「『存在と時間』と世界 - 世界と他者」― 辻村公一もレヴィナスもカッシーラーも広松渉もみんなハイデガーを誤読している。 2008年11月05日
8月から続いている私の休暇だが、今日は、1995年に書いた論文が段ボールの中から出てきた。ふと読み直してみたが、これがまた良くできている(笑)。いまだに誰も超えてはいないだろう(苦笑)。本当はこの続きを書かないとダメなのだが、さて今の私に書けるかな。
『存在と時間』(1927年)というハイデガーの主著は実は中断された主著であって、途中でハイデガー自身が書けなくなった主著。挫折の主著でもある。私のハイデガー論文もそのように中断したところで終わっている(苦笑)。この先なんか誰も書けないでしょ。
謹んで、若い世代のハイデガー読者に捧げます。
●『存在と時間』と世界 - 世界と他者(1995年)
存在の他者へと移ること。存在の他者へとは、存在するのとは違ってということである。違った仕方で存在するということではなくて、存在するのとは違ってということである。存在しないということでもない。移るということはここでは死ぬということを意味しているのではない。存在と存在しないこととは互いに照らし合って1種の思弁的な弁証法を展開するが、この弁証法は存在の限定の1つなのである。言いかえると、否定性が存在を押しのけようと試みるけれども、たちまちのうちにその否定性は存在に浸されてしまうということである。(レヴィナス)
※なお、ドイツ語を英語表記に変え、フランス語は省略し、頁表記は簡略化するなどブログ版では表記を大幅に変えている。ご寛恕を乞う。
【0】 世界性の「問題」
完結しなかった『存在と時間』の公刊されている部分を読んでみると世界性の問題を巡って奇妙な凹凸のあることがわかる。
第1編は、実質的には、「世界-内-存在」としての現存在の「日常性」の分析から始まり(3章・15節)、「内存在」そのものとしての現存在の分析を経由して、「現存在の存在」としての「関心」が「不安の気分」において読み取られているところ(6章・41節)で終わっている。
現存在は、最初(12節)、「世界-内-存在」として明かされるが、しかし実際に分析が始まるところは「日常性」としての現存在、つまり「環境世界」性としての現存在の分析(15節)であった。
「日常的現存在」とは、世界の「内での」交渉(Umgang)、つまり、世界内部的存在者「との」交渉のことをいう(66)のであれば、「世界そのもの」は、最初から逸し去られる仕方で、この分析は始まっていることになる。-以後、特に指示しない限り、括弧内の数字はニーマイヤー版『存在と時間(Sein und Zeit)』12版の頁数である。
そして、「内存在そのもの」としての現存在の「不安の気分」から取り出される「現存在の自己」が「日常的現存在」の環境世界における「頽落」性に対照されていることからすれば、たとえ、この「自己」が「世界そのもの」に「直面」する自己であるにせよ、ハイデガーの展開は「環境世界」(への「没 入」)から出発して「現存在の自己」へと進んでいるようにおもわれる。言い換えれば、「現存在の自己」へと至るために「環境世界」論が存在しているように。
世界が「現存在自身の一性格」(64)であるということを、このベクトル(世界→自己)に沿って理解するならば、第一編の全体は、世界性の問題をもっぱら現存在の自己論に収斂させる仕方で扱うことに終始していることになる。
とくに、この傾向は第二編「現存在と時間性」に至って「現存在の全体性」の分析が始まるところで言わば頂点に達し、第一編で暫定的=先取的に取り出された「世界-内-存在」としての現存在の世界性の問題は、この「全体性」にとって代わられ、もはや道具的な存在者ではなくて、それとは対照的に「死への存在」としての現存在の「自己存在」そのものが、第一編の内容的な転換点とも言える不安の「無意義性」(=現存在の自己)を受けて、再開始されているのである。
この、現存在の自己存在は、「死への存在」の「根源」性としての「全体」的にして「本来的」な自己存在、つまり「良心」としての現存在へと分析が進む(第二編・第2章)ことを予想している。
この過程で、第一編での有意義性の連関としての道具との交渉としての現存在は、単に「日常性」(日常的な現存在)としてのみならず、現存在の「非本来性」として捉えかえされ、第一編での「世界-内-存在」としての現存在の「世界性」の問題は明示的な議論としてはますます稀薄になるかのようである。
