卒業式の季節 ― でも私は卒業式にはいない(学生諸君、スミマセン) 2009年03月12日
卒業式のシーズンとなった。いつも年が明けたらすぐにでもそわそわしてしまうこの季節。式辞の季節だ。これさえなければ、校長の仕事なんて誰でも出来る、と言っては言い過ぎかもしれないが、少なくとも私にはそう思えるほどにきつい仕事だった。
来週、19日には、(かつての)わが校の卒業式が中野ゼロホールで行われるが、私はその日には東京にいない。本当はホールの最後部で(私の息のかかった)学生達をこっそりと送り出してやろうと思っていたが、とても残念。
その代わりと言っては変だが、私がまるで鶴が自らの羽をむしり取るかのように紡ぎ出した式辞のアクセス数ベストスリーをここに転載しておきましょう。学生諸君、卒業おめでとう。最後の半年は付き合えなかったけれども、あなた達は、日本一、世界一の専門学校で学べたはずです。これからもそのことに誇りを持って、職業人として大成してください。
私はあなた達と過ごした年月を決して忘れません。あなた方が学校で学んだことに負けないくらいに私もまた東京工科専門学校(=伝統ある小山学園)で様々なことを学んできました。
私たちの学校ほど学生を大切にした学校はありません。その私のスローガンは「学生を変えるにはまずもって教員自身が変われ」というものでした。教員が勉強しないでどうして学生が勉強するというのでしょうか。そう考えなくてはいけないのは、今度は社会に出るあなた達自身です。ぜひ頑張ってもらいたい。
再度、あなたたちのために式辞を書き下ろしても良かったのですが、それも変だし、これまでのあなた達の先輩が最後の舞台で、最後の授業として聞き収めた私の卒業式式辞をここに捧げます。
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●2005年度卒業式式辞 ― イノセントであってはならない
2006年03月16日 | この記事の訪問者数 ( 2776 )
→http://www.ashida.info/blog/2006/03/post_132.html
「古畑任三郎」で有名な脚本家・三谷幸喜の作品で『ラヂオの時間』という佳作(点数で言うと68点くらいの映画)があります。
主人公はラジオ番組の脚本作家です。若き三谷幸喜の分身と思われるその脚本家は、自分が渾身の力を込めて書き下ろした脚本に絶対の自信をもっています。でもプロデューサー(やディレクター)レベルでは、真っ赤っかに訂正の赤が入れられ、見るも無惨に原稿は修正されます。
若き脚本家は、こんなに直されるくらいなら、私の名前なんか出さないでいい、原稿もなかったことにして欲しい、なんてことを言い出します。新人であっても作家のプライドが許さない、というものです。
するとプロデューサーは半分怒りながら、こう言い始めます。あなたが本当に個性的で創造的であるのならば、どんなに手を入れられようと、修正を加えられようと、その中でも光り輝くものがあるはず。どんな有名な作家であっても、新人時代は原稿をいじられまくってそれでもそれに耐えて光る“自分”を有していた。
作家の“個性”とか“創造性”とか“オリジナリティー”とか言うけれども、そんなものは、実はいつも泥だらけで、泥だらけだけれども、その泥の厚みを跳ね返しても輝き続ける個性というものがある。
私の個性、私の特徴、あるいはそして〈私〉などというものは、純粋無垢なものではなくて、泥だらけであって、いつも対立を孕んだもの、ダイナミックで闘争的なものだというのを忘れてはならない。
そんな感じのシーンだったと思います(全くのうろ覚えですが)。かなり私が勝手にまとめていますが、『ラヂオの時間』のそのシーンは印象的でした。
同じ事を別の局面で考えてみましょう。
今から20年ほど前、日産で“BE1(ビーワン)”というクルマが大ヒットしたときがありました。
このクルマの特徴は、その色にありました。
黄色がそのイメージカラーだったのですが、どうやってその色が決まったかというと、その社外デザイナーは(たしか、このクルマの企画開発は社外のマーケティングチームによって遂行されていた)、「クルマの色の中で使われていない色は何?」と聞いたらしい。社内の関係者は「黄色かな」と答えた。
「よしでは黄色にしよう」と、黄色のBE1が決まったわけです。黄色といえば、今となってはレガシーの美しい黄色のように当たり前のようにマーケットに受け入れられていますが、その当時は本当に珍しかった。狂気じみた色でしかなかったのです。
