「これからの専門学校を考える」(第一回補講) ― 専門学校の「マナー教育」をどう考えればよいのか?(なぜ、早稲田や慶応の学生は「マナー教育」を免れるのか?) 2008年11月22日
私の2日間の講義について、いくつかの疑問・質問点が受講者の間から出てきました。どれもこれも古くて新しい専門学校教育の核心になる諸課題ばかりです。それは以下のようなものです。
1) 「マナー教育について」(3つの質問)
2) 「資格教育と実習教育の問題点について」(3つの質問)
3) 「教員組織の階層化(教員キャリアパスの形成)について」(9つの質問)
4) 「担任制の問題について」(1つの質問)
5) 「コミュニケーション教育について」(3つの質問)
6) 「就職指導のあり方について」(7つの質問)
7) 「インターンシップ教育について」(1つの質問)
8) 「大学全入問題&これからの専門学校のあり方について」(8つの質問)
9) 「在籍率の定義について」(2つの質問)
10) 「履修判定(期末試験)のあり方について」(4つの質問)
11) 「カリキュラム開発の手法について」(4つの質問)
12) 「補習教育のあり方について」(3つの質問)
13) 「基礎教育主義について」(1つの質問)
14) 「募集と高度教育との関係について」(1つの質問)
15) 「吉本圭一(九州大学)の専門学校レポートについて」(2つの質問)
全部で52の質問(=疑問)がありますが、このブログ上で一つずつ補講講義をしたいと思います。なお、今回の「マナー教育について」は2日目の補講講義(9:00~12:00)の延長です。
●専門学校のマナー教育について(受講者の疑問・質問は以下3点)
★「名刺の渡し方は居酒屋でバイトをして一度店長に怒られればすぐ身に付く」。店長に怒られたら、怒られたらうちの学校から今後アルバイトを採ってもらえなくなります。マナーの勉強も「プログラム→設計→分析」の例で言う「土台」と同じ。ならば、授業の中で身に付けさせなければいけないのではないか(Nさん、S専門学校)。
★マナー教育に走るのは問題というのもわかるが、放って置くこともできないのではないか。付け焼き刃であろうとも学校は商品(学生)の外見も気になる(Hさん、M専門学校)
★「あいさつしなさいという指導は(芦田先生が紹介された九州大学の吉本先生が言うように)若者の可能性を「小さくする」とは思えません(匿名)
【以下私の補講】
1)なぜ専門学校生だけが「マナー教育」を強要されるのか
マナー教育問題は、専門学校あるいは、低位の大学には良くある議論で、しかも根深い議論です。
私は、この「マナー教育」必要論が出てくる度に、こう言うようにしています。
「東大や早稲田、慶應の連中に『マナー教育』が必要だなんて言う人はいない。少なくとも学校の『教育方針(の一つ)』の議論の最中にそんな問題は起こりはしない。同じように彼らだってまともに挨拶する連中なんかほとんどいないのに、なぜ、専門学校(あるいは低位の大学)だけは『マナー教育』が必要というプレッシャーがいつも働くのか」と。
この答えは簡単です。東大や早稲田・慶應の連中は、マナーがなっていなくても「でも東大だよね」という背景があるからです。「それなりの実力がある」と社会的に認められているからです。
専門学校には、この「それなり」がない。全くない。だから「せめてマナーくらいは身に付けさせて卒業させてよ」という社会的なプレッシャーが働いているわけです。
と言うことはどういうことか。専門学校には「それなりの実力」を付ける能力など全くない、と思われているということです。それを専門学校関係者自らが認めること。それが専門学校の「マナー教育」必要論です。悪質な教育論です。
「企業の就職担当もそう言っている」と、専門学校内部の推進論者たちは必ず口にしますが、それは「企業の就職担当も」、専門学校の教育力(専門教育の)に何も期待していないからです。
たしかに東大や早稲田・慶應も大した「教育力」を持っているわけではありませんが、その学生達はとりあえず厳しい「受験勉強」をくぐり抜けてきたという実績があります。企業はその努力賞の「パーソナリティ」を評価しているわけです。受験勉強は人が思うほど形式的なものではありません。そもそも高位の大学ほど暗記だけでは合格しません(※)。
