なぜ三流の専門学校は「コミュニケーション能力」に走るのか(大学がコミュニケーション能力に走るのはまだわかるが) 2009年06月02日
専門学校で流行っている教育テーマの一つに、「コミュニケーション能力」育成というのがある。専門学校だけではなく、大学でもそういった取り組みが見られる。
厚労省が20004年に11255社に対して実施した、企業が若年者に求めている就職基礎能力調査の結果を見ても(回収率は13.1%)、高校卒業レベル、大学卒業レベルどちらもで「コミュニケーション能力」を上げた企業は85%を超えており、トップの要求をなしている。この調査結果は、最近では「YES-プログラム(=Youth Employability Support Program)」(http://www.mhlw.go.jp/houdou/2007/03/h0319-2.html)に結実している(私は膨大な税金の無駄使いだと思うが)。
「社会に通用する能力を持った人材育成システムで、就職を希望する若年者には目標と自己アピール力を、即戦力を求める企業には客観的な判断材料を提供します」と山本浩司(厚生労働省 職業能力開発局 能力評価課 課長補佐)は言っている(http://www.nipponmanpower.co.jp/add/yes/interview.html)。
2004年「コミュニケーション能力」(厚労省)だけではなく、2003年の「人間力」(内閣府)、2006年の「社会人基礎力」(経産省)、2007年の「学士力」と、この「力」ばやりの傾向は止みそうにない。これに「生きる力」「問題発見・解決能力」「創造力」「実践力」など、いくらでも同種の取り組みをあげることができる。その中の代表的な能力が「コミュニケーション能力」とも言える。
現に専門学校の大概の就職担当は口を開けば、「コミュニケーション能力が重要」と言うし、その次には「企業もそういうことを(真っ先に)要求している」と言う。
厚労省の分類によれば、「コミュニケーション能力」は、意思疎通、協調性、自己表現能力の三つによって構成されている。
〈意思疎通〉は、「傾聴する姿勢」「双方向の円滑なコミュニケーション」「意見集約」「情報伝達」「意見の主張」といった細目を持つ。〈協調性〉は、「相手の尊重」「組織・人間関係」、〈自己表現能力〉は「情況にあった訴求力のあるプレゼンテーションを行うことができる」となっている。
どれもこれももっともなことだが、ここまで書かれると、これがどう「若年者就職基礎能力」なのか、訳がわからない。私自身が身につまされることばかりが書いてある。
この種の〈力〉能力の特性の一つ一つは、学校教育に特有な課題ではないということだ。「若年者」を離れれば、大概の大人は「コミュニケーション能力」を身に付けているというのか。そんなことはあり得ない。世の中の組織の会議(民間であれ、官庁であれ)で、まともな議事が進行する会議がいくつあるというのか。ほとんどの場合は、「コミュニケーション」不全状態でしかない。
大人の自分たちでさえコントロールできない「コミュニケーション」を、なぜ「若年者」に特有な課題(あるいは学校教育に特有な課題)であるようにでっちあげるのか。私にはそのセンスがわからない。
その場合にでも、そもそも現場(=社会人の現場)にその種のコミュニケーション能力が不足しているのは、学校教育におけるコミュニケーション能力育成の不在にあるとでも言うのだろうか。
しかしだとしたら、誰がそのカリキュラムを書けるのか? そもそも現場(=社会人の現場)でさえ混乱があるテーマについて、誰が「コミュニケーション」カリキュラムを書くのか。誰がどんな資格(条件)を持ってして教壇に立つのか?
現代史でさえ「教科書」になりづらい情況で、超現代的な「コミュニケーション」テーマの専門家を誰に指定するのか。大概の場合、「コミュニケーション能力」開発の「専門家」とやらが(現代史の専門家以上に)いかがわしい連中によって構成されているのは誰でもが知っている。その上でなお、コミュニケーション能力「講座」が存在しうるのか?
