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 大学における「キャリア教育」の行方 ― なぜ大学は「「コミュニケーション能力、課題発見・問題解決能力、分析力…」に走るのか(なぜ、専門学校はそれをまねようとするのか)。 2009年04月17日

昨日は松山(愛媛)の出張帰りに、情報教育協会の常任理事会があり、羽田から市ヶ谷の私学会館(アルカディア市ヶ谷)に直行。開始時間から1時間以上遅れていたが、途中、品川から「まだ私が行く意味がありますか」と事務局の赤羽さんにこっそり連絡したら「充分にあります」とひそひそ声で言われ、「わかりました」(苦笑)。

久しぶりに理事の皆さんとお会いしたが、古賀校長(日本電子)と福岡校長(神戸電子)と会議が終わって懇談。古賀校長がおもむろにカバンからIDEの機関誌『現代の高等教育』(http://ide-web.net/publication/index.html)の最新刊特集「就職危機再来への戦略」を取り出し、その中の広島大学の松永征夫(前広島大学キャリア支援センター長)の論文「社会が求める人材育成を目指して」を、私と神戸電子の福岡校長に紹介。「社会が求められている」能力は広島大学では「コミュニケーション能力、課題発見・問題解決能力、分析力、IT力」ということらしい。そこで「課題発見・問題解決能力」育成に注力する神戸電子の福岡校長に意見を欲しいというもの。

私は「まだそんなこと言ってんのか」と言いたかったが、そこは我慢してその場をしのいだ。今日の朝、福岡校長と私とに、その論文のページをスキャニングしたファイルを古賀校長が送ってきた。親切だぁ。

感想を欲しい、ということでしょう。では感想を述べます。

この論文(レポート)はくだらない。レポートでさえない。自分たちのやっていることを脈略もなく紹介しているだけです。

大学で全学で共通する教育目標を掲げるとなにが起こるか。必ず「コミュニケーション能力、課題発見・問題解決能力、分析力、IT力」などということになります。抽象的な目標になる。特に「力(りょく)」を付けるのは、当世のはやりです。何も考えていない証拠です。「特色GP」「現代GP」「教育GP」の取り組みのほとんどが、この「力(りょく)」教育のオンパレード。下手な広告代理店か、下手な広告代理店のような無責任な教員が作文しているだけです。

なぜか。こういった(抽象的な)教育目標は各学部の講座(諸科目やゼミ)の内容を全くいじらないで済むからです。学部の教授達は、こういった教育目標を「学長+副学長」や「学部長」や「カリキュラム委員会」や「FD委員会」から提案されても反対はしない。自分のシラバスを変える必要がないからです。

それらは非常勤の外注教員がやってきてオプショナル科目のなかで消化されるだけのこと。だから教授達はそういった「教育目標」に反対もしない。会議ではすんなりと通過します。

何科目かのオプショナルな科目のオプショナルな教育をやっておいて、「就職難」に対抗しようとしているのだから、「就職難」をなめているとしか言えない。「キャリア支援」「キャリア教育」そのものが今の大学ではオプショナルなのである。

しかし一方で「全学部で導入された教育プログラムの到達目標には社会から求められているコミュニケーション能力、課題発見・問題解決能力、分析力、IT力」と言われ、「本学の教育目標」は『21世紀の課題の解決に対し挑戦し、行動する人材育成』をキャリア教育の視点から目指す」ともある。キャリア教育は中核を担うかのような言い方もされている。

だとすると、「キャリア教育」は何と対照された概念なのか? 「学部教育」か? 「専門教育」か? 「教養教育」か? 

それらと「コミュニケーション能力、課題発見・問題解決能力、分析力、IT力」「21世紀の課題の解決に対し挑戦し、行動する人材育成」とはどんな関係にあるのか?

一体、大学にはいくつの種類の「教育」があるのか? それらと「教育目標」や「人材目標」(文部科学省)との関係はどうなっているのか? そしてそれらと「就職」との関係はどんな関係にあるのか?

