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 中教審「キャリア教育・職業教育特別部会」における一条校化議論について ― 「今後の学校におけるキャリア教育・職業教育の在り方について」を読む 2010年02月22日

明日から東京・中野サンプラザで開催される専修学校フォーラム(http://www.invite.gr.jp/news/2009/forum2010_prog.htm)で、私の出番が3回も回ってくる(大変)。

今日はその内の一つ、24日の14:00~14:50の「中央教育審議会『キャリア教育・職業教育特別部会』における一条校化議論について ― 『今後の学校におけるキャリア教育・職業教育の在り方について』(特別部会経過報告書)を読む」という講演のパワポ原稿をUPします。

内容は主には昨年の10月に纏めた記事(http://dl.dropbox.com/u/1047853/ver05%E3%80%8C%E9%AB%98%E7%AD%89%E6%95%99%E8%82%B2%E3%80%8D%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E3%80%8C%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%84%E3%80%8D%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A8%AE%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B.pdf)を解説するものです。最後半で一部追補しています。【スライド】列の頁数字はそのPDF原稿の記事。スライド内のページ数値は経過報告書PDF版のページ数値を意味します。

【スライド1】表紙

中央教育審議会「キャリア教育・職業教育特別部会」における一条校化議論について ― 「今後の学校におけるキャリア教育・職業教育の在り方について」(特別部会経過報告書)を読む。

芦田宏直 hironao@ashida.info


【スライド2】「経過報告」書の経緯(5頁)

●「『新しい専門学校制度の在り方(専門学校の将来像)』について」(2006年)→「専修学校の振興に関する検討会議」の「「社会環境の変化を踏まえた専修学校の今後の在り方について(総括報告)」(2008年11月1日) →「今後の学校におけるキャリア教育・職業教育の在り方について(審議経過報告)」(2009年7月30日)


この中教審特別部会報告は、「専修学校の振興に関する検討会議」(2007 年11 月~2008年10 月)の計12 回の会議の総括報告「社会環境の変化を踏まえた専修学校の今後の在り方について」( 2008 年11 月01 日) を( 一部)受けているが、専修学校の「一条校化」については表立った言及は一切ない。

正確にいえば、「専修学校の振興に関する検討会議」(2007 年11 月~2008 年10 月)における専修学校の「一条校化」議論は、この「今後の学校におけるキャリア教育・職業教育の在り方について」という「中教審経過報告」の中に反映されていなければならない。要するにこの「中教審経過報告」の外部で専修学校の「一条校化」議論がなされることはあり得ない(この経過報告書を「受けて」ということはあるにしても)。

2006 年に全国専修学校各種学校総連合会がまとめた「『新しい専門学校制度の在り方(専門学校の将来像)』について」→「専修学校の振興に関する検討会議」(2007 年11 月~2008 年10 月)の二つの議論は、この「中教審経過報告」に(経過からすれば)集約されている。


【スライド3】経過報告における「専門学校」(1)5頁

「経過報告」は、「改正教育基本法」(2006 年に改正された教育基本法)を意識して、「学校教育」、特に後期中等教育、高等教育における「職業教育」「キャリア教育」の位置づけ議論を一貫してテーマにしている。

専修学校の「一条校化」議論は、「職業実践的な教育」に特化した「学校教育」を「制度的に整備していくこと」、特に「高等学校卒業者を対象とした新たな枠組みを検討する」という文言の中に吸収されている(33)。※括弧内はPDF の頁数、以下同じ。

この言い回しは、特に専修学校の「一条校化」議論を受けてのものではなく、「改正教育基本法」に基づいて「学校教育制度」の中に「職業教育」「キャリア教育」を位置づけなければならないという趣旨に基づいている。

