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 「これからの専門学校を考える」(第二回補講)― 専門学校の資格主義、実習主義、担任主義、教員組織の問題について 2008年11月25日

今回の補講は、本研修で触れた資格主義、実習主義、担任主義と教員組織の問題を扱います。この質問の本研修関連スライド(7枚)は以下のものです。

●専門学校における資格現象(スライド2)
1.自分で教育目標を考えない。考える場合にも経験主義が先行。教員が変わる度に(いつのまにか)カリキュラムが変わっている。
2.教育目標が資格目標であるため明確である分、変化する企業動向に目をふさぐ傾向が強い。
3.2年~4年制の在籍期間全体をフルに使った教育が出来ない(2年~4年フルに密度の高い授業を行わないと合格しない資格はほとんどない)。
4.合格至上主義の「暗記」学習傾向が強くなり、息の長い人材能力の形成を阻害している。
5.既成教材が多い分、教材の自己開発契機が弱い。


●専門学校における実習現象(スライド3)
1.学生の個人的な能力(身体能力や天分)に依存しやすいため仕上がり目標の共有化や進捗管理に教員の関心が向かない。
2.目標の共有化がない分、実習試験評価の透明度も低い。透明度が高い分野は実習レベルが低い(技能実習に留まっている)。課題物評価の不透明性と技能主義試験の単純さが専門学校の履修判定の信頼度(公共性)を殺いでいる。
3.目標と評価の共有化(透明度と専門性)が薄い分、カリキュラム開発・教材開発の動機が薄い。
4.「技能」実習が多いため、実習目標の高度化関心が薄い。暗記教育に過ぎないような技能教育が支配している。
5.実習設備(物や素材)が「教材」化し、教育のルーティン化が起こりやすい(教育のトレーニング化=職業訓練校化)。


●専門学校における資格+実習現象(スライド4)
1.単元毎の資格学習とルーティン技能実習によって、カリキュラム開発動機が薄い。
2.資格模擬試験(過去問試験)と単純な技能判定によって、学生の能力判定ノウハウ(履修判定指標の高度化ノウハウ)が高まる契機がない。
3.カリキュラム開発と能力判定のノウハウが高まらないため、教育の高度化契機が見つからない。
4.そのため、教員の自己研鑽契機も見つけづらい。
5.大学のような大学院経由、中等教育までの大学経由の「教員免許」といったミニマムの教員指標も専門学校では明確ではない。「教員」とひとくくりで言えるような共同性や組織性を持たない。


●なぜ資格依存なのか、なぜ実習依存になるのか(スライド5)
1.設置基準の甘さに依存して、内部の点検指標、改善指標を自己構築してこなかった。
2.人材育成達成について、資格の公共性の影に隠れて無関心なままでいられた。
3.人材育成達成について、基準と評価のない実習授業に隠れて誰も(真っ先に経営者が)関心を持たなかった。
4.資格と実習によって、人材育成の実質について曖昧なままでいられたのは、大学の落ちこぼれ受容があったから。「受け皿」専門学校、「受け皿」就職企業に長い間安住することができた。資格教育そのもの、実習教育そのものが「受け皿」教育だった。人材教育、職業教育とは無縁だった。
5.それでも学生が暴動を起こさないのは、「認定校」制度のおかげ。自動車学校のような実習試験免除体制が非文科系認定校制度によって保証されている限りは、「卒業」自体が(学歴とは別に)意味を持ったから。実習授業はその教育上の曖昧さと認定校出席中心主義によって二重に専門学校をダメにしたのである。「資格」も「実習」(認定校)も「学歴」の代替機能を果たした。
6.つまり資格と実習は専門学校の元凶であると共に守りの要でもあったということ。


●なぜ資格依存なまま、実習依存なままではダメなのか(スライド6)
1.大学全入の意味は、大学の専門学校化。
2.91年の大綱化以来、設置基準がかなり弱まり、限りなく専門学校化できる環境ができている。今の文科行政は入り口(設置基準)は緩く、実績評価は厳しくというもの。
3.実際、偏差値50以下の多くの大学・短大が専門学校的な「職業」「実務」教育をやり始めている。
4.企業交流も設備投資も教員の専門性もキャンパス教育力もはやりの「パーソナリティ」教育も広報費も、専門学校の比ではない。
5大学も教育の内実は大したことはないが、それは専門学校も同じ。
6.入り口における学生が三流という点では大学も専門学校も同じではあるが、大学の教員は少なくとも2流以上の専門性を有している。
7.高校も統廃合をかけて、大学進学率を「学校改革」指標にしている。高校の先生は元々学歴主義。
8.付論:インターネットのグローバリズムは、「技能」から「技術」、「技術」から「知識(インテリジェンス)」への移行を促進しつつある。大学的な教養主義ルネッサンスの(再)到来か? アジア留学生以外に専門学校の顧客はいない?


