが「できる」。が、女性はどこからが遊びか本命かわからない。異性原型が明確ではないからだ。母親(同性)には戻れないからだ。

【女性について(11)】言い換えれば、女性は愛されて受動的に男性を確かめるということだ。「確かめる」というよりは、女性は、性愛(過剰な性愛としてのヴァギナ性愛)を思春期以降はじめて学ぶのである。愛される度合いに応じて男性像を形成していくという、性愛の学習過程が女性の性愛の特質をなしている。


【女性について(12)】同じ〈もてる〉という言葉を使っても女性と男性では意味が全く異なる。男性はもててもしようがない。嫌いな(好みの合わない)者は「美しい」女性であっても「評判の良い」女性であっても嫌いだからだ。男性が女性を口説くことはあっても、女性が男性を口説くことはなかなか難しい。女性が口説くことに成功しても、大概はむしろ遊ばれているだけのこと。口説く〈性〉は、異性原型が存在する男性に特有な現象にすぎない。「女だって選ぶわよ」というのは、その女性が選ばれた後に存在する文句に過ぎない。つまり偶然のことなのだ。

【女性について(13)】逆に女性は、愛されることを通じて〈男性像〉を作り上げていく。だから「最初の」男性に遊ばれてしまうと、不幸なことが連続することになる。愛し愛される〈男性像〉が像を結んでいかないからだ。恋愛を重ねる度に、自分がどんな男性と合っているのかがわからなくなっていく。誰が本気で自分を愛してくれているのかがわからなくなっていく。

【女性について(14)】逆に言えば、浮気しやすい男性は(大概の場合)原初の母親に傷ついている(愛されていない)母子関係不全の男性だとも言える。彼は浮気し続けること(心なく口説き続ける)によって、女性がいかにいい加減な者(いかに騙される性)であるかを確証し続けている訳だ。そうあってくれないと、自分が母親に捨てられた意味を受け入れることができないからだ。

【女性について(15)】ところで、(先に触れた)女性の性的な二重の移行性(母親→父親、クリトリス→ヴァギナ)は、基本的には、女性は、男性よりも愛すべき異性像が広いことを意味している。男性のように異性像が狭くはない。異性原型が二重の移行によって不安定で曖昧化されている分、“男性次第”の要素が相対的に大きくなっている。

【女性について(16)】その分、愛されることによって、選ばれた男性に「染まる」度合いが高い。それ故にこそ、男性に「遊ばれること」は、危険この上ないことになる。女性は、異性イメージが曖昧な分、遊べない性だから(逆にすべては遊びだと言っても良い)。交際をしながら(経験的に)、自らの異性像(=性愛)を確かめ続けている女性なのだから。男性では異性原型が強い分、そういう“試行”は、そう多くはない。男性は(その意味では)結局のところ、遊べない性なのだ。

【女性について(17)】従って、女性が〈性〉として幸せになるということは危うい綱渡りだ。まずは受動の〈性〉だということ。愛されることによってしか自分の〈性〉を精神(男性像)としても肉体(ヴァギナ快感)としても引き受けることが出来ない。

【女性について(18)】しかし自分が本当に愛されているのかどうか、女性にはその基準そのものがない。しかも遊ぶのが上手な男性ほど、自分はうぶだ、純粋だということを前面化して近づいてくる場合も多い。騙されやすいということそのものが性愛の原理になっているのが女性。騙されやすいということと柔軟性の像とが区別できないからだ。


【女性について(19)】大概の娘の父親が、娘の「連れてくる」男性を拒否するのは、このことと関わっている。「本当にあの男でいいのか」という父親の疑惑は、女性に「本当(の男)」など本質的に存在していないという確信の裏面でしかない。

【女性について(20)】だから、男性が女性を囲いたがるのは、女性の背後に他者(他の男性への柔軟性)を感じているから。女性の男性像が不安定だから。それが異性愛のダイナミクスを産んでいる。そして文学や芸術をも。

【女性について(21)】したがって、女性が恋愛をして、「私が選んだ人」というふうに主体転換し、無事(とりあえず)結婚へ至るということが、どんなに危うい偶然の上になり立っているか、ここに思いをはせない恋愛論はありえない。

