岩波新書『新しい労働社会』の著者・濱口桂一郞さんが、彼への私の言及にコメントをくれました ― こんなことってあるんですよね(朋あり遠方より来る、また楽しからずや)。 2009年10月27日
私が書いたキャリア教育についての論文の中で触れた濱口桂一郞さんの著書『新しい労働社会』(岩波社会)。この著作は書評誌でも話題を呼んでいる著作だが、その労働問題の専門家である濱口さんが自身のブログで、私の言及にコメントをしてくれている。私の孤独な作業にも、労働問題の専門家の読者がいたことに謝意を表して、こちらからも彼のブログを紹介したい。
※これが濱口の『新しい労働社会』。文体も癖がなく読みやすい。オススメします。
以下が彼のブログの該当箇所全文。
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2009年10月26日 (月)
芦田宏直さんのキャリア教育・職業教育論
芦田宏直さんの「芦田の毎日」というブログで、中教審「キャリア教育・職業教育特別部会」の「今後の学校におけるキャリア教育・職業教育の在り方について」についての論評記事が5回にわたって掲載されており、その中で拙著『新しい労働社会』のメンバーシップ論・ジョブ論が何回か引用されております。
ひとまとめにしたPDFファイルは
ブログに分載されたものは
http://www.ashida.info/blog/2009/09/post_378.html(「今後の学校におけるキャリア教育・職業教育の在り方について」(中教審「キャリア教育・職業教育特別部会」)には何が書かれているのか(何が書かれていないのか)? ― 【その1】 )
http://www.ashida.info/blog/2009/09/post_379.html( 【その2】)
http://www.ashida.info/blog/2009/10/post_380.html(【その3】)
http://www.ashida.info/blog/2009/10/post_382.html(【その4】)
http://www.ashida.info/blog/2009/10/post_383.html( 【その5】)
大変鋭く突っ込んだ分析をしておられます。私がつまみ食い的に引用するよりも、是非上のリンク先に飛んで、じっくり読んでいただきたいと思います。
特に、そうですね、拙著に対して極めてブリリアントな批評をいただいたcharisさんには、是非同じ哲学ベースでものを考えている知識人として、芦田さんの見解に対する率直なご意見を伺ってみたいものだと思います。
(いくつかの鮮烈な記述から)
48)従来の終身雇用型の「入口」接続(8)には二つの意味がある。
49)一つは、一括採用、一括解雇(定年制)、職務ローテーション制、年功賃金=年功序列制、企業内組合を前提とした「メンバーシップ型採用」に呼応した、従来の大学の教養主義的な人材育成という意味での「入口」接続。つまり素養(基礎)は学校で作ったからあとは企業で教育して下さいという意味での「入口」接続。これを私は大学型「入口」接続ととりあえず呼んでおく。
※ここで言う「メンバーシップ」というタームを、私はとりあえず濱口桂一郞(『新しい労働社会』岩波新書)から借りている)
50)もう一つは「キャリア教育」と区別された意味での「職業教育」的な「入口」接続。これは従来もっぱら専門学校も含めた専修学校や短大が担ってきた。つまり極度に単純化した言い方をすれば、会社の「一般職」「専門職」(いずれも「総合職」に対立する意味での、つまりメンバーシップを担わない)接続としての「入口」接続。
51)この後者の「入口」接続は、「即戦力」人材と言われてきたものである。
とか、
78)20歳そこそこの若い学生で「即戦力」の専門学校生を喜んで受け入れる企業があるとすれば、それはその企業の人材水準(あるいは仕事水準)が低いだけのことで、褒められたことではない、と小方は言いたいのである。
79)極端に言えば、高校生をマクドナルドが「即戦力」として採用するのと似ている。そのような「マニュアル職」に毛の生えたような「即戦力」論が専門学校の「職業教育」だったのではないか?
