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 自民党、細田幹事長・菅選対副委員長のどこがおかしい― 与謝野、石破、鳩山弟達の方がはるかにおかしいだろう。 2009年07月18日

自民党、細田幹事長・菅選対副委員長の独り言を避暑地・蓼科で耳にした。

「与謝野や石破はなんだよ。あれだけ麻生に重用されてきたのに、最後の最後で裏切りやがって。麻生が誰が見ても最悪の総理・総裁だというのはわかりきってるじゃないか。わかりきっていることを今さら言い出してどうするんだ。そっちの方がはるかに身勝手というものだろ。

俺たちが麻生を擁護するのは、麻生が正義だとかまともだとかいうことではなくて、麻生に選ばれた人間の忠誠としてだ。

忠誠というのは、全てを認めているということではなくて、ボスに対する不満に耐えうるかどうかにかかっている。その意味での忠誠がない人間に『選ばれる』資格はないよ。そもそも、主人なんてものはいつでも不満の対象でしかないじゃないか。それに堪え忍ぶこと(austragen)は、女なら妻の日常だし、男なら組織の美学だ。忠誠心のある俺たちこそが、麻生への最大の批判派なのだ。

それに麻生に『選ばれた』って言ったって、麻生だって何もフリーハンドで選んだ訳じゃない。ボスは部下を選べるが、部下はボスを選べないってよく言うけど、それはほとんどウソ。ボスだって与えられた部下のもとでしか仕事はできない。むしろ与えられた部下を使えるようにするのがボスの仕事。

その意味でも与謝野や石破は勝手にやらせてもらっていたじゃないか。むしろ麻生なんて自分の意見なんか何もないのだから部下から見れば最高の上司。一度たりとも与謝野や石破が麻生を意識して仕事をしたことなんかない。

自分で好き勝手やっておいて、選挙に負けそうになったら急に批判し始める。麻生に、小泉のような批判される主義主張、内実なんかないのだから、むしろ現在の麻生内閣批判とは、自分たち(与謝野や石破)の好き勝手を批判されているといってもいいだろう。鳩山弟だって、麻生内閣じゃないとあそこまで勝手には動けなかったのだから。そもそも与謝野なんか財務省べったりで、それこそ自民党の官僚主義体質そのものじゃないか。どんな顔して『麻生では戦えない』なんて言うのよ。与謝野じゃ、もっと戦えないよ。

それに、与謝野は中川秀直とも連絡を取り合っている。おかしいじゃないか。もともと中川は積極財政派。今回の麻生の補正大判振る舞いは、中川路線と言ってもいいくらい。中川は何が不満なのか。中川は派閥(森=町村派)の立ち位置をなくした焦りから、政局主義になっているだけ。小沢一郎と変わらない。

政局主義がくだらないのは、自分がやっている術策と同じ事を相手もやっているに違いないという心理主義的な同一視を前提にしているからだ。だから戦術論ばかりが前面化する。政局主義は同じ穴の狢闘争にすぎない。

同じように、与謝野が麻生内閣を降りる条件は、三次補正に渡る無駄使いの多い積極財政政策。それが都議選結果で反対というだから、わけがわからない。中川も与謝野も、麻生の何に不満なのかさっぱりわからない。その上でもともと政策の合わない与謝野と中川が連絡を取り合うというのだから、二人が『連合』して、民主党に勝てるはずがない。

むしろ、この二人こそが自民党の窮乏を本当のところわかっていないのではないか? 『改革派』というのはいつでも反動的なのだ。相対的な差異をおおげさにあげつらって、最後には自己保守に走る。

その点、われわれ(細田+菅)は負け忍ぶこと(austragen)を知っている。格好が悪い、ということから逃げないのが保守本流だ」。

こんな、細田と菅の独り言(二人言?)を、昨晩夢見てしまった。二人の苦渋に満ちた顔が印象的だ。→「にほんブログ村」

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投稿者 : ashida1670  /  この記事の訪問者数 :
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感想欄

サラリーマンになって6年。

自分の日頃の不満は「忠誠心」について全くわかっていないことからきている身勝手な思い込みからだとわかりました。

投稿者 ぼにょ : 2009年07月18日 12:45

政治を志している者ですが、大変参考になりました。一つ質問させて下さい。austragenって、何語ですか。英語辞書には載っていません。

投稿者 匿名 : 2009年07月18日 21:37

austragenは、ドイツ語の動詞です、「アオストラーゲン」と読みます。

通常は、配達する、臨月まで懐胎する(持ちこたえる)、耐える、決着を付ける、調停するなどの意味があります。

ausは、接頭辞で英語で言えば、out。tragenは、英語ではcarryですから、aus-tragenは、「外へ運び出す」という意味です。

私は、この言葉をハイデガーの『同一性と差異』(1957)から学びました。何年読み続けてもわからない言葉だったのですが、30代半ばにやっと少しわかるようになりました。

この言葉は、ヘーゲルの否定性(否定性を通じた存在と思惟との同一性)に対して用いられています。

ハイデガーは「存在のAustrag(austragenの名詞形)」と言います。日本語訳の翻訳者・大江精志郞は、これを「定まり」と訳していますが、ちょっと違います。

このAustragは、存在が存在と存在者との差異(存在論的差異)に「耐えている」ということを意味しています。一言で言えば、「存在の耐忍」(あるいは「存在の外運」(私の訳語)です。

差異をヘーゲルのように否定的に解消するのではなくて、差異を受け止め、忍んでいるということです。

私には、与謝野、中川、鳩山弟などがヘーゲルのように見え(こんな類比はヘーゲルに怒られますが)、細田や菅が「存在の耐忍」に見えたのです(これもハイデガーにもっと怒られそうですが)。

こんな類比を持ち出す必要もなく、austragenは、普通の意味で、この状況に馴染んでいます。大江精志郞では、この状況はわかりません。


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投稿者 ashida : 2009年07月18日 21:58
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