もちろん、松永のこの論文は、何も答えてはいない。たぶん100年かかっても松永は何も書けないだろう。

「人材教育」と言うのなら、学部のカリキュラムで学生達がいちばん時間と労力を費やしている勉強(コア科目=必修コア科目)が、その中核を担わなくてはならない。そうでないと「人材」を作ることはできない。

中核科目が「進路・職業選択支援」「就職活動支援」であるはずがない。前者は低年次用、後者は3年次生・博士課程前期用のキャリアセンターカリキュラムらしいが、これらは中核科目との関連、つまり教務指導と関係なく行われている。たぶん、学部の教授達には何の関心もないものであるに違いない。

したがって、このキャリアセンターカリキュラムの「自己点検・評価」もくだらないものに留まっている。

「1998年5月1日に、全国の国立大学の中で最初に学生就職センターを設立した」(松永)が「就職率の改善は見られなかった」(2000年前後の学部就職率は70%中盤:芦田註)。その後、「就職指導が強化され」「2002年にはその就職率が80%台に回復した」と松永は言う。

しかし松永は、「就職率が回復したのは景気回復と団塊世代の大量解雇により、企業等の採用意識が強いことを反映しているものと思われる」とも言っている(全く正しい分析だ)。要するにキャリアセンターの成果指標を見出せないでいる。成果などほとんどないのである。

挙げ句の果てに、1998年度の「支援満足度」が20%から45%(2004年度)に上がったと、学生アンケートに逃げ込んでいる始末。しかも2009年4月の論文でなぜ2004年度の満足度なのか? 自校内のデータで、なぜ最新データを提示できないのか?

なぜ、こんなくだらないことしか学生支援センター=キャリアセンターは言えないのか。

理由ははっきりしている。コアの科目の改編に興味がない、コアの科目に手を出せないキャリアセンター、つまり「人材」を教育することに何の関係もないキャリアセンターが就職率(あるいは就職の質)を上げることなどできないからだ。

少なくとも就職難の、学生の実力が必要とされている局面では就職成果など出るはずがない。「実力」とは時間をかけて作り出すことでしかないからだ。コアの諸科目で担うことによってしか、「実力」は形成できない。とってつけたようなお任せ講師(たとえばリクルートあがりのお調子者講師程度)のキャリアデザイン指導でどうやって「実力」を作るというのか(どこの大学とは言わないが)。

同じ広島大学(高等教育研究開発センター)の准教授小方直幸は、就職支援の強い学校は「教育の本体」の改革に向かわないと言っている(http://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E5%B0%8F%E6%96%B9%E7%9B%B4%E5%B9%B8)。

というか「教育の本体」の改革に手をつけようとしない結果が「キャリア教育の充実」という事態なのだ。それは教務の教育力(学校本来の教育力)で就職させるのではなく、就職ネットワークやパーソナリティ指導で就職させているだけのことなのである。

「私は、『就職課ががんばればがんばるほど、教育内容は衰退する』と、昔から言っています。教育コンテンツや教育メソッドに教員が目を向けなくても、就職課が出口で就職率を稼いでくれるから大丈夫だと勘違いしてしまいます。就職させることは大切ですが、そこだけに力を注ぐことが、教育の本体に手をつける視点を奪ってきたのではないかと思います」(小方直幸『キャリアエデュ』NO.26)

小方のこの意見は全く正しいが、同じ大学の中で、こんなことを言う先生がいるのだから、大学がいかにそれぞれ勝手に動いているのかがわかる。

要するに、意見調整できない、本格的なカリキュラム改革に手をつけられない、かつ誰もが反対しないが誰もやる気のない教育目標が「コミュニケーション能力、課題発見・問題解決能力、分析力、IT力」「21世紀の課題の解決に対し挑戦し、行動する人材育成」なのである。

