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 【第2版】「これからの専門学校を考える」(第五回補講)― 専門学校にとって〈カリキュラム〉とは何か?(大学の講座主義に対抗できるものは何か) 2008年12月14日

今回は、研修でも問題になった〈カリキュラム〉についてお話ししたいと思います。

私は、対大学戦略の鍵を握っているのは〈カリキュラム〉開発だと思っています。ここに大学が本格的に手を付けるにはまだまだ時間がかかる。

大学の先生は「シラバス」を書くのを嫌います。専門学校の先生は大学の先生のようには〈論文〉を書けない。しかし「シラバス」を書くことについては大学教員以上の実力を持っていなければなりません。教務上のキーワードは、大学の先生は〈論文〉、専門学校の先生は〈シラバス〉、です。

1)大学の教育改革はカリキュラム改革になっていない

「特色GP」、「現代GP」、「教育GP」のどれを取っても(http://www.ashida.info/blog/2008/11/post_305.html#more)、大学の教育改革はシラバス全体を書き換える改革になっていない。2、3の科目かイベント的な授業を外面的に追加してあたかもそれがカリキュラム全体の改革であるように見せかけているだけ。

それが証拠にほとんどの「GP」提案は教養課程(1、2年次課程)に集中しており、3、4年次専門課程の授業改革に取りかかっている大学はほとんどない。上級学年には講座制、ゼミ制が色濃く残っており、教養課程の改革が上級学年のゼミの出口にどう寄与しているのかの説明には説得力が全くない。

今年から始まった「教育GP」には、教育目標を明らかにしろという項目が追加された。この趣旨は4年間全体の〈人材〉作りに寄与するような改革に手を付けろという意味とほとんど同義だが、それならば、出口の仕上がりにかかわる3、4年次専門課程の全シラバスを書き換えるくらいの取り組みがなければならない。

しかしそこには〈専門性〉という高い敷居が科目の横連関(同一年次内での諸科目の連関)、縦連関(年次をまたがる諸科目のヒエラルキー連関)の組織化を阻むように存在している。その上、同一分野であればあるほど大学の教員たちは仲が悪い(苦笑)。〈専門性〉というのは、自己内完結性とほとんど同義だから「専門性連携」(講座連携)という取り組みはそもそもが自己矛盾なのである。


2)大学のカリキュラム教育は高校の時間割教育以下

大学が〈研究〉から〈教育〉へというベクトル旋回をほんとうにできるかどうかのリトマス試験紙は、旧来のゼミ制や講座制(言い代えれば教授の個人主義)を破壊して科目の連携を厳密に構築できるかどうか、つまり〈カリキュラム〉を形成できるかどうかだ。

その意味では大学は高校と同じ程度の科目配置しかない。時間割はあるが、カリキュラムが存在しない。国語、数学、英語のように科目が並んでいる。誰が何を教えているのかの関心が教員間にないという意味では高校も大学もほとんど変わらない。

高校は異分野の集合だから、大学のような同系の科目群を高校と比べるのはおかしい、まだ大学の方が〈カリキュラム〉に近い、と言うなかれ。

高校の授業科目というのは何らかの仕方で自分が高校時代受講した科目群。異分野であっても自分の高校時代を思い出せば、どの教員がどの程度の授業をやっているかは誰にでもある程度わかる。保護者にとってもそうだ。その上、塾や予備校など様々な仕方で科目教育力や教員能力を測る「第3者評価」が高校を取り巻いている。

その意味で大学の科目群は同系であれ、ほとんど誰にもわからない。大学内であっても全体の内容を管理している者などいない。管理しなくもいいくらいに自律した研究を担う教員(自己管理、自己評価できる教員)を大学教員というのだから、大学には〈カリキュラム〉は存在し得ない。ゼミ制や講座制は、自己管理授業の象徴。大学の反カリキュラム主義の牙城なのである。


