【PDF版】twitterとは何か(中上級編)― 「タイムライン」における「他者」とは何か? 2009年11月23日
【補論タイムライン(1)】さて、タイムラインにおいて、「他者」はどうなっているのか。「他者」はタイムラインにおいて微分化されて自他の区別なしに生成・消滅している。
posted at 23:12:04
【補論タイムライン(2)】twitterは「属人性が高い」という指摘がなされているが、それは半分ウソ。1000人もフォローすれば、アイコン認知はあっても何者かなどほとんど覚えていない。
posted at 23:15:27
【補論タイムライン(3)】「タイムライン」は属人的な特定をむしろ「流す」ために存在している。特定をやっているうちに「つぶやき」は流れていく。「つぶやき」の反射性に対しては反射的な「つぶやき」しかない。
posted at 23:17:23
【補論タイムライン(4)】むしろその反射性こそが、属人的な敷居を取り去り、「エライ」人にもつぶやいたり、実際に突っ込んでみたりもするきっかけを作っている。属人性の度合いはフォロー数が決めている。フォロー数が少ないほど属人性が高まる(ある意味twitter的ではない。)
posted at 23:19:49
【補論タイムライン(5)】つまり、自他の差別のない心理的な(生成・消滅の)微分化は、むしろ有名人(政治家・評論家・学者・その他有名人など)=ストック的な他者との出会いをまさに可能にしている装置なのである。
posted at 23:21:31
【補論タイムライン(6)】情報化され、知性化された社会における〈他者〉とは〈ストック〉、あるいは〈専門性〉のことである。相対情報のあふれる社会のプレゼンスとはストックのことでしかない。
posted at 23:22:45
【補論タイムライン(7)】ブログ、SNS、RSS(+はてな)等のメディアはストック度(つまりテマティスム度)で分類できる。ストック度が高いほど(この段階ではブログが一番ストック度が高い)、他者性(選別度)が高くなる。
posted at 23:23:51
【補論タイムライン(8)】タイムラインは、そういったテーマ性のもつ〈ストック〉や〈専門性〉を解体する。
posted at 23:25:02
【補論タイムライン(9)】それは、〈ストック〉や〈専門性〉を無きものとするのではなくて、心理主義的に微分化解体することによって、むしろ接近可能性を高めるのである。
posted at 23:26:33
【補論タイムライン(10)】出来上がった思想や権威は近づきがたいが、それには担い手や作り手=人間が存在しており、人間であれば、(バカな私と同じように)生活者=消費者であり、バカなつぶやきも吐いている。この人間観は心理主義の真骨頂。
posted at 23:27:48
【補論タイムライン(11)】その上、近づきがたいストックの生成過程(の現在)に「つぶやき」レベルで立ち会えるという意味でも、「タイムライン」は他者接近を陶冶のプロセス(Bildung)とともに可能にしている。
posted at 23:29:43
【補論タイムライン(12)】そういった他者接近の新しい形式を提供しているのが「タイムライン」。「私と同じ」プロセスとともにストック情報の端緒を与える仕組みがタイムライン。フォロー数で現在を微分すればするほど、その可能性は高くなる。
posted at 23:31:36
ここまででひとまず休憩。
posted at 23:32:04
まだもう少し続けたい持ち。あと10個くらいかな。
posted at 23:36:34
【補論タイムライン(13)】つまりタイムライン上のフォロー数微分は、「無痛化」「動物化」主体(=無主体)の形成に関わっているのではなく、他者接近の可能性と共に与えられている。
posted at 23:37:47
【補論タイムライン(14)】「堅い」・「難しい」つぶやき(ストックの発露)が、「おはよう」の一言で、あるいは「この餃子うまい」で瞬時にかき消される。またその逆もある。両者が相互他者性の契機になっている。タイムラインは両者を流し、生む。両者を現在において微分する。
posted at 23:40:07
【補論タイムライン(15)】この相互他者性は、個人としても微分されているが、一個の個人の中でも微分されている。「この餃子うまい」と「つぶやく」人だって、たまには難しいことを考えたり、分厚い本を読んだり、エライ人になったりすることもあるからだ。
posted at 23:41:43
【補論タイムライン(16)】タイムラインの微分機能は、心理主義的な微分モデルにおいて他者対私、私内他者、他者内私を相互に転換している。それがタイムラインで「流れ」る個々の「つぶやき」の意味である。
posted at 23:43:15
疲れた。ここで休憩。まだ少し書きたい。
posted at 23:44:23
【補論タイムライン(17)】フォロー者設定の大前提(主観的な設定)がそれらの他者を自己内他者(=エセ他者・「無痛」他者)に狭隘化しているのではないか、と言う人もいるだろう。twitterの「他者」は自己満足的な他者だと。そうではない。
