【第3版】日本的な家族主義とアメリカ的な実力主義と― 久しぶりにあった大学の先生との10時間!(新宿のシズラーはエライ!) 2008年12月10日
今日は、久しぶりに(3、4年ぶり)、H大学のA先生と会ってなかなか楽しいひとときを過ごした。「楽しい」と言っても新宿のシズラー(http://www.sizzler-shinjuku.tokyo.walkerplus.com/)でお昼を一緒にしようということになって、その程度で終わることになっていたが、これが大変。お昼のバイキングの混雑を避けて、11:30に待ち合わせて店に入ったが、何と1500円のバイキング料金で気付いたら夜の8:00までいました(大笑)。8時間半もシズラーにいたことになる(これは記録でしょ)。しかも1500円の食べ放題、飲み放題で。よくもまあ、シズラーは私たちを追い出さなかったものだ。シズラー、エライ!
でもそれくらい楽しいひとときだった。議論の内容は、やはり大学の教育、専門学校の教育。おたがいここ10年以上にわたって悩んできた問題だから、話しはどんなふうにも展開する。また会おう、と言って新宿を後にしたが、夜の10:30にとんでもないことに以下のメールがまた来た。
芦田先生
今日は長時間にわたりお話をうかがわせていただきありがとうございました。久しぶりに時間を忘れたひとときでした(時計をみて長い時間が経っていたので驚きました)。さぞかしご迷惑だったと思いますが,僕の話も聞いていただき,自分の弱点が少しわかったような気がしています。
今日のお話のうち,覚えていることをメモさせてください。
●経営と教学が分離しているのが大学の伝統と思います。僕の過去の経験では,専門学校では経営が強すぎる(教学が弱すぎて教員が経営から自立できない)と感じました。経営と教学が融合する新たな学校像がありえるのかもしれないとは思いますが,過去の僕の経験からすると,経営と教学の融合にはデメリットだけが目立ち,メリットは見あたらなかったように思います。専門学校が一条化されることで経営基盤がしっかりして,その先に教学が自立できるならぜひそうなるべきだと僕は思います。
●専門学校が「大学にはないしっかりとしたカリキュラム,人材育成像をもつ学校」として機能し「企業が学校の成果をまともに評価する」のは一つの理想像と思います。しかし,それはアメリカ的合理社会の中では成立しても,日本的曖昧社会では成立しないのではないかというのが僕の疑問です。日本の企業は学校教育(大学教育)を評価していないというのが僕の実感だからです。ステレオタイプな話になってしまいますが,僕の独断で,ものごとをヨーロッパ型,アメリカ型,日本型の3つに分類させてください。
ヨーロッパ型:手工業的一品生産主義の伝統が根強く残っている。たとえば,フェラーリ。一品生産である建築は本質的にヨーロッパ的。
アメリカ型:階級制(責任分担制=訴訟主義)に基づく効率主義(合理主義)。大量生産に力を発揮する。たとえばマクドナルド。アメリカでは大学(コミュニティカレッジを含む)は「何かができる学生」を育成する。企業は「何かができる学生」を採用する(何ができるかで給料が決まる)。アメリカではハーバードやイエール以外から大統領が出れば教育階級制が崩壊する。アメリカの建築教育は,ヨーロッパ的一品生産主義の建築を志向しない。アメリカの一品生産主義的なメジャー建築(美術館など)はヨーロッパの建築家が設計している場合が多い。
日本型:みんなで力を合わせてがんばろう的家族主義。責任が曖昧。みんなが力を発揮
するとうまくいく。たとえば日本の建築は,ゼネコンが一生懸命工夫をして建築をつくってくれる(アメリカではゼネコンは設計図の通りにしか建築をつくらない<たぶん)。日本では××大学出身の漢字も読めない人でも総理大臣になれる。企業は「何かができる学生」ではなく「可能性のある元気な学生」を採用し,自社で教育をする(大学の成績は就職と無関係)。日本はどうしようもなくアメリカを追随するが,追随してもアメリカにはなれないので,いろんな矛盾を露呈する。
●今日の「工業化されたおにぎり(コンビニのおにぎり)は手作りのおにぎりを超えておいしい」という芦田先生の「おにぎり論」は大変興味深かったです。しかし,今日のおにぎりは,もはや工業化おにぎりではなく情報化されていると思いました。「情報化されたおにぎりは多様化し,おいしさは個人の解釈でしかなくなっている」と思うのです。今日の世界は,どうしようもなく情報化してしまったリゾームだと思います。真実はどこにもなく噂ばっかりの世界です。趣旨が思い出せませんが(実は理解していないのですが),ボードリヤールの「湾岸戦争は起こらなかった」は事件の情報化について述べたものだったでしょうか? 本来は科学的に説明できるはずのWTCの崩壊も情報化に呑まれて説明不可能になってしまっていると思えてなりません。