●公共性へ取組(スライド20)
教員組織の質的階層化について
1)教務マネージャ(1名)=科長?
企業+技術動向を理解し、それをカリキュラムにまで落とし込める者
カリキュラムに沿って教材開発管理(一部教材作成も含め)が出来る者
教員の授業評価が出来る者
学生の仕上がりレベルのチェックが出来る者

2)教員=Teacher(全体の20~40%)
一科目のシラバスをそのコマ展開も含めて書ける者(講義、実習とも)
シラバス、コマシラバスに基づいて一コマ内の授業構成の出来る者。
教務マネージャーの指示に従って教材(講義、実習も含めた)作成能力のある者。

3)実習教員=TA or Trainer(全体の60~80%)
実習授業を担当出来る者
試験対策授業を担当できる者(過去問データベースの存在が前提)

4)配慮事項:教員階層は人的に階層化するだけではなく(それだけでは単なる教員差別)、カリキュラムにおける諸科目の重要性の軽重を連動させる必要がある。

※各階層間は固定せず、教務上の昇進試験などを行い流動性(昇進・降格双方)を持たせる。特に実習教員と教員との関係の流動性は高い。


●「担任」主義教育の諸問題(スライド24)
1)「担任」主義は大学、専門学校とも大流行中。
2)「担任」が前面化する意味
 a. 授業が成り立たなくなっている
 b. 教員指導が出来ない
 c. 教育目標に関心が無い
 d. 授業料さえ収めてくれていればよい
 e. 卒業するまでとにかく仲良くしていて欲しい
3)「担任」はラインでないため、教務指示、業務指示を出せない
4)学生の苦情を聞いても、当該部署、当該教員に対する指示が出せない。評価も出来ない。5)担任活動の実際は、問題の本質をそらせることにある。
6)担任は苦情処理係に過ぎない。大概の場合、苦情処理係は当該テーマの改善にすすむのではなくて、苦情を苦情のまま穏便に済ませることが役目になっている。担任主義は結局のところ心理主義に留まる。
7)担任制を有効に機能させるには、教育指標を整える必要がある。

これら7枚のスライドの本研修に対して以下の質問、疑問が出ました。

●資格と実習
>実習現象は本校でも同様の傾向だが、資格主義的な学科は少ない(Kさん、N専門学校)

>実習しかできない教員は若手より。高齢者に多い。技術革新に付いていけないため(Kさん、N専門学校)

>すべての学校が資格認定校とは限らない。それ以外の学校としての「資格主義の問題」をどうとらえればよいのか(Iさん、E専門学校)

●教員組織の階層化
>一つの学科も人数が少なく、教務マネージャーの下に部下数が少ないがマネージャーをどう置くのがよいのか」(Kさん、E専門学校)

>カリキュラム、シラバス、コマシラバスはすべて教務マネージャーが策定するのか、それともカリキュラムのみ作り、それ以外は各担当者が作るのですか(Nさん、N専門学校)

>CLの作り方? 探し出し方? CLと教員との関係性の作り方(Yさん、T専門学校)

>カリキュラムリーダーは科長よりも上に位置しているようですが、元々どの位置にいた人をリーダーにしたのですか(?)

>給与体系の具体的な例などがあればお伺いしたい(Iさん、I学園)

>人件費65%からの脱却方法について(Iさん、E専門学校)

>専門教員は、授業終了で終わりではありません(担任業務、広報業務、就職、学校業務、学科業務、授業準備など)(?)

>能力が高い教員には高い給料を与えるのは教育部から提案するのは難しいです(?)。


以上の問題を今回は以下の三点に集約して補講します。細かい質問については、第二回研修の全体で応えますから今回は我慢して下さい。

1)「資格の専門学校」と言いますが、資格に力点を置かない学校もたくさんあります。その点をどう考えていますか?

2)「教員組織の質的階層化」と言いますが、どのように取りかかればいいのでしょうか。

3)教員の業務過多で教育集中できない現状があるが、どのように考えればよいのか(特に担任業務がきつい)

【第二回補講】

質問に応える前に、本講義の関連箇所について別角度から補講しておきます。

「資格主義、実習主義の専門学校」について、と、「教員組織の質的階層化」について補講します。両者は密接に関係しています。

本講義で、私は、資格教育と実習教育は、専門学校が「公共的な」地位を得ることの最大の躓きの石になっていると指摘しました。

理由は、以下の通りです。

1)資格教育の問題

資格教育は、教育目標が学校の外部にあります。場合によっては教材(教科書)とセットで教育目標が学校の外部にある。目標も教え方も自分で考えなくなる傾向がある。教員も学生も校長までも最も真剣になるのは試験対策授業の時だけで(カリキュラム全体の2割か多くても3割)、あとの内実は出席率だけ(「認定校」実習免除の恩恵を死守するための)という授業になっている。

専門学校の期末試験や履修判定が杜撰になる最大の理由は、いくら期末試験に高い点で通過しようが低い点で落伍しようが、「結局は」、外部試験(=資格試験)に合格しなければ意味がないからである。その上、この外部試験(=資格試験)は2年間しゃにむに勉強しなければ受からないほどの試験でもない。だから学校内部試験は全て儀式のような試験になる。形式的な追再試や補講(認定校対策のための)を繰り返して全員が合格するような内部試験を毎年続けている。専門学校で「シラバス」作りが意味をなさないのはこの局面でのことだ。