ところで、「コミュニケーション能力」教育に代表される「力」教育の反対語は何だろう。
それは「専門教育」に他ならない。
たとえば、専門門学校の理美容・ビューティ系、動物看護・健康系、医療福祉系などの学校案内パンフレットを見ていると、知識・技術、資格、「のみならず」、お客様に「心」をもって応対する力を育成します、という「心」系のキャッチが必ずついて回る。もう少し学校案内パンフレットの中身を読んでいくと、「コミュニケーション能力」を育成しますとある。知識・技術、資格と並んで「心」や「コミュニケーション能力」が教育主題になっている。
専門学校のような具体的なキャリア教育を行う学校で、「心」や「コミュニケーション能力」が専門知識や技術とは別に主題になるとはどういうことか。
これらの分野では、「お客様を大切にする」ということの意味は、まるで自動車ディーラーの営業マンと同じような意味で重要なものと考えられている。
つまり、美容師、動物看護師、理学療法士、作業療法士などの仕事は、ほとんど営業並みのキャッチで飾られている。
「メイクや肌の手入れなどに関する専門的な知識とテクニックにとどまらず、豊富な商品知識と高い販売技術が欠かせません」「動物に関する幅広い知識はもちろんですが、飼い主さんのいわれることをきちんと聴いて理解する力、また獣医師や動物看護師の立場から、飼い主さんに分かり易く説明する能力が必要となります」「リハビリの現場で求められる豊かな人間性やコミュニケーション能力を持った人財の育成をめざしています」「食事や入浴などの介護技術だけでなく、あたたかい思いやりをそなえた介護福祉士が求められています」
ここには無用な混同がある。「メイクや肌の手入れ」「動物に関する幅広い知識」「食事や入浴などの介護技術」は、いずれも専門的な知識や技術に属している。この種の専門性は自動車のセールスマン=営業にはない。
営業が接遇の技術(「技術」と言っていいのかどうなのかわからないが)を会得するようにしては、それらの専門知識は獲得することができない。営業も売るものについての知識を持っているべきだというのはわかるが、それらは二つの点で「メイクや肌の手入れ」「動物に関する幅広い知識」「食事や入浴などの介護技術」などの専門知識と異なっている。
一つは、クルマの営業の場合、クルマのことについてよく知っている人間が必ずしも車をよく売るとは限らないということ。二つ目には、クルマの営業がクルマを「知る」ということは、クルマのメーカーや整備士がクルマを「知る」ということとは全く別の意味でのことだということ。
別の言い方もできる。クルマの営業がクルマを売るためにどんなにクルマのことを「知る」ことになっても、またその経験を何十年と重ねても、だからといって彼がクルマを作ったり、整備したりすることはできない。しかし彼がクルマを作ることが「できない」、整備「できない」ことはそれ自体、彼の営業成績とは何の関係もない。
「商品知識」というのは、専門的な勉強と関係なく身につく知識のことを言う。〈営業の知識〉はむしろ限りなく〈ユーザーの知識〉に近い。だから、専門的な勉強を何もしていない大学生の仕事のほとんどは営業の仕事しかないのである。工学部を出ても営業職につく学生がいまや何と多いことか(苦笑)。
では、専門的な知識とは何か? それは勉強をしないと身につかない知識のことを言う。「メイクや肌の手入れ」「動物に関する幅広い知識」「食事や入浴などの介護技術」を、営業が「商品知識」を知るようにして知ることなどできない。営業の「商品知識」が「専門的な」(=営業に特有な)知識でないのは、その知識が在るからと言って、営業の目的である〈売る〉ことに貢献することには繋がらないからだ。営業に〈知識〉が必要である度合いは人間性(=人柄)が重要、話し上手が必要という度合いとほとんど変わらない。その意味で営業にとっては〈知識〉は道具に過ぎない。
それに比べて「メイクや肌の手入れ」「動物に関する幅広い知識」「食事や入浴などの介護技術」にとっての知識は人間性と代替される道具ではない。それらは「専門的な知識」がないと対象に関われない領域を有している。知識は相対的な道具ではなくて対象そのものに関わっている。
「肌」「動物」「生体」などについての科学的な(=反経験的な)知識なしには、それらと関わることは困難。営業の「知識」とは一線を画している。
人柄がいい、笑顔がいい、マナーがいい、話がうまい、説得力があるなどということとは全く独立に獲得されなければ得られない「知識」の質が存在している。
専門学校がいくら「実習の専門学校」であっても、わざわざ大学と同じ年間授業料を払いながら学ぶ意味は、その実習が「知識」を介在させなければ手を動かす意味がない領域に踏み込んでいるからだ。