3)カリキュラム改革を促進させる今年の設置基準の改正

ここに切り込んだのが、今年4月の大学設置基準の改正。91年の大綱化の根本思想である科目主義(=講座制、ゼミ制)からカリキュラム主義への転換が設置基準そのものに盛り込まれた。「大学は、学部、学科又は課程ごとに、人材の養成に関する目的その他の教育研究上の目的を学則等に定め、公表するものとすること」(第2条の2関係)とある。「人材の養成に関する目的その他の教育研究上の目的」という言い方は抽象的で曖昧だが、この条文の附則留意事項では以下のようになっている。

「大学設置基準第2条の2の規定による目的の策定に当たっては、各大学のそれぞれの人材養成上の目的と学生に修得させるべき能力等の教育目標を明確にし、これらに即して、体系的な教育課程を提供するとともに、責任ある実践のための人的、組織的体制、物的環境を整えることに資するよう留意すること。また、組織として目的を共有するため、学則、学部規則又は学科規則などの適切な形式により定めるとともに、大学のホームページ等を活用し、これを広く社会に公表するよう留意すること」。もはや科目目標ではなく、「人材養成」を意識した「体系的な教育課程」を「人的」「組織的」「物的」に「学則」レベルで提供しなさいということである。

昨年までの「特色GP」(特色ある大学教育支援プログラム)と今年から始まった「教育GP」(質の高い大学教育推進プログラム)との大きな違いは、外面的な「特色」主義を超えなければいけないということである。メイン科目配置をそのままにして周辺科目で「特色」を見せるということであれば、それは「体系的な教育課程」の「特色」ではない。単にオプショナルな一科目のシラバスを詳細化しただけの「特色GP」傾向を超えたいというのが、今年からの「教育GP」課題だ。

つまり科目もシラバスもゼミも講座もすべて手段なのであって、「体系的な教育課程」の「人的」「組織的」「物的」目標(=「人材育成目標」)に従属しなければならない。これは教員も同じで、だからこそ「助教授」は「准教授」になったのである。つまり「人材育成目標」に大学教員は等しく参画しなければならないという意味で、教員は教授に従属するのではなくて、「人材育成目標」に従属しなければならないということだ。

そういった下絵は大学ではたしかに出来上がったが、これは「研究の大学」にとってはとてつもない課題だ。「研究から教育へ」と言っている大学関係者もそれにはシラバスを全面的に書き換える必要があると思っている関係者はひとりもいない。シラバスを書き換えないでどうやってカリキュラムを作るというのだ。どうやって「人材育成目標」を形成しようというのだ。

現状、大学では授業アンケートを取るのが関の山だ(それも分析と評価は大概の場合業者任せだが)。これではカリキュラムはできない。


4)専門学校こそが〈カリキュラム〉を開発しなければならない

そもそも「人材育成目標」からするカリキュラム作成、科目諸配置は、専門学校こそが自らの使命としなければならない。

ところが、平板な資格主義教育と間延びした実習主義教育がそれを阻んでいる。特に厚労省、国交省がらみの認定校は、カリキュラムについての意識が希薄。「カリキュラムは国で決まっているから」というものだ。シラバスの詳細まで規制するほどの法規制は何もないのに大概の関係者はそう言う。そうなるとどんな人材育成を目指せばよいのか、そのためにはシラバスはどうあるべきかという意識は相対的に希薄になる。後は、認定校の審査と資格試験に合格する科目が存在していればよいというように。

一方、資格認定校と関係のない専門学校は実習主義的な科目群に引きずられて強い教務リーダーがいない。全ての授業が教員任せになっている。大学では、教員の専門性が「教員任せ」現象を形成しているが、専門学校は実習授業のカオス(進捗管理不能→目標の個人主義→組織的な目標不在)が「教員任せ」現象を形成している。