posted at 23:49:06
【補論タイムライン(18)】タイムラインの現在は、フォロー者の他者性が自己内化すればするほど、「飽きてしまう」習性をもっている。秒刻みで興奮させなければならないタイムラインには他者を日常的に呼び込まざるを得ない習性が存在している。
posted at 23:50:14
【補論タイムライン(19)】「タイムラインは従来のテマテスムメディアに較べれば、はるかに他者との接近可能性が高いメディアなのである。それはフォロー者の設定(の現在)自体を「流す」のである。
posted at 23:52:07
【補論タイムライン(20)】その上、140字の短文に10000文字以上の専門性(ストック)を圧縮しても、「同意」(私の議論に)、「反対」(他の議論に)の一言で瞬時に多数決に変わってしまう。多数決とは、民主主義における「流し」である。
posted at 23:53:14
【補論タイムライン(21)】「同意」と「反対」の「理由」は長くても140字。こんなものに学者の議論のように「理由を言え」なんて言ってられない(苦笑)。言ってる間に「おはよう」「今日の餃子はうまかった」に包囲され、流される。
posted at 23:55:09
【補論タイムライン(22)】この場合「同意」とか「反対」は、「存在理由なき」身体性、あるいは「暴力」の言語表現。その意味でタイムラインの現在は、身体的な民主主義=他者を体現させている。
posted at 23:57:39
【補論タイムライン(23)】ストック表現者にとって、多数決ほど嫌なものはない。ストック表現者にとって身体性(現在)とは迷妄の住処である。〈身体〉とはわかっていても「わからない」と言える砦だし、わからなくても「わかった」ふりのできる砦だからである。
posted at 23:59:46
【補論タイムライン(24)】つまり「タイムライン」以外に、現在のところインターネットメディアが「他者」=「外部」に出会うところはない(ととりあえず言っておこう)。
posted at 00:00:42
【補論タイムライン(25)】「タイムライン」は、他者(あるいは私)の心理主義的な還元だが、しかしそれは情報社会の相対主義的な情報還元(機能主義)が行き着く必然の他者論である。心理主義の内部では最も高級な他者論を実現している。それが「タイムライン」だ。
posted at 00:03:22
※この記事のPDF版はこちら→http://dl.dropbox.com/u/1047853/ver01%E3%80%8C%E8%A3%9C%E8%AB%96%E3%83%BBtwitter%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B%E3%80%8D.pdf
(Version 1.0)
※このブログの現在のブログランキングを知りたい方は上記「教育ブログ」アイコンをクリック、開いて「大学」「専門学校教育」を選択していただければ現在のランキングがわかります)
この記事へのトラックバックURL:
http://www.ashida.info/blog/mt-tb.cgi/1201
タイムライン論拝読させていただきました。どれだけ理解できているか自信はないのですが、2つ質問があります。
【一つ目の質問】
タイムラインの「現在」性においては、自他の区別は「身体性」へと還元されると理解したのですが、それは、みんな「身体」という普遍性の極限と、私の「身体」は、あなたの「身体」ではないという個別性の極限が、同時に現前しているという意味なのでしょうか。
【2つ目の質問】
タイムラインの「現在」性と(近代的な)主体とはどのような関係になっているのでしょうか。タイムラインは、「〈ストック〉や〈専門性〉を無きものとするのではなくて、心理主義的に微分化解体することによって、むしろ接近可能性を高める」ということは、解体されつつも、「無きもの」にはならず、何か新しい仕方で主体が保持されているという意味でしょうか。
こちらの記事のレベルに釣り合わない質問かもしれませんが、よろしくお願いいたします。
一つ目の質問は、同時に現前しているということでいいと思います。タイムラインは物理で言う「加速器」のようなものだと思います。加速器の加速性はフォロー数が決めているということです。つまり、加速度は微分化度です。
二点目の質問は、簡単にお答えすることなど不可能。近代的な主体とは結局のところ、心理主義的な主体でしかなかったというのが私の現在の認識です。情報の相対主義(=機能主義)が行き着いたのが心理主義的な「タイムライン」だと思います。そこから先の考察は、再度機会を見て、正確に論じてみたいと思います。
芦田さんの長い記事も読みたいなあ。
最後まで読みますから!!
お忙しいと思いますが。
お願いします。
ファンより
私の長年のブログの読者が、なぜ長文を書いてくれないのか、とメールで幾つか訴えてきている。長文を書いても嫌われ、短文を書いても嫌われ。なんだかなぁ(苦笑)。
違います!
長文も好き、短文も好き、です。
(あるいははやく本書いて!)
熱烈ファンより