専修学校(の専門課程など)の対「学校制度」議論については、「激甚災害時における財政援助等の取扱いについて」「改善を図る必要」を「検討する」と言うに留まっている。


【スライド4】経過報告における「専門学校」(2) 6~7頁

「経過報告」の「制度設計」のテキスト(第三章・第4 節~5 節 p.34~35)の中には「専門学校」(専修学校専門課程)はその言葉さえない。

「制度設計」の前提は、「大枠として①大学制度の枠組みの中における検討と、②大学短期大学等の別の学校としての検討とが考えられる」(34~35)と言われるに留まっている。

08年の「総括報告」では、「職業人の養成を目指した教育を、高等教育段階において全体として推進していくために、大学・短期大学・高等専門学校・専門学校といった高等教育機関それぞれの学校種の目的・機能を踏まえた考え方の整理を行うことが必要である」(第三章・第3 節)とされていたが、09年の中教審「中教審経過報告」ではトーンダウンしている。「校舎、専任教員数等の基準」もいつのまにか「大学・短期大学等における基準を基本」となっている(34)。

「中教審経過報告」の「制度設計」にかかわる全体のトーンは、「改正教育基本法」の趣旨に則って、職業教育、キャリア教育をどう「学校教育制度」(特に高等教育)の中に組み込んでいくのか、すでに一定の実績がある学校教育(大学・短大)における職業教育、キャリア教育を前提にしながら、なぜ「別の学校」が必要でなければならないのかを説明することに力点が置かれている。

つまり、元からその「学校教育制度」の外に置かれていた、外に置かれているが故にある種の職業教育、キャリア教育を担わざるを得なかった専門学校(専修学校専門課程)については、「更なる充実を図ることが極めて重要」という文脈で以外には、この「中教審経過報告」には登場してこない。


【スライド5】経過報告書の関心の核(8頁)

●大学の二極化と「別の学校種」
この「経過報告書」の主要な関心は、職業教育化しつつある大学、職業教育実績のある短大の動向を踏まえ、専門学校(専修学校専門課程)vs 大学・短大の単純な対置ができないこと、つまり学術中心の大学、職業教育の専門学校という高等教育のグランドデザインはありえないことを再認することに留まっている。大学そのものが二分されつつあるのに、今さら専門学校を「一条校化」する意味がどこにあるのか? というものだ。

言い代えれば、職業教育化が進んでいる大学、短大の高等教育にことさらに「職業教育」「キャリア教育」を行う「別の学校」種を作る必要がどこまであるのか、というのが、この「中教審経過報告書」が自らに課した難問。

●専修振「総括報告」書(2008年)と中教審特別部会「経過報告」書(2009年)との差異

上記の難問は、「実践的かつ専門的な職業人の養成にこれまでも大きな役割を果たしてきた専修学校が、より積極的にその機能を担うことが必要とされており、一定の質の高い教育を行っている専修学校については、我が国の職業教育体系を再検討する中で、専修学校制度とは別個の新しい学校種を創設し、振興策を講じる必要があるか否かを巡って議論がなされた」(総括報告書 第三章・第2 節)という問題意識と同じものとは言い難い。

むしろ、「職業教育」「キャリア教育」は、専門学校(専修学校)のみならず、大学・短大・高専でも行われてきているものであって、「改正教育基本法」以後、「一層」その傾向は強化されなければならない。この「一層」に「専門学校の一条校化」議論はかき消されている。「激甚災害時における財政援助等の取り扱い」も、「一条校化」の契機としてではなく、この「一層」の中に組み込まれている。


【スライド6】「別の学校」の前提(10~11頁)

●若者の現状と課題(経過報告3頁)

 成熟時代の価値観・生き方の多様化が若者の自立を殺いでいる

 将来性の見えないままの学習が「中退者」の増大を招いている

●経済社会の現状と課題(経過報告4頁)

 企業内人材教育の困難(7割の企業が「指導人材や時間の不足」を訴えている)

 「変化」と「高度化」に対応する生涯学習の必要性

●学校の現状と課題(経過報告5頁)

 大学全入時代における「著しく多様化した学生・生徒の能力・適性、ニーズ等への対応」が課題

 学校教育における社会・職業教育との関連や実践性の薄さが問題

●社会全体を通じた現状と課題(経過報告7頁)
 
