【第二版・PDF版】twitterとは何か(中級) ― 「タイムライン」とは何か(twitter=「タイムライン」は何が新しいのか) 2009年11月22日
【タイムライン論(1)】「タイムラインは」、一個の人間を心理主義的に微分している。一人の人間は、「元気な」人間がいたり、「暗い」人間がいたり、「無名の」人間がいたり、「有名な」人間がいたり、「バカな」奴がいたり、「賢い」人がいたりするが、この「分類」は単に解像度の違いに過ぎない。
posted at 00:15:33
【タイムライン論(2)】そういった分類の心理主義的な解像度(punctuation)は、もっと微分すれば、一人の人間の内部にあっても、バカなときもあるし、賢いときもある。明るいときもあるし、暗いときもあるというように解像度を変換できる。
posted at 00:18:24
【タイムライン論(3)】つまり解像度を上げれば上げるほど、人間は平等になる。「有名で」「堅い」ことしか言わない大学教授も、「寒い」と言ったり「おはよう」と言うわけだ。「私と変わらない」。
posted at 00:20:04
【タイムライン論(4)】この解像度の水準を決めているもの。それが「タイムライン」の〈現在〉という時間性。〈現在〉という水準で人間を切り取れば、論文(ストック)を書くこともあるがウンコもする。「私も変わらない」。
posted at 00:23:20
【タイムライン論(5)】「タイムライン」の現在性は、ブログやミクシィのようなストック文章のOUTPUTでない分、「みんな人間」というセンスを前面化する道具立てになっている。
posted at 00:25:15
【タイムライン論(6)】現在における人間の心理主義的な微分が細かくなるとどうなるか。どんな「エライ」人の発言にもレスポンスできる要素が存在し始める。ストック文章では何を書いているのかわからない、感想を書けと言われても近寄りがたい壁があったが、それがなくなる。
posted at 00:28:07
【タイムライン論(7)】微分が細かくなればなるほど、人間の「社会的な」「階級的な」分類、あるいは実体主義的な個人分類を超えて共通の主題が増えてくる。
posted at 00:29:58
【タイムライン論(8)】この「共通」化度=「平等」度を決定している要素は、フォロー数。
posted at 00:31:10
【タイムライン論(9)】フォロー数を増やせば増やすほど、話題の共通性(書き込みと感想の平等性)は拡大する。「タイムライン」の流れの速さ(フォロー数の多さ)は、どこかに自分が関わることのできる話題が存在する可能性と相関している。それは話題の平等化度と呼んでもいい。
posted at 00:33:47
【タイムライン論(10)】「タイムライン」の生成・消滅の速さが、いつまでもどこまでも(レスポンスできる)話題の存在可能性を顕在化させているわけだ。
posted at 00:37:15
【タイムライン論(11)】フォロー数を増やして微分化すればするほど、関心は連続する。つまり情報選択の主体(特には「検索」の主体)はここでは不要になる。
posted at 01:12:32
【タイムライン論(12)】インターネットの膨大な情報は、インテリジェンスな主体(それ自体がストック情報の成果)なしには、利用不可能だった。何を選んだらいいのかわからない。テマティスム(ブログ、2ちゃん)の媒体はそれ自体が「主体性」なしには成立しなかったのである。
posted at 01:20:59
【タイムライン論(13)】その中間体で成立したのが、SNSとRSS。受動的な選択性の段階として、インターネット情報が利用しやすいものになった。言い換えればニュートラルな情報が少しは(個人の手元に)「現前化」したのである。
posted at 01:23:49
【タイムライン論(14)】しかしSNSとRSSには限界がある。どちらも少なくても多くても意味がない。「現前性」と言っても有限だった。
posted at 01:25:39
【タイムライン論(15)】SNSとRSSの数の問題を解いて登場したのがtwitterの「タイムライン」。フォロー数を増やすことが利用するものの現在を一切犯さない。どんなに増やしても全く困らない。「流れる」からだ。
posted at 01:28:24
【タイムライン論(16)】しかも「困らない」だけではなく、秒単位で、関心が連鎖する可能性が増大する。
posted at 01:29:54