広島大学で2006年から始まった「到達目標型教育カリキュラム」(HiPROSPECTS)は、たしかにコアカリキュラムの改革に着手しているが、履修表を見ると「選択必修」型のカリキュラムに未だなおとどまっている。選択科目が多いということは、人材目標育成がいまだなお一科目内にとどまっているということだ。シラバスは書き換えたかもしれないが、それはどうんなふうにもこじつけがきく抽象的な目標(「コミュニケーション能力、課題発見・問題解決能力、分析力、IT力」などの「力(りょく)」目標)を先生たちが個人的に解釈して書き直しているだけのこと。「人材目標」に向かって諸科目が積み上がっていくという本格的なカリキュラムにはほど遠い。

「到達目標型教育」の本来のあり方は、一科目の仕上がり(OUTPUT)を他の科目(他の教員の他の科目)のINPUTに繋げるような科目の「第3者評価」体制を取らないかぎり、意味がない。到達評価は、一科目内の到達評価にとどまる限りは、シラバスの詳細化がカリキュラム改善に繋がらないように、評価の改革には繋がらない。それは曖昧さを詳細化しているだけのことである。

結局のところ、そういった抽象的な教育目標は、教育目標形成を棚上げにする目標に過ぎない。

なぜ、大学はキャリア教育、人材目標を棚に上げたいのか。それは先生達が就職に興味がないからである。

大学の就職指導(あえて「就職」という言葉を使うとすれば)とは、大学院進学でしかない。そもそも本来の大学とは博士課程後期までを、すべての学部学科で備えている大学のことを言う。私の考える「三流大学」とは博士課程後期を、開設する全ての学部学科で有していない大学のことだ(学生の偏差値と、「一流」「三流」とは直接関係ない)。博士課程後期が存在しないということは自前で自校の教員を作る能力のない大学を意味するからである。

大学の先生の目標は自分の弟子を作ることなのだから、企業就職など意識できるはずがない。専門学校と違って、大学の教員は企業側に向かって相対的な独立性を有している。そのことこそが大学の矜恃というものだ。そんな大学で「キャリア教育」を担えるはずがないではないか。

「研究から教育への転換」というのは大学全入時代の大学の大きなスローガンになっているが、このことの意味は、キャリア教育=就職指導を教授達のコアの科目で担いなさいということである。もはや就職指導が「就職センター」の仕事ではなく、教務の仕事であることが「研究から教育への転換」の意味するところである。

それをわかっている大学関係者は少ない。「教育」を「教授法」程度の意味でしか考えていない。しかし文部科学省は「人材教育」と言っている。「人材教育」とは就職指導と同じである。最近では専門学校にさえ入学できない高校生を大学が入学させ始めているのだから、もはや「人材教育」とは大学院進学とは何の関係もない社会人教育なのである。つまり実務家教育でしかない。文系も含めて大学教育(大学の学部教育)が、どう実務家教育を担うのか。それが大学全入時代の大学に求められている。

求められているが、混迷を続けている。広島大学も中途半端な大学なのだ。

なぜ、こんなくだらない論文を古賀校長ほどの人がカバンに入れて持ち歩いているのか。意味不明。

以上、私の感想でした。

※すでに私はこのことに関して、以下のレポートで報告している ― 『専門学校の組織改革(その1) ― 就職センターを教務部に内属させること』(2009年02月17日)http://www.ashida.info/blog/2009/02/post_329.html

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感想欄

古賀です。
相変わらず、散々に書いて頂きましたね。

 先ずIDE「現代の高等教育」は、論文集ではありません。(ご存知の事かもしれませんが、)毎号高等教育に関するテーマを設定して、そのテーマの関係者等の記事が掲載さているものです。

IDE大学協会は、天野郁夫氏や絹川正吉氏等が理事を務める協会で、「現代の高等教育」は、高等教育に関心のある多くの方々が読んでいるものです。(専門学校関係者で読んでいる人は少ないようですが、)前号、前々号の2回にわたって、広島大学小方准教授も、「アウトカムアセスメント」について書いていました。