 職業教育の重要性に対する認識不足が存在している(普通科志向が職業教育を格下扱いしている)

 職業教育の専門的な狭さは、より一般的・共通的な知識・技能の修得に至る「入口」に過ぎない それらのことを踏まえた社会全体の職業教育に対する意識の改革が必要」


【スライド7】「職業教育」と「キャリア教育」(8~9頁註)

●「職業教育」と「キャリア教育」とは同じものではない(文部科学省)

●「別の学校」が担わなければならないものは「職業教育」ではなくて、「キャリア教育」

「キャリア教育」の方が「職業教育」よりも広い概念として扱われているが、中教審「経過報告」書ではより詳細な説明がなされている。

「ここでいう『キャリア』とは、『個々人が生涯にわたって遂行する様々な立場や役割の連鎖及びその過程における自己と働くこととの関係付けや価値付けの累積』であり、職業生活、市民生活、家庭生活、文化生活など、すべての生活局面における立場、役割を含むものである。

このため、『それぞれにふさわしいキャリアを形成していく』ということは、言い換えれば、『社会的・職業的に自立していく』ということと同じである。また、キャリア教育は、学生・生徒等の社会的・職業的自立を促す視点から、従来の教育の在り方を見直していくための理念と方向性を示すものである。このようなキャリア教育の視点に立ち、すなわち個々の教育活動が、社会とどのようなかかわりがあるのか、学生・生徒等の将来の社会的・職業的自立にどのようにつながっていくのかを念頭に置き、学ぶことと生きること、働くことを関連付けながら、普通教育・専門教育等を問わず、教育活動を改善・充実していくことが重要である。自己の将来と、現在の学びとを関係付けていくことは、学生・生徒等に学びの意義や楽しさを実感させ、その学習意欲を喚起する上でも有効であり、このようなキャリア教育の意義等について、教職員の意識を高めることが必要である」(9 頁の註※1)。

「キャリア教育と職業教育との関係について言えば、職業教育については、単なる専門的な知識・技能の教授に終始しないよう、社会的・職業的自立を促すというキャリア教育の視点に立って行われるべきものである。また、一定の又は特定の職業に従事することを念頭に置かない一般的な教育活動(例えば、総合的な学習の時間等における職場見学や、職業調べ学習など)については、職業教育ではなく、将来の社会的・職業的自立に向けたキャリア教育として位置付けられるものである(9 頁の註※2)。

要するに「特定の職業に従事することを念頭」においた「単なる専門的な知識・技能の教授に終始」する教育を「職業教育」、「個々人が生涯にわたって遂行する様々な立場や役割の連鎖及びその過程における自己と働くこととの関係付けや価値付けの累積」に基づいた社会的・職業的な自立にかかわる教育を「キャリア教育」と位置づけている。「職業教育」は「キャリア教育」にとっては第一義的な意味を持つが、キャリア教育よりは狭い、というのが文部科学省の言い分。


【スライド8】学生の多様化と企業ニーズの多様化(14頁)
大学全入時代の学生の多様化は、入口の多様化だけではなく、出口の多様化をも同時に意味している。

従来の低学歴新卒者、高学歴新卒者の職域境界が崩れつつある。大学と専門学校との間でも棲み分けは崩壊しつつある。

「そのような〈二重の多様性〉に応えるためには、『それぞれの高等教育機関が、職業教育の観点から果たす役割・機能と養成する人材像を明確にした上で、各機関の特性を生かした職業教育を充実させること』(25)と『教育界と産業界とが、国・地方・各機関など様々な段階において連携・対話を促進することにより、産業・雇用の将来像や求められる人材像・能力を共有するとともに、人材育成のための協力体制を構築し、こうした体制のもと、求められる能力の育成につながる教育を充実させていくこと』(26)が必要になる」(14頁)


【スライド9】入口接続の二つの意味(14頁~15頁)