社内の企画関係者のすべてを敵に回して、あるいはマーケットの常識的な感性を全て敵に回してBE1の黄色が決まり、結果、BE1は大成功を博した。
言い換えれば、黄色は、いわば“泥だらけの”黄色だったわけです。
同じように最近はiPodに押されがちなウォークマンですが、世界を席巻したこの商品も最初は誰ひとり社内で支持する者はいなかった。
当時カセットテープを使った機械というのは、すべて“テープレコーダー”という商品であり、カセットテープを利用した機械は録音機ではあっても再生機ではなかった(再生するということが中心ではなかった)。
約25年前にこのように登場したウォークマンは、はじめて再生専用の機械としてこの世に登場したわけですが、再生専用という“概念”がまだ誰にも理解されていなかったのです。つまり音楽(“ステレオ”)は自宅で、自宅のリビングでくつろいで聞くものだということ。そうみんなは思いこんでいた。ソニー社員のみならず、マーケットのど真ん中にいる私でもそう思いこんでいました。
新しいものが好きな私でも、さすがにこのウォークマンだけは手を出さなかったのです。私の後輩の学生が福島かどこかの実家へ帰郷したときに、このウォークマン初代機をさっそく買って使ったときの感想を今でも覚えている。
「芦田さん、このウォークマンさえあれば、どんなに長い旅の乗車も退屈しませんよ。2時間や3時間はあっという間に過ぎてしまいます」と興奮しながら話していたのを思い出します。
社内では誰ひとり賛成しなかったウォークマンも、ひとり盛田社長だけが「出してみようじゃないか」と支持したらしい。そうやって、“多数決”では明らかに負けてしまう社内環境の中で、ウォークマンは誕生し、世界風俗にまで成長していく。iPodもこの盛田の孤独な決断(=泥だらけの決断)なしには存在し得なかったのです。
会社の特徴やコアとなるコンテンツの形成は、あとからみれば理路整然としているし、すでに社会現象になっている状態では、すべてがそうなるべくしてそうなった、というように“説明”されたりもします。マーケティングや経営学の本でも“成功事例”の王道のように語られもします。
けれども実際の生成過程は紆余曲折ばかり。“泥だらけ”の過程だと言えます。
逆に言えば、社内に対してであれ、マーケットに対してであれ〈対立〉(やある種の受動性)を担わないような提案は、決して大きな影響力を与える仕事にはならないということです。
発達心理学には、“イノセント”という言葉があります。
この語は普通「潔白(無罪)」「無邪気」「無垢」「うぶ」と訳されたりします。
しかし心理学的には、この語は、親を否定したいという気持ちの青年期の心象を意味しています。
〈親〉は〈子供〉にとっては受動性(有限性)の最大の徴表です。〈子供〉は〈親〉を選ぶことができない。
だからどんなに自立しようと〈自我〉を形成しようと、そういった自立的自我は、親の存在の前では単なる幻想であって、自我の自立性は親の存在を前にしていつも相対化されます。
そうやって、人間の自立過程期では、「なぜ自分はこんな親の元に生まれたんだ」というふうに親を拒絶する傾向が強くなる。逆に言えば、いつも“純粋な自分”があると信じ続けている。あるいは純粋な、汚れなき自分になり続けようとする。
この状態を「イノセント」と言います。
「イノセント」とは、自分の受動性(や有限性)の側面を受け入れようとしない傾向のことです。
それに反して「大人になる」ということは、たとえ、飲んだくれで、お金を一切入れようとはしないふしだらなお父さんであっても、「この父でよかったんだ」とその父を受け入れることができるようになることです。どんなに“能力”のない親であっても、「お父さん、お母さん、私を生んでくれてありがとう」と言えることです。それを「大人になる」と言います。
子供が成長して自立する、大人になるということの最大のポイントは、自分の自由やポジティビティを阻害するものを、イノセントな仕方で排除せずに、きちんと担えるようになるということです。
『ラヂオの時間』の若き脚本家は、だからイノセントだった、と言えます。またそれとは反対に最初から“敵”を意識してそれを担おうとした“BE1”のマーケターやソニーの盛田社長たちは、“大人”だった、と言えます。
みなさんが、“社会に出る”というのは、そう言ったイノセント状態から脱皮して「大人になる」ことを意味しています。
このことと関連して、最後にもう一つだけ約束しておいてもらいたいことを言います。
