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 専門学校を「三流の大学」と比べるのは、正しいことなのか?(専門学校「社会福祉教育」論についての補論) 2009年08月14日

専門学校「一条校化」問題(http://www.ashida.info/blog/2009/08/post_371.html#more)の補論を展開しておきたい。

私のFD(Faculty Development)の立場は、(業界からは?)「高度教育」派と呼ばれている。

その反対派の極が先の記事で取り上げた専門学校「社会福祉」教育派だ(http://www.ashida.info/blog/2009/08/post_371.html#more)。いわゆる「できない学生」を集めて「それなりの教育」を行うのが専門学校だ、というもの。この連中は私の講演や研修を受けると、必ず以下のような感想を(顔をゆがめながら)持つ。

「芦田は、いつも東大や早稲田の学生に(入口では負けても出口では)勝てなきゃダメだ、と言うが、それは比較・競争する相手を間違えている。われわれが比較・競争すべきは、偏差値50以下の大学であって、専門学校は一流大学が相手ではないだろう」。

続いてこの連中はこう言う。

「だから、就職率や退学率も、一流大学と比べるべきではない。偏差値50以下の大学の就職率、退学率などなら専門学校も決して劣ってはいない。むしろ勝っている。『できない学生』を相手にした場合には専門学校はまだまだ市場性を有している。芦田の言うような『高度教育』に取り組んだら専門学校はとんでもない高コスト、高リスクを強いられる。そんなことは、『なるほど』とか言いながら適当に聞き流しておいた方がいい」と(苦笑)。

「この連中」と言ったが、全国の専門学校経営者はほとんどの場合、「この連中」だ。

私は、「この連中」にいつも学内外で包囲されながら育てられたようなものだ。だから心から大変感謝している(苦笑)。

「この連中」の考え方のどこが間違っているのか。

それは「大学」と言った場合に、「一流大学」と「三流大学」とを分ける立場に立つということだ。「専門学校」は「一流」には負けるが、「三流」には勝つというように。

ところで「専門学校」には「一流」「三流」の区別はないのか? 大学か、専門学校かで迷う高校生に、大学の方だけは「一流」「三流」と分割するが、大学に「一流」「三流」があるのなら専門学校にも「一流」「三流」があるはずだろう、と問われたら?

そして、では「三流の大学」と「三流の専門学校」とではどちらに進学するのが有利なのか? そして「一流の専門学校」は、どこまで行っても「一流の大学」には勝てないのか? これが素直なマーケット(高校生たち)の疑問だろう。

この疑問に、かの「連中」(=専門学校「社会福祉教育」派)はどう応えるのか?

たぶん、応えることができない。なぜか。専門学校は大学のようには「一流」「三流」といった区別を持てないでいるからだ。校舎や施設や規模が立派でもいい加減な専門学校はいくらでもある。教員の「質」、就職の「質」という点では、全国の専門学校、どこへ行っても変わらない。

どこの専門学校も、「そこそこ」の教育をやっているし、「それなり」の教育をやっているが、それは専門学校教育の教育的、社会的意義なのではなくて、むしろ専門学校教育の無力でしかない。

大学のような格差がないこと自体が、「専門学校」の弱点なのである。格差があることは大学の弱点ではなく、むしろ実力の一つだ。たとえば「東大」が(受験生に)憧れられるようにして、「専門学校」に「あこがれの専門学校」が存在しているわけではない。

だとすれば、「三流の大学」対「専門学校」とは一体どんな比較なのか?

つまり専門学校は一流の専門学校が存在しないという意味で、すべて三流の専門学校だと言った方がいい。比較するなら「三流の大学」と「三流の(三流しかない)専門学校」との比較でしかない。

だからこそ、91年の大綱化以降、高校生は大学を選び続けている。短大は著しく学生数を減らしたが、減らした分、その女子学生たちはほとんどが4大へ流れた。「あこがれの大学」が存在する「大学」の方が(たとえ自分が入学した大学が「三流」であっても)、あこがれの学校が何一つない専門学校へ行くよりもましだと思ったのである。

私は、この問題を先の記事(http://www.ashida.info/blog/2009/08/post_371.html#more)で「移動」という言葉を使って言及していた(以下赤文字がその記事からの引用)。

「三流」の大学でも「三流」の高校でも、「教員」は一流-二流-三流学校間を移動している。国家的な教員資格(「学校教育制度」の中での)というのは、たとえ学生や生徒が(百歩譲って)「三流」でも教員は一定の条件を備えているというものだ。「教員資格」は、学生や生徒が望みさえすれば高度教育を受けることができるということの担保なのである。

言い代えれば、どんな「三流の」大学や「三流の」高校にも、「一流の」教員が少なからず存在している。それが「学校教育制度」の中の「教員」というものだ。

ところが専修学校にこの種の「移動」はない。だから専門学校で「優秀な」学生というのは、教員や教育やカリキュラムや学校体制の成果ではなくて、もともと「頭がいい」学生だったという場合が多い。教員採用自体が「福祉」型なのである。キャリアパスを描けない卒業生教員を数多く採用しておきながら、「できない学生」を嘆くというのは本末転倒した事態。「社会福祉」教育論自体が三流の「社会福祉」教育論なのである。

専門学校関係者が努力しなければならないことは、「一条校」になろうが、専修学校の枠内に留まろうが、「一流」の専門学校とは何かということに真摯になるべきだということだ。「一流の専門学校」がでてこない限り、「専門学校」は「三流の大学」に負け続けるに違いない。格差の存在する専門学校群にならない限り、マーケットに魅力のある学校にはなれない。

「一口に『専門学校』と言ってもひどい学校も混じっているから、『一条校化』はその差別化にはいい機会だ」ともっともそうに言う連中がいるが、それは逆。

むしろ専門学校はどこもかしこも大した違いはない(特に一番肝心な就職の「質」について差はない)からこそ、「三流」なのである。「経営」重視であれ、「教育」重視であれ、学校内実に差がない。30年、40年、50年の歴史と伝統がある学校も新設校も大した差がない。格差がないことこそが三流の証なのである。

「高度教育」と言うのは、専門学校内で格差が明白な学校を作れということでしかない。専門学校内で「移動」性のある状態、つまりいつかはあの学校で教えたいという教員の憧れがない学校群で、学生が憧れる学校になれるはずがない。

なぜなら、どんなにひどい専門学校でも「一流」の学生は必ず何人かは存在しているが、その逆はないからである(どんなひどい専門学校でも一流の教員が何人かは必ず存在しているということはあり得ない)。

どんな学校群の歴史を見ても、その中に「一流」の志と「一流」の実績を持った学校が幾つかでてきて、はじめて学校群全体が「昇格」してきたのである。そのことに「社会福祉」教育論者は目をふさいでいる。→「にほんブログ村」

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投稿者 : ashida1670  /  この記事の訪問者数 :
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