キャズムマーケティングからの脱却 ― Twitter「タイムライン」こそが真の「ソーシャルメディア」 2010年03月20日
本日ACフォーラム「ソーシャルメディア時代のコミュニケーション戦略」(http://ac-f.net/)の第10セッション「政治活動におけるtwitter活用」で司会を務めます。以下が日経BPムックに送った私の記事原稿です。
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●キャズムマーケティングからの脱却 ― Twitter「タイムライン」こそが真の「ソーシャルメディア」
従来型のマーケティングは、セグメント主義や差別化戦略によってマーケットの本来のパワーや豊穣性を取り逃がしていた。
「キャズム越え」の前提は、商品の作り手のコンセプトや思惑と消費者受容との間にわざわざ境界(=キャズム)を作って、そこをどう突破するのかという人工的な難問(しかもほとんどまともな答えが出ない難問)を突きつけていたことである。
キャズム的マーケット認識がセグメント主義や差別化戦略の迷妄を形成している。Twitterマーケティングはそれを突破してマーケットそのものの活力を全体的に反映する方法を提供する。
Twitter「タイムライン」は、情報の入出力が時間スパンの一番短い現在において起こる。
人間を短い時間で切り取れば切り取るほど一人の人間と他の人間との心理的差異は縮小する。
性差、地域性、人格、主体性、才能、社会性、階級、民族、そして消費者「ニーズ」「シーズ」などの人間にまつわる差異や傾向は、実は観察や反省の時間スパンを長くとることの結果であって、瞬間瞬間で、つまり「いま」で人間を切り取れば、それらの差異は解消する。
人間には「色々な人間がいる」とよく言われる。「色々な人間」の中には「明るい」人間がいたり、「暗い」人間がいたり、「賢い」人間がいたり、「バカな」人間もいるというように。
しかしいつでもどこでも、そしてどこまでも「明るい人間」なんていない。「明るい」人間だって「暗い」ときもある。「暗い」人間だって「明るい」時もある。
だとすると、「色々な人間」という言い方は何を意味しているのか。「明るい人間」とは何を意味しているのか。
それは一人の人間を全体的に見回したり、気分的な平均値で観察したこと、あるいはそれらを自覚的に反省したことの結果に過ぎない。つまり比較的長い時間でその人間の気分を把捉した結果に過ぎない。
しかし「いま」の気分は? と聞けば、「明るい」「暗い」に一切の傾向はなくなる。「明るい人間」、「暗い人間」というようには人間を差別化したり、実体化できない。
「暗さ」も「明るさ」も属人的な所属を失ってタイムラインの中に分散することになる。それらは属人的な所属性なしにタイムライン上で共振し始めるのである。
あんなに普段「明るい」人も、こんなに「暗い」面があるんだと思わせるのが「タイムライン」上の「つぶやき」。
そうやって、「明るい人」は「暗い人」との接点を獲得する。これは心理学的なタイプ論、あるいはモデル論を超えている。タイプ論もモデル論も長い時間の分類にすぎないからだ。
積分的な傾向性議論(キャズムマーケティング的な対比主義)を超えた「タイムライン」の微分共振性を最大限に発揮させることがTwitterマーケティングの新次元だと言える。
もはや、ブログ、SNS、RSS、2ちゃんなど〈更新〉概念が付帯するメディア、そして〈検索〉による積分データ処理の時代ではない。
〈更新〉も〈検索〉もソーシャルメディアの本来のツールではない。「ソーシャル」とは偏差に関わっている。Twitterの微分「タイムライン」こそが偏差生成のメディアとして「ソーシャル」メディアにふさわしい。 →「にほんブログ村」
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