これから入社式後の4月を迎えて、新人研修で忙しくなり、その後も(新人であるが故に)覚えなくてはならないこともたくさんあって、必ず「時間がない」と言うようになります。
そして、仕事を覚えて、ノウハウも蓄えて、そこそこの仕事ができるようになった後でも「時間がない」というようになります。そして、「時間がない」というだけではなく、「時間(とお金)があれば、もう少しいい仕事ができた」とまで言うようになります。
これは間違っています。こんなことを言ってはいけない。今日のこの日をもってわが卒業生たちは「時間がない」と言わないことを約束して下さい。
どんなプロの人間でもいつも時間がないこととお金がないこととの中で仕事をしています。6割、7割の満足度で仕事を終えています。悔いが残ることの連続です。プロの仕事というのは実は悔いの残る、不十分な仕事の連続なのです。
一見、すばらしい仕事に見える。お金もふんだんに使える、時間もたっぷりかけている、スタッフも充分だ、と外部から見えているにしても、プロの仕事には、それでいいということはありません。不満だらけで(穴があったら入りたいくらいの気持ちで)仕事を“終えている”。しかし外部評価は及第点を取れている。それがプロの実際の仕事のあり方です。
それは、どういうことでしょうか。
結局、6割、7割でも外部に通用するようなパワー(強力なパワー)を有しているというのが、仕事をするということの実際だということです。
皆さんが尊敬するプロの仕事は、その仕事をするための充分な時間(とお金)が与えられてできあがっている、と思ったら大間違いだということ。
「時間とお金があれば、もっといい仕事ができるんだけどな」というのは、だから“イノセント”だということです。そんな純粋な時間もお金も実務の現場には存在しません。時間もお金も実際は“泥だらけ”なのです。
6割、7割の時間とお金でも仕事ができること。それがみなさんがこの2年、3年、4年と、わが校の卓越したカリキュラムと先生たちによって勉強してきたことの本来の意味です。
〈能力〉とは60%の力で人々を満足させることのできることを言うのです。
みなさんがここ数年で学んだこと、知識と技術を身に付けたこと。それはまさに「お金と時間がない」ときにはどうすればいいのか、という知恵を付けたことにあります。そもそもそれが“勉強する”ことのもっとも実践的な意義です。
だから、みなさんはすでにイノセントではない。今日の卒業式を迎えて、もはやイノセントではあり得ない。
4月から始まる社会人1年生のあなたたちは、1年生であってももはやイノセントではありえない。「時間がない」と言ってはいけない。「お金(予算)がない」と言ってはいけない。そしてまた40%もの“赤入れ”にも耐えて、そういった“対立”や“否定”をしっかりと担える人材になって下さい。それが私がみなさんに言い渡さなければならない最後の言葉、東京工科専門学校の最後の授業の言葉です。
今日は本当におめでとうございます。これをもって祝辞に代えたいと思います(2006年・3月15日 於・中野ゼロホール)。
追伸1:ここだけの秘密だが、私は当日緊張のあまり、卒業式の場所をサンプラザ(毎年入学式が行われるところ)と間違ってしまった。サンプラザの中に入って、教職員たちに「ご苦労様」と言いながら、控え室に入っていく様を予想、そのモードの顔をしてサンプラザ玄関ホールの中の階段のところまで(とりあえずさっそうと)入っていったが、誰もいない。「もう始まったのか」と思うまもなく、あれ、今日は卒業式だからゼロホールだ、と思い直したのが、12:45。あと15分で始まるときだった。こんな時間に何の関係もないサンプラザにいるのは私だけ。タクシーを飛ばして(といっても歩いて8分くらいの場所にゼロホールはある)、ゼロホールに何事もなかったかのように駆けつけた。こんなとんまなことは誰にも言えない。来賓に挨拶する暇もなく、卒業式は始まった。
追伸2:卒業生総代の自動車整備科の越阪部(おさかべ)君は、私の後、企業後援会会長挨拶、理事長挨拶の後のスピーチとして続いたが、そのスピーチの最後半部で、「校長の言うようにイノセンスな私たちですが、卒業しても私たちを見守ってください…」と私の式辞のキータームを即興で受けてくれた。これには感激したし、会場にちょっとしたどよめきが起こった。先生たちの間では、「芦田校長と越阪部とは示し合わせていたんじゃないか」などと“勘ぐる”ことしきりだったらしいが、そんなことあるわけがない。つい30分ほど前に骨格しか決まっていなかったものを打ち合わせなどできるはずがない。