内部試験(期末試験)は、その学校の「卒業証書」と引き替えのものであるにもかかわらず、内部試験の緊張感はまったくない。卒業よりも、資格試験に合格することの方がはるかに社会性(公共性)がある。どんなに学内試験でいい点数をとっても、外部資格試験(国家資格などの)合格しないと意味がない。逆に学内試験でどんなに悪い点数をとっても外部資格試験に合格すれば全ては許される。

募集停止手前の短期大学では、就職が決まるとほとんどの学生は授業にさえ出なくなるが(2年生の夏以降)、それでも卒業はできる。就職が決まっているのに「卒業させない」という決断ができるほどの大した授業をやっているわけではないからだ。逆に学生や保護者からの(卒業させないことの)突き上げを恐れるくらいのことになっている。同じようなことが専門学校の「資格」と学内試験との関係でも言える。「学内試験」と「資格(大概の場合は国家資格)」との間に合否の相関がない。

専門学校の「卒業」に意味があるのは、認定校であることによって実習試験が免除されているということだけである。だから「出席率」管理だけはうるさいが、その学生が(資格学習要件以外に)何を身に付けたのか、何を身に付けさせるべきなのかについての自己認識(自己検証)はほとんど皆無と言ってよい。内部で何がどうなっていようと、人並みの外部資格合格(競合校に比しての)が達成できていれば、日々の授業点検、教育点検に関しては鈍感になる傾向がある。

専門学校は同窓会組織を形成するのがなかなか難しい学校であるが、原因の一つは、予備校の目的が大学受験のための学校のように、資格合格のための学校選択が優先しているからである。予備校を学歴扱いしないのと同じように、専門学校の学歴は、むしろ資格の公共性に取って代わられている。予備校と同じように、専門学校も消費型の学校に成り下がっているのである。専門学校そのものの教育に内実がないため自身の公共性がもてないでいる。だから「卒業証書」自体が何を証明しているのかが自他共にわからない。同窓会の意味がないのである。


2)実習授業の問題

専門学校の授業の特長は「実習授業の多さにある」と言われている。これは間違いではないが、これもまた専門学校教育の躓きの石になっている。

実習には手作業やある種の感性が必要になる。個人差が著しい。同じ担当者の同じ授業の同じコマの授業であっても、各学生が別々のことをやっている場合が多い。そうでない場合(整序だってやっている場合)は、よほど簡単なこと(「技能」実習)を実習課題(職業訓練校のような実習課題)に掲げている場合だけである。どんなに「シラバス」を詳細化しても実態とは別の授業が行われるか、シラバスに書くほどでもないことを教育目標にしているかどちらかである。

授業の進捗管理の問題を、「学生の個人差」に逃げてしまうため、教育ノウハウの改善動機が薄い(あるいは「個人差」さえあまり出ないような「技能」課題を与えている)。履修判定も大概の場合授業中の実習課題の延長で行われるために(作品や提出物評価)、まともな評価にならない。実習提出物は、教員の指導の延長であるため、どこからどこまでが学生本人の実力なのかどうかがわからない。そのため、提出物試験は(ほとんどの場合)とりあえず「出せば合格(60点はもらえる)」ということになっている。教員指導の延長のものを「不合格」にしてしまうと、それは教員の指導の自己否定と同じことになるからである。

これは通常は「講義」験ではあり得ないことだ。提出物評価による実習履修評価(実習試験)は、講義試験で言えば、授業中日常的にカンニングし続けている試験だと言える。しかもカンニングの相手は教員である。「ここはこうした方がいいんじゃない」「こんなことやってたらダメだよ」と教員自身が日常的に指導して出来上がった作品が履修評価対象になる。そういった指導を一切リセットして再提出させても同じものができる保証はない。提出物評価は公認された不正行為の固まりなのである。だから不合格者はでない。試験期日に間に合わなくても(提出期日をとっくに過ぎていても)「とにかく出せよ」(教員)と「とりあえずは出しました」(学生)のセットで修了。

60点(最低点)がそんなふうに決まるものだから、100点の「優」までの階梯はほとんどまともな評価体系になっていない。最上位の提出物評価はある程度は客観的であるにしても多くの学生が集中する中間域(悪くもなければ良くもない)の評価が曖昧なため、学生の学習課題が不明確なばかりではなく、教員の指導課題(授業改善課題)も不明確なままに終わる。何回やっても誰が評価されているのか、何が評価されているのかわからない判定が続くばかりだ。