  ※より詳しい資格主義教育の問題点については→http://www.ashida.info/blog/2008/10/1.html#more
  
  ※より詳しい実習主義教育の問題点については→http://www.ashida.info/blog/2008/10/2_1.html#more

これでは人材育成はできない。

私は、カリキュラムが可能なのは、専門学校以外にあり得ないと思っている。カリキュラム開発にこそ専門学校の存在意義がある。

専門学校の諸科目は、人材目標という一科目を多展開したものでなければならない。全ての科目が緊密に横連関(科目相互の連携)、縦連関(内容的な高度化)を持っているように配置されていなければならない。全科目で一科目というように構成される必要がある。

人材目標が存在するというのは、特定の知識の有無を問うというものではなく、人材イメージに向かって知識が有機的に融合しているということを意味する。その意味では人材目標主義は科目の独立性を許さない。厳密なヒエラルキー構造を持っていなければならない。


5)〈カリキュラム〉とはキャリア人生そのもの

もう一つ重要なことがある。カリキュラムはキャリア教育にとっては、キャリア人生全体を反映したものでなくてはならない。その分野の自立した職業人になるためには、どんな知識や技術を体得していなければならないのかを示すものでなくてはならない。

現在の専門学校の出口像は、就職して短くて半年くらい、長くて2、3年の業務をこなす「即戦力」に過ぎない。時間が経てばすぐに消耗し摩滅する。何度も指摘しているように「資格」教育と「技能」教育の限界が露呈している。

つまり現在の専門学校教育は、就職した会社の最初の実務に実体的に橋渡ししているだけであって、その先にどんな仕事の全体があるのかを教えていない。

前回(吉本レポートについての補講)示したような卒業生データの現象(http://www.ashida.info/blog/2008/12/post_310.html#more)も仕事の全体を提示できていないことが最大の原因だ。

●300人以上の大手企業就職率→ 32.4%
●正規就職率も低い→ 72.5%
●正規就職の継続率→ 64.1%
●初年度年収も低い→ 300万円以上24.6%
●収入の経年増大率も低い→ 仕事の経験年数の収入比例率 38.9%
●卒業後の無職率は高い→ 29.8%
●仕事への満足率→ 38.3%
●会社への満足率→ 42.9%
●学んだことが役立っている率→ 52.3%
●高校までの勉強で充分という就職率は→ 19.5%
(医療・農業系を除く全分野の1221人の専門学校卒業生に対するアンケート結果:2008年実施)


では、キャリア人生全体を見せられない原因は何か。それは、あれもこれもの出店のような科目配置にとらわれているからである。情報系で言えば、C言語も教える、JAVAも教える、データベースも教える、ネットワークも教える、OSも教えるなどというようにカリキュラムができている。ここに、経産省系の「基本情報技術者」資格対策が加わると、さらに経営系の科目が加わる。これらの科目の相対的な多少が各科の「特長」や各学校の「特長」をなしているというのが専門学校の情報系カリキュラムの実態。

しかしこんなふうに出店のように科目を並べ、「でも一番時間が多いのはC言語」などと言っている程度では、C言語さえまともにできない学生を作るだけのこと。後の科目はもっとひどい状況だから、結局のところこういったカリキュラムで学ぶ学生は「何もできない」学生に過ぎない。就職しても学んだことを活かせる仕事に就けない。そもそもほとんど何も身に付けていないのだから。企業も「こちらで教育します」になる。

プログラマーのキャリア人生全体は、とりあえず、プログラミング→設計→分析ということになる。

ワープロの例でわかりやすく言えば、〈プログラミング〉は、ワープロ操作の段階、〈設計〉はアウトラインを使った文章の整合性(起承転結)を問う段階、〈分析〉はきれいに出来上がった文章の意味(意義)を問う段階。

