今頃『篤姫』を見た ― 40年ぶりのNHK大河ドラマ鑑賞(徳川家定の堺正人の「インテリジェンス」論と自民党とリーマンショックと) 2009年01月13日
今頃『篤姫』を見た。年末に録画撮りした5回分の総集編を今見終わった。5時間半もかかった。
私が大河ドラマを全部見たのは(総集編も含めて)、『源義経』(1966)以来、なんと40年以上経っている。評判がいいと聞いていたので、少しは気にしていました。
いやー、真っ先に言いたいのは「徳川家定」役の堺雅人の存在感だ(先のYouTube画像参照のこと)。サイコーでした。堺雅人なしには『篤姫』の成功はなかったのではないか、そう思うほどでした。視聴率の半分は堺雅人でしょう。
ちなみに私が堺正人の演技を認めたのは、篤姫との最初の夜、「何か昔話しでもせよ」といい、篤姫が「夫婦(めおと)のネズミ」の話をしようとしていたところ、そのまま篤姫が(初夜の緊張の余り)寝てしまい、「えぇー(大声で)、続きはどうしてくれるのじゃ」と叫んだところ。この演技は圧巻でした。
残りの視聴率を稼いだのは、たぶん徳川幕府の末路が自民党政権の末路に重なったのではないでしょうか。その上、リーマンショック以後は自分の会社の末路に似ていると思った人が多かったのではないでしょうか。
徳川家定や徳川家茂の短命は、私には安部政権、福田政権にかぶって見えました。幕府末期は家定も家茂も毒殺されたのと同じくらいに組織が停滞していたのではないでしょうか。会社の末期にもそういうことはよく起こるものです。リーマンブラザーズ(=金融主義)の崩壊はペリーの黒船みたいなものです。
徳川家定の「うつけ」解釈も経営者やサラリーマンにとっては耳の痛い話だったでしょう。トップは〈本心〉を部下や周囲の人間に見せてはいけないという手嶋 龍一+佐藤 優ばりのインテリジェンス論が徳川家定の「うつけ」論です。
なぜなら、手嶋たちが言うように、トップが〈本心〉を見せてしまったら、部下たちはそれに都合のいい情報しかトップに上げなくなってしまうからです。組織全体が見えなくなってしまう。いつのまにかイソギンチャクのようなお調子者の部下しか周りにいなくなる。組織の舵取りを誤ってしまうわけです。
組織のトップはどんなときにでも「うつけ」でなくてはならない。つまりトップは孤独なわけです。家定にとっては篤姫に対してさえも「うつけ」でなければならなかった。これも昨年後半の経営者やサラリーマンにとってはきつい話しだったと思う。堺雅人はそこを上手に演じていた。
何が違うのかと言えば、肝心のドラマの主人公、篤姫=天璋院が今の日本にも世界にもいないということです。オバマがそれに代わるのかもしれませんが、麻生首相が篤姫になるはずもなく、民主党政権も一枚岩ではあり得ない。そんな思いで、昨年一年『篤姫』を見続けていた人が多かったのでしょう。納得の5時間半でした。今頃季節外れのこんなこと言っているのは私だけか(苦笑)。でも40年ぶりに見たのだから許されてもよいでしょう。
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堺正人の演技は、苦手でした(「新選組」は落ち着いた存在感ありましたが)。
なにか、小劇場風というか、大学で劇団に入る人特有の自意識過剰というか、おおげさというか、目立ちだがりなのが苦手なんです。
そうでしたか。私は、この『篤姫』を見て初めて堺正人を知りました。後でこの記事を書くために初めて私の後輩だと知ったくらいです。
「小劇場風」というまとめ方があるのであれば、そうかもしれませんが、そうであれば、仲代達也だって、緒形拳だって舞台役者のような大根性を引きずっていました。仲代達也なんて未だに大根です。
「小劇場風」が私には新鮮に見えたのかもしれません。あなたに指摘されれば、確かに発声の仕方などが「小演劇風」な感じがしないでもありませんが、でもそれは「自意識過剰というか、おおげさというか、目立ちだがり」という感じではありませんでした。あくまでも発声の仕方です。
私が本文で書いたように「ええぇー」という大声の発声の仕方は、テレビ俳優ではありえないものでした。それははっきりしています。たぶんその時スタジオにいたスタッフも(そして篤姫役の宮崎あおいも)笑っていたにちがいないと思えるほどの演技でした。
しかしそれは「自意識過剰というか、おおげさというか、目立ちだがり」とは全く無縁の、立派な演技です。
出自を指摘されながら、批評されればもう一人前(メジャー)です。現にあなたも、堺正人の出演を追って見ているのですから(私よりも堺に関心がある!)。ひょっとしてあなた大学出の役者に嫉妬があるのでは。冗談です(苦笑)。
ご丁寧なご返事ありがとうございました。
本当に感覚的な話で申し訳ないんですが、たとえば、例示された緒形拳や仲代達也、その他だれでもよいのですが、映像(映画。テレビ)と舞台とでは、なにか俳優の存在感がちがうのです。
「新撰組」では、三谷幸喜にゆかりの小劇場役者が大勢でていましたが、舞台での存在とはまるでちがう。落ち着いている、といいますか・・・・・・。
堺正人は早稲田なんですね。芦田さんのご出身でもある早稲田といえば小劇場の大学メッカみたいなところではないかと思いますが、おそらく私もかつて何人か知っている、大学などでの劇団関係者独特の、自意識の強さ、というかそういう独特の空気が苦手なんです。
ドラマでの堺正人はそれは存在感ありました。ただ、その存在感は堺正人その人がそこに圧倒的に存在感を示している、という感じで将軍ではないんですね。
たぶんテレビと劇団、特に小劇団は人物を「演じる」というのがちがってるんですね。ストーリー性なども、テレビとは違う。だから、ストーリーを追わせるテレビに小劇場出身者が出ると、時として今回の堺正人のような、独特の存在感がでるのではないか、と思いました。
そうだと思いますよ。私には新鮮に感じました。私の役者評価の基準は、1にも2にも「声の出し方」です。そこが新鮮に感じました(少し素人風なところもありましたが)。先に指摘した「ええぇー」は小劇場的というよりも大学風な素人さがよかったのかもしれません。
大学時代、一度「早稲田小劇場」に行ったことがあります。二度と行くまいと思って帰ってきました。劇中で使われる「こんにゃく」の臭いが劇場全体を被っていて、この劇場を被う「臭い」を演出家たちは計算に入れてはいないだろうと思ったら耐えられなくなりました。
また幾分かブレヒト主義の影響も受けていて、それも耐えられませんでした。いずれにしても色々な出自の人が日常的なテレビドラマに出て、ある種の新鮮さを感じさせるのはいいことだと思います。
最後に、ストーリー上の人物の存在感と俳優の存在感とを区別したり、溶け込ませたりするのは、難しい課題ですね。その問題を解いている演劇理論はいまだにないのではないでしょうか。
数日前の私のブログ記事で取り上げている吉本隆明の言葉を借りれば、演じる、というのは「悲劇」を演じることだと思います。あらゆる役者は「悲劇」的です。