こんな大舞台でスピーチなど割り振られると、ほとんどの場合は、人の話など聞かない。聞いている余裕がない。自分の原稿ばかりが気になって、先の人のスピーチ内容を受けるというのは、かなり高度なわざなのだ(政治家レベル)。それをさりげなくやり遂げた越阪部君は大したもの。しかも彼はワープロ原稿を用意して読み上げていたから、私の話を熱心に聞いていて、手書きでその原稿に書き込んだものと思われる。私でさえ、会場を間違えるほど緊張していたというのに、こんな落ち着きを私にも分けてもらいたい。越阪部君、あなたは立派にイノセントを脱していますよ。卒業、本当におめでとう。(2005/3/16)
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●2003年度卒業式式辞 ― 単純な仕事にほど差異がある
2004年03月24日 | この記事の訪問者数 (1320)
→http://www.ashida.info/blog/2004/03/hamaenco_4_27.html
みなさん、卒業おめでとうございます。
また来賓の皆様、保護者の方々、小雨まじりのお忙しい中、お越しいただき、有り難うございます。
今日が卒業式であるということは、みなさんが2年間で4000枚近くにもなる「授業シート」に毎日メモをしながら、1200回もの「授業カルテ(小テスト)」をこなし、10回(毎期毎8科目で80回)の期末試験に合格したことを意味しています。
先生たちが自分たちの技術や知識、実務経験を目一杯に詰め込んだそういった、あなたたちのためにこそ作ったオリジナルの授業シートと期末試験を消化した結果、その成果としてみなさんは今日の卒業式を迎えることができました。私もまた教職員を代表して、みなさんがそうやって卒業式をここに迎えたことを誇りに思います。
校長の式辞は、みなさんへの、学校の最後のメッセージになると思います。教職員を代表して1200回もの授業の最後の授業として、2、3のメッセージをお伝えしたいと思います。
皆さんは、これから職場に入っていきますが、ほとんどの人は、自分のやりたい仕事はできません。東京工科専門学校で学んだ専門知識、技術をすぐには発揮できません。最初は誰にでもできる単純な仕事をすることになります。
でも単純な仕事は誰にでもできるかというとそうでもありません。若い内は、専門的なこと(自分が得意なこと)をやりたい、企画をやりたい、商品開発をやりたい、場合によっては社長をやりたい、というように考えがちです。だから誰にでもできる単純な仕事はやりたくないと。
しかし世の中に何一つ単純な仕事はないと思って下さい。
たとえば、コピー一つ取る場合も、そうです。
私はコピーを他人にとってもらうとき、コピー初級、中級、上級というように3段階の評価基準をもっています。
「コピー初級」は、機械の操作をただ単に知っているだけ。他人に聞かなくてもとりあえず、コピーを取れる段階。
「コピー中級」は、たとえば、10枚のコピーをするとき、一枚目をすって、紙の傾き、文字や写真の濃度を確かめてそれから残りの九枚をすれる人。
「コピー上級」は、ちょっとした上司の依頼の紙にも目を通し、「この人はこんな文章を書くんだ」とか「こんなことが今会社で話題になっているんだ」というように、内容についての関心を持ちながら印刷できる人。場合によっては、書類の不備(誤字や脱字も含めて)を指摘することもできる人。
私は、コピー能力をこのように三段階にわけて評価しています。
これは、私が頭の中で勝手に考えた三段階ではありません。
世の中には、実際にコピーを頼んだら、同じ「単純な」仕事をしても、このようにはっきりと違う仕事の仕方でこなす人がいます。この三段階は、実際に私が出会った人たちの三段階です。
一見、単純に見えるコピー作業の中にも、考え始めるときりがない仕事の諸段階が潜んでいます。
単純な仕事を単純にしかこなせない人は、いつまで経っても単純な仕事しか与えられません。
だから、「コピー上級」の人になれば、会社は、こんな人にコピーを取らせ続けるのは失礼だし、もったいないと逆に思い始めます。
そのようにして、コピー上級の人は“出世”をしていくわけです。
自動車系の職場で言えば、最初のうちは朝から夜まで洗車ばかりで、「これじゃガソリンスタンドのアルバイトの方がまだましだ」と思うかもしれません。
建築インテ系の職場で言えば、朝から夜まで現場の後かたづけばかりかもしれません。
WEBデザインやインターネットプラグミング科の人たちは、最初のうちは、データベースのデータ入力の仕事だけを朝から夜までさせられるかもしれません。