●雇用の「入口」接続の二つのタイプ

大学型「入口」接続:一括採用、一括解雇(定年制)、職務ローテーション制、年功賃金=年功序列制、企業内組合を前提とした「メンバーシップ型採用」に呼応した、従来の大学の教養主義的な人材育成という意味での「入口」接続。つまり素養(基礎)は学校で作ったからあとは企業で教育して下さいという意味での「入口」接続。これを私は大学型「入口」接続ととりあえず呼んでおく。あえて言えば、「キャリア教育」接続にあたる。

専門学校(あるいは短大)型「入口」接続:「キャリア教育」と区別された意味での「職業教育」的な「入口」接続。

これは従来もっぱら専門学校も含めた専修学校や短大が担ってきた。極度に単純化した言い方をすれば、会社の「一般職」「専門職」(いずれも「総合職」に対立する意味での、つまりメンバーシップを担わない)接続としての「入口」接続。この後者の「入口」接続は、「即戦力」人材と言われてきたものである。「メンバーシップ型」に対比される「ジョブ型」採用と呼んでも良い。「スペシャリスト」型採用とも言える。

※ここで言う「メンバーシップ」型、「ジョブ」型というタームを、私はとりあえず濱口桂一郞(『新しい労働社会』岩波新書)から借りている)


【スライド10】専門学校的「即戦力」養成論のズレ(1)15頁

●「即戦力」養成は学校教育におけるキャリア形成ではない

2008年12 月24 日の中央教育審議会答申「学士課程教育の構築に向けて」において、この種の「即戦力」論は次のように言及されている。

「近年、『企業は即戦力を望んでいる』という言説が広がり、学生の資格取得などの就職対策に精力を傾ける大学が目立っている。しかしながら、実際に企業の多くが望んでいることは、むしろ汎用性のある基礎的な能力であり、就職後直ちに業務の役に立つような即戦力は、主として中途採用者に対する需要であると言われる」(9)。

この答申と連動して、今回の中教審経過報告」でも「即戦力」論は以下のように言及されている。

「新規学卒者について、就職の段階で「即戦力」と言える状態にまで学校教育を通じて育成することは、産業界から期待されていることでもない」(5)。

「即戦力」教育はここでは狭い意味での「職業教育」と同じことを意味している。
しかし、「流動性の高まった労働市場」(22)、「経済・社会情勢や人材育成の在り方等」の「変化」(25)、「職業人能力の『高度化・複雑化』と非正規雇用社員の増加」(25)などにおいては、具体的な「特定の領域・分野」(8)に対する「職業教育」はもはや「実践的な人材育成」とは言えない。

つまり上記のような二つの「入口」接続型の人材教育が崩壊しつつある今日の人材育成は、「個人が生涯を通じて、職業人として充実したキャリアを築いていくため」(25)の人材育成でなければならない。


【スライド11】専門学校的「即戦力」養成論のズレ(2)18頁

専門学校の学校案内パンフレットの中にも、あるいは「教育理念」「教育目標」の中にも「即戦力」(即戦力人材養成)という文言が数多く踊っている。

たとえば専門学校の卒業生調査を2008 年に行った小方直幸(広島大学)は次のように言っている。「職業教育でよく『即戦力』という言葉が使われますが、『即戦力』というのは基本的に『ウソ』ではないかと思います。20 歳~22 歳あたりで即戦力だなんて、あり得ないだろうと感じてます。悪く言えば、すぐ使えるけれども、それは業務が高度化していないのでその程度の力でも対応できてしまうといった意味で『即戦力』という言葉が使われている場合も多いのではないでしょうか?(『キャリアエデュ』No.26 「「専門学校教育と卒業生のキャリアに関する調査」から見えてきた課題」p.8)

20 歳そこそこの若い学生で「即戦力」の専門学校生を喜んで受け入れる企業があるとすれば、それはその企業の人材水準(あるいは仕事水準)が低いだけのことで、褒められたことではない、と小方は言いたいのである。

極端に言えば、高校生をマクドナルドが「即戦力」として採用するのと似ている。そのような「マニュアル職」に毛の生えたような「即戦力」論が専門学校の「職業教育」だったのではないか?