 広島大学松永征夫氏の記事を福岡先生と芦田先生に、ご紹介したのは、お二人が「問題解決能力」について、意見を闘わせている場面をよく拝見したので、他校の取り組みが何かの参考になるのでは思ったからです。(福岡先生からのメールの「酒の肴」にしようとする程、悪気はありません。)また、私自身が、広島大学の取組みに特別関心がある訳ではありません。(カバンに入れていたのは、IDEの今月号で広島大学松永征夫氏の記事だけを入れていたのではありせん。)

 そうしたこともですが、以前「大学と専門学校への進学率」に関する芦田先生の記事のなかでに、重回帰分析の目的変数と説明変数の取扱いに関する基本的な誤りがあるのを指摘させて頂きました。その誤りの訂正を含めた、同テーマのその後の記事の掲載を期待して待っていたのですが、如何なものでしょうか。(既に掲載されていたのでしょうか)

投稿者 古賀 : 2009年04月18日 09:14

古賀校長、どうしたんですか。私は送っていただいた「論文」について感想を書いただけです。

IDEの松永のものが「論文」かどうかは、私の議論と何の関係もありません。そんなことを古賀先生なら言い出すかもしれないと思い、昨夜のUPして間もない時間に、「この論文(レポート)はくだらない。レポートでさえない」と書き換えておきました。

しかし、得てして教育関係の「学会」の「論文」もこの松永程度のものです。松永が悪いのではありません。そもそも「論文」とそれ以外を古賀先生はどう分けていますか。詳細な「引用文献」(特に未邦訳の)と「註」があれば論文ですか? 「権威ある学会誌」に載れば「論文」ですか。

そんな区別あるわけがないではないですか。雑談やちょっとしたレポートの中にこそ、その当人の実力は現れるものです。学会誌の「論文」はむしろそういった実力(のなさ)を覆い隠すためのレトリックを磨くためのものです。

進学率の件に関しては、訂正するほどのこともないと思いそのままにしておきました(もちろん訂正してもいいのですが)。私のあの場所での関心は、専門学校マーケットは、大学マーケットほど明確な変数を持っていないということです。

大学進学率、専門学校進学率、就職の三つは、高校卒業の従属変数ですが、所得、偏差値はそうではない。だから5つの変数を同列に扱うのはおかしい。従属変数同士の相関が高いのは当たり前じゃないか、というのが古賀先生の指摘ですが、それは全く正しい。

しかし、大学はその従属変数なみに所得や偏差値と強い相関を示すマーケットが存在している。専門学校はその従属変数の相関さえもない、マーケットの混沌がある、というのが私の指摘です。専門学校は従属変数である就職率との相関よりも所得や偏差値との相関の方が強い。それでも大学よりも相関は低い。マーケットが読めないのです。それが私の指摘です。以下が私の結論部でした。

「大学進学率は専門学校進学率、就職率、所得、偏差値の三要素ともそれぞれ、0.65、0.68、0.67と非常に高い相関があるが、専門学校は、就職率、所得、偏差値とも、それぞれ0.20(正相関),0.47(負相関)、0.41(負相関)と大学ほど高い相関はない。全体的に言ってやはり専門学校のマーケットが見えない状況にある」。

そもそも「従属変数」か「独立変数」かは意味論解析です。形式的な相関分析をまずやって、この相関が強いのは、「従属変数」だから、といった意味論的な説明を加えるわけです。そうやって分析要素を正しい解を求めるためにどんどん減らしていく過程のひとつにすぎません。私はその一番最初の(素朴な)形式的な相関を見ただけのことです。従属変数だから(独立変数よりも)相関が強いとは限りません。現に専門学校の方は大学よりも、従属変数、独立変数の意味論アプローチが意味をなさない結果になっています(従属変数よりも独立変数の方が相関が高いものがいくつもある)。まさに「専門学校のマーケットが見えない状況にある」のです。

だからあえて訂正していません。所得相関が、大学進学や専門学校進学を決めているという古賀校長の立論は、いくつかの同様の主張をする学者がいるのは百も承知していますが、ほとんど意味をなしません。もし所得相関が一番強いというのなら、90年代~現在に至る女子短大層の、4大への大移動は全く説明出来ないからです。

