専門学校の組織改革(その1) ― 就職センターを教務部に内属させること 2009年02月17日
専門学校において、就職先が変わらないようなカリキュラム開発はあり得ない。〈就職センター〉や〈担任〉の就職指導に依存する限りは、「教育改革」は全く進んでいない。進級率が上がろうが、退学率が減少しようが、出席率が100%になったとしても、就職センターに来る求人票に基づいている限りは、「教育改革」は成功したことにはならない。
カリキュラム開発が進むということの意味は、人材育成目標が(高度に)変わるということであって、作り出す人材が高度化すると言うのなら、行き先の企業群も変わっていかなければならない。
現在の〈就職センター〉の求人票データベースには、大学生以上しか取らない企業群(いわゆる〈一流〉企業群)のものはない。たまに「一流」企業群のものがあっても、総合職採用ではないものがほとんど。専門学校〈就職センター〉情報は、したがって言わば差別された求人票のデータベースのようなもの。ここに就職活動を集約するようでは、どんな教育改革も意味をなさない。
なぜか。
もともと専門学校は、就職の成果と教育の成果とが一致している学校。「職業教育」というのはそういうことだろう。だから、就職先が差別されているということは、その教育も差別されているということでしかない。
教育の「質」を上げるという意味での「教育改革」が存在するとすれば、就職の「質」も上がらなければならない。その場合、したがって既存の〈就職センター〉は何の役にも立たない。就職センターは、就職「率」のことにしか関心が無い。したがって教育そのものに関心がない。
そもそも現在の専門学校の〈就職センター(就職部)〉は、カリキュラムのことにも人材目標のことにも何の関心もない。求人票の分類と企業の接待役程度のことしかできていない。もとから就職と教育とが分離している、大学の〈就職センター〉をまねたようなことしかできていないのである。
専門学校におけるカリキュラム開発の本来の目的は、「良い教育」をするためではなく、「良い就職」をするためのものである。就職評価がカリキュラム評価の基準でなくてはならない。
専門学校の学内における教務組織は、就職センターと一体化する必要がある。教務主導の就職センターに改組される必要がある。就職開拓はどんな人材を作ろうとしているのかを知っている教務が先導しない限り先に進まない。特に、「エントリー」さえ許されない「一流」企業をこじ開けるには接待営業しかできない現在の就職センター人員では不可能だ。
学生がどう「人材」に成長しているかを間近に見ている教務部門が先導することこそ専門学校の就職指導なのである。
学校内の組織改革の端緒は、就職指導を教務と一体化するということである。その前提は人材目標をもったカリキュラムが存在しているということだ。人材目標をもったカリキュラムが存在しているということは、具体的にターゲットとなっている就職先企業が存在しているということである。※「カリキュラム」については→http://www.ashida.info/blog/2008/12/post_311.html
なぜ、大学では〈就職〉と〈教育〉が分離するのか? その理由は、大学には〈カリキュラム〉が存在していないからだ。4年後の育成人材を意識して、1年生からの授業指導が存在しているわけではない。一つの学科(学部)でも、様々な専門性を有した教員、 一つの同じ分野の専門性の中にも様々な専門性を有した教員がたくさんいる大学で、一つの人材像に定位した科目編成やそれに基づいた授業を大学教員が行うというのはほとんど不可能なことだ。
大学では、意識的な人材育成、カリキュラムに基づいた組織的な人材育成ができない。教授の個人的な〈薫陶〉と〈キャンパスライフ〉だけが人材育成に(わずかに)かかわっているのである。これでは人材教育は学校全体の特長になり得ない。だからこそ、大学では教務部門とは別に〈就職センター〉が存在することになる。
大学の就職企業の水準は、ほとんどの場合、受験偏差値の水準(+一部のキャンパスライフ)であって、カリキュラムの能力や水準とは何の関係もない。
したがって、現在の大学教育を〈職業教育〉とは言えない。当の大学教員達もそんなことは考えてもいないだろう(特に「一流」大学の教員達は)。大学の特質は、一人一人の教員の自立的な専門性に根ざした〈教員教育〉(教員による教育)であって、〈カリキュラム教育〉ではない。
大学教育の中でもわずかに教育機能があるとされているのが〈ゼミ〉教育だが、これは教授達の個人性が最も色濃く反映されるからであって、大学全体の教育力とは無縁。ゼミ主義に固執すればするほど、人材教育は反カリキュラム化し、個人化する。
専門学校に大学と同じ名称の〈就職センター〉が存在する理由は大学とは別の意味を持っている。
理由の一つは、〈資格〉教育=受験教育に留まっているため、人材意識が希薄。そのため教育目標からする就職目標が存在しない。だから教務と就職とが分離する。資格教育が資格合格「率」教育に留まるように、その就職教育も就職「率」教育に留まる。
もう一つの理由は、専門学校もまた大学亜流の科目単独主義にまみれており、カリキュラムが存在していないということ。ゼミ=演習まで真似ている。この問題はもともと根深いが滑稽でもある。もともと教員要件の弱い専門学校で教員中心主義の科目単独主義やゼミ=演習主義をとるとどうなるか。一人の「教授」さえいない、「指導要領」さえない専門学校の科目単独主義は、粗野な放任教育でしかない。つまり無目標、無評価の教育に留まっている。人材教育からはほど遠い。教育目標が存在しないのに就職目標が存在するわけがない。したがって、資格教育と同じように就職「率」教育が前面化し、就職は教育の成果ではなく就職センターか、担任活動の成果に留まっている。
この現状であれば、まだ、教授の〈薫陶〉と〈キャンパスライフ〉が存在している大学の方が(間接的ではあるが)人材輩出力を有していると言える。
高等教育のグランドデザインという観点からすれば、大学の教員(による)教育=〈薫陶〉教育+〈キャンパスライフ〉による教育、つまり広い意味でのパーソナリティ教育が従来の一つの柱、もう一つの柱はカリキュラムによる教育=職業人材教育が挙げられる。後者は本来は専門学校の領域だろうが、未だにカリキュラム開発の出来る専門学校が存在していない。
専門学校がカリキュラム開発に軸足を置くとすれば、教育目標を就職目標と並行して設定しなければならない。その場合には就職センターを教務部に内属させなければならない。就職先開拓は教務部の仕事であって、就職センターや担任の「業務」であってはならない。教務部が就職先と教務的な関係を持つことこそが、専門学校の教務活動の中核の仕事であって、それ以外に専門学校が教務機能を働かせることは出来ないだろう。FDの継続的な展開を専門学校が学校内部的に展開することは不可能だ。その意味で、就職先が変わらないような教育改革は専門学校改革にはならない。
(Version 1.0)
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