もう一方で、提出物評価ではなく、実際の実習チェックを行う場合もある。その場合の問題点は、試験内容の単純化である。リアルな実習過程(全体で20時間以上あるような実習授業過程)を再現するような試験は集団教育では不可能。5分から15分くらいの時間でできる実習課題を与えてそれに通過すれば「合格」になる。学生達は待機場所で順番に試験を受けるのを待つ。一人ずつ実習教場に呼び出されて、「はい、始めて」とか言われながら作業をやり始める。それを「観察」しながら教員が合否を付ける。実授業過程を実試験でやろうとすれば、20時間の授業内容を5分や10分(多くても20分)で評価するにはかなりの無理がある。単純化せざるを得ない。

実習教員に、この問題を突きつけると、大概の教員はこう答える。「いや、10分でも充分にわかりますよ。何分かけても大して変わりませんと」と。

これは一体何を意味しているのか。もし10分や20分で20時間以上の実習授業(実習内容)の履修判定ができるというのなら、その実習授業は教育的な生産性のかなり低い授業というしかない。20時間の講義授業を10分で試験しろと言われたら大概の教員は困惑するだろう。できるにしても60点から100点の間の評価体系はかなり崩れるに違いない。

単位制で言えば、実習授業の単位は講義授業の単位の半分しかない。その理由は、もともとは、実習授業の教育生産性が低いからだ。その上に、履修判定が10分、20分で行われるということになれば、それは試験判定だけの問題ではなく、実習授業内容の品質にもかかわってくるだろう。一言で言えば、実習授業のレベルが低いということである。単純な技能レベルの主題を並列して学んでいるだけのことだ。「専修学校」を長らく支配している「技能」実習のレベルに未だなお留まっているということである。

中学校を出てから入学する専修学校(専修学校高等課程)の実習は一般に「技能実習」と言われてきたが、大学と同じ高校生を受け入れ条件とする専門学校(専修学校専門課程)の実習内容も未だに「技能実習」(高校生レベルの実習)の域を出ていないものが多い。専門学校の関係者でも未だに自らの入学者を「生徒(pupil)」と呼ぶのも根拠のないことではない(本来は「学生(student)」と呼ぶべき)。高校生レベルの教育しかできていないのだ。

文科省の配布物の中にも未だに、「技能者」や「生徒」という言葉を「専門課程(専修学校専門課程)」の関連記述で使ったりする場合があるが、いかに「専門課程」の教育がバカにされているのかがわかる。専門学校の当事者自身が自らの「学生」を「生徒」と呼んだり、「技能」教育に留まっているのだからしようがない。

「技能」教育の対照概念は「技術」教育だ。「技能」と「技術」との違いは何か。「技能」は経験主義で身につく「技(わざ)」のことを言う。昔の徒弟教育のこと。技能教育のキータームは先生が頻発する「見てろ、こうするんだよ」というものだ。見よう見まねで学ぶということ。

一方「技術」は、専門的な知識がないと目に見えるものだけ(感覚的な対象領域)では手を動かしてもことが進まない領域の「技(わざ)」のことを言う。一定の知識レベルがないと作業ができないレベルの「技(わざ)」を「技術」と言う。

20時間の実習授業が10分で確かめられるのは、教員が学生の「手つき」を見ているからであって、「理解(インテリジェンス)」を見ているからではないからだ。「技能」実習ならではの試験なのである。不合格になっても追再試を何回か繰り返せば必ず合格する試験になっている。「理解(インテリジェンス)」試験ではなく、「記憶」試験なのである。結局のところ、資格の専門学校は、講義でも実習でも「記憶(暗記)」試験をやっているに過ぎない。

こういった課題物の曖昧な履修判定と技能実習の単純主義が専門学校の実習の中身を形成している。

両者に共通していることは、カリキュラム開発や教材開発の動機が生まれないということだ。どうやって教えればいいのかという教育課題が生じるのは、履修判定の水準が授業内容のボリュームに従ってそれなりの水準(教えるべきことを教える)を有しているときだが、この水準が曖昧(課題提出)か、低い(技能実習)のだから、教育課題は生じない。一言で言えば、教育力がないのである。

資格教育も実習教育も結局のところ、学校内部に目標が持てないでいる。仮に目標があっても学校全体が組織としてその目標を共有できていない。優れた教育が存在していても、教員の個人的な能力の成果に過ぎない。


3)教員問題&教員組織問題

なぜ、学校内部で自立的な目標形成ができないのか。その理由の一番大きなものは、教員の問題だ。専門学校の「教員」とは何か?