とりわけ、「現存在は、さしあたってたいていは配慮的に気遣われた『世界』の許に存在している」ということを「現存在は本来的な自己存在可能としての自己自身からさしあたって常にすでに脱落してしまって、『世界』に頽落してしまっている」(第38節)ということに重ねるならば、「本来的な自己存在」としての「死への存在」の分析の開始は、むしろ世界性(環境世界性)の議論の消去のための端緒であると(まで)言えるかもしれない。
世界性が現存在の自己性へと還元されて、さらにその自己性が、本来性と非本来性とに区別され、その非本来的な自己性(現存在の頽落性)が、現存在の世界性(『世界』性)に重ねられる - 「世界概念の二義性」(辻村公一)については後で触れるとしても - のであれば、ここには、拡大された現存在(現存在の全体性)の自己論、あるいは逆に言えば、自己論の二元論的(「本来的」-「非本来的」)な乖離が露呈しているだけなのである。
このことは、「自己関心」とは「同語反復」であるとされた「関心」から取り出され(318)、かつそれの「根源」である、現存在の存在としての「時間性」(第二編・第3章)が、それ自身さらに、本来的時間性(先駆・反復・瞬視)と非本来的時間性(予期・忘却・現前化)とに分節される(336頁以降)に及んでなおいっそう決定的になるように思われる。
時間性が「根源」であるいみが、その時間性が二つの時間性に分節され、またそれに対応して「関心」も「本来的関心」としての「先駆的決意性」と「非本来的関心」としての「配慮」に今更のように分けられることによって曖昧になっている。
そういった時間性と関連して第69節で「世界の超越の時間的問題」というふうに“世界”がふたたび、しかも唐突に登場する。
これは、“世界”についてのまとまった言及として構成的に久しいものである。しかし、この“世界”もそれ自体としては第2編・第4章「時間性と日常性」という章の内部(67~71節)での節に収まっている。
この章は、「関心の存在論的意味」として時間性が先のように取り出された後、その時間性に基づいた日常性の再度の「反復」的解釈のために用意されているにすぎない。
したがって、ここでの“世界”概念も「有意義性の統一」としての、つまり「適所性の全体性」の了解可能性としての世界(=「環境世界」)に限られている(?)。
「時間的問題」としての世界性が、「日常性」の「反復」的解釈の内部で行われるかぎり - この節では、時間性の諸脱自の脱出(Entrueckung) の「向かう先(Wohin)」としての「地平的図式(das horizontale Schema)」(365)という新語(といってもカント-フッサール的な“雑念”の入りやすい言葉)が突然登場し、umwillen seiner - Worvor - Um-zu が、それぞれ、到来・既在・現在の「図式」とされている - 、相対的には、本来性(本来的時間性)としての世界性(「世界性そのもの」)の意味は稀薄にならざるをえないではないか。
「世界-内-存在を時間性の脱自的・地平的統一へと還元した…」と、ハイデガーはこの(重要であるにもかかわらず、わずかな分量しか割かれていない)章のまとめの言葉としているが、「世界-内-存在」の時間性(世界性の時間性)を議論するのに、なぜ日常性(現存在の非本来性)の「反復」的解釈が導きの糸とされるのだろうか。
なぜ、世界の超越の時間性 - 現存在の超越ではなくて - が「時間的『問題』(das zeitliche Problem)」というふうに 「問題」なのだろうか。
この『存在と時間』の後半のピーク(のひとつ)とも言える箇所においてさえ、現存在の自己(本来的自己)が無世界的なソリプシズムとして理解(?)される危険性を孕んでしまうのは、なぜなのだろうか。
すでに明らかなように『存在と時間』における、とくに〈世界性〉の構成上の位置付けに関する曖昧さに、それは起因しているのではないか。
現存在の「根本体制(Grundverfassung)」と言われた「世界-内-存在」としての現存在の世界性は一体どうなっているのだろうか。
【1】 環境世界と自己性
(a)世界性Aと世界性B(辻村公一)