大概の専門学校関係者は、こんなふうに段階化して提示しても、「設計も分析もやらせてますよ」と言うが、実態は〈プログラミング〉を教えるだけで精一杯の状態。その状態で「あれもこれも」の科目を混在させれば、設計や分析の諸段階へ本格的に入り込むことが困難になる。勉強の中でやっと「面白い」と思える段階や瞬間を経験させずに学生を卒業させてしまう。就職しても「その先」の仕事が見えないために我慢ができない。リタイヤ率が高くなる。「即戦力」という言葉は「先が見えない」能力とほとんど同義だ。

その意味で専門学校は出来の悪い就職仲介業をやっているだけで〈人材〉を供給しているわけではない。

したがってカリキュラム開発の要は、いったい自分たちの学校で上流工程(高度段階)までを教えきることができる分野は何なのかをじっくり考えることだ。このことは、やれることを絞り込めというセグメント主義ではない。学生時代に上流工程まで辿った経験のある学生は大概の場合、どんな〈変化〉が生じてもついていける。〈変化〉の時代にこそ、〈深さ〉(あるいは〈高さ〉)を教えることが最も重要。

出店主義的に「あれもこれも」の「基礎」教育をやる方がはるかに「習ったことがない」「知りません」と仕事を放棄してしまう学生を作っている。基礎教育主義は「基礎」教育さえ出来ていない。本来の「基礎」教育は仕事の縦系列(キャリアヒエラルキー)の全体を体験させることに他ならない。「あれもこれも」の教育は「基礎」教育にならない。

そもそも「あれもこれも」の「基礎」教育主義は、高校か、大学の優等生主義的教育の雛型。優等生ばかりがいるわけではない専門学校生にそんな教育をやってしまったら、高校時代の悪夢を、あるいは受験勉強の悪夢を再び専門学校で繰り返すことになる。

一つの職業イメージをもって入学してくる専門学校生にこそ「あれもこれも」の「基礎」教育主義は似合わない。

専門学校のカリキュラムとは教育上のキャリアヒエラルキーのこと。カリキュラムヒエラルキーはしたがってそれを見れば上流工程が即座に見えるものになっていなければならない。それはキャリア人生の縮図でなければならない。人材像に向かって深く深く掘っていく、という教育モデルにこそ専門学校生は目覚めるのである。

偏差値教育の教育モデルは「あれもこれも」にすぎない。別の教育を与えたらどうなるのか、それが専門学校(や専門学校生)の再生の鍵である。


6)カリキュラムの完成度が学校が自由であることの意味

〈学校〉というものは社会と連続的に繋がっているところではなくて(そうなると使い捨て人材しかできない)、教育的な圧縮力を高めてそれ自体で自立的に独立した世界を学生に体験させる場所。全キャリア人生は時間的には体験できないため、工夫(人工的な工夫)が必要。それがカリキュラム。キャリアカリキュラムは会社の実務上の職階(キャリアパス)を人工的に体現したもの。それが専門学校カリキュラムでなければならない。

実際のキャリア人生は、途中で挫折する人がいるかも知れないし、いつまでも“平社員”で留まる人もいるかも知れない。また専門的な能力はあってもパーソナリティや組織的な問題によって失脚する人もいるだろう。〈教育〉というのは、そういったこととは独立して若い学生達に〈全体〉(キャリアヒエラルキー)を描いてみせなければならない。

実社会に出てから能力差別されたり、昇進を阻むものがあることは実際に普段に起こっている出来事だが、だからと言って学校がそうであっていいわけではない。学校の基本は平等と自由。その意味は政治的な意味ではなく、いつでも〈全体〉を実現できる場所ということだ。

〈学校〉の中にも学校世間というようなものがいつもあることはあきらかだ。偏差値40以下で入学して来る学生もいるし、早稲田大学や国立大学を卒業して入学してくる学生もいる。しかしカリキュラムは万人に開かれ、学生が望めばどこまでも上り詰めることができるようにしておくのが〈学校〉というもの。学校自らが自らを制限することは学校の社会的な使命を裏切るものだ。学校はいつでも実世界や世間の差別とは隔絶されていなければならない。高級な学校、下流な学校というのは(そういう言い方があるとして)、世間が決めることであって、学校自身が自らの使命を見限るのは学校の自殺行為と言える。その意味で学校は世間からも実社会からも自由でなくてはならない。