※)大学生が、大学の教育力と全く関係なく身に付ける人材能力は以下のようなものです。以下の10点が、専門学校生と同じように早稲田の学生がマナー面接で躓いても許される10点です。
1)受験勉強によって、論理力、読解力、計画力の基礎が育成されており、また欠点を補ったり、強みを伸ばしたりする訓練、遊び心(怠け心)を抑制する訓練が出来ている。勉強は自分でするものだ、という自立性(の初期状態)が養成できている。
2)自分の苦手な分野も勉強すること、関心のないことに対する関心の持ち方の(視野を少し遠くに持つという)訓練が出来ている。知的な我慢の訓練が出来ている。
3)大学教員に接することによって、寝ても覚めても勉強が好きな人間(強要や必要と関係なく勉強する人間)が世の中にいるということを一度は味わっている。高校までの勉強は本来の勉強ではなかった、という反省をもてている。
4)広大なキャンパス、広大な図書館(圧倒的な蔵書数)を体験することによって、教室教育、教科書教育とは別の勉強があることを感覚的に理解できている。
5)家庭教師、塾講師などのアルバイトによって、指導能力のプレ勉強が出来ている。
6)接客アルバイトによって、顧客対応などのコミュニケーション能力のプレ育成ができている。
7)活発で広範なクラブ活動によって、後輩・先輩の上下規律、組織コミュニケーションのプレ感覚を体験している。企業が〈体育会系〉を好むのは、彼らの〈体力〉を好むのではなく、彼らの組織論を好んでいるのである。
8)多種多様なコンパ活動=恋愛体験によって、観察力、プレゼン力、誘惑力、そしてチャンスの存在を体得している。
9)受験勉強やクラブ活動の競技会の体験によって、日本大(あるいは、世界大)の〈外部〉意識がもてている。〈敵〉はクラスメートや地域の不良や出先の相手、あるいは家族だけではないということを心得ている。
10)地方出身者が多いことによって(良い学校ほど全国から学生が集まっている)、自活の意味を少しは理解している。
(註ここまで)
専門学校生は受験勉強でさえくぐり抜けていないわけです。「アルバイト」も「クラブ活動」も「コンパ」も全て中途半端。
つまり「マナー教育」は、「基礎学力」さえない、「キャンパスライフ」さえない専門学校生に、教育力自体がない専門学校が一体何を教えられるのかという認識(社会認識)に、肯定的に応えるためのものなわけです。
つまり、「マナー教育」を学校の教育方針として掲げる専門学校は、私どもが入学生として迎えている学生は、「できない学生」ばかりです、しかもその「できない学生」などに専門知識や技術を身に付けられるわけがありません、と宣言しているようなものです。ふざけた話しだと思いませんか。
最近では、代表的な専門学校教育の分野の団体が、社会人マナー教本のような教科書まで作って「マナー教育」をやり始めました。組織ぐるみの「マナー教育」です。これは専門教育を自ら断念したことを宣言しているわけです。
そんなことをやっているから、専門学校教育はいつまで経っても社会的に信任されない。「おたくの学校の学生さんは、良く挨拶できますね、しっかりしていますね」なんて言われて喜んでいる場合ではありません。専門学校生にはその程度のことしか期待されていないということです。専門的な実力のある学生を実際に作り始めたら、企業は「もっとこのテーマ(専門性の)を教えてくれないか」と具体的な専門項目を言い始めるに決まっているのです(私自身の実際の経験としてもそうです)。
第一回「これからの専門学校を考える」研修会会場での私(ちょっと暗いか)。
2)専門学校生にマナーが強要されるのは、専門学校自体にマナーがないから
この議論をもっと別の観点から考えてみましょう。
そもそもマナーが悪いのは若者の文化そのものです。「マナーが悪い」という大人も彼自身が若いときには同じようにそう言われて育った人たちです。つまり「マナー教育」論は世代論にすぎないわけです。
世代論にすぎないものを教育テーマの柱にしてしまうとどうなるのか。それは小さくまとまった大人ができるだけです。売れない演歌新人歌手のようなものです。あるいは昔の田舎の野球部選手たちの丸刈り文化のようなことを再度わざわざ専門学校が組織だってやるということです。
九州大学の吉本圭一(教育学)はそのことを指して、若者文化との「葛藤」(若者文化に対する敵対)が専門学校の退学率を高くしていると言っていたわけです。これは(正しいと言わないまでも)間違いではない。
