私のブログ論全10講(初級) ― 情報化社会における時間化度の進展(twitter「タイムライン」への道のり) 2009年11月24日
【ブログ論(1)】ブログという媒体が広がったのは、個人的な日記の親近性によってではなく、サイトの更新が頻繁化する(実質的な)端緒になったからだ。更新されない日記などない。ブログは、INPUTとOUTPUTとの距離を一気に縮めた媒体だったのである。
posted at 19:38:07
【ブログ論(2)】ブログの最大の魅力は私的な更新性に耐えられるということだが、欠陥は長所と同じ。更新の頻度が主観的ということだった。結局、それを読む読者に、その分、負荷をかけたのである。
posted at 19:38:58
【ブログ論(3)】その読者の負荷(「主体的に」読みに行くという負荷)を手助けしたのは、RSSだったが、更新の頻度の「私」性に変わりはなかった。
posted at 19:41:59
【ブログ論(4)】ブログ発信の最大の問題は、内容よりも発信頻度の主観性(偶然性)の方だった。あまりに主観的・主体的だったのである。
posted at 19:55:32
【ブログ論5】RSSもまた、登録フィードが少なくても寂しい、多ければ検索をした方が早いという矛盾を抱えていた。ブログもRSSも発信・配信性が主観的だったのである。
posted at 19:57:34
【ブログ論6】ブログの時代はネット上での情報更新性を私的なレベルにまで開放したが、依然としてその情報の一つ一つを適切にさばきうる検索(選択)の主体、インレリジェントな主体を必要としていた。
posted at 20:00:35
【ブログ論(7)】Windows95以降大衆化するインターネット情報時代は膨大な情報に直接対抗する「強力な(賢い・孤独な)主体」が必要だった。
posted at 20:04:43
【ブログ論(8)】しかし世の中にそんな「強力な主体」=「強力な検索の主体」などほとんどいない。使い方を知らないと使えないものを「道具」と言うが、「強力な主体」の時代のインターネットは単に「道具」でしかなかった。
posted at 20:09:07
【ブログ論(9)】ブログの更新性(時間性)が、検索主体にとっては単にストックでしかないインターネット情報を時間化し、インターネット情報に近づきやすい形式を与えた(2000年代中盤以降)。RSSはその時間性を組織化したのである。
posted at 20:14:10
【ブログ論(10)】どんなに有益で膨大な情報のストックも、時間化の契機が与えられないと誰も使わない。情報が「ある」こととそれを「使う」「使える」こととの間には千里の径庭がある。マーケティングで言う「キャズム」差異もそれに関わっている。鍵は情報の時間化ということだったのである。
posted at 20:17:07
(Version 2.0)
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>RSSもまた、登録フィードが少なくても寂しい、多ければ検索をした方が早いという矛盾を抱えていた。
これは矛盾とは呼ばないよね。
さらに、矛盾と呼ぶかどうかは別として、RSSにはユーザーにとってちょうど良いフィード数があるかもしれない。
>どんなに有益で膨大な情報のストックも、時間化の契機が与えられないと誰も使わない。
そんなことはない。例えばGoogleで検索して、ブログに紹介されていないような古い情報を見つけて使うなどということもある。
バカを言ってはいけません。
「ちょうど良い」ようにするためにはどう設定すればよいのかのノウハウを持っているユーザーはそんなにもいないということを指摘しているのです。
依然として、「お気に入り」使っているユーザーが多いという問題です。
「そんなことはない」ことはありません。「検索」をまともに行えるユーザーがどれだけいるというのですか。
莫大なインターネット情報に、孤立した検索主体が向き合うというという図式をみんな脱却すべく工夫(新しいサービス)を凝らしているのです。その一つがtwitterです。