専門学校の企業交流(実社会交流)が促進されなければならないのは、企業の人材差別を受け入れるためのではなく、色々な仕方で色々な人材が活躍しうるということを学校自身が学ぶためだ。そういったことを実社会に出る前に、実時間(実人生)を体験する前にシミュレートしたもの、それがカリキュラム。だから〈全体〉でないカリキュラムは存在し得ない。存在すべきでもない。

最後に、人材像についての錯誤に言及しておきます。創造性や柔軟性、問題発見・解決能力の開発をカリキュラム課題にする学校がある。しかしそれらは、具体的な仕事の具体的なキャリアパスを抽象的に取り出したものに過ぎない。だからこれらの指標は誰であっても死ぬまで要求され続けているような課題になっている。

カリキュラム開発者はこれらの永遠の課題を具体的な技術指標や知識指標の中に翻案しなければならない。それぞれの具体的なキャリアパスの中でどんなテーマをどんなふうに学ばせれば創造性や柔軟性、問題発見・解決能力の開発に繋がるのか、カリキュラム開発の眼目。

具体的な技術指標や知識指標を創造性や柔軟性、問題発見・解決能力の開発と切り離して考える原因はどこにあるのか。それは技術項目や知識項目、あるいはそれらを学ぶ順序は誰が考えても同じものになると思っているからだ。ちょっとした専門書やちょっとした専門家を呼んでくればすぐにでもでき上がると思っている。難しいのは創造性や柔軟性、問題発見・解決能力の開発だというように。

しかし実際はそう簡単ではない。100人の専門家がいれば100の技術・知識カリキュラムが存在しうる。それは何を「創造性」「柔軟性」「問題発見・解決能力」と言うのか、それにも100の解釈があるのと同じ事態。むしろそれらの解釈の結果が技術・知識カリキュラムだと言える。技術・知識の統合カリキュラムも決して「客観的」なものではない。見る者が見れば技術・知識カリキュラムにも表情が読み取れるものなのである。

カリキュラムは学校の〈作品〉=学校自身の創造性の結果である。その立場に立てないから創造性や柔軟性、問題発見・解決能力が抽象的に別主題として取り出されようとする。それらは本来のカリキュラム開発に関心が無いということの別の表現に過ぎない。学内に専門性の高い教員(上流工程までをも見通せる教員)がいないということである。


7)人材育成=カリキュラム開発の留意点


●教員組織の観点

1) カリキュラムの管理者=カリキュラムリーダーが存在していなければならない。人材目標が存在するということはカリキュラムの目標が存在するということ。言い代えれば全ての科目の出入り(科目の入り口と出口)が見えている教務管理者が必要。無駄と重複のない、そして遺漏のない科目構成を見通せる教務が必要。

2) 上記1)は計画上の管理に留まらない。入学時から卒業時までカリキュラムリーダーがイメージした人材目標に向かって各授業が進んでいるのかどうかの進捗管理(授業評価+教員評価)も、このリーダーの仕事。

3) 各教員は科目評価(授業評価)に従属するのではなく、他科目関係に従属する必要がある。各教員は業務管理者としての科長に従属する前に教務責任者としてのカリキュラムリーダーに従属しなければならない(科長=カリキュラムリーダーの兼務は可能)。

4) 何度も言うように教員組織の「質的階層化」(http://www.ashida.info/blog/2008/11/post_308.html#more)の要はカリキュラムリーダー人材の確保。ここに人件費の重点配分をしないとカリキュラム開発はできない。科目を並べ、それに見合う教員を集めただけではカリキュラム開発はできない。


