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 『あの日の指輪を待つきみへ』 ― 一つの喪失の成就  2009年07月08日

『あの日の指輪を待つきみへ』(http://www.yubiwa-movie.jp/)、見ましたか。2007年の映画ですが、私は今頃見て泣き続けています(苦笑)。

この映画は戦争映画ではありません。『ニュー・シネマ・パラダイス』(http://n-c-p.jp/)が古良き映画の時代を描いた作品でないのと同じように。

若いときの約束はそれが純真であればあるほど裏切られる。そして裏切られること自体がその約束の意味をより重くする。

言い換えれば、〈約束〉の〈意味〉は、約束の〈そこ〉にはない。それはいつも当事者の意識を超えて遅れてやってくる。「若いときの約束」と言うより、約束というのはいつも「若い」ものなのだ。そして青春とは、〈約束〉=PROMISEであり、一つの未決(PRO-MISE)、先延ばしであり、未決であるために一つの〈永遠〉を拘束する。

この未決としての永遠を担うには人間の時間はあまりにももろい。それは若い人間もいつかは老いるという時間よりもはるかに異次元な時間だ。時間的な時間ではない。〈人生〉でもない。

『あの日の指輪を待つきみへ』の主人公は、最後のシーンで友人と抱き合うが、これは「長い時」を経た赦しの時間ではなく、一つの約束の再現なのである。この最後の抱擁のシーンにこそ約束(=未決)の純粋性が再度出現するのだ。だからこのラストシーンは美しい。

それは『ニュー・シネマ・パラダイス』の主人公が長い時を経て、隠され続けたラブシーンの集積を見せつけられるシーンに似ている。彼は「失われた時」を最後になって回復しているのではなくて、再度そのキスシーンの意味を失うようにして泣き崩れるのである。

キスシーンの遅れたプレゼントは獲得の成就ではなく、一つの喪失の成就である。私には『あの日の指輪を待つきみへ』の主人公の最後の抱擁は、『ニュー・シネマ・パラダイス』の主人公が泣き崩れる最後のシーンに重なって見えた。

『あの日の指輪を待つきみへ』が公開された当初、どんな反響があったのか私には全くわからないが、この映画の意味は私にしかわからない(苦笑)。「私にしかわからない」というように普遍的なものになっている。いい映画だ。→にほんブログ村
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投稿者 : ashida1670  /  この記事の訪問者数 :
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感想欄

いつも拝読しております。

この映画さっそく観ました。

久しぶりに病気忘れて泣きました。

小生三年前から つれあいに介護してもらう立場となり毎日 ためいきの日々です。手も不自由で長くはかけません。

生きていくしかありません。

投稿者 saki : 2009年07月08日 22:39

いやー、参りました。映画より、何かじーんと来ました。「SAKI」さんのこのコメントを読んでも、やはりこの映画はいい映画だと思いました。いい映画はいい感想を持つのです。

「SAKI」さん、私はあなたの最後の言葉「生きていくしかありません」の意味を重く受け止めました。この「生きていくしか」の「しか」は、限定辞ではないですよね。何かポジティブなものを感じました。「生きていくのだ」という意味をもっと強く言っているように私には思えました。

私は、男というものは、いつも「約束」をし続けているような気がします。「約束」は守られても守られなくても、「約束」なのです。それ自体に意味がある。

そのようにシャーリー・マクレーン演じる主人公は、男の「約束」を信じた。最後の友人とのシーンは、もうあなたは充分に男との「約束」を守り、一人の男を一生に渡って愛した、もういいではないか、という赦しの時のようにも見えますが、私はそう思いませんでした。

主人公の恋人は、最後に「自由に生きろと伝えてくれ、自分の人生を好きに選べと伝えてくれ」と言いますが、それは「約束」の否定ではなく、「約束」の純粋な遂行でしかありません。死ぬ間際においてもそう言える彼との「約束」だったのですから。

主人公は、「死んでしまった人との約束を守りますか」と恋人が死んだベルファストの丘を一生をかけて守る「約束」をした男に聞く(この映画には「約束」をする者ばかりが出てきます)。そして「一度約束をしたら一生ついて回るのよ。たとえ破っても自由にはなれない」と主人公は自分で応える。

そんな彼女に「赦しの時」はない。「約束」は反自然であり、生きながらにして死ぬことなのです(たぶんこの脚本の著者はユダヤ主義者です)。

「約束」が美しいのは、禁欲的だからです。禁欲こそが愛の本質だとこの脚本の著者は語りかけている。愛の本質は「約束」なのです。

あなたは「ためいきの日々」と言います。そんなのは、被介護に特有なものではないですよ。主人公もまた「50年」以上にもわたって「ためいきの日々」だったのです。だから美しい。

だから「あなたの生きていくしかない」という言葉もまた生きることそれ自体ではなくて生きることの「約束」なのだと思います。まさに生きていく「しか」ないのです。

そんなふうにあなたのコメントを読み返しながら、再び私は『あの日の指輪を待つきみへ』を今見ています。ベルファストの丘での5分間のラストシーン(ベルファストの丘を守る三人と主人公との)は圧巻ですね。何度見ても息が詰まるようにして涙が出てきます。

投稿者 ashida : 2009年07月09日 04:43
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