でも、こんな議論はすでに私は何度もやっています。広島大学の今回の記事とは何の関係がありません(苦笑)。そもそも古賀校長は「問題解決能力」育成について(それを教育のテーマとすることについて)、どうお考えですか。人に読めと勧めておいて、一切コメントがない。その上、「論文」」じゃないよ、と訳のわからないコメントを返すのはおかしいよ(笑)。

「他校の取り組みが何かの参考になるのでは思ったから」、私に紹介した、とありますが、こんな記事を私の「参考になる」と思われるのは、私への、これまでの大学論、専門学校論に対する冒涜です(笑)。私はこの種の議論(コミュニケーション論、問題発見・解決能力などの)をうんざりするほど聞かされてきました。特色GP、現代GP、教育GPはほとんどこの種の教育改革の申請ばかりです。東大なんかはそれに加えて「討議力」とさえ言い出しました。

だから、広島大学などはまだましな方かもしれません。その意味では、この議論を再度展開できる機会を与えていただいて感謝しています。メールで返信しようかとも思いましたが、そんなことをしたら、公開コメントをメールで返しやがって、と元気な古賀校長にまた言われそうですからあえて公開コメントで返しておきます(苦笑)。

追伸
それはそうと、福岡校長が、ゴールデンウイーク後にでも一度三者で会いましょう、と言っています。日程調整しましょう。楽しみにしています。


投稿者 ashida : 2009年04月18日 11:18

生山です。
ご無沙汰しています。

古賀校長が芦田先生にIDEの記事を紹介したのは2つの目的があったのだと思います。

◆目的1
古賀校長はコメントで『福岡先生からのメールの「酒の肴」にしようとする程、悪気はありません』と否定していますが、間違いなく「酒の肴」にするつもりです(笑)。悪気もあります(笑)。

『広島大学松永征夫氏の記事を福岡先生と芦田先生に、ご紹介したのは、お二人が「問題解決能力」について、意見を闘わせている場面をよく拝見…』

古賀校長は笑顔でその場面の報告をしてくれます(間違いなく楽しんでいます)。

『他校の取り組みが何かの参考になるのでは思ったから』の「参考になる」は「議論の火種になる」と置き換えたほうが正しいと思います。


◆目的2
『そもそも古賀校長は「問題解決能力」育成について(それを教育のテーマとすることについて)、どうお考えですか。』と言う議論を古賀校長もしたいのだと思います。

古賀校長の「問題解決能力」育成についての考えは芦田先生のお考えとほとんど同じなのだと思います(生山の私見ですが)。

それでも、本校にも他校にも「問題解決能力育成」についての必要性(重要性)を主張される先生がいるのも確かです(芦田先生もうんざりされているようですが)。

中野で実施したパネルディスカッションでもその議論を期待されていた方も多かったのではないかと思いますし、芦田先生のセミナーに参加された先生方の中にも未だに芦田先生の意見に納得していない先生もいるのだと思います。

そのような方々は「問題解決能力育成」が専門学校教育でのテーマとなることについての是か非かの結論を求めているのではなく、議論の中でそれぞれの主張を確立するための何か(意見)を見つけたいと思っている方もいるのではないかと思います。

そんな議論を3人だけでせずに、オープンな場で議論されることを期待しています。

投稿者 イクヤマ : 2009年04月18日 14:20

古賀です。

 書き換えてあったんですね。昨日は、感想の最初で「この論文はくだらない。論文でさえない。自分たちのやっていることを紹介しているだけです。」っと書いてあったので、芦田先生が「論文」とそれ以外の文章にこだわっているのだな、っと思い「論文ではありません。」と書きました。私も特別区別はしておりません。

 中身については、先にも書きましたが特別な関心はありません。あの記事をご紹介したことが、芦田先生を冒涜したのであれば、素直に謝ります。済みませんでした。

 専門学校のカリキュラムで、「問題解決能力」などのような抽象的な教育目標を設定することは、私もよいとは思っておりません。もっと的を絞った、具体的なものであるべきだと思っています。学科に相応しい企業への就職のような。