学校設置基準の「教員の資格」は、簡単に言えば、専門学校を卒業して4年の関連実務経験、大学を出ている場合には、2年の関連実務経験で「教員」要件を満たすことになっている。

これでは「基準」にも「資格」にもならない。街を歩いている社会人(実務家)であれば誰でもやれることになる。こんなに簡単な要件規定になっているのは、専修学校にはほとんど行政からの助成がないからだ。金(税金)も出さないくせに敷居の高い規制は打ち出せない。高校の先生でも「教員採用試験」がある。最低でも大学は卒業していなければならない。そういった規定が専門学校にはない。

資格と技能実習に専門学校が走る最大の理由は、「教員」が全般に経験主義的な傾向を持っているからだ。社会に出て先輩のすることを見ながら我流で勉強してきた人たちが学校に入ってきてできることには自ずと限界がある。社内教育力(体系的な教育性)が高い職場にいたのなら話は別だが、大概はそうではない。教育性が高い職場というのは、社員を退職させない職場ということと同義だからだ。

専門学校の数少ない「講義」授業でかなりの学生が寝ているのはなぜか。「講義」には高い専門性が要求されるにもかかわらず、「ここは試験に出るから覚えとけ」式の授業を学生に強いているから。高校の授業よりも、あるいは受験勉強よりも単調な「講義」授業に堕している。中には「実習服」で講義に立っている教員もいる。

資格授業、実習授業、講義授業のすべてが「暗記」学習にまみれている。専門学校の学生が就職後息の長い人材にならず脱落していくのは、若い柔軟な思考力のある時代にこの種の「暗記」学習を強いるからだ。さすがにどんな三流の大学でも「試験に出るからここは赤線を引いておけ」などという授業をやることはない。

したがって、専門学校の教員組織には、資格授業、実習授業、講義授業の教員階梯が存在していない。予備校のような受験対策授業を行う教員、大学ならTA(Teaching Assistant)で済ませるような実習授業教員、高度な専門知識の必要な講義教員、それらをすべて同じように「教員」と呼んでいる。

これらは単に「呼称」の問題ではない。一人の同じ教員が資格授業をやり、実習授業をやり、講義授業をやったりもしている。ということは、給与の体系もほとんどの場合、年齢給が中心になる。実習か資格対策授業しかできないのに、講義がまともにできる教員と同じかそれ以上の給料をもらっている実習教員がたくさんいることになる。

助成がなく、給料も充分に出せない専門学校で(今後この傾向はますます強くなっていくだろう)、こんなことをやっているとどうなるか。答えは明瞭。優秀な教員の方からどんどん辞めていくことになる。

資格授業、実習授業、講義授業の「暗記」主義的な傾向が、教員組織自体を平板化し、そのことが教員人件費の効果的な運用を阻害しているのだ。

カリキュラム開発ができるような専門教員がいないのは、教員組織が平板だからである。「教員」とも呼べない実習TAレベルの教員に、講義教員と同じ額の(あるいはそれ以上の)給料を出している。時間が経てば経つほど「暗記」指導教員ばかりが貯まっていく。そうやってカリキュラム開発も教材開発もできない学校になっていく。

考えてみれば、専門学校の教員たちが資格と実習の教育に走るのは、教員要件が低いからだとも言える。両者は裏表の関係をなしている。教員自体に公共性(=自立性)がないから、資格の公共性の方がはるかに高いことになる。資格教育に依存する限りは、教員の無名性(非自立性)はさして障害にならない。経営者の方もことを荒立ててまで教員組織を(教育的に)階層化しようとしない。資格教育に実習も講義もないだろう、というように。

そもそも現在の専門学校で「よい」教員、ダメな教員の区別を截然とできる指標を有した学校などないだろう。区別があるのは常勤教員か、非常勤教員かの区別であって、この場合、大学とは異なり、非常勤教員の方が常勤教員より専門性の高い教員がはるかに多い。「経験」しか教員要件がない専門学校なのだから、実務の現役である非常勤教員の方が実務をリタイヤした常勤教員よりも「知っている」ことが大いに決まっている。それ以前に「卒業生」の方が数年も経てば「先生」を凌駕するのが専門学校(これも専門学校の「同窓会」活動が低調になる理由)。こんな逆転は大学では絶対に起こらないが、「職業教育」「実務教育」の「教員」というのは、つかのまの教員なのだ。

そんな現状の中で、実態は技能実習(技能判定)しかしていないのに、専門学校は「実習ができる教員こそが優秀な教員」と思っている関係者はまだまだたくさんいる。まだそれはましな方で、学生たちが暴動を起こしそうになったとき、その学生たちを沈静できる声の大きな体育会系の教員が「優秀な」教員(=優秀な「担任」)と思っている関係者もまだまだ多い。

資格、実習教育の支配する学校は、教員組織が平板。教員組織が平板な学校は資格、実習教育しかできない。どちらも「学校」ではないのだ。この悪循環を断てるかどうかが「これからの専門学校」の課題。これに取りかかれない専門学校は内容が(今まで以上に)陳腐になるか、人件費比率が拡大して経営環境の悪化が加速するかのどちらかです(教員組織の階層化の具体的な展開については、補講後半でお話しします)。

― 以上で本研修の補講終了


【質問に答える】― 「資格の専門学校」と言いますが、資格に力点を置かない学校もたくさんあります。その点をどう考えていますか?