【スライド12】従来の大学教育と職業人育成(21頁)

一括採用、一括解雇(定年制)、職務ローテーション制、年功賃金=年功序列制、企業内組合などの「メンバーシップ」型徴表が描く日本企業型人材像のモデルは何か。
その人材モデルは専門教養主義に他ならない。

この教養主義については、中教審「経過報告」は次のように言及している。

「戦後の我が国の学校教育制度はいわゆる6・3・3・4の単線型の体系に整備された。高等教育については、戦前の高等教育機関が「普通教育を与える機会があまりに少なく、その専門化があまりに狭すぎ」(文部省『学生百年史』)たのではないかという反省の下、旧制の大学、高等学校、専門学校、高等師範学校などの諸機関をすべて単一の四年制大学に改編し、幅の広い教養の基盤の上に学問研究と職業人養成を一体化させた」(24)。

また「大学及び短期大学は、『学術の中心として、高い教養と専門的能力を培う』(教育基本法第7条第1項)ことを基本的な役割としている。教養教育と専門教育とがあいまって全人格的な発展の基礎を築くことを目的としており、高度専門職業人養成や幅広い職業人養成等を担っている」(27)とも「教養」について言及している。

一見すると「中教審経過報告」の本音はここに尽きているように思える。「キャリア教育」の生涯型接続(=メンバーシップ型)は、ここで言う「全人格的な発展の基礎」にかかわる「高度専門職業人養成や幅広い職業人養成等を担っている」ということで完結しているではないか。

しかも、その「全人」性教育は、戦前の高等教育機関が「普通教育を与える機会があまりに少なく、その専門化があまりに狭すぎ」たことの反省だと言われるのだから、余計に今日の「職業教育」と「キャリア教育」との断絶と接続の議論に並行した事態とも言える。


【スライド13】「学生の多様化」と大学の変化-専門教養主義の限界(22~23頁)

先の27 頁の「教養教育と専門教育とがあいまって全人格的な発展の基礎を築くことを目的としており、高度専門職業人養成や幅広い職業人養成等を担っている」(27)にすぐに続いて「大学全入時代を迎え学生が多様化し、職業人育成の観点から大学及び短期大学に求められる機能も多様化している現状がある。学生の出口管理が厳しく求められる中、大学・学部、短期大学それぞれの機能別分化と養成する人材像の明確化と、専門分野と職業との関係を踏まえた職業教育の質の確保が課題である」(27)という文言が来ている。

「しかし」と冒頭にあってもいいくらい先の文章とこの文章とは違うことが書かれている。「教養教育と専門教育とがあいまって全人格的な発展の基礎を築くことを目的としており、高度専門職業人養成や幅広い職業人養成等を担っている」が、しかし「大学全入時代を迎え学生が多様化し」ているのである。

この「学生の多様化」が「高度専門職業人養成や幅広い職業人養成等を担っている」大学教育に変化を強いている。

「学生の多様化」とは何か?

それは「大学全入時代」を迎えた大学の「学生の多様化」である。従来の「基礎」教育主義(国語・算数・理科・社会)、専門教養主義(講座授業)に馴染まない学生が大学キャンパスを占めるようになることを「学生の多様化」と「中教審経過報告」は呼んでいる。言い代えれば、「学生の多様化」とは“勉強ができない”大学生が存在する事態である。

では、“勉強ができない”とは何を意味するのか? それは「基礎」教育とか、「教養」教育のような、具体的な目標のない教育(ある意味で「抽象的な」教育)に耐えられない無能力のことを言う。

そういった学習の極限のモデルは、日本では「受験勉強」。「受験勉強」が「大学生」の「大学生」としてのパーソナリティーを形成してきたが、このパーソナリティーが大学の教養主義教育(基礎教養教育-専門教養教育)の基盤だった。またそれはどんな具体的な色にも染まらないという意味で、メンバーシップ型雇用の基盤にもなっていた。

