吉本隆明のETV特集「吉本隆明 語る~沈黙から芸術まで~」見ましたか(虚空に向けて語る吉本は「自己表出」の思想家にふさわしい) 2009年01月05日
吉本隆明のETV特集「吉本隆明 語る~沈黙から芸術まで~」(https://pid.nhk.or.jp/pid04/ProgramIntro/Show.do?pkey=001-20090104-33-29741)、見ましたか。
いやー、最初から最後までどきどきしながら見ていました。吉本は私の思想的なお父さんのようなものです(こんなことを告白するのはここが初めて)。彼の書くものは高校1年生(1970年)の頃からずっーと今まで読み続けてきました。
今日のETVを聞いていると、やはりこの人の思想のアルファにしてオメガは、『言語にとって美とは何か』(1965年)の「自己表出」「指示表出」がすべてなんだなぁ、ということがよくわかります。共同幻想論も自己表出論なわけです。
最近、この自己表出と指示表出との関係を吉本はもっと分かりやすい言い方で以下のように言っています。「文句なしにいい作品というのは、そこに表現されている心の動きや人間関係というのが、俺だけにしか分からない、と読者に思わせる作品です、この人の書く、こういうことは俺だけにしかわからない、と思わせたら、それは第一級の作家だと思います」(『真贋』講談社インターナショナル、2007年)
吉本がこんなに分かりやすく「自己表出」「指示表出」との関係を語ったのは、私の40年近い吉本読書歴の中で初めてのことです。早くそう言っておいてよ、という感じ。
ここで「俺だけにしか分からない」というのが、自己表出性。しかし「俺だけにしか分からない」と誰もが思うわけですから、その「誰もが」思う表出性が指示表出性です。優れた作品(=優れた表現)というのは、ディスコミュニケーションを共有するものなわけです。これが吉本の〈表出〉概念の根源です。〈表出〉の本質は、まずもって〈沈黙〉としての自己表出にあるわけです。
『言語にとって美とは何か』の〈自己表出〉は、「マチウ書試論」(1954年)の「関係の絶対性」を言い代えたものです。「関係の絶対性」は「自己表出」の「絶対性」のことを先行的に示していたわけです。関係の「客観性」と言わなかったのは、そう言ってしまえば「指示表出」性と何ら変わらなくなるからです。「関係の絶対性」は自己表出性の特異な地位を暗示していたということ。
「自己表出」を吉本は昔は「疎外」(初期マルクスの言葉)とも言っていたし、「逆立ち」とも言っていた。この日は自然の方から「変化させられている」という言い方もしていました。
「人間の意志はなるほど、選択する自由をもっている。選択のなかに、自由の意識がよみがえるのを感ずることができる。だが、この自由な選択にかけられた人間の意志も、人間と人間との関係が強いる絶対性のまえでは、相対的なものにすぎない。(…)人間は、狡猾に秩序をぬってあるきながら、革命思想を信じることもできるし、貧困と不合理な立法をまもることを強いられながら、革命思想を嫌悪することも出来る。自由な意志は選択するからだ。しかし、人間の情況を決定するのは関係の絶対性だけである」(「マチウ書試論」1954)
私が生まれた年に書かれた「マチウ書試論」(吉本30歳の時の作品)はいつ読んでもみずみずしい。吉本は人間は選択をする前に選択を強いられていると言っている。「ルッター型」か、トマスアキナス型」か、「フランシスコ型」かは、それ自体が「相対的な」差異に過ぎない。
この「相対」性を「指示表出」と吉本は言い代えたのです。私の言い方で言えば、意味〈がある〉ということと意味〈を伝える〉ということとは全く別のことだということです。
私には、吉本の「マチウ書試論」の〈関係の絶対性〉から〈自己表出〉〈指示表出〉へ至る過程は「選択の自由」の手前にもう一つの大きな〈自由〉があることを感じさせるに充分な思想だった。またその自由は徹底的に強いられているが故にこそ根底的な自由であることを感じさせるに充分な思想だったと思います。