80)さらに極端な単純化を恐れないとすれば別の言い方もできる。専門学校の技能業職種は、もともとは大学生が相手にもしない業職種。技能主義的な教育が「手足」教育だとすれば、「頭」となる大学生の「手足」に留まるものだったと言えるかもしれない。
81)この「頭」と「手足」との区別は、結局は「メンバーシップ型雇用」と「ジョブ型雇用」との区別にも繋がっている。
82)「ジョブ型雇用」は、日本的な企業内と企業外の中間地帯を形成しており、非正規雇用やアウトソーシング部門の拡大・縮小、企業内における「スペシャリスト」の位置づけ等に深く関わっている。
83)専門学校の「スペシャリスト」的な「実力」主義論が空回りするのは、「スペシャリスト」というものが企業の本来の「メンバー」ではないからだ。ついでに言っておけば、「ジョブ型」人材の究極のモデルは、「大学教授」である。だから「大学教授」は人の言うことを聞かない(苦笑)。東大の教員以外は大学に対する忠誠心もない(更に苦笑)。
84)専門学校の「就職率」「100%」を誰も本気で褒めないのは、メンバーシップ雇用の周辺における「就職率」だったからである。専門学校は「職業教育」一般を担ってきたのではなくて、ある特定の(階層化された)職業教育を担ってきたに過ぎない。
とか、
75)この「生涯」型接続の従来のモデルは、「職業教育」と対比されている以上、大学卒の社会接続である。
76)それを企業の採用側から言えば、「メンバーシップ」型採用ということになる。
77)「メンバーシップ」型採用は、スペシャリスト(パーツ型人材)を必要としない。テーマ主義的な「職能」よりは、パーソナリティ重視の採用になる。
78)一括採用、一括解雇(定年制)、職務ローテーション制、年功賃金=年功序列制、企業内組合などの「メンバーシップ」型徴表が描く日本企業型人材像のモデルは何か。
79)その人材モデルは教養主義に他ならない。
とか、
91)では、“勉強ができない”とは何を意味するのか? それは「基礎」教育とか、「教養」教育のような、具体的な目標のない教育(ある意味で「抽象的な」教育)に耐えられない無能力のことを言う。
92)そういった学習の極限のモデルは、日本では「受験勉強」。「受験勉強」が「大学生」の「大学生」としてのパーソナリティーを形成してきたが、このパーソナリティーが大学の教養主義教育(基礎教養教育-専門教養教育)の基盤だった。
93)またそれはどんな具体的な色にも染まらないという意味で、メンバーシップ型雇用の基盤にもなっていた。
94)リベラルアーツ型の教養主義が、日本的な雇用制度と親和的な関係を結んでいたのである。
とか、
104)日本の大学には天野の言う「ジェネラルエデュケーション」と対立する意味での「職業教育」(=「専門教育・職業教育」)などかつて一度も存在したことはない。
105)その意味で、「教養教育」の衰退は従来の大学教育全体の衰退でもあった。
106)それは進学率が上がれば上がるほど衰退の度合いが上がっていくような衰退だったのである。
107)そもそも戦後の「新制大学」において「学ぶ」ことと「働くこと(就職)」とが直接に結びついた教育など医学部か法学部のごく一部くらいしか存在していないだろう。
108)それ以外には、大学院進学だけが大学にとっての本来の「職業教育」であって、2009年の現在においても「就職(率)が大学の命」などと考えている大学教授など存在しない。3年生、4年生のゼミ教授さえ考えもしないことだろう。「一流」大学であればあるほどそうだ。
109)だから従来の1、2年課程と対比される専門課程の「専門教育」も「働くこと(就職)」と結びつかない限りは、「専門教養」でしかなかったわけだ。
とか、
134)しかし児美川と本田には共通の前提がある。偏差値分類(偏差値ヒエラルキー)を前提とした進路指導が通用しなくなっているという事態だ。
135)かつては、勉強嫌いな子には専門学校による「就職」教育(狭い意味での「ジョブ型」「職業教育」)が社会「接続」にふさわしいものとして階層化されていたが、大学全入時代の賭場口に立った90年代では、生徒たちの「個性」が優先する進学の窓口が広がり始めた。
136)この生徒たちの「個性重視」による進学指導(進学無指導)は、児美川が期待する意味での「キャリア教育」にそのまま繋がるものではなく、無原則な大学進学を生む素地になったのである。
137)91年以降(「就職」の専門学校は進学率20%前後で停滞しているが)、大学進学率(入学者数も含めて)がうなぎ登りに上昇していくのは、80年代後半に始まり90年代に実質化する「個性重視」主義が大学全入による偏差値ヒエラルキーの解体と符合したことが大きな理由の一つだ。
といった、切れ味鋭い分析が次々と繰り出される様は壮観です。
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以上です。
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(Version 4.0)
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