 進学率に関する芦田先生の結論は、以前は少し違っていたように記憶していました。(私の記憶違いかもしれませんが、)進学率が何か一つだけの要素で決まるわけではありまでんが、所得の0.47(負相関)は、大学程ではないにしても、影響のある値だと思います。

 ゴールデンウイーク後の件、福岡先生が東京に出てこられるときにでも、3人でお会いしましょう。 

投稿者 古賀 : 2009年04月18日 15:26

生山先生、お久し振りです。

芦澤は、迷惑おかけしていませんか。昨日も古賀校長から、芦澤先生は「1日で80枚の教材を書いてきてくれています(張り切っています)」と報告を受けました。嬉しい限りです。

芦澤は、間違いなく、御校を日本一の(世界一の)学校に出来ると思います。こき使ってやって下さい。

この記事の件ですが、さすがに生山さん、古賀校長への愛を感じます(笑)。私もこんな優秀な部下がいればどんなに楽が出来たことか。

では、その古賀校長への愛に免じて、もう少し「問題発見・解決能力」について議論しておきます。

「問題発見・解決能力」論者が言うのは、教科書的な既存の問題や既存の答えが用意されているフレームで学生を育てるのではなく、新しい「問題」や新しい「解」を積極的に見出すような学生を作るべきだというものです。

これにはおまけが付いていて、特に現代の情報社会、グローバル社会では変化が早く、その変化に対応するためにも教科書的な教育には限界があるというものです。

私は、この主張の限りは、全く正しい認識だと思います。

しかし、この認識をうのみにして学校授業の場にこの「教育」を移す場合、いくつかの課題があります。私は、どんな教育テーマも、授業の現場で教員がそれをどう担えるのか、そのイメージがわかないものを採用しはしません。経営者や文部科学省などのお役人にはそれがわからないのです。

1)何をもって「新しい」問題というのか、「新しい」解というのか。誰がそれを「新しい」と判断するのか。教員の無知が「新しい」と思わせているだけのことがたくさんある。「日の下に新しいものは何もない」(聖書)という教えもある。「温故知新」(論語)という教えもある。

2)教科書的な知識・技術というのは、言わば「日の下に新しいものは何もない」(聖書)、「温故知新」(論語)という立場に立っています。その立場を否定するほどの「新しさ」があるという場合、その教員要件は何か? 誰が教えるのか? ということです。というか、教材開発の動機は、先の聖書と論語の精神無しには
あり得ないものです。まともな教材開発はほとんど汎神論的です。

3)私が危惧するのは、教科書もまともに教えることが出来ない、ましてや教材開発もまともに出来ない教員に包囲されている情況で、「新しい」問題と解を「教える」教員がどこにいるのか、ということです。

4)認識が元々抽象的な幼児段階(や初等教育の前段階)であれば、まだイメージはつきそうですが、高等教育の段階では、「新しい」問題や解は抽象的にとどまるわけにはいきません。認識の抽象段階はむしろ認識の低次段階であって、高度認識はむしろ具体性を求めるからです。絵画を見ればわかります。子どもの絵は抽象的です。目と耳とがあっても、彼らの認識は見えるものと違うものを見ているのです。社会人の実務活動でも「出来ない部下」や「上司」ほど抽象的なことを言います。現実から逃避しているのです。

5)もちろん幼児が見るべきものを見ていないというのは、単に「低次」と言って批判されるべき問題ではありません。その抽象性が「新しさ」の起源であることはいくらでもあります(見ていないということも能力の一つなのです)。

6)しかし、そう言うからには、あの抽象性のモデルの中に、「新しさ」(デタラメではなく)を読みとる教員が必ず必要になります。この教員は、その道の専門教員でなければなりません(そうは言ってもえせフロイト的なニセ指導者が多いのですが)。そんな先生は専門学校にはいません(日本にはほとんどいません)。自分の専門分野さえもまともに教えられない先生がいる中で、その抽象性を読みほどく教員をどうやって用意するのですか。