でも、それらは、重要な昇進試験なのです。
洗車一つ取っても、一回目の洗車と二回目の洗車とでは、どうですか。最初は30分かかった洗車が二回目には5分短縮できましたか。あるいは短縮できないまでも一回目ではきれいに出来なかったところまで二回目にはきれいに出来ましたか。これも「洗車は単純だ」と思っている限りは何回やってもスピードは速くならないし、洗車の質もあがりません。同僚たちや上司は、そこを無関心なように見えていつも見ています。
洗車の仕事はその意味では無限です。決して単純なことではない。1000人の人間が洗車をするとしたら、1000の水準の洗車が存在しているのです。履修判定試験は満点が100点でしたが、実際の仕事はもっとこまかいチェックの分節が存在しています。
だから単純な仕事は決して単純ではありません。
そう思える人だけが、次の水準の仕事を「与えられる」ことになります。
仕事は、自分から進んでするものだ、という人がいますが、それは間違っています。会社は、「顧客」を相手に仕事をします。だからいつでも真剣勝負です。だから、会社は、いつでも真剣勝負のできる人を会社内であっても探し続けています。その結果、仕事は「与えられる」のです。だから「与えられる」というのは、それ自体〈評価〉なのです。評価の結果なのです。
仕事が与えられる、ということが最大の栄誉であって、その与えられた仕事を期待以上の成果を出して答える。それが仕事をするということの意味です。一見受動的に見える、この「与えられる」という言葉の中に、ポジティブな意味を見出せるかどうかが、皆さんの、ここ数年の仕事の最大の課題です。
期待されない人間は、いつでも自分の好きな仕事だけを自分の勝手な仕方でしかこなしていません。そんな人の仕事は、いつまで経ってもスピードは上がらないし、質もあがりません。こんな人間は、いつまでたっても“大事な”仕事を与えられることはありません。
若い内は、格好のよい仕事、見栄えの良い仕事をしたくなりがちですが、単純なことの中にも数え切れない仕事の諸段階、深さがあります。
まず皆さんが会社に入ったら試されることは、一見単純に見える、誰でもができる仕事の中に、どれだけの注意をしなければならない情報を読み取ることができるかが試されます。
職業人として「社会人」になるということは、最初に〈選択〉や〈好き嫌い〉があるのではなくて、人に仕事を頼まれた、任されたという〈信用〉です。
この〈信用〉というのは、その仕事を頼んだ人が期待したように仕事をするだけではなかなか得られるものではありません。そんな仕事の仕方があったのか、と少し頼んだ人が驚くような仕事をすることこそが〈信用〉というものに繋がっていきます。仕事を頼んだ人が、「悪かったね、こんな仕事をさせちゃって」というくらいの仕事をすることが、〈信用〉を生んでいきます。期待とは、いつでも期待以上のことなのです。
だから、こういった〈信用〉や〈期待(期待以上)〉を得るのに、単純も複雑もありません。高級な仕事も低級な仕事もありません。コピー取りであっても、その〈信用〉に答えることこそが仕事というものです。
そういった些細ではあるけれど、一つ一つの信用に答えていくことが、皆さんが大きな仕事をするようになるきっかけになっていくのです。
単純な仕事をさりげなく、かつ高級にやり遂げて、自分に単純な仕事を与えた会社の上司を見返すような仕事をやって頂きたいと思います。
他人と違うことを言ったり、違う行動を取って、評価を得ることはある意味で簡単なことです。本当に難しいことは、一見何の変哲もない単純な行動や日常の中に、深い意味を読み取ること。人が日常的に行っている何の変哲もない行動の中に、変化や違いを読み取ること、そのことの方が遙かに難しい。
4月から始まる仕事の、皆さんの課題がそこにあるわけです。
単調な仕事が課せられるからこそ、新人であるみなさんの仕事の仕方の違いは、大きなものとなってあらわれます。それに比べれば、会社の社長さんたちの仕事の仕方は、どれをとってもそれほど大きな違いはありません。洗練されてきているからです。単調な仕事をこなさなければならない新人の時にこそ、違いと競争が存在しています。それをよく心得て、4月からの仕事に臨んで下さい。
みなさんの学んできた授業シートはいつもは10の項目に分かれていますが、今日は一項目だけです。
今日の授業テーマは「『与えられる』仕事を大切にしよう」。そしてキーワードは、「単純なものは難しい」ということです。