辻村公一は、「環境世界性」を「世界性A」、「世界性そのもの」を「世界性B」というふうにさしあたり区別し、ハイデガー(読解)の、世界性を巡る曖昧さに解答を与えようとしている-以後、辻村の引用テキスト頁は『ハイデガー論攷』からのもの。「世界性Aは、『世界の内部にあるもの』への繋がりにおける世界の構造であり、要するに我々が日常そのうちに住み慣れている世界の本質構造である。
世界性Bは、さういふ世界がその根源のほうに向かって開かれたばあいに現はれて來るその世界の性格であり、要するに根源への繋がりのうちで世開するその世界の根源的な相である」(辻村・100)。辻村がここで世界の「根源」と言っているものは「現存在は彼のために実存する(Das Dasein existiert umwillen seiner)」という「命題」(辻村)についてのことである。この「根源」について、辻村は次のように言っている。
そのことは、現有が「彼のために」に基づいて指示性としての世界(=「世界性A」引用者註)を形成し-或いは同じことであるが、企投し-つつ實存するが、正にさういふ世界を形成し企投することに於いて、形成され企投された指示性としての世界をいはば一歩脱け出ており、その世界の内部で出會はれてゐる「内世界的に有るもの」を全体的に超越しているのである。そのことは現有が「彼のために實存する」といふことへ、すなはち彼は彼自身であるといふ現有の「最も自己的な有り得ること」へ、一切の雑多な實存諸可能性を踏み越えて衝き返されるといふことである。(87)
むろん、ここで辻村が言う「最も自己的な有り得ること」は、彼が直後に続けているように「実存の端的な不可能性としての無すなわち彼自身の死に向かって空け開かれるということ」をいみしているのであるが、この種の区別は、もっぱら「世界性A」としての「環境世界」が現存在の自己性(「現存在は彼のために実存する」)において基礎付けられているということを言っているだけである。
自己性自体が「利己的」或いは「利他的」なものではなく(86)、ひとつの「深淵」(95)であると注釈が付く、そしてそれは重要な注釈であるとしても、この自己性を、なおかつ「世界性B」という言い方で、世界性そのものとしての「世界性」を保持しているものとしなければならない理由はいまだなお辻村のこの論及においても不明である。
辻村は、その肝心なところで、「根源」としての自己性を、「世界の根源的な相」といつのまにかすりかえているのである。「世界性Bは、さういふ世界(世界性A)がその根源のほうに向かって開かれたばあいに現れてくるその世界の性格であり、要するに根源への繋がりのうちで世開するその世界の根源的な相である」というふうに。
しかし、現存在の自己性が「世界性A」の「根源」である-「世界は、世界-内-存在としての現存在の自己存在に属している」(SuZ 146)-ことと、世界がなお(世界性Aとは異なって)「根源的な相」をもつということは同じことではない。それは、根源的な自己には根源的な世界が対応するということなのだろうか。対応するということを辻村は、世界は「世開する」と、(『存在と時間』には出てこないターム言葉で)世界の方から言っているが、そうなれば「世界の非指示性と指示性」、つまり世界性B(非指示性)と世界性A(指示性)との「共通の根拠」(辻村・84~85)=「根源」が、辻村自身によって、「現存在は彼のために実存する」という現存在の自己性にこそ求められていたその「根源」性のいみは1体どういうことになるのだろうか。
つまり、「世界性A」が現存在の「深淵」的な自己性に基づくとしても、その自己性をなお「世界性B」と言わなくてはならない理由はどこにあるのだろうか。その場合、自己と世界との関係はふたたびどうなっているのだろうか。
(b)世界性とエゴロジー(レヴィナス)
レヴィナスは、辻村の世界性の前半(世界性A)の前提となっている、世界の自己論的な還元を形而上学のエゴロジー(エゴイスム自我主義としての)というふうに理解する。そして自己の、自己にとっての〈近さ〉ということ-デリダの言う「近接性の価値」としての-からすれば、それは哲学のエゴロジカルな「自-律 (auto-nomie)」ということであって、〈他(なるもの)〉の〈同(1なるもの)〉への「還元(解消)」をそれはいみしている(哲学と無限の観念・352~353)-以後特に指示しない限り、頁数は邦訳頁数である。
