「コミュニケーション能力」教育論はなぜ間違っているのか?(10の断章) 2009年11月28日
【反コミュニケーション能力論(1)】まずは、そんな教育を行える教員がいない。もしコミュニケーション能力の「専門家」がいるとすれば「オレオレ詐欺」の連中くらいでしょ。
posted at 00:42:01
【反コミュニケーション能力論(2)】コミュニケーション能力講座の既存の教員で、まともな授業を構成している連中を見たことがない。授業運営や授業評価指標も形成できないで、どんなコミュニケーション能力の持ち主なのか。大概は、チーム学習の成果物評価かアンケート評価で終わっている。
posted at 00:43:59
【反コミュニケーション能力論(3)】成果物やアンケートでは、学生と教員との間でどんな「コミュニケーション」が行われたかを判断することができない。ワークショップ型、PBL型の学習も同じ問題を孕んでいる。
posted at 00:45:22
【反コミュニケーション能力論(4)】コミュニケーション能力論は必ず世代論になる。どんな社会人でも30も過ぎると少なくとも学生時代よりは話せるようになる。自分の過去も忘れて、「最近の若者は」の延長にコミュニケーション能力論が存在している。
posted at 00:47:13
【反コミュニケーション能力論(5)】コミュニケーション能力の養成の基本は、まずはINPIUT(情報・知識)を充足させること。本人に情報や知識が蓄えられ始めると、それが自信になり、放って置いても、話したり、行動するようになる。
posted at 00:50:02
【反コミュニケーション能力論(6)】社会人の場合は経験がINPUT機能を果たしており、それがOUTPUT(コミュニケーション)要因に繋がっている。それが世代論コミュニケーション論。
posted at 00:51:45
【反コミュニケーション能力論(7)】したがって、学生教育の場合には、INPUT契機(専門性契機)との関係を整理しないと、それと切り離されたコミュニケーション論は、単なる(中身のない)ノウハウ論になり、その限りでは「オレオレ詐欺」に勝てない。
posted at 00:53:39
【反コミュニケーション能力論(8)】ただし、INPUT効果を高めるものとしてのOUTPUT契機というのは確かに存在している。学校教育の中で最も効果的なOUTPUT→INPUT契機は期末試験。期末試験で授業中のINPUTがいかに不充分であったか、という経験をさせることは大変重要。
posted at 00:55:57
【反コミュニケーション能力論(9)】この「不充分」は、学生のみならず、教員の自己反省としても重要。試験は本来のコミュニケーション論からすれば、授業の終わりではなくて授業の再開始でなければならない。
posted at 00:57:42
【反コミュニケーション能力論(10)】この立場に立てば、コミュニケーション教育教員などという者が存在しないことは明らか。OUTPUT→INPUTの展開ができるのは、何をINPUTしなければならないのかを知っている者のみ。コミュニケーション能力論一般なんて存在するわけがない。
posted at 00:59:52
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はじめまして。twitter での刺激的なご発言に、街灯下の蛾のように誘われてここまできました。
さてかねてから、二言目には「コミュニケーション能力」と言いたがる人々に強い違和感を持ち続けていたのですが、昨日神保町を歩きながらつらつら考えていて、その違和感の正体は結局、そういう人たちが暗黙に共有していると思われるある言語観--コミュニケーションがまずあって、言語はそれに奉仕する“ツール”である--に対する拒絶反応なのだと唐突に思われました。
それで今日こちらのブログのいろいろな文章を拝読して、深く納得するものがあり、コメントさせていただきました。
上述のような言語観を称して、吉本隆明さんなら「機能主義的」と評されたのではないかと愚考する次第です。
今後も鋭利で旺盛な言論活動に期待しております。お連れ合い様のご快癒もお祈り申し上げます。まずはご挨拶までにて。