【タイムライン論(17)】つまり「タイムライン」は個人では制御できないほどの膨大なインターネット情報を自動選別する(個人のストック的なインテリジェンスなしで)最大の装置なのだ。
posted at 01:32:15
【タイムライン論(18)】言い換えれば、膨大なインターネット情報がフォロー数と共に内面化され微分化されて公平に分配されているのが「タイムライン」機能なのである。
posted at 01:33:49
【タイムライン論(19)】つまり情報の拡大局面と内面化(現前化、手元化)の局面を制御しているのが「タイムライン」(のフォロー数)。
posted at 01:35:46
【タイムライン論(20)】twitterの「タイムライン」によって、われわれは、始めてインターネットの全情報を有効に、しかも公平に(インテリジェンスの有無と関係なく)利用できる段階に入ったと言える。
posted at 01:37:51
※以後、まだまだ続きます。
※この「つぶやき」は2009/11/21の深夜0:15~1:37まで断続的に書き込まれた芦田の「つぶやき」です。「つぶやき」のために(一気に書き殴ったために)記述的に雑なところがたくさんありますが、今後これらを補い一つの論考としてまとめたいと思います。初出の「つぶやき」を「」などを補い少しだけ変更しているところがありますが(補いたい)大きな変更は加えずに我慢しました(苦笑)。
※補論(タイムラインにおける「他者」とは何か」)も合わせてお読みください→http://www.ashida.info/blog/2009/11/twitter_2.html#more
※日経BPnetでのtwitter論→ http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20100622/232901/
※この記事のPDF版はこれです→http://dl.dropbox.com/u/1047853/ver01%E3%80%8Ctwitter%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B%E3%80%8D%E4%B8%AD%E7%B4%9A.pdf →「にほんブログ村」
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おおむね同意ですが、【タイムライン論(6)】の『ストック文章では何を書いているのかわからない、感想を書けと言われても近寄りがたい壁があった』はあくまで芦田さん個人の感覚ということでしょうか。
たいていの人は、あっという間に流れてしまうつぶやきの連続よりもストック文章のほうが理解しやす気がするのですが。(当然、書き手に文章力がある前提ですが)
また、近寄りがたい壁についても、ブログやミクシィだろうがタイムラインだろうがレスポンスする人はする、しない人はしない、のではないかと思います。
壁を無くしたのはツイッターのタイムラインではなく、インターネットそのものではないでしょうか。
ストック文章とは、代表的には専門論文などに代表される長文のことですよ。いったい、何人の「大衆」がそんなものを読めるというのですか。まして感想など。私のブログなんか、最後しか読まない人が98%です。
ブログの主体とはストックの作り手です。だからブログはSNSほどには読まれない。0か無限かの読み手しか存在しない。
インターネットを検索だけで利用できる人なんて、ほとんどいない。それを大衆的な規模で利用できるようにしていく仕組みが、ブログ、SNS、WEB2.0、twitterなどの歴史的な進展です。
ストック文章を勘違いしていました。お恥ずかしい。
そこでもう一つ新たに疑問が。
「ストック文章≒論文等の長文」ということですが、【タイムライン論(5)】の『~ブログやミクシィのようなストック文章のOUTPUTでない分~』は、ブログやミクシィの書き手のINPUTはストック文章(≒論文等の長文)と読み取れるのではないでしょうか?
論文等の長文を書いている人がそんなに多くいるとは思えないのですが。
おそらく私が理解しきれていないのだと思いますが、【タイムライン論(5)】の『~ブログやミクシィのようなストック文章のOUTPUTでない分~』
と、先のコメント『ストック文章とは、代表的には専門論文などに代表される長文のこと』の双方の【ストック文章】の関連をご説明願えませんでしょうか。
つい先ほど【補論タイムライン】全25講を書き上げました。twitterで「つぶやき」ました。
まもなくブログにUPします。
その25講でお答えできていると思います。読んでみて下さい。その後、質問があれば、どうぞ。