そのような還元(解消)が可能であるように思われるのは、ハイデガー哲学の存在論的な傾向にしたがってのことである。ハイデガーが存在者の存在をもっぱら「存在一般」に定位して、つまり存在論的に主題にするかぎり、存在者のもろもろの差異は、「存在一般」の「中立性」を前にして「解消」されるほかなかった。それは「存在的-存在論的差異」が喚起される程度に応じて「解消」されていたのである。
現存在の自己の、自己にとっての近さが、同時に、その、存在との近さとに-現存在の存在的-存在論的優位ということから-重ねられる(レヴィナスのハイデガー理解)とすれば、世界の自己論的還元は、レヴィナスにとって、現存在、つまり人間という存在者の存在論的還元と同じことをいみしているのであり、それは二重のいみで〈他(なるもの)〉の〈同(一なるもの)〉への「還元(解消)」をいみしていた。
他者の消去(時間と他者・6)の体制としての、このハイデガー哲学の、言わば、自己(自我)-存在論的体制-あるいは、〈他(なるもの)〉の究極としての〈神〉こそが、かの自己と存在との二重の近接性において解消されている点で、この体制は、自己-存在-無神論的体制とも言える-が、レヴィナスにとってハイデガー批判の全体を構成している。
したがってレヴィナスの問題は、エゴイスムとしての自我からの、そして存在からの「脱出」・「逃走」(逃走について・60~61)としての「他者」の問題となる。
レヴィナスの〈他者〉は、ハイデガーの「世界-内-存在」の分析論で現れる Mitsein(共存在)としての他者では、したがってもはやない。ハイデガーの「他者」論は、少なくともそれが顧慮(Fuersorge)の対象であるかぎり、配慮(Besorge)のそれと同じように、um-zu の有意義性の諸連関に属しており、Um-willen としての現存在(の自己)の意志に解消されるものだった(とレヴィナスは解釈する)。
だからこそ、ハイデガーの他者は das Man の「平均性」の内にしか立ち現れないのである、というのがレヴィナスのハイデガー理解である。
他人との関係は、確かにハイデガーによって現存在の存在論的構造として提起されてはいるが、実際には、それは存在のドラマの内でも、実存論的分析論の内でもいかなる役割も演じてもいないのである。『存在と時間』の分析はすべて、日常的な生の非人称性に関してか、あるいは、寄るべなき現存在に関して遂行されている。(…)最後に他者は、ハイデガーにおいては相互共同存在 Miteinandersein(お互い共にある)という本質的な状況のうちに現われる。前置詞 mit は、ここでは、関係を表わしている。したがってそれは、何ものかをめぐっての、ある共通項をめぐって、そしてもっと正確にハイデガーに即して言えば、真理をめぐっての、隣り合わせの結び付きであって、向かい合わせ(顔対顔)の関係ではない。(…)われわれとしては、他者との本源的な関係は前置詞 mit によって表わされるべきものではないということを明らかにすることができればと思う。(時間と他者・4~5)
この向かい合い(対面)の空間は、他者が(有意義性の連関を媒介に)私のものとなる帰属(=従属)の関係としての世界性とは別のものである。
他者との遭遇は、対象に対する私の支配と対象の隷属の大きさにもかかわらず、私が対象を支配しないという点に存する。(…)他者が私と出会うのは存在一般に基づいてではない(存在論は根源的か・268)。
つまり、他者はハイデガーの言う「存在了解」の内部で出会われるわけではない。「了解は、存在の開けを通して存在者と関わりつつ、存在を起点として存在者の意味を見出す」(同前・268)が、ハイデガーの「了解」がそのように「存在の開けに立脚し」ているかぎり、「存在者を存在の領域で認識すること」になり(同前・261)、〈他(なるもの)〉が〈同(一なるもの)〉に還元(解消)されたようにして、存在者(「特殊なもの」)は存在(「普遍的なもの」)に還元(解消)されている。レヴィナスは次のように言っている。
プラトン以来特殊なものに対する感覚を普遍的なものの認識に従属させてきた数々の理由そのものによって、われわれは省察を開始するやいなや、存在者同士の関係を存在の構造に、形而上学を存在論に、実存的なものを実存論的なものに従属させることを余儀なくされている。(…)