【女性について(22)】男性は(極論を言えば)「好き、好き、好き」を押し通せばいいだけのことなのだから。女性が「好き、好き、好き」と押せば、男性は腰を引くばかりだ。

【女性について(23)】つまり、恋愛は、n個の主体(=個人の自由)による意志と能力によってなされるものではない。恋愛は、特に女性にとって〈出会い〉でしかない。〈恋愛〉ほど反近代的なものはない。だから主体性が強化されればされるほど、女性は恋愛から疎外される。少子化現象も、主体主義・自立主義的な近代化のなれの果てかも知れない。

【女性について(24)】男女交流が新しいメディアによって活発化すればするほど、むしろ不遇な出会いは増えている。ソーシャルメディアは、「好き、好き、好き」と言う男性のインフレーションにすぎないのだから。その被害者女性のたまり場が深夜のツイート女性たちだと言ってもいいかもしれない。

【女性について(25)】もしも男女平等を訴えるフェミニズムが存在しうるとすれば、こういった(あれこれの)意志と能力をこえた〈出会い〉によってしか自分の異性像と身体とを受け入れられない女性の特有な水準を、社会、そして男性が気に留めていない場合のことだろう。フェミニズムで“得をする”のは結局、男(あるいは経営者)なのだ。

【女性について(26)】男性は努力や能力で差別されるが、その差別は「主体的な」努力や能力が根拠であることによって、不本意なものもあるにせよまだ納得できる要素が強い。しかし女性の恋愛=家族形成は、全く主体的ではない。ここに家族という“社会”の固有な水準がある。家族はその意味では〈社会〉でも〈組織〉でもない。不合理そのものだ。そもそも親(先行する原因)が存在すること自体が近代的な〈主体〉の蹉跌であるのだから、その始原である〈恋愛〉が、女性が主体的・自立的に生きることの蹉跌であることはそうおかしなことではない。

【女性について(27)】主体的な能力や努力の女性とは、化粧をしたり、着飾ったり、知性を身に付けたり、キャリアを持つ女性ということであるが、そんなの大きらーい、という男性はいくらでもいる。「自然な方がいい」と言われて自然に振る舞うのも不自然だ。女性からすると、いったいどうすればいいの、ということになる。男の社会的なプレゼンスは、女性を引きつける力と相関しているが、女性の社会的な“出世”には、男を性として引きつける力はない。

【女性について(28)】男性の主体的な努力はそのまま社会的なパワーに繋がり、着飾ることなく、女性を選ぶパワーに繋がっている。社会的な成功と男性としての成功とはほぼ重なっているのだ。この落差は、社会運動では「改革」できない。

【女性について(29)】つまり女性の社会進出という問題は、性としての女性の問題ではない。その意味でなら、女性はむしろ社会の起源であって、それ自体は社会的ではない。家族は、偶然に成立した社会であるし、女性という〈性〉もまた偶然に(経験=学習によって)成立した〈性〉なのである。偶然に依存するからこそ、女性は「弱い」性なのである。

【女性について(30)】女性の本来の“理想”があるとすれば、男性なし(=恋愛なし)で子供を作ることができ、男性なしで“家庭”を築くことができるということかもしれない。その意味でこそ、男性は優しくなくてはいけない。女性を大切にしなくてはならない。様々な意味を込めて、私は、そう言うしかない。


※再補論はこちら→http://www.ashida.info/blog/2010/10/post_398.html

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投稿者 : ashida1670  /  この記事の訪問者数 :
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感想欄

先生、すいませんが・・・・。
分かったようで分からないです。

自分の考えを正確に書くと記述が難しくなるのは当然だと思いますが、もう少し何とかなりませんか?

面白そうな内容で、理解したいと思ってます。
暇な時に同じ内容を超入門編で再入力お願いできますでしょうか?
お願いします。

投稿者 kgt : 2010年11月02日 23:43

女なんだけど、面白かった。

仕事ができる女性になんてなれるのかなって
ずっと思っていた。

フェミニズムも聞いてるとまだまだじぶんの知らない、
性の世界があるんだなとおもう。(まだあまり分からない)

女はせつないです。
強くもなれず、弱くもなれない。

投稿者 なおみ : 2010年11月06日 13:56
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