実習授業における知識の有無は技術教育(知識有り)か技能教育(知識無し)かの区別を画している。
最近、私は工芸学科をもつ専門学校の科長とお話をする機会があった。特に靴のデザイン、カバンのデザインを行うコースの実習を見学させてもらった。「大学に負けるところはどこですか」と聞いたら、専門学校では「運動靴のデザインができない」とお話しされた。理由は、足の生理学についての授業が専門学校では無理」とのことだった。100メートルをコンマ何秒の単位で早く走らなければいけないときの靴の造形は、造形の主観的な美だけでは済まない「知識」を要求されるからだ。
同じように「メイクや肌の手入れ」「動物に関する幅広い知識」「食事や入浴などの介護技術」も心理的な(顧客の)満足やコミュニケーション能力に解消されない「知識」(の質)を要求されている。
この質の度合いは、高度教育の度合いと同じものだ。「メイクや肌の手入れ」「動物に関する幅広い知識」「食事や入浴などの介護技術」に関わる教育が、「心理的な(顧客の)満足」「コミュニケーション能力」に浸食される度合いは、わざわざ高度教育(=高等教育)を受けるまでもない程度の専門性しかないということにすぎない。つまりその教育は「技能教育」に留まっている。年間100万円以上の授業料を払ってわざわざ受ける教育ではない。
大学生がコミュニケーション能力に代表される抽象的な「力」能力を要求されるのはまだわかる。彼らの学びは工学部であってさえも専門教養主義的な学びに留まっており、学びの内容が具体的な人材教育にまでは結実していないからだ。
大学における「力」能力論は、具体的な人材教育の不在と裏腹な事態に過ぎない。
専門学校が美容や動物介護や障害者介護という具体的な人材教育に定位しながらも「コミュニケーション能力」教育が必要、というのは、大学教育とは別の意味で専門教育が出来ないということを露呈しているだけのことだ。
それは技能教育程度のことしかできない(だからまともなカリキュラム開発や教材開発ができない)教員しかいないということを意味しているのかもしれないし、それ以前に、わざわざ高等教育が介在する必要もない領域を非文部科学省系官庁のプレゼンスのために若者を高等教育から逆に遠ざけているのかもしれない。
小杉礼子(労働政策研究・研修機構)は、キャリア教育・職業教育特別部会(文部科学省)の報告書の中で(http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo10/shiryo/__icsFiles/afieldfile/2009/04/17/1259019_7.pdf)、〈力〉能力の分類整理に(無用に)紙幅を割いているが、一つだけ重要な指摘をしている。「就職担当教員が多く、キャリア支援の講義・学内推薦での応募を行っている大学ほど未内定の学生や無活動の学生が多い」というものである。
「キャリア支援の講義」とは、まさに〈力〉教育の掃きだめのような講義である。大学の就職担当部署が充実するのは、メインの専門カリキュラムで人材教育が出来ない大学教育の無能を示している。
にもかかわらず、具体的な人材教育を担う専門学校が、なぜ、「コミュニケーション能力」育成を担わなければならないのか。「コミュニケーション能力」尊重に専門学校が走る度合いは、専門学校が担う「専門性」がカリキュラムにおいても教材開発においても教員の質においても貧困だということの度合いにすぎない。
(Version 6.0)
※このブログの現在のブログランキングを知りたい方は上記「教育ブログ」アイコンをクリック、開いて「専門学校教育」を選択していただければ現在のランキングがわかります)
この記事へのトラックバックURL:
http://www.ashida.info/blog/mt-tb.cgi/1069
具体的な人材教育を担う専門学校が、なぜ、「コミュニケーション能力」育成を担わなければならないのか。「コミュニケーション能力」尊重に専門学校が走る度合いは、専門学校が担う「専門性」がカリキュラムにおいても教材開発においても教員の質においても貧困だということの度合いにすぎない。
まさしく、芦田先生が書かれているとおりです。
私も専門学校で勤務しているときは
疑問に持っていたことです。
専門性の向上させて
真のスペシャリストを育成しようとしていたのですが、
法人本部からの指示で「コミュニケーション能力」向上のカリキュラムを組み入れさせられた経験があります。
たしかに専門的なカリキュラムが貧弱だったから
学校側としては仕方のない選択だったかもしれません。