…他者とわれわれの関係は確かに他者を了解することに存するが、この関係は了解の枠組みには収まらない。(…)われわれとの関係において、他者は概念に基づいてわれわれに働きかけたりはしない。このこともまた他者との関係を了解から区別する理由なのである。他者は存在者であり、存在者として重要性をもつのである。(存在論は根源的か・262)
したがって、「他者との関係は存在論ではない」(同前・266)。
ハイデガーの〈自己〉に対しては〈他者〉を、〈存在〉に対しては〈存在者〉を対峙させる-むろんこの手続きは単純なものではないが-レヴィナスの議論は多方面からときほぐされる必要があると思われる。とりわけ、この議論の前提となっている世界性の理解についてはなお曖昧さが付纏っており、それは、ハイデガー理解としてはもちろんレヴィナス理解としても不充分なままなのである。
(c)世界の自己論的還元
レヴィナスと辻村に共通するハイデガー理解の傾向は、世界の自己論的還元という点に求められる。辻村は、その場合の「世界」を「世界性A」として、そしてまたその場合の「自己」を「深淵」的な自己として、この還元にある種の留保を示している-つまり還元されるのは、「世界性A」としての「環境世界」であって、「世界性B」としての「世界そのもの」ではないし、また、世界性の「根源」としての「自己」も「利己的」「利他的」な自己なのではなくて「深淵」として「根源」的であるような「自己」なのだ、というふうに。
この留保された「世界性B」や「根源」としての「自己」の理解はさしあたり置くとしても、環境世界が現存在の自己性に還元されるという理解、言いかえれば環境世界的な有意義性(指示性)の諸連関は、「その内に於て現有(現存在)が自己を附託するといふ仕方で自己を理解してゐる圏域である」(辻村・71)という理解そのものは、レヴィナスと辻村とでは変わるところがない。
自己論のエゴイスム(レヴィナス)を避けるためにこそ、辻村が世界概念に「二義性」を認めた-つまり「世界性B」を区別した-のであれば、そのことは逆に世界性の前半の(「世界性A」の)理解において、レヴィナスと辻村が同じ認識を示すことになっても不思議なことではないということである。
レヴィナスの「世界」理解については、したがって、彼(レヴィナス)はハイデガーの「世界性」をただ単に「環境世界」としてのみ理解しているという批判は、ハイデガー研究者辻村の立場からは当然あるかもしれない。あるいは、「自己を附託する」ということの「存在論」的意義を少しも斟酌しない(デリダ・暴力と形而上学・266)という事もその点については言えるかもしれない。
しかしながら、辻村的な世界理解がレヴィナスに代表される世界性の通俗的な理解にどれ程の効力をもっているといえるだろうか。「根源」としての「自己」が「世界の根源的な相」(=「世界性B」)に無節操に転換される-辻村はこの事を「背中合わせ」(88)とか「月の表面と裏面」(83)というふうに、さして上等とも思われない比喩に訴えていたわけである-かぎりは、混乱はなお続いていると考えるほかない。問題は比喩化の運動それ自体がなぜ起こるのか、なのだ。
つまり、第1編の冒頭で開始される環境世界の分析が「世界性へと近付く通路」として世界性を「飛び越えることを妨げるための現象学的出発点」であり、そのための「特殊な防止策」であると、この出発点がまさに「出発点」であり、また「防止策」として「世界性そのもの」についての論及とは区別されたいみは尊重されるべきだとしても、そのことは「世界性B」という、「世界性A」(環境世界性)とは異なった世界(の「相」)について直ちに語らなくてはならないわけではないということである。
そもそも、辻村が「世界性B」について語り始めるのは、もはや『存在と時間』内部の言葉ではない-辻村は「世界の根源的な相」と言った直後、「たとえば」と、「神の榮光の殘照の内で、吾々が世界と名づけた彼のものが、輝く、すなわち開ける」というハイデガーの(『存在と時間』から)「少し後の時期の言葉」を引いている(100)。
あるいは、同じように「たとえば」と、「『芸術作品の起源』に現はれて來るような世界」について次のように言っている。その世界は「すなわち『道具』ではなくして、ゴッホの絵やギリシアの神殿やヘルダーリンの詩やソフォクレスの悲劇がそれであるやうな『偉大なる』藝術作品に於て開示されて來るやうな世界の相として現はれて來る」(101)。しかし、なぜ、こういったこと、こういった言葉は『存在と時間』には見当たらないのだろうか-のだから。