●カリキュラム作成の観点

1)科目の出入り(科目の入り口と出口)が見えるためには、シラバス様式の改革も必要。科目単位のシラバスではカリキュラム開発はできない。一科目の時間単位のシラバス(=コマシラバス)が必要。そうでないと科目ヒエラルキーを構成できない。

2)コマシラバスのみならず、履修判定試験(何を持ってその科目の履修を判定するのか)評価も必要。履修判定試験は科目を外密に積み重ねて行く場合の実行評価票のようなもの。コマシラバスを作るのも厳密な試験評価(OUTPUT評価)と一体でなければ意味がない。

3)履修判定試験は厳密には学生評価のためのものではなく、授業評価=教員評価のためのもの。授業評価=教員評価を棚上げにして学生の点数をあげつらっても意味がない。
その意味では履修判定試験の作成、運用、管理は授業担当者から(できれば)切り離した方がよい。

理想的にはコマシラバスを共通言語にして、担当教員と試験作成者が向かい合う野がよい。担当教員からすれば、勝手な出題をされても困るだろうし、試験作成者も実際の授業も行わずに出題するのも難しい。

コマシラバスは授業担当者が書いても良いし、試験作成者が書いても良いがいずれにしてもコマシラバス通りに授業を行えば、試験は全ての学生が合格するというように書かれていなければならない。

授業担当者がコマシラバスを書いた場合はそれを通して履修判定試験を推測するものになるだろうし、試験作成者が書いた場合には、それを通して実際の授業がどんなものであったかを推測するものになるだろう。

その意味でコマシラバスは両者の共通言語である。逆にシラバス=コマシラバスは履修判定試験作成と授業担当者が別の人間になる場合にこそ充実し、意味を持つことになる(担当教員←コマシラバス→履修判定試験)。


●シラバス(=コマシラバス)とは何か

通常、シラバスは、選択科目の多い大学でこそ必要と(特に)専門学校の教員は思っている。科目を選択するには、前もって科目内容を記したものが必要になる。その意味でシラバスは必要、というものだ。

専門学校ではそもそも選択科目がそう多くはないから、シラバスの必要性はその意味では存在しない。実際専門学校のシラバスは大学に比べてはるかに貧弱だ。大学は91年の大綱化以降、必修科目でさえも古典的な科目名が消えていったこともあり、シラバスはどんどん詳細化していったが専門学校のシラバス運動は未だに本格化していない。

しかしこの意味でのシラバスはシラバスの二義的な意味だ。この意味でのシラバスは学生に対するサービス(選択サービス)シラバスに過ぎない。

そもそも選択科目の(ほとんど)ない専門学校では、このサービスシラバスはたしかに必要がない。

専門学校にとってのシラバスとは、教員業務計画書のようなものであって、教員にとってこそまず第一に必要なもの。そもそもシラバス(=コマシラバス)がなければ、「カリキュラムを組めない」。年次進行、期進行のどこで誰が何を教えるのかがわからなければ、人材形成のステップが踏めない。

シラバス(=コマシラバス)のもう一つの意味は、何を教えるかだけではなく、どんなふうに教えるかが書かれていることである。実習授業の多い専門学校では、知識要素の羅列だけではシラバスにならない。実習にとっての「何(What)」を教えるのかはほとんど「どんなふうに(How)」教えるのかと同義。

同じ「シラバス」という言葉を使ってもはとりあえずは現状3種類あると思ってよい。

1)日本的な大学シラバス→学生サービス型シラバス
2)アメリカ大学型シラバス→教材型シラバス
3)専門学校シラバス→教務型シラバス

実際の教務型シラバス事例を挙げてみよう。

私が作ってきたシラバス制では全ての授業でシラバス(一科目の科目概要)+コマシラバス(各科目の一時間ごとのシラバス)が存在しており、コマシラバスは5つの細目を持っている。