大学はわけのわからないリゾームではないかと思います(研究もわけのわからいリゾームと思います。「大学教員のインフレ」というお話がありましたが,一番インフレなのは研究だろうと僕は感じます)。授業評価アンケートや自己点検は,「よくわからないけどないよりましな何か」であるように感じます。授業評価アンケートも自己点検も一つの情報に過ぎず,個別に何かを説明する真実ではないけど,噂くらいの興味にはなりえているかなと思います。「どうせ真実なんかないんだから噂は多い方がいい」のかなと思います。
ご迷惑とは思いますが,またお会いできる機会があったらいいなあと思います。芦田先生の研修の内容が本になったらいいなあと思っています。
(以上メールの内容)
私がこのA先生のメールに気付いたのは、不覚にも深夜の1:00。またこんな面白いメールが来て、放っておくのももったいないし、自分の勉強はあるし。
時間がない!と一人で叫びながら、でもこんな面白い話しを脇に置いて「自分の勉強」も何もないだろう、A先生だって忙しい中、このメールを書いているのだから、と気を取り直してすぐに返信しておきました。
以下が私の返信メール(★以下が私の返信)。
●(A先生)
経営と教学が分離しているのが大学の伝統と思います。僕の過去の経験では,専門学校では経営が強すぎる(教学が弱すぎて教員が経営から自立できない)と感じました。経営と教学が融合する新たな学校像がありえるのかもしれないとは思いますが,過去の僕の経験からすると,経営と教学の融合にはデメリットだけが目立ち,メリットは見あたらなかったように思います。専門学校が一条化されることで経営基盤がしっかりして,その先に教学が自立できるならぜひそうなるべきだと僕は思います。
★(私の返信)
それは、「研究」の大学を目指す限りの発想。
企業から金を取る、という場合、経営と教学の分離はどうなりますか。私は「人材」に定位した場合には、別の意味で経営と教学は一致すると思います。
「研究」の反対語は、「教学」ではなくて「人材」育成。
専門学校は学生を「弟子」と思わず企業へ向けた「商品」(人材商品)だと思えばいい。あなたの言う意味とは別の意味で専門学校教育は経営そのものです。経営か教学かではない。
●(A先生)
専門学校が「大学にはないしっかりとしたカリキュラム,人材育成像をもつ学校」と して機能し「企業が学校の成果をまともに評価する」のは一つの理想像と思います。しかし,それはアメリカ的合理社会の中では成立しても,日本的曖昧社会では成立しないのではないかというのが僕の疑問です。日本の企業は学校教育(大学教育)を評価していないというのが僕の実感だからです。ステレオタイプな話になってしまいますが,僕の独断で,ものごとをヨーロッパ型,アメリカ型,日本型の3つに分類させてください。
ヨーロッパ型:手工業的一品生産主義の伝統が根強く残っている。たとえば,フェラーリ。一品生産である建築は本質的にヨーロッパ的。
アメリカ型:階級制(責任分担制=訴訟主義)に基づく効率主義(合理主義)。大量生産に 力を発揮する。たとえばマクドナルド。アメリカでは大学(コミュニティカレッジを含 む)は「何かができる学生」を育成する。企業は「何かができる学生」を採用する(何ができるかで給料が決まる)。アメリカではハーバードやイエール以外から大統領が出れば教育階級制が崩壊する。アメリカの建築教育は,ヨーロッパ的一品生産主義の建築を志向しない。アメリカの一品生産主義的なメジャー建築(美術館など)はヨーロッパの建築家が設計している場合が多い。
日本型:みんなで力を合わせてがんばろう的家族主義。責任が曖昧。みんなが力を発揮 するとうまくいく。たとえば日本の建築は,ゼネコンが一生懸命工夫をして建築をつくっ てくれる(アメリカではゼネコンは設計図の通りにしか建築をつくらない<たぶん)。日 本では××大学出身の漢字も読めない人でも総理大臣になれる。企業は「何かができる 学生」ではなく「可能性のある元気な学生」を採用し,自社で教育をする(大学の成績は就職と無関係)。日本はどうしようもなくアメリカを追随するが,追随してもアメリカにはなれないので,いろんな矛盾を露呈する。
★(私の返信)
「可能性のある元気な子」というのは、決して曖昧な潜在性を言うのではない。