畢竟『有と時』の時期においては、「世界の=内に=有ること」としての現有それ自身は、もはや何ものにも基づけられないこととして、「深淵」になった。そしてその深淵を深淵にしている「無」、といふよりは「深淵」として開かれて來た「無」は、『有と時』の内では、例へば「世界の無」として現はれてゐるが、その「世界の無」の無性、「現有の深淵」の深淵性は、『有と時』の内では十分に-すなわち、その深淵の底無しの底にまで届くという仕方では-究明されてゐない。(…)現有が深淵として開かれ、吾々は「深淵的」に世界の内に有るといふことは確かに經驗されてゐるが、その深淵の底深き處はどうであるのかといふところまでは彼の思惟は届いてゐないと思はれる。(辻村・95)
結局のところ、世界性と自己との問題は、辻村によっても片付いてはいないのであって、レヴィナス的な世界理解に対する留保は、ハイデガー研究者辻村によってさえも『存在と時間』の外においてなされているのである。それは、『有と時』では解決されていないようにして辻村においても解決していない(「究明されてゐない」)というのが、辻村における世界性の「二義性」の本来のいみである。
だとすれば、レヴィナスのハイデガー批判、つまり、世界性の自己論的還元という『存在と時間』におけるハイデガー解釈(の妥当性)は-もちろん辻村も含めて-検討されないまま残っているというほかない。
【2】 世界内部性と世界性
(a)「文房具、ペン、インク、紙、下敷き、机 …」
ハイデガーの例示に従えば、〈書く〉という行為は、たとえば「文房具、ペン、インク、紙、下敷き、机…」などを必要としている。この場合、必要としているということのいみは何だろうか。
しかし、書くことと、書く道具があるということは同じことではないだろうか。書くという“概念”-書く行為であれ、書く意思であれ-が確定しているときには書く「ための(um-zu) 」道具というものも同時に確定しているのである。つまり、書くことは、書くことの周囲(um)なしには有り得ない。
ちょうど〈私〉が〈思う〉(デカルト的な自我と思考)ということが、何か〈を〉〈思う〉こと、つまり、〈思う〉ことの周囲(um)なしにありえないのと同じように。そして、むろん、その何かは世界内部的な、すくなくとも〈無〉ではない何かなのである(321)。
(書く「ため」に)「ペン」を取るという行為は、場処(um)を必要としている。そのときには、すでにそこには「紙」があり「机」があり「インク」がありもする。
「ペン」を取るという行為は、このウム(um)、つまり「ペン」を取ることの「手許性」の方からも始まっている。「ペン」が「手許」にあるということ-「ペン」の手許性(Zuhandenheit)-は、レヴィナスが考えているように「ペン」が一主体(レヴィナスの言う「自我」)の「手段」として「所有」されている、あるいは書くという「自我」の目的に「従属(内属)」しているということではなくて、(ハイデガーが言うように)「ペン」という「一個の道具だけが『存在している』ということは決してない」(68)ということを含んでいる。
そのいみでいえば、「手許」は、ただちに「道具」(「一個の道具」)をいみするわけではない。原・渡辺版の『存在と時間』(中央公論社版)は、一貫して、この「手許」を「道具」と説明的に翻訳している-例えば、Zuhandenes は「道具存在者」と翻訳されている(158)が、おなじページでハイデガーは、Zeug という言葉ももちいており(69)、これはこれで「道具」と訳されているため(158)、両者の関係(連関と差異)を読みとることが困難になっている-が、それでは、「手許」と「周囲(um)」との連関が稀薄になることは明らかである(-ちなみに勁草書房版・松尾訳では「用在者」(120)、理想社版・細谷訳では「用具的存在者」(124)、岩波文庫・桑木訳では「 ツ手もとにあるもの」(135)となっている)。
むろん、これは翻訳上の技術的な問題ではない。レヴィナスもまた「手許」を「手段」としての「道具」ととることにおいて「一個の道具だけが『存在している』ということは決してない」(68)というハイデガーの言葉(の真意)をつかみ損ねているのである。
この言葉は、一つの「連関」、つまり道具の「指示連関(Verweisungszusammenhang)」を暗示しているわけだが、「指示連関」とはさしあたり「周囲」として理解された「手許性」のことであって、レヴィナスの考えているような目的-手段関係(従属関係)ではない。