小テストである授業カルテは(こんな卒業式の場である)今日は行いませんが、みなさんの4月以降の職場の実際の体験が授業カルテそのものです。
そして「模範解答」は、もはや先生が作るのではありません。今度は、皆さん自身がそとつど解答を出し、その解答に自分で責任をもつ順番です。
今日は、本当にご卒業おめでとう。これをもって今日の式辞に代えたいと思います。(2004/3/24)
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●2004年度卒業式式辞 ― 努力する人間になってはいけない
2005年03月16日 | この記事の訪問者数 ( 1189 )
→http://www.ashida.info/blog/2005/03/hamaenco_5_25.html
2004年度卒業式式辞 ― 努力する人間になってはいけない 2005年03月16日
やっぱり何度やっても式辞は、自己嫌悪の連続。いつも2度とやりたくない、と思う。講演などいくら慣れていても、式辞は全く別次元。自己採点は2、30点。教員の採点では70〜80点が平均。企業の後援会の方がひとり近寄ってこられて、「毎年楽しみに聞いています。身につまされることが多くて」と感想を伝えてくださったのが、せめてもの救い。一応、全文掲げておきます。実際に話したことは、この8割くらいです。『芦田の毎日』の読者の方にはすでに周知のテーマですが。御勘弁ください。
卒業おめでとうございます。
保護者の方々、来賓の方々、お忙しい中お越し頂いてありがとうございます。
学生、教職員一同に成り代わりまして、感謝申し上げます。
私は、3年前には(3年制の建築工学科の人たちの入学式の時には)、インターネット時代が加速化し、仕事の組織が大きく変化するといいました。
少数精鋭の組織がビジネス全体を動かしていく、と言いました(http://www.ashida.info/trees/trees.cgi?log=&v=612&e=msg&lp=612&st=0)。
2年前には(建築工学科以外の2年制の人たちの入学式の時には)、社会というものは、同質的な学生の集団と違って、年齢や経歴や経済的な境遇が異なる様々な人と出会う場所で、そういったところに卒業後ただちに飛び込んで仕事をしていくには、かなりの覚悟を決めて勉強をする必要がある。これまでの教科書的な知識の勉強と違って、実践的な勉強が必要になる、と言いました(http://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=143)。
そしてそのみなさんたちを今日の卒業式に迎えています。
入学式と卒業式は、この学校の最初の授業と最後の授業。そう思って私の最後の式辞を聞いてください。
今テレビではライブドア社長(ホリエモン)の話が盛りですが、私はこの騒動をこう考えています。
彼は「メディアITファイナンシャル企業」として世界一になるんだ、と公言しています。これが本当にそうなるのかどうなのかは別にして、現在の企業ではライブドアのような小さな企業でも世界一を目指すビジョンと気概を備えているということです。
小さな会社であっても、世界一を目指す気概がないと生き残っていけないということ、それが彼の騒動から私が学ぶことです。
これは、世界一位にならないと意味がないということではなくて(一位がいれば二位もいるし三位もいるのですから)、世界一を目指そうとする組織の体制や人材の志気がない企業は生き残っていけないということを意味しています。体のいい“棲み分け”もセグメント主義もその世界はもはや終焉を告げて、世界大の下克上の時代に突入したというのが、ライブドア騒動の、私の感想です。
一言で言えば、それくらいに競争は激しいということ。グローバル化とは競争の激化ということです。「そこそこの企業」「実績とブランドに依存する企業」では生き残れないということです。
世界一を目指さない企業や人材は生き残れない、そんな社会に皆さんは出ていくのです。
では、企業や組織を世界一にしていくためにはどんな人材でなければならないのか少し考えてみましょう。
この間、TBSのTVプロデューサーとお話しする機会があって、彼とこんな話をしていました。
人材には以下の四つのパターンがある。
一つ目は、怠け者だけれども目標を達成する人
二つ目は、がんばり屋で目標を達成する人
三つ目は、がんばり屋で目標を達成できない人
四つ目は、怠け者で目標を達成できない人
この四つです。
この四つの人材の中で、どの人材が有害な人材なのか(私も他人ごとではないのですが)?