7)またそれは幼児段階での話しです。18才以上の高等教育の対象者はすでに具体的な言葉や具体的なイメージを持ち始めている「学生」です。この学生達に、原始の抽象性を喚起しながら「新しい」創造性教育を開始する言葉は、それ自体具体的な言葉です。具体的なイメージや具体的な実践です。もはや幼児的な抽象性ではありません。つまり学生教育の本来の創造性喚起は、中等教育までの教科書を超えた具体的な専門性教育以外にあり得ない。高等教育の段階では、専門性教育の外に「問題発見・解決」教育があるのではなくて、専門性教育の掘り下げ以外に「問題発見・解決」教育を体系化する方法がないからです。

8)専門学校の教員や教務たち(や経営者)が、「問題発見・解決」教育に飛びつきがちなのは、単調な資格教育、単調な実習教育に飽きているからです(大学の場合と事情が少し違います)。しかし、それらを単調なものにしているのは、専門学校の教員自身が単調な実務経験しか持ち合わせていないからです。キャリアパスを描けない。原因は専門性の無さにあるのであって、専門性にあるのではありません。それをごまかすための教育テーマが「問題発見・解決」教育です。

9)生山さんの学校で、そういった主張を積極的に行う教員をよくよく思い浮かべて下さい。その教員の専門性はどうですか。深い、高い専門性を身に付けていますか。あるいは4年制のカリキュラムを作っても、インターンシップなどに逃げずに、あるいはプロジェクトマネージメント(「基本情報」)などに逃げずに専門教育のコマシラバスが書ける教員ですか。そんなことは絶対にないと思います。まともな教員であれば、一時間でも10分でも専門技術について「時間をくれ」と言うに決まっています。それは詰め込みのための知識・技術なのではなくて、まさに高度な「問題・解決」のための教育に配慮しているからです。芦澤にはこのことを徹底的に仕込みました。もし芦澤の育てる学生に「問題発見・解決能力」がないとしたら、私は自分の首を掻き切ってもいい。

10)その点では「問題発見・解決」教育は、マナー教育必要論と似ています。専門性のない教員や専門学校ほど「マナー教育」に走る。そんな程度の教員しかいないからです。もちろんそんな教員しかいない学校でマナー教育を施してもろくなマナーは身につかない。

以上、思いつくままに書きましたが、ぜひ校内で議論してみて下さい。御校ほどの伝統のある学校であれば、まずは具体的な目標のしっかりしたカリキュラム(専門性カリキュラム)を編成できるはず。それを期待しています。古賀校長によろしく。

投稿者 ashida : 2009年04月18日 17:10

>古賀校長へ

1)そうです。直後に書き換えています。私は、一つの言葉や文章や書くときに、誰が何を言いたくなるのか、少なくとも10人くらいは頭に描いて書いています(笑)。これは学生時代に、私がヘーゲル(Hegel)の文体から学んだ方法の一つです。

2)0.47はすごい相関ですよ。わかっています。わが校では、日常の試験と期末試験との相関分析を日常化していましたからそのことはよくわかっています。0.47の相関なんてわが校ではほとんどあり得ない数値でした。それほど高いということです。しかし、大学ほどの相関はない。そのことが言いたかったわけです。私が言いたいことは、専門学校のマーケットは何か、ということについて固有なマーケットを言い当てられる情況にないということです。理由は簡単。資格教育を学校教育で行っているからです。本来、生涯学習型の教育であるにすぎない「資格」教育を「学校教育」で行っているところに、専門学校マーケットが固有なマーケットにならない最大の要因があるのです。それが数値にも表れているということです。

3)それでは福岡さんにも連絡して、5月中旬には会いましょう。また連絡します。


土曜の平和な日にお騒がせしてスミマセンでした。生山さんも芦澤も大切に育ててあげて下さい。心からそう思います。

投稿者 ashida : 2009年04月18日 17:24
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