一つは、シラバス(科目の全体目標)との関係
二つ目には、この授業コマで学ぶ主題(コマ主題)
三つ目には、コマ主題の細目(コマ主題細目)
四つ目には、コマ主題細目それぞれの修得レベル(コマ主題細目深度)
五つ目はには、次コマとの関係
以上である。

たとえば「XML概論」のシラバスを考えるとすれば以下のようなものになる(シラバスは基本的に【時代背景】【科目内容】【人材目標】の三つの要素から出来上がっている)。

【時代背景】インターネットにおけるRSS配信やWEBサービスの提供において、標準的なデータフォーマットとして広く利用されているのがXML(Extensible Markup Language)である。実際には、XMLのカバーする領域はインターネット関連技術にとどまらず、Office系ソフトウェアの保存フォーマット、リレーショナルデータベースに変わる新しいデータベースシステム、業務システム開発用のフレームワークやツールの設定ファイルなど多岐に渡っている。XMLという技術の用途がこのように多面的になるのは、XMLがソフトウェア技術ではなくデータに関する技術だからである。XMLはソフトウェアではなく、データの論理的・物理的なフォーマットに関する一規格であり、可搬性をもった半構造データの集合(データベース)である。このような技術が、データの可搬性が要求されたり(インターネットでのデータ交換やアプリケーションの保存フォーマットなど)、データの非定型性が要求される(文書データベース)場面で、リレーショナルデータベースやCSVファイル以上の価値を発揮しつつある。

【科目内容】そこで、本科目では、XMLという言語の特徴を踏まえた上で、XMLを活用するための基本技術(文書構造、スキーマ定義、構造変換、DOM)の概観やXMLを巡る技術動向(WEBサービス、XMLデータベース)の紹介を行っていく。技術動向の紹介においては、実際にサンプルのシステムをコンピュータ上で動作させながら、それぞれの技術がどのような課題の解決に有効であるのか確認しながら解説を行う。

【人材目標】既存技術との比較の上でXMLという技術のメリットとデメリットを評価し、その技術的射程の全体像を認識できる技術者の育成を目標とする。

以上がシラバス。
以下がコマシラバス。コマシラバスは5つの細目からできている。

一つは、シラバス(科目の全体目標)との関係
二つ目には、この授業コマで学ぶ主題(コマ主題)
三つ目には、コマ主題の細目(コマ主題細目)
四つ目には、コマ主題細目それぞれの修得レベル(コマ主題細目深度)
五つ目はには、次コマとの関係
以上である。

以下は「XML概論」の2コマ目の「コマシラバス」。

この授業のテーマ 「XMLの論理構造と記述形式」
2_ 1 シラバスとの関係 XMLによって作成された文書がどのような構造を持っているかについて解説する。

2_ 2 コマ主題 XML文書の論理構造について、要素ノードや属性ノードからなるツリー構造をもっていること、また、記述上の注意点について解説する。

2_ 3 コマ主題細目 ①ツリー構造 ②XML文書の構成 ③記述上の注意

2_ 4 コマ主題細目深度

①XML文書の論理構造であるツリー構造について解説する。唯一のルート要素を最上位の要素として、要素が親子関係をなすツリー構造となっていること、各要素には属性が備わっている場合があることなどを解説する。ツリー構造の図などを提示しながら解説をすること。

②XML文書は、XML宣言、文書型宣言、XMLインスタンスの3つの部分から構成されること、XML宣言の記述の仕方、文書型宣言の意味、XMLインスタンスには要素や属性からなるツリー構造が記述されることについて、サンプルを提示しながら解説する。XML宣言においては、文字コードを指定するが、実際にファイルを保存する際に指定した文字コードと一致させることに注意させる。

③要素や属性を記述する際の注意点(ルート要素はひとつ、大文字小文字の区別、開始タグと終了タグの一致、使用可能な文字に関する制限)について解説する。なお、コメント、CDATAセクション、処理命令の意味と記述の仕方についても触れておく。"