さて、私の講義への「疑問点」の一つは、「資格」に縛られ、その弊害を引きずっている学校もあるにはあるが、そうでない学校もたくさんある。資格以外の学校にはどんな問題があるのか? というものだ(N専門学校、E専門学校の先生からの質問)。

この両者は、いずれも情報系の専門学校ですが、そう言う専門学校でも「こんな資格が取れます」「目指せる資格」という情報は必ず学校サイト(あるいは「学校案内パンフレット」)に記載されています。少しでも難しい資格に合格した学生などを誇らしげにサイトやパンフレットに登場させたりもしています。

なぜ、そんなことになるのか? それは、結局のところ資格以外に自分たちの教育実績を外部にわかりやすく表現する指標を持てていないからです。後は「就職実績」くらいでしょうか。就職率90%、100%といったものです。

専門学校は、自分たちの教育内容を、結局は資格か就職でしか表現できていないということです。しかもその唯一の指標であっても、資格の合格率表示は怪しい、就職率も怪しい、と世間から思われています。いずれも希望者分母になっているからです(資格の場合は受験者分母、就職の場合は就職希望者分母)。

そもそも在籍比で70%を超えない資格合格率しか出せない資格は、その学校の教育力を示す指標にならないでしょ。入学する学生に向かって、自分が合格しないかも知れないと思うギリギリのラインは30%くらい(本来なら20%くらい)でしょうから、在籍比合格率が70%以上でない資格は、その科の(その学校の)教育を代表する資格ではありません。たまたま優秀な学生がいたというだけのことです。

そう言うと、大概の学校や先生は「でもそんなに力入れているわけではないですから」と必ず言います。(だったらサイトに前面化するなよ、と私は密かに反問します)。

では、何に力入れてるの? と聞いてみます。そうすると色々なことを言い始めますが、「その力が付いたということをどんな指標で示せますか? 当事者以外に学内でわかっている人はいますか」と聞くと何も応えない。

この問題は、私が「実習主義の問題」で指摘した問題です(スライド3~6参照のこと)。履修判定の課題主義や技能主義がはびこっているために、また教員(教員要件)の経験主義がはびこっているために、資格外の教育実績を表現するノウハウがないのです。表現するノウハウがないということは単に外面的な問題ではありません。結局は中味がないのです。

学校が明確な教育目標(人材目標)をもっているならば、その目標を達成したかどうかの指標も持っているはずです。またその目標を達成するために、カリキュラムをどう形成し、そのカリキュラムの科目配置に、どんな教員をどう配置したのかの説明もできるはずです。

私は10年以上専門学校の「業界」にいますが、そんな説明をする関係者にあったことがありません。もちろんどの学校の「サイト」も「学校案内パンフレット」もまともなことは何一つ書かれていない。履修表をみれば、ますますデタラメなカリキュラムが目に付くばかりです(それに比べれば「資格」認定校の官許カリキュラムの方がまだまし)。

資格「認定校」の場合は、大多数の学生がその「資格」を目指し入学し、大多数の学生がそれに合格するという意味で、それなりの社会的使命と学校の特長とが存在しています。非資格系の学校にはそれさえないということです。

要するに公共的な「資格」に代わる教育目標を持てていない、ということです。そのことを「世間」も良く心得ている。それが「資格の専門学校」という問題なわけです。「資格の専門学校」というのは、非資格系はそれよりもっとひどいという意味でもそうなのです。


【質問に答える】― 「教員組織の質的階層化」と言いますが、どのように取りかかればいいのでしょうか。

これには色々な答え方ができると思いますが、まず、この階層化ができない学校現象を先に指摘しましょう。

 1)資格教育しか関心のない学校
 2)「技能」教育と「技術」教育との違いがわからない学校
 3)実習履修判定を5分から10分程度で済ませている学校
 4)実習履修判定を課題提出に代えている学校
 5)追再試履修に明け暮れ、それを全く問題視しない学校
 6)同一分野の多科体制、あるいは科内選択制や科内コース制を敷いている学校
 7)年度末(3月~4月)に退学率が急上昇する学校
 8)上位成績者の就職指導に関心のない学校
 9)教務責任者がいない学校(教務と学務との区別が付かない学校)
10) 広報(募集)と教務とが全く分離している学校

こういった学校は、どの教員(あるいはどんな教員)が、学校経営の何に貢献しているのかがさっぱりつかめていない学校です。そうなると基軸教員を見つけるのに(あるいは形成するのに)必ず失敗するということ。そうすると経営側は一律人件費カットしかできなくなる。一律カットをやりはじめると何が起こるか? (影に隠れた)「優秀な」教員が真っ先に辞めていきます。

学生数の減少に従って、教員数の削減ができていない専門学校は今全国に存在しています。新規採用ができずに年齢の高い(古い技術や実務しか知らない)教員の人件費に頭を抱えている学校もたくさんあります。コスト削減により非常勤をかかえすぎて求心力が一気になくなった学校もあります。もちろん先ほど言ったように一律カットを数年にわたって続けたために「それなりの人材」がほとんどいなくなった学校もあります。こうなると何をやってもうまくいかなくなります。