組織の中で一番大切なことは、目標を達成することです。
四つの人材はどれもこれも目標を達成するかどうかに関わっています。
さてどうでしょうか。
答えは、三番目の人材、「がんばり屋で目標を達成出来ない人」です。
組織の中ではいくらまじめで努力をする人でも目標を達成出来ない人は評価されません。
「結果ではなくてプロセスが大切だ」と言ってもそれは目標を達成するためにはどんな方法(プロセス)が必要なのか、という観点からのみであって、やはり目標達成の大切さに変わりはありません。プロセスが大切なのは、目標達成を偶然的なものにしない、継続的なものにするためなのです。
したがって、まじめで努力を重ねる人でも、目標を達成しないからには評価されない。上司からも周りから相手にされないようになってくる。
こういった人は、上長や周囲の人の言うことをなかなか聞きません。
なぜか?
怠けるつもりもないし、他の社員が遊んでいるときにも仕事をしているし、人より朝早く来て、誰よりも帰社する時間が遅いくらいに仕事をしているのに、なぜ、その自分が怒られなくてはいけないのか? ということが必ず前面化するからです。
最後には、「これ以上頑張ることなどできない」。「私に死ねというのか」「クビにでも何でもしてください」ということになる。
要するに、目標達成出来ないと、こういった人は、もっと働かなくてはいけない、というように(まじめに)反省しますから、勤務時間がどんどん延びていく。誰よりも早く来て、誰よりも遅くまで残って仕事をする、というのはそういうことです。最後は「死ねというのか」ということになるのです。
最後には組織や指導者を恨むようになる。「こんなにがんばっているのに」というように。組織内のコミュケーションが空回りするようになってくるのです。
こんな人を組織が抱えていたら大変です。
指導する側も気を使う。すべてが裏目に出るからです。どちらの善意も悪意に転化しつづけることになります。
だから答えは三番目です。
一番目は指導者の資質です。〈今〉ではなくて〈先〉を見通せなければならない指導者が毎日ルーティンワークであくせく働いていたら、先を見通すことはできません。
二番目は指導者の側近です。遊び心のある指導者を実務面から支える人間がいないと組織は安定しません。
四番目の人材は、最初から回りも期待していない、自分にも期待していませんから、人に迷惑をかけることがありません。いつの間にか組織からいなくなります。
さて、三番目の人材は、なぜ目標を達成出来ないのでしょうか?
それは自分の仕事の仕方を変えないからです。
仕事の仕方を変えて目標を達成しようとはせずに、時間をさらにかけて達成しようとする。これが努力をする人が目標を達成出来ない理由です。
努力することが自分の唯一の武器(取り柄)だと思っている。
努力は時間です(努力=時間)から、努力すればするほど、疲弊する。
目標が高くなればなるほど息苦しくなる。
毎日がつらくなる。
そして最後には「死ねという気か」となる。
それもこれも自分の仕事の仕方を疑わないでいるからです。
これまでもよりも時間をかければ目標が達成出来ると思っている。この時間主義を努力主義と呼んでいいのですが、これでは仕事はできません。
特に企業は時間を嫌います。時間をかけることが企業の美徳ではなく、いかに短時間で高度な目標を達成出来るかが企業の見果てぬ夢だからです。昨日2時間でできたものを今日は1時間で果たそう、そう企業は考えます。努力主義は昨日2時間でできなかったから、今日は残業して(無理して)4時間でやり遂げようとします。全く逆のことをやっているのが企業に於ける努力主義です。
わが学園では、すべての授業時間で定時開始前に教室に先生が入室していること、という目標=ルールがあるのですが、朝9:20に始まる一時間目の授業についてはなかなか守れない。
なぜか?