受験勉強の「実績」が前提になっているからです。
その意味では日本はウルトラ実力主義です。
大学教育が曖昧主義的家族主義でいられるのも受験勉強の「実力主義」が前提になっている。
アメリカ型の実力主義はあなたの言うように階級主義と一体化していますが(従って本来の実力主義ではない)、
日本的なウルトラ平等主義の社会では、本来の実力主義を開拓できる要素がある。
受験勉強に接ぎ木できる人材教育を見出せばそれで成功です(専門学校では「受験勉強」を並行する必要がありますが)。
それに飛びつく素地は日本にこそある。
苅谷剛彦は母親格差を指摘し、最後には「インセンティブディバイド」を言い出しますが、「インセンティブ」という格差心理主義はそれ自体結局個人主義です。
彼は、日本的な能力主義差別(discrimination)批判はそれ自体日本特殊的だと言っています。「少なくとも英語のdisciriminatioという概念は、個人の能力や業績によって引き起こされる差異的な処遇までを含んではない。個人的な差異によるのではなく、むしろ階級や人種・民族、性別、出生地などの『社会カテゴリー』の差異にもとづく『不当な』差異的処遇をさして、『差別』という言葉が与えられるのだ」と言う。
つまり日本的な能力主義差別批判はそれ自体能力主義(=個人主義)に基づいているということです。苅谷自身の「インセンティブディバイド」も同じです。いずれもウルトラ平等主義に基づいています。
●(A先生)
今日の「工業化されたおにぎり(コンビニのおにぎり)は手作りのおにぎりを超えてお いしい」という芦田先生の「おにぎり論」は大変興味深かったです。
しかし,今日のおにぎりは、もはや工業化おにぎりではなく情報化されていると思いました。
「情報化されたおぎりは多様化し,おいしさは個人の解釈でしかなくなっている」と思うのです。今日の世界は,どうしようもなく情報化してしまったリゾームだと思います。真実はどこにもなく噂ばっかりの世界です。趣旨が思い出せませんが(実は理解していないのですが),ボードリヤールの「湾岸戦争は起こらなかった」は事件の情報化について述べたものだったでしょうか? 本来は科学的に説明できるはずのWTCの崩壊も情報化に呑まれて説明不可能になってしまっていると思えてなりません。
★(私の返信)
コンビニのおにぎりは、それこそが情報化の結果でしょ。
おにぎりがまずあって、それが情報化されるのではない。
おにぎりの「実力主義」とは、おにぎりの情報化度にかかわっている。
それがコンビニのおにぎり。
私の言う本来の実力主義とは、情報化度にかかわっている。
「カリキュラム」も情報化度の指標に過ぎない。
その意味で言えば、 アメリカ型の実力主義もヨーロッパの階級主義の実力主義も物理的な実力主義に留まっている。
アメリカ型の「大量生産」もヨーロッパの「一品生産主義」も物理的な実力主義の両面にすぎない。
どちらも粗雑なのです。
私の言う「実力主義」は情報化度を高めるような「本来の実力主義」です。
あなたが言う「個人」化された「おにぎり」にこそ、「おにぎり」の実力主義を私は読みとります。
それは日本こそがもっとも扇動的に受容することができる(いいも悪いも)。
少なくとも実験する意味はある。
そもそも日本の「家族主義」だって、養子制度にみられるように結構機能的です(村上、公文、佐藤たちの研究)。日本の家族主義は実は家族主義的ではない。なんだってありの家族主義です。
●(A先生)
大学はわけのわからないリゾームではないかと思います(研究もわけのわからないリゾームだと思います。「大学教員のインフレ」というお話がありましたが,一番インフレなのは研究だろうと僕は感じます)。授業評価アンケートや自己点検は,「よくわからないけどないよりましな何か」であるように感じます。授業評価アンケートも自己点検も一つの情報に過ぎず,個別に何かを説明する真実ではないけど,噂くらいの興味にはなりえているかなと思います。「どうせ真実なんかないんだから噂は多い方がいい」のかなと思います。ご迷惑とは思いますが,またお会いできる機会があったらいいなあと思います。芦田先生の研修の内容が本になったらいいなあと思っています。
★ (私の返信)
「授業評価アンケートや自己点検」などは情報化度を高める教育のゲーム要素です。
「おにぎり」が情報化度を高めて存在しているように。
これを楽しめるのは、世界では日本だけでしょう。「評価」というのも日本ではゲーム(=物語)なのです。
少なくともウルトラ平等主義の日本でこそ、それはゲームになりうる。