2_ 5 次コマとの関係 次のコマでは、XML文書におけるスキーマ定義の仕方について解説するため、XML文書の論理構造や記述の仕方についてしっかり解説しておくこと。

以上で「コマシラバス」終わり。

最も特徴的なことは、「ツリー構造の図などを提示しながら解説をすること」「サンプルを提示しながら解説する」「コメント、CDATAセクション、処理命令の意味と記述の仕方についても触れておく」「XML文書の論理構造や記述の仕方について解説しておく」など、HOWの記述が存在していることだ。知識項目の記述だけではなく、身につくプロセスをイメージできるような記述がないとシラバスにはならない。単なる知識項目列挙のシラバスでは、授業中に知識項目に言及するだけでも「シラバス通りに教えた」ことになり、学生の実力とシラバス記載との間に大きな溝ができることになる。HOW記述のないシラバスはシラバスをどんなに詳細化しても人材育成には繋がらない。


●カリキュラムの外と内

カリキュラム構成の要点の一つは、HOW要素だが、もう一つはトレーニング要素。

「トレーニング要素」とは「覚える」プロセスと「使う」プロセスの二つの要素を含んでいる(これらの二要素に対して「理解する」というのが学びの三要素とも言えるものだ)。両者とも学生の個人差が出やすい。これらの要素を90分ごと、整序だって作られた時間割の中ですべてこなそうとすると必ず破綻する。

大学であれば、この部分はすべて時間外の予習や復習で済ませるところだが、学力差が比較的大きい専門学校ではそうは行かない。かといって「覚える」プロセスや「使う」プロセスを時間割の中に持ち込むと相対的には目標低下が生じる。

この問題を解決するポイントは以下の二つ

1)「あれもこれも」型のカリキュラムを作らず、コア目標に集中すること

2)カリキュラムの中の無駄と重複を徹底して排除すること

3)コマシラバス展開の中に、「理解する」コマが二つ、三つ進んだところで必ず「覚える」プロセスや「使う」プロセスの「コマ」を挿入し、自主学習の契機を時間割内に組み込むこと。「理解」コマ階梯の踊り場のようなコマ(「覚える」「使う」コマ)を用意しなければならない。

4)時間割(=「理解」)授業を午前授業を中心に編成し、午後の中心は授業時間にとらわれない「覚える」+「使う」プロセスの言わばhidden curriculumとでも言うものを形成すること。

5)hidden curriculumは、言わば補習対策でもある。午前授業の遅れをその日の内に取り返すような補習体制をとること。

全体的に整序だった表のカリキュラム(時間割カリキュラム)と可動性に富むhidden curriculumとの両面をカリキュラムの全体として構成する必要がある。それに従った教員組織が必要になる。


●教員階層とカリキュラム(http://www.ashida.info/blog/2008/11/post_308.html#more

1)講義、実習、hidden curriculum担当など科目の性質に見合った教員組織が必要

2)科目の人材目標にとっての重要度をランク化し(コア科目と周辺科目+資格科目など)、教員の専門性に応じて科目の専門化度も対応させること。

全ての科目を高度に管理したり、すべての教員を専門性の高い状態に保つことはコストの点からも不可能。カリキュラムのコア科目と教員のコア教員を対応させるような工夫が必要。大学の講座制でもかつては講座ごとに金額が査定されていたらしい(『東京大学の歴史』寺崎昌男)。大学とは別の意味で、それくらいの科目構成のメリハリがないと弱い財政基盤の専門学校では「良い教育」を行うのは難しいだろう。

以上、第一回研修のカリキュラム関係の補講とします。

※なおこの記事の補足レポートとしては文中でも触れたようにぜひ、以下の記事を参照して下さい→http://www.ashida.info/blog/2008/11/post_305.html

※より具体的な展開は、来週の第二回研修(http://www.invite.gr.jp/news/2008/20081006mr_ashida02.html)で触れます。

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