リベラルアーツ型の教養主義が、日本的な雇用制度と親和的な関係を結んでいたのである。


【スライド14】90年を前後する進路指導の変化(1)27~28頁

●91年大学設置基準の大綱化に並行する高校進路指導の変化(児美川孝一郎)

児美川孝一郎は、進路指導の変化を「大綱化」の時期と重なる「1990 年初頭」に置く。その時期の『業者テスト・偏差値』排除をめぐる文部省の強力な政策展開の影響を考えないわけにはいかない」と指摘する。その指摘は三点ある。

①中学校の『業者テスト』への関与(校内を会場とし、教師が試験監督をつとめる、等)の全面的禁止

②私立学校の入学者選抜や事前相談等に関わって、業者テストの結果を提供することの禁止

③中学校の進路指導において、業者テストの『偏差値』を活用することの禁止(1992 年「高等学校教育の改革の推進に関する会議・中間報告」(文部省の調査研究協力者会議)+1993 年「高等学校入学者選抜の改善について・第三次報告」)

この三点の指摘は、児美川によれば、その後、文部科学省によって次のように「定式化」されたとされる。

①学校選択の指導から生き方の指導への転換
②進学可能な学校の選択から進学したい学校の選択への指導の転換
③100%の合格可能性に基づく指導から生徒の意欲や努力を重視する指導への転換
④教師の選択決定から生徒の選択決定への指導の転換

「これらの観点は中学校に限らず、1990 年代半ば以降の学校現場における進路指導の改善・充実の基本となったものである」と児美川は指摘している。


【スライド15】90年を前後する進路指導の変化(2)27~28頁

●「学校経由の就職」の解体 ― 「ダブルトラック化」状況(本田由紀)

本田由紀からすれば、この進路指導の変化は「学校経由の就職」が成り立たなくなったことを意味している。生徒たちの「生き方」「意欲」などを第一義的に尊重する就職指導は、結果的に「進路未定」や「フリーター」を正当化する方向へと進路指導が変化したことになる。苅谷剛彦が指摘する「ゆとり教育」以後の「インセンティブ・ディバイド」(『階層化日本と教育危機』)もまた「生徒の意欲や努力」を重視すればするほど、その格差が広がるような格差であったと言える。

本田はこの原因を児美川のように高校の進路指導の変化というよりは、「ポスト近代社会」=「サービス経済化」に求める。「労働市場の変化と複雑化を前にして、過去と同様の硬直的な進路指導は有効性を失い、進路指導の放棄ともいえる不充分な指導に終始する学校も増加した」(『若者と仕事』)とする。

「サービス経済化」ということで本田が上げる例証(のいくつか)は、卸売小売業・飲食店が1990 年の18.1%→2002 年の35.3%、サービス業では1990 年の10.0%→2002 年の19.8%という「パートタイム労働者」の比率上昇。また新規学卒者(高卒者)採用の求人数が1992 年のピーク時167 万人→2003 年の24 万人へと「8 分の1」まで急減したこと。「これらの変化は、企業、中でも『優良な』就社先とされてきた大企業が、新規高卒者の正社員採用から撤退しつつあることを意味している」(『若者と仕事』)。


【スライド16】90年を前後する進路指導の変化(3)27~28頁

●大綱化以降の無原則な大学進学 ― 「過去の達成のご破算主義」(竹内洋)

この生徒たちの「個性重視」による進学指導(進学無指導)は、児美川が期待する意味での「キャリア教育」にそのまま繋がるものではなく、無原則な大学進学を生む素地になったのである。

91 年以降(「就職」の専門学校は進学率20%前後で停滞しているが)、大学進学率(入学者数も含めて)がうなぎ登りに上昇していくのは、80 年代後半に始まり90 年代に実質化する「個性重視」主義が大学全入による偏差値ヒエラルキーの解体と符合したことが大きな理由の一つだ。