私が「生の」吉本を見たのは、1987年(9月12日14時から9月13日14時)、東京・品川のウォーター・フロントにある寺田倉庫T33号館4Fでのことでした。吉本隆明・三上治・中上健次三氏主催の『吉本隆明25時―24時間連続講演と討論・全記録』(http://www.amazon.co.jp/%E3%81%84%E3%81%BE%E3%80%81%E5%90%89%E6%9C%AC%E9%9A%86%E6%98%8E25%E6%99%82%E2%80%9524%E6%99%82%E9%96%93%E9%80%A3%E7%B6%9A%E8%AC%9B%E6%BC%94%E3%81%A8%E8%A8%8E%E8%AB%96%E3%83%BB%E5%85%A8%E8%A8%98%E9%8C%B2-%E5%90%89%E6%9C%AC-%E9%9A%86%E6%98%8E/dp/4896672240)のイベントに参加していらいのことだ。
私はその意味では吉本の熱心な「ファン」ではない。もっと早くから吉本の講演に参加していた人は多かったろう。しかし、どんな人生の転機の時にも(大した転機など私にはないが)、吉本の「関係の絶対性」=「自己表出」性の〈自由〉は、私にとって希望の原理だった。未だにそうです。
私の最初の吉本読書歴のほぼ3年後柄谷行人の『マルクスその可能性の中心』(群像)の斬新なヴァレリー読解が私のこころを震撼させたが(20歳前)、その15年後、柄谷は吉本の自己表出論を「ライプニッツ症候群」としての「内面」病として糾弾した。
たしかに吉本の「疎外」や「逆立ち」はライプニッツの反映論と似ているように思えるが、しかし吉本の自己表出の本質論は存在論的な自由論としてのみ意味を持っている。「ライプニッツ症候群」と言うのなら、柄谷の「形式化の諸問題」の方がはるかに相対論だ。
20代に、私の家内が神田の古書街でたまたま吉本隆明(らしき人)を見つけ、何を買おうとしているのか家内が追い回そうとしたことがあります。吉本は家内の尾行に途中から気付いたらしく、早足になり、しつこい家内を追い払うべく最後にはパチンコ屋に飛び込んだらしい。それでも家内は一度も入ったことのないパチンコ屋にも入り、最後には吉本はもう帰ろうと千代田線の電車に逃げ込んだ。ところが、その電車は空いており、両面の椅子は向かい合いで家内と吉本だけ。ついに吉本は家内のそばに近寄ってきたと言う。
「僕になぜかご用事でも?」と吉本。「吉本さんですよね」と家内(顔を赤らめて)。「そうですが」「私の友人(私のこと)が吉本さんの大ファンで、その吉本さん見つけた、と思ってついつい付けてしまいました。失礼の段、お許し下さい」「なんだぁ、そんなことか。今日はどうして神田なんかに」「その友人に本を頼まれて」「どれどれどんな本を買ったの?」そうして家内(まだそのときには結婚していないが)はその時買ったデリダの『ポジシオン』、ハイムゼートの『カント哲学の形成と形而上学的基礎』、リクール『解釈の革新』などを見せたが「この本の著者なら私も良く知っています」と吉本は笑いながら答えたらしい。「そうですか、友人も喜ぶと思います。私なんかお使いしているだけですから」と家内が言うと、吉本はとっさにまじめな顔をして「いやいや、お使いが出来るというのは大したものですよ。それはそれで大切なことです」と言ってくれたらしい。そうこうするうちに電車は千駄木(当時の吉本の自宅の駅)に着く。吉本は「あなたはここへ来るのが目的じゃないでしょ。送ってあげるよ」とわざわざ反対ホームにまで送ってくれたらしい。
なつかしい思い出だ。私は当時この話を家内から聞いて「あなたが会ってどうするのよ」とふざけていたが、私が会ってもどうしようもなかっただろうなぁと怖じ気づくばかりだった。
そんな吉本の肉声と映像がハイビジョン収録された。もう長くはないだろうが、時間も気にせず、途中、2度も司会の糸井重里に中断されても話しを止めずにしゃべり続けた吉本に脱帽だ。予定は1時間半だったところ3時間も話したらしい。最初は聴衆の方を見ていたが、話が盛り上がってくると目を上方の虚空に向け話し続ける吉本。私も倍くらいの虚空型時間延長講義はしょっちゅうだが、痰を喉に詰まらせながらの講演があれだけ出来るかどうか自信がない。話しながら倒れてもかまわないという熱気がひしひしと伝わってきた。まさに「沈黙」の思想家にふさわしい吉本の「最後」の講演だった。「最後」だけども私には吉本がとても元気なように思えた。私には吉本こそが「マザーシップ」そのものだ。
※この記事の増補第2版はこちら→http://www.ashida.info/blog/2009/01/nhketv.html#more
(Version 7.0)
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NHKオンデマンドで視聴させていただきました。
最後の20分が圧巻でした。
価値の本質について考える良い機会となりました。