吉本の言い方をこう言い代えることもできます。もともと挨拶ができて社会人マナーのあるような「出来上がってしまっている」若者のどこが人材なのでしょうか。才能や可能性に満ちあふれた若者は、次世代(未聞の文化)の形成者としての人材です。どこかに(既存の文化)には相容れない偏った傾向をもつものです。それを真っ先に抑圧する教育がマナー教育です。マナー不足は若者のわがまま(生まれる者の)ですが、マナー教育は大人のわがまま(死にゆく者の)なわけです。
こういった話しをしているときに、ある受講者が、(笑いながら)「芦田先生、そんなに(片意地張らないでも)マナーなんてすぐに身に付けられますよ」と発言してくれました。「どんな方法ですか、教えて下さい」と私。
「先生自らが学生よりも先に挨拶するんですよ。1週間も経たないうちにすぐに学生は挨拶するようになります」
「それはいい方法だ。そういった教育は大賛成です」と私は応えた。この話しはマナー教育必要論と似ているようで似ていない。
この問題を再び別の場面から考えてみよう。たとえば、先ほどの東大生や早稲田・慶應の連中にはマナー教育が要求されない、ということを百歩譲って認めるにしても、それでも東大生や早稲田・慶應の連中(いわゆる「勉強ができる」学生)の方が専門学校生よりも(一般的に)マナーがいいよねというもの。学力とマナー力とには相関があるのではないか、ということ。
それは半分は正しい。しかし半分は間違っている。それは学力と相関しているのではなくて教員のマナー力と相関していると言った方が事実に近い。
私はいつも朝、一番に校門に立って学生達に「挨拶」をしてきた。就職活動の時期になると学生達がスーツを着てくる。ネクタイを着けている、ワイシャツを着ている。ところが似合わない。似合わないのは日ごろ着ないものを突然着たからだけのことではない。
もともと専門学校の教員のスーツ着用率が低いのだ。それに専門学校の教員は大学の教員に比べて学生の扱いがはるかに雑。「お前ら」と呼ぶ教員や出席点呼の時に「呼び捨て」で名前を呼ぶ教員が何と多いことか(さすがに三流の大学でもそんなことはない)。マナーがないのは専門学校の教員の方だ。
私の経験でもスーツの着こなしを学んだのは、大学の先生からだ。私の大学の学部でもっともスーツの着こなしが良かったのはハイデガー研究者の(故)川原栄峰先生だった。次点は甲乙付けがたいが岩波哲男先生(キリスト教神学)か。いずれも私の恩師だが、いつも学びの内容と同じくらいに注目していた。
川原先生のスーツは何と言っても仕立てが抜群だった。また仕立てに負けないくらい着こなしも良かった。彼はしかも「一般教養」の哲学の授業にでもお湯のみのお茶を持参していた。よくもこぼれないように研究室から教室まで歩いて来られるものだと感心していたが、またさりげなく講義中にお茶を飲まれる姿が私の目に焼き付いている。自動販売機のお茶でないところがなかなかではないか(苦笑)。
私は思想的には川原先生のハイデガー解釈とは全く相容れない立場を取っていたが(いつも喧嘩していた)、彼のスーツ姿、講義中の風情、キャンパスを歩く姿は未だに忘れられない。
後でよくよく考えてみると、教員マナーが比較的良い大学の中でもこのように違いが出てくるのは、その先生が海外(あるいは大学外)の学会でも通用するような活動や研究業績があるかどうかだ(もちろん一般論として)。川原先生は唯一海外実績のある先生だった。この種のマナーはたしかに大学偏差値と相関していると思う。
その意味で言えば、専門学校の先生はスーツ自体を着ている先生がいない。自ら挨拶もせずに学生には強要する。専門学校の学生が「マナーが悪い」のは専門学校の先生が「マナーが悪い」からであって、その逆ではない。専門学校の学生は格好を見るとすぐわかる、と言われたりもするが、その意味で言えば、教員の格好も五十歩百歩だ。すぐにわかる。
だから、先生自らが挨拶し始めると学生はすぐに(何もカリキュラムの中に組み込まなくても)挨拶し始めるというのはよくわかる話だ。それと同じように教員自体が身なりを整えることが付け焼き刃ではない本来のマナーを学生が身に付ける教育課題なのだ。
先生がマナーがないのに、なぜ学生だけには強要するのか(それこそ最大のマナー違反ではないか)。
教員の教育が出来ない学校が学生を教育することができるのか。
そういった内省を忘れた教育が「マナー教育」必要を声高に主張する人たちの限界です。この人たちは、真っ先に専門学校の学生や教育を差別している人たちなのです。