この符合は、高校が三流でも大学が一流であれば一流という(あるいは三流以下の高校卒でも「大学卒」になれば何とか体裁は保てるという)「過去の達成のご破算主義」、あるいは「敗者復活装置」(竹内洋『日本のメリトクラシー』)としての高学歴化を余計に強化したと言える。

学校(=偏差値)が介在しない分、「ご破算主義」の「リターンマッチを活性化」したのである。「個性重視」が児美川が期待するような意味での「適正な就職」に繋がらなかった理由はそこにある。

そのことを含めて、「個性」「自由・自立」「自己責任」「自発性」「自ら学ぶ意欲」と言った1984 年~1987 年臨教審の「個性重視の原則」を踏まえれば、「哲学」が「ものの見方・考え方」や「人生論」になったり、「数学」が「数と生活」になったり、「英文科」が「英語コミュニケーション学科」になったりするような変化は、学生の「意欲」をそそる「変化」であったとも言える。


【スライド17】経過報告書の描く「キャリア教育」

●高等教育におけるキャリア教育において求められる能力(経過報告26頁)

1)職業分野において必要な専門的知識・技能
2)上記1)を活かしつつ活躍していくために必要となる実践性、創造性、応用力、批判力、3)課題発見力、問題解決力等の能力
4)自立した職業人として必要な自己学習力、キャリアデザイン力

「新規学卒者について、就職の段階で「即戦力」と言える状態にまで学校教育を通じて育成することは、産業界から期待されていることでもない。学校教育段階で重要なのは、職業人としての心構えや、コミュニケーション能力、課題解決能力、自己学習力など、職業生活に適応し、着実に成長していけるような、実践性の基盤となる能力等を確実に身に付けさせることである」(5)。

「知識基盤社会においては、知識の高度化等に対応した専門的な知識や技術に加え、専門性を生かしつつ付加価値を生み出すための創造性、応用力、問題解決力等が必要となっている。加えて、変化の激しい経済・社会情勢の中で、職業人として必要な能力を主体的に身に付けていくために必要な自己学習能力やキャリアデザイン力等が不可欠となっている」(26)。


【スライド18】「キャリア教育」とハイパーメリトクラシー

●ハイパーメリトクラシー主義は、現場の教育力をますます衰退させる

実践性、創造性、応用力、批判力、課題発見力、問題解決力、自己学習力、コミュニケーション能力、キャリアデザイン力、社会人基礎力などの「ハイパーメリトクラシー」(本田由紀)は、偏差値に代わる、80年代後半以降の進路指導(児美川孝一郎)、カリキュラム開発の隠れた(あるいは公然化した)目標になっている。

しかし、これらは、誰にとっても(大人も含めて)、どこまでも求め続けられる「終わりなき」「ハイパー」な目標。つまり評価の定まらない目標にとどまっている。

結果、誰が教えうるのか、誰が評価するのかが全く見えない。教育現場はますますやりっ放しのアンケート評価主義、レポート主義、プレゼン主義を抜けきれないままになっている。

しかし評価を嫌う教育現場の志向とこの種の「ハイパーメリトクラシー」はなぜか相性がいい。また全てを学生の個人的な能力に帰することができるという点でも教育現場と相性がいい。

その意味で、今年の特別部会(1月11日)で同志社大学の橘木俊詔教授が、「一体キャリア教育って、誰が教えるのですか。その問題を解決しておかないと、いくら議論しても意味がない」と発言したことの意義は大変大きい。

また当日のもう一つの重要な発言。それは金沢工大の黒田学長の発言。「キャリア教育は専門科目の別枠で教えるものではない。専門科目の教員が自分の科目のキャリアイメージを描きながら教育するのが学校教育におけるキャリア教育でなければならない」というもの。