原因は、現在の専門学校にはまともな教務指標が皆無だからです。だから教員評価が出来ない。学生評価がまともにできない学校は教員評価が出来ない。学生評価とは履修判定(試験評価)のこと。履修判定とは、仕上がり評価のこと。仕上がり評価とは、達成度評価のことです。ところが、この達成度評価が、先ほどから言っているように、資格主義と実習主義によって曖昧になっている。だから、教員が何をしたのか、何ができるのか、何ができたのかがわからない。だから、学生評価が出来ない学校は教員評価が出来ない。教員評価ができない学校は学生評価ができない。教務問題は、実は人事問題と密接にかかわっているのです。

たとえば、この問題について「能力が高い教員には高い給料を与えるというのは教育部から提案するのは難しいです」と受講者(匿名子)から、質問・疑問が投げかけられました。これには「給料は教務が決められはしない、人事部、あるいは総務(本部)が決めるから」という寝深い前提があります。

これは間違い。人事部(総務部)だって実は何もできない。基準がないからです。だから年齢給与(経験給与)になる。基準がないのは人事部の所為ではない。現場(教育現場)に指標がない教務の問題です。

「能力が高い教員」と簡単に言いますが、何を持って「能力」というのかが全然共有されていない。10人の先生に聞けば、10人評価が違う。その上、資格主義と実習主義によって教員の能力格差が余り開かない。教育目標が低いからです。そうなると年齢給(経験給与)しかなくなる。それが人事部の言い分です。

もっと言えば、「能力が高い教員」であるにしても、その教員に高い目標を与えていないということです。「能力が高い」から給料も高いというのは経営的には間違い。「能力が高い」のならその分働いてもらわなければなりません。しかし資格主義と実習主義の教育に留まる限りは「能力が高い」教員は要らないわけです。学生を「脅す」教員だけで充分な教育しかできないのに、「能力が高い」というのはあり得ないでしょう。人事部がふざけた給料しかくれないのは、教員がふざけた教育しかやっていないからです。

教員の組織の質的階層化をすすめ、メリハリのある給与体制を形成するには、教育目標を高度化し、それに従って教育現場を透明化する必要があるわけです。それが第一回研修の、私の課題提起だったわけです。その具体的な方法は第二回研修(12月17日18日)のテーマの中心です。


【質問に応える】― 担任業務について(教員の業務過多について)

最後に担任制の問題について、触れておきます。「専門教員は、授業終了で終わりではありません(担任業務、広報業務、就職、学校業務、学科業務など)」という質問がありました。教育(高度教育)が重要と言われても、教員には雑務が多い。だから教員業績=教育業績にならないのではないかというものです。

しかし担任に業務が集中するのは、どこからが「教育」でどこからが「業務」だかわからないからです。

もともと「担任」制は中等教育以前のものです。それは学生がまだ学ぶ主体として前提できない教育階梯に属している場合に大きな機能を果たします。学ぶべきは、勉強だけじゃないという前提があるわけです。それは「クラス主義」「クラスメイト」と一体になった教育を意味しているわけです。つまりクラス「生活」を管理するのが担任業務です。

だから「教育」に専任することが教員の仕事の全てにならない。生活指導が一部入るわけです。「一部」と言っても「荒れている」学校ほど担任業務が拡大していきます。授業以前の状態になるからです。

大学でも10年以上前から、「担任制」を強化する傾向が続いています。荒れている高校と同じように大学も「荒れている」からです。

高校まではまだ学生を「子ども扱い」している。だから中等教育までは、「学生(Student)」と呼ばずに「生徒(Pupil)」と呼ぶわけです。従って「生徒(Pupil)」並の学生しかいない大学や専門学校では「担任」主義が流行るわけです。「専門教育」以前に「生活指導」しかないというものです。その延長で「パーソナリティ教育」や「マナー教育」が叫ばれているわけです(この問題はすでに第一回補講http://www.ashida.info/blog/2008/11/post_307.html#moreで詳しく触れました)。

そもそも「資格と実習」の専門学校には専門教育のかけらもないわけですから(その理由は何度も触れてきました)、授業そのものが業務になっているわけです。つまり入学してくる学生そのものが「子ども(Pupil)」なのではなく、教員も「暗記」教育しかできない「子ども」教員に留まっているわけです。

だから、雑務が多すぎるから教育できない、教育に専心できないというのは、経営側にとってなかなか「そうですか。何とかしましょう」というふうにはならない。

私の経験では、たまたまある学科の学生数が激減して、週の持ちコマ数が10コマだったのが、3コマになった(1コマは90分)。大学教授さえ平均持ちコマ数が8コマ前後というのに、その科の教員は週持ちコマ3コマになった。

私は、経営としては最悪の状態だったのですが、その科の教員たちの動きを1年間観察することにしました。滅多にないチャンスだと思ったのです。コマ数が3分の1になったとしても、3倍の密度のある仕事(3倍の生産性のある仕事)をしてくれればいいわけです。それも経営です。