1時間目の授業の資料を朝印刷しようとするからです。朝1時間以上早く、8:00には学校に来て印刷しようとする“まじめな”先生たちがわが学園にはたくさんおられるのですが、でもそんなときに決まってコピー機やリソグラフ輪転機が故障してうまく動かない。利用者同士で機械を奪い合うこともある。
こういった問題を「朝コピーは混み合います。気を付けましょう」とか「前日までには資料を仕上げておきましょう」などといくら張り紙を用意して注意してもルール厳守出来ない。「気を付けましょう」などという末尾に「しょう」の言葉が付くルールで守れるものなど全くないのです。
時々注意すると、何も私の所為で「遅れているのではない」「好きで遅れているのではない」「それなら資料なしの授業をしてもいいのですか」「何で資料をたくさん作って遅れるところだけを捕まえて私が怒られるのですか。何も作らず手ぶらで教室へ行く先生よりよっぽどましでしょ」などと逆に“脅し”をかけてくる職員もいる。善意と努力が招来する亀裂はなかなか根深いものがあります。
こういったことをくり返す内に何度も学生であるみなさんにご迷惑をおかけして、始業時間が遅れがちでした。今から2年前くらいのことです。
そこでみんなで考えて、「朝コピー禁止」というルールを作りました。9:00〜9:30まではコピー機を使ってはいけないというものです。
「後は、明日の朝にしよう」という朝努力主義をそこで断ったわけです。気を付けて使いましょう、ではなくて、端的に使わない、というものです。
そうしたら、授業開始はほとんどの授業で遅れないようになりました。小さな目標ですが、その目標を達成出来るようになりました。
要するに気を付けよう、心得よう、という努力主義を変換して、別のルールを作ったのです。仕事を時間的にフォローするのではなくて、仕事の仕方そのものを変えた、ということです。
仕事は人間がやることですから、「心得」ばかりを叫んでもできないことはいくらでもあります。むしろ「心得」や「まじめさ」や「努力」や「時間をかけること」ではできないことの方が仕事には多いのです。
一生かかっても(命をかけても、クビをかけても)できない人はできない。ビジネスとは厳しいものだというのは、努力ではできないことがたくさんあるということです。
それは、〈才能〉がすべて、あるいは〈能力〉がすべてということではありません。
努力主義は実はエゴイズムであって、自己のやり方を変えない。努力する人は謙虚なように見えてそうではない。むしろ自分に固執する偏狭な人なのです。
目標達成ということについて重要なことは〈変える〉〈変わる〉ということです。「朝コピー禁止にさしたる努力はいらない。前日までに印刷を終えるという点では努力が必要ですが、そこでは努力の質が変化しています。それは必ず目標を達成出来る努力だからです。
1回、2回と失敗をくり返すとき、同じ目標を何度も達成出来ないときには、その方法(今のやり方)は間違っている、と判断すべきです。つまりその方法で何時間やっても、一生かかっても、どんな天才でも目標は達成出来ないと判断すべきです。
組織や企業は若いあなた達の1回や2回の失敗は許してくれますが、3回、4回と続くときにはもう待ってはくれません。その時には違うやり方、違う方法を考えないといけない。
これから皆さんは様々な同僚や上司に囲まれて、怒られて、努力して、疲弊して、「何でこんなに努力しているのに評価してくれないんだよ」と叫び続ける日々を一度ならず迎えると思います。そんなときには、深呼吸して立ち止まって、やり方を変える、自分のスタンスを変える、自分を変える、そのことに思いをはせてください。
毎年言っているのですが、数年前私は六本木にあるIBM社を訪問したことがあって、そのとき社員の机の上に、THINKと書いたシート押さえの文鎮(木製のペーパーウエイト)を見つけました。すべての社員の机にそれがおいてありました。
気になって、「これちょうだい」と頼んで今では校長室の私の机の上に置いています。このTHINKはもちろん動詞の命令形、「考えろ」です。
そして、この言葉の意味はもはや明確です。
「考えろ」は「変えろ、変われ」ということです。THINK=CHANGEです。
「考えろ」の反対語は、従って「行動しろ」ではありません。IBMの言うTHINKとは、考えてばかりいないで行動しろ、まずは行動だ」という場合の理論的な思考のことを言っているのではなくて、平たく言えば、工夫をしろ、やり方を変えろ、ということです。
だから〈努力する〉の反対が、〈考える〉ということです。THINKの反対語は「行動しろ」ではなくて、努力しろ、ということなのです。逆に、努力する人は考えない人なのです。
皆さんは〈努力〉に逃げる人ではないはずです。努力というのは、仕事の真の課題を隠してしまいます。努力に逃げてはいけないのです。そのためにこそ、この2年間、あるいは3年間の専門的で、実践的な勉強を重ねてきました。
学識のある人、実践的な人とは、〈努力をする人〉ではなく、〈変える人〉であって、そのための勉強をあなた方は積み重ねてきたのです。
毎日、毎日教室を回ってみなさんの熱心な授業への取り組みを見てきた校長として私はその自負を持っています。その自負を持って、その期待をもって、私もまたこの卒業式を迎えることができました。ぜひ自分のこれから入社する企業を世界一の企業にして下さい。企業を日々変えて、世界一の企業にしてください。
卒業おめでとうございます。今日の日を心から祝福し、卒業の式辞としたいと思います。(2005/3/16)
(Version 2.0)
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ああ、いいですね。これだけしか書きませんが、何度読んでもいいですね。
一番のお気に入りは努力する人間になってはいけない、です。自戒をこめて。