3)「マナー教育」必要論は、専門教育棚上げ論と同じ
それでもまだなお彼らはこう言う。
「いやいやわれわれはマナー教育だけをやればいいと言っているのではなくて、専門教育も大事だけれどもマナー教育も大事だ、ということを言っているのです」と。
この人たちには、こう聞き返したい。あなた達はいつどこで「専門教育をやった実績があるのですか」と。いつそれを「大事にしたことがあるのですか」と。
そんなものはないわけです。そんな連中のやる「マナー教育」は「教科書」を作ったって、大したものにはなりません。「お前ら」と言いながらジャージかポロシャツか実習服で授業(講義)をやっているのですから。
私自身もマナー教育はやりますが、それは上位の学生に対してのみです。せっかく手塩にかけて育成した実力派の学生を、先ほどのような大学環境の中で無意識に育った学生(受験勉強しかしたことのない学生)に負けさせるわけにはいかないからです。それは大学生以上の実力を付けさせたときにこそ特に思います。だから校長室に呼んで特訓したりもします。スーツ・ネクタイ・ワイシャツの着こなしまで。くだらないことでケチを付けられたら損だからです。
いやいやだからわれわれも「くだらないことでケチを付けられたら損」だと思ってマナー教育は必要、と言ってるんですよ、とまたマナー論者はここで口を出しそうですが(マナー論者は通俗的であるが故にしつこい!)、そうではありません。
まともに専門教育できていない学生にいくら「マナー教育」をやっても役に立ちません。それは逆に企業をバカにしていることと同じです。元々中身がない(学校が教育を放置した)学生を企業が見抜けないはずがないでしょ。もし見抜けないならそんな企業に就職させる学校の責任の方がはるかに重大です。
「くだらないことで」という権利は、マナー論者の方にあるのではなく、専門性教育重視(=教員教育重視)派の方にあるのです。
その意味でもマナー教育に走る専門学校は、自らの教育を棚上げにしている専門学校です。「大人の」教員(学生よりは「基礎学力」のある教員)にすら教育が出来ない学校なわけです。あるいはまともな「教員」をやとえない学校なわけです。
そんな学校が「できない学生」を迎えてまともな人材を輩出することなどできるはずがない。こんな学校を平気で存在させているからこそ、専門学校の社会的な「身分」はいつまで経っても上がらない。
これが私が今回の研修のキータームとした専門学校の「公共性」問題です。「これからの専門学校」はこれを乗り越えなくてはならない。必ず、この三回のセミナーでその糸口を見出したいと思います。(以上、「マナー教育論の問題点」の項目補講終わり)
※この「マナー教育」関連の私のレポートは以下の通り
●「コミュニケーション教育は、短大のマナー教育のようなもの」→ http://www.ashida.info/blog/2003/10/hamaenco_3_115.html
●「学生だけが『聞く姿勢』『学ぶ姿勢』『考える姿勢』がないのではない ― 私は断固学生を擁護します」→ http://www.ashida.info/blog/2005/10/hamaenco_5_98.html
(Version 6.0)
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専門学校が大学に勝てない本質的な理由がわかった。
レジャーランド大学でも受験競争を勝ち抜いている。そういう学生に太刀打ちするために「マナー教育」が重要になる。
専門学校の教員がポロシャツを着て授業をやっているようでは話にならない。
芦田様は専門学校の社会的地位を上げるためにこれからも奮闘して欲しい。
昨日も早稲田の「教授」先生(+田原総一郎)たちが、「爆笑問題」の大田とNHKでやり合っていましたが、誰も大田に勝てない。情けないことです。「自由」であることと軟派になることとを勘違いしている。(私の同僚が出ていないのでほっとしました)
この企画は京大の先生たちともやっていましたが、早稲田の先生たちよりもまだまだ京大の連中の方が崩れていない。遙かにましです。国立大学と私立との格差が大きいですね。
私立中の私立である専門学校はもっと苦しいという感じでしょうか。
どこかに突破口があるはずです。探してみる他はない。最初から出来上がっている学校などなかったのですから。