日ごろ「業務に追われて」やりたいと思っていてもなかなかやれない仕事(「純粋な」教育)にどうその科の教員が取り組んでくれるのか、それがわかるいいチャンスだと思いました。だからその科の教員を他の科のコマの振り替えなどには使いませんでした。その科の教員たちもこの質問子と同じように「雑務が多くて仕事(教育)にならない」と言いつづけていたからです。

でも1年間、何も変わりませんでした。特に教材の量が増えたとか、授業が安定したなどということもない。出席率、進級率、卒業率、在籍率、就職率も変わらない。こうなると経営側は、どれだけたくさんの週コマを持たせるべきか、どれだけ業務を分担させずに仕事させるか(仕事量をふやすか)に腐心することになります。

管理職(科長)であっても教員の授業評価をまともにやらないのなら(授業管理をまともにやらないのなら)、授業を持たせたりもします。雑務が増えるのは、雑務が「在る」からではなくてまともな仕事をしない結果でもあるのです。つまり教員としての専門能力(専門性)に欠けるということです。

たしかに、専門性に欠けるということと専門性があっても専門性を発揮する場所(チャンス)がないということとは、なかなか截然と区別できるものではありません。それは理論的には解決しない。

しかし、担任業務で「忙しい」と言っている人たちの大概の傾向は、もし(その本人たちの言う)「雑務」を全部取り払ったら何をするのか(何ができるのか)という内省に欠けています。授業が「教員の本分」だとしても、そのとき、その「本分の仕事」の中身は何か、その何を請け負うのかの内省がない。

特に「資格と実習の専門学校」では、その本分の中身は薄いものでしかないわけです。だから、コマ数が3分の1に激減しても、その科の教員は何もしなかった。何をしたらいいのかわからないわけです。

結局、雑務としての担任業務というのは、その学校における「教育の本分」とは何かがわかっていない限り解決しない。「教員組織の質的階層」問題と同じです。

担任主義とは結局のところ雑務主義であり、雑務主義のあるところ、専門教育(高度教育)は存在しないということです。すべての教員(講義教員、実習教員、資格対策教員)が同じレベルで並んでいるのと同じように業務分担も曖昧で何でもやらされるというのとは同じ問題なのです。

担任主義のもう一つの問題は、本研修でも触れたように担任主義の心理主義についてです。再度復習しておきましょう。

担任は、学生の教務上の苦情(たとえば、「あの先生の授業はいくら真剣に聞いていてもわからない」という苦情)を聞いてもほとんど何もできません。

担任は教員組織上、ラインとして存在していません。何の権限もないわけです。したがって他の教員への授業改善「指示」を出せません。出すとしても「個人的なお願い」に留まるわけです。だから仲の悪い教員への業務改善指示など全くできないわけです。せいぜい、学年主任に「告げ口」する程度のものです。

したがって、学生の教育上の不満を担任主義的に処理をするということは「苦情処理」でしかありません。苦情処理の本質は、苦情を荒立てないことです。苦情を穏便に済ませるというのは、改善をおこなわないということと同義なわけです。担任主義を強化する学校というのは、学校の抱えている諸々の教務問題を担任と学生との「人間関係」にすり替えて、「先生だって大変なんだよ。少しはわかってよ」と言いつづけている。そして授業の中での「人間関係」よりは放課後の飲み食いの人間関係をより重視する教育なのです。

「飲み食い」と「カウンセリング」をしたあげく、あの子は「家庭環境が悪い」「母子家庭だから」なんて、差別発言までし始める。担任主義を突き詰めると、「学校(学校の教育)に責任はない」というのが結論になります。だから教育現場だけではなく、専門学校の経営者たちも担任主義が好きなのです。

そんな教員ばかりが「優秀な」教員と言われるようになる。「担任ができない教員はダメ教員」と専門学校の管理者が言うのはその意味でです。

そんな学校の在籍率、進級率、卒業率、出席率、就職率は、「担任しだい」というムードが蔓延する。実際に、それら教務指標はすべて担任の成果というふうにしかあらわれなくなる。カリキュラムの品質、授業の品質の問題であるよりは、担任格差が教務指標格差より大きな影響を持つことになる。

逆に言えば、その程度のカリキュラムや授業でしかないわけです。つまり「資格と実習の専門学校」は、同時に「担任制の専門学校」でもあるわけです。「教務主任」という役職が専門学校になかなか根付かないのは、「教務」よりも「担任」の方が影響力をもつ学校体制になっているからです。

中等教育の高校でさえ「教務主任」が「校長」への最短コースであるのに、専門学校では「担任」で「良い」仕事をした者が校長になったりもするわけです。それ以前に「教務部」のない専門学校もある。仮に「教務部」があっても「時間割調整」と「教室調整」をやっているだけの「教務部」に留まっているわけです。

資格と実習と担任制とが三すくみ状態で身動きが取れなくなっている。専門学校の三悪課題です。だからこそ教員組織の質的な階層化に取り組めないでいるわけです。

さて、どうするのか。それが第二回研修の本丸です。

(Version 1.1)

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投稿者 : ashida1670  /  この記事の訪問者数 :
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