ゲームだからこそ実力主義なわけです。
アメリカもヨーロッパも「実力主義」がゲームにならずに「生活」と一体化している。
それは、どちらもが階級主義だからです。実力主義が重い。
これを軽くできるのは(いいも悪いも)世界の中で日本だけでしょ。
ボードリヤールなんてあれほど現代社会の「記号」化を論じながらも最後まで「外部」を信じていた。結局は物理主義(階級主義)です。
(今日はこれで終わり)
A先生、また(近いうちに)会いましょう。
ファミレスなら、24時間いても怒られないから、今度はファミレスで会いましょう(苦笑)。
以上が深夜2:30過ぎに返信した私のメール。メールを含めて今日はA先生と10時間以上「話していた」ことになる。3、4年ぶりになってもこんなふうに話が紛糾するから楽しい。A先生、年内にこの話の決着を付けましょう。楽しみにしています。
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当日、早朝6:00ころにまたA先生から追加のメモがありました。謹んで(苦笑)、転載しておきます。私のコメントはまた後で。
芦田先生
もう1回追加です。忘れるといけないので,別の項目をメモさせてください。
●芦田校長が,しっかりした就職支援をやってこられたお話には感動しました。今日お話をうかがったカリキュラム連動就職支援(芦田改革第2フェーズ?)は,大学(少なくとも僕が勤務する大学)には真似のできない(真似をしたくてもできないし,誰も真似をしようとは考えない)ものだと思います。学生本人以上に,父母は感激されるんじゃないでしょうか?
僕が勤務する大学では,キャリアセンターという事務組織が就職支援をしています。理系学部では,企業がキャリアセンターを飛び越えて(キャリアセンターとは別に)学科にアプローチする伝統が根強いので,各学科に就職担当が置かれています(今年は僕が就職担当をしています。僕の学科では就職担当をやりたいなんて思う教員は皆無で,誰か一人が押し付けられているというのが実情です。他学科では複数の担当がいる場合が多いようです)。
僕がやっていることは,来校する企業と面談する他,郵送されてくる求人票などを整理し,その内容を学生に掲示することです(面倒ですが単純作業です)。掲示の手段は,学内ネットワークとしています(資料をスキャナで読んでPDF化しています)。つまり,企業から学科にコンタクトがあった情報だけを掲示しています。
学生の相談に応じるのも就職担当の仕事だと思ってはいて,学生にそのように案内していますが,相談はほとんどありません(稀にメールで単純な質問があるくらいです)。学生の就職活動は,リクナビなどのオープンな情報が主要な舞台になっていると思います。学科あての情報は補助にすぎないという気がしています。
つまり,学科の教員も最低限のことしかやっていないと思います(大学=キャリアセンターとしては事務的にやれることはやっているとは思います)。それでいいのかという批判はあるのかもしれませんが,日本では,大学教育と就職活動は完全に乖離していると僕は認識しているので,最低限のことだけで間に合ってしまっています。
つい10年くらい前までのインターネットのない時代には,学校推薦という制度が機能していて,ある程度,学科の就職担当が就職先をコントロールすることをしていたと思いますが,そんな制度は今は崩壊しています。就職活動も情報化に呑まれ,リゾーム化していると思えます。学科の就職担当は学生の就職活動に介入できないと僕は思っています。介入しようにも僕には知識も能力もありません!
学生もそんなことを期待していないと思います(もし学生が僕に「どこでもいいから紹介してください」と言ってきたら僕は容易に対応できます。しかしそんなことはありえません。逆に「どこがいいですか?」と聞かれることもありえないのですが,もしそう聞かれたら,僕には「わかりません」としか答えられません)。
というのは学科の就職担当の話です。工学部ではすべての学生が研究室(ゼミ)に所属するので,ゼミ単位では,指導教員がそれなりにアドバイスをしたり,教員から企業にコンタクトをしたりということはしていると思います(人によりますが…)。
以上が,今日(昨日ですが)伺った話の中で,専門学校と大学の違いが一番はっきりした部分だったと感じました。
以上A先生の追加分メモの全文です。私のこの就職部分に関するコメントはまた後で。
(Version 6.0)
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