両者とも、キャリア教育を相対的に独立した教育テーマにすることに危惧を感じている。


【スライド19】「キャリア教育」の教員は「学校」には存在しない

大学教育の力点は(教員の専門性が高い分)大学内部にある。実務教育の力点は学校外=実務現場にある。

したがって、実務教育の教員は学校には存在しない。実務を若くして中退した教員か、ピークを越えた教員しか専門学校にはいない。学内で教える期間が長くなればなるほど、実務知識は衰退する。しかも持ちコマ数が多いため勉強する時間もない。教材開発の時間もない。授業コマをたくさん持ってる教員が「良い」教員と見なされている。基準がそこにしかない。

従って、専門学校教育の社会的な内実は、非文部科学省系(非学校教育系)の資格合格率しかなくなる。資格主義はますます実務現場から専門学校を遠ざけている。そうならざるを得ないのは、実務のキャリアパス全体で何が求められているのかを描ける教員がいないから。

課題は、企業との風通しの良い環境を学内に形成することでしかない。

その目的は、生涯にわたる専門的な知識や技術の指標=キャリアパスを(抽象的なハイパーメリトクラシーに逃げることなく)形成することにある。


【スライド20】専門学校の学生がキャリアを形成できない理由

就職部主導の就職指導によって、学んだことと実社会で生かすことの接続とが難しくなっている。就職部主導だと大学の就職指導と変わらない。

担任主導の学生生活によって、パーソナリティやヒューマニズム主導の教務指導が重点化し、知識や技術を高度に積み重ねる教科体制、学生指導体制にならない。そのため履修判定も杜撰極まりないものとなっている。

教員条件が低いため、無口な(言葉の貧弱な)実習指導しかできない。トレーニング教育か、インストラクター教育にとどまっている。〈作品〉自己満足主義止まり。

IT教育で言えば、一番面白い「設計」「分析」のところまで行かずにその手前のプログラミング教育(ワープロオペレーティングのようなもの)で終わっている。これでは実社会に出ても、すぐに辞めてしまう。

学校教育で実務の奥深い世界(知識・技術のキャリアパス全体)を学生時代に内に見せつけてやらない限り、接続教育は息の長いものとならない。

専門学校の現状は、大規模校も小規模校も、上記の現状では同じ。このままでは、高等教育の「別の学校」(キャリア教育の学校)のリーダーシップは握れない。


【スライド21】大学全入時代の専門学校の今

「大学全入」時代における専門学校の3重苦

一つは、「できない高学歴学生」が労働市場にあふれはじめ、「非高学歴労働市場」、つまりジョブ職的な技能労働市場の平和が脅かされつつある。専門学校進学が2005年をピークに下降し始めているのがその証拠。専門学校の就職先は、インフレした「大学卒」で埋め尽くされつつある。また「偏差値の低い大学」の労働市場は、「偏差値の高い」大学生が浸食しつつある。

一つは技能労働者市場の外国人化とオフショア化、そしてIT化。技能労働(入口接続と「あとは経験」という技能労働市場)はわざわざ日本人がやるほどのこともない、また人間がやるほどのことでもないという認識の一般化。

一つは、ジョブ型「職業教育」と区別されたメンバーシップ型「キャリア教育」(あるいはハイパーメリトクラシー)というものが、従来の傾向とは逆にもっぱら「偏差値の低い」大学や専門学校に割り振られて、従来「偏差値の低い」学校群が担ってきたジョブ型職業教育が(さらになお)空転しつつあること。※文部科学省の経過報告書の描く「キャリア教育」像は「中堅職業人」をターゲットにしている。高等教育のグランドデザインになっていない。

この三つが「大学全入時代」の専門学校(や低位の大学群)を混乱させている。さて、専門学校は何をしなければならないのか?

※このパワポの元の原稿になっているものはこちら→ http://dl.dropbox.com/u/1047853/ver05%E3%80%8C%E9%AB%98%E7%AD%89%E6%95%99%E8%82%B2%E3%80%8D%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E3%80%8C%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%84%E3%80%8D%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A8%AE%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B.pdf

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投稿者 : ashida1670  /  この記事の訪問者数 :
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