「ペン」を取るとき、同時に、この「ペン」のウム(um)も取られている。しかし、「ペン」を“取る”ようにして、このウム(um)を“取る”ことができるだろうか。
ペンを取ったときには、それと同時に“私”は「インク」や「紙」を“取って”いる。むろん、それは、書くことを“取った”ときに同時に起こっていることであるが、しかしペンを取ることを意思したようにして、“私”は、「インク」や「紙」を意思したわけではない。
「インク」や「紙」は、ペンを取ることの周囲(um)としての手許を形成しているものとしての、ペンを取ることにとってのいわば“背後”なのである。
あるいは、書く「ため」ということで言えば、「文房具、ペン、インク、紙、下敷き、机…」は、書くことに至ることの周囲(um)としての“背後”を構成していると言ってもよい。
そのように周囲(um)が控えるようにして、“私”は書くことに「没頭(Aufgehen)」(72)しているのであり、また、ペンを取ることに「心を奪われている(sich verlieren)」(76)。
別の言い方をすることもできる。書くことにとっての「ペン」を取る(使う)ことなど本当のところ無関心でいられるものであって、「日常的交渉(Umgang)がさしあたり(身近さにおいて)その許に引きとどまっているところのものは、仕事のための道具(Werkzeuge)それ自身でもないのであって、むしろ作品(Werk)が、つまりそのときどきに作り出されるべきものが、第一次的に配慮され、それゆえにこそ手許にあるものなのである」(70)。
「没頭すること」や「心を奪われている」ことは、したがって手許的なものの退却性-「間近で手許的なもの(zunaechst Zuhandenes)に特有なことは、その手許性のうちで言わば自らツー退却している(身を潜めている=控える)からこそ、本来的に手許にあることができるということである」(69)-をいみしている。
つまり、ウム(um)の世界性は「己を告げない (Sich-nicht-melden)」(75)ということをその特質としているものなのである。
だから、「ペン」が、「インク」や「紙」を-あるいは「書くこと」が、「ペン」や「インク」を 「「指示する」というのは、「ペン」と「インク」との、あるいは「書くこと」と「ペン」との「関係 (Relation)」ということなのではない。手許性の「指示連関」は、「平板化された」諸項の均質的な連関といういみでの「関係」という概念とは無縁のものである。
ハイデガーは、次のように注意を促している。
有意義性(Bedeutsamkeit)として世界性を構成している指示連関(Verweisungszusammenhang)を、人は、形式的には一つの関係体系(Relationssystem)といういみにおいてとらえることができる。ただ注意すべきなのは、このような形式化は本来的な現象的内実を喪失してしまうほどに諸現象を平板化してしまうということである。ことに、有意義性が含みもっている『単純な』諸関連の場合には、なおさらのことである。 Um-zu Um-willen Womit einer Bewandtnis といったこれらの『諸関係(Relationen)』や『諸関係諸項(Relate)』は、それらの現象的内実から見れば、あらゆる数学的な関数化 (Funktionalisierung)に逆らう。それらは、なんら思考されたもの(Gedachtes)ではなく、或る『思考(Denken)』のうちで初めて定立されたものでもなく、配慮しつつある環視(Umsicht)そのものがそのつどすでにそのうちに引き留まっている諸関連なのである。(88)
ハイデガーは、この「ための」ということの周囲=ウム(um)としての「指示連関」をさしあたり「道具全体性(Zeugganzheit)」というふうに言っている。
「一個の道具だけが『存在している』ということは決してない」(68)ということのいみは、「1個の道具」が「関係」といういみでの「被媒介的連関構造」(広松渉)の内にあるということではなくて、「個々の道具に先立って、そのつどすでに何らかの道具全体性(Zeugganzheit)が暴露されている」(69)ということなのである。
「指示連関」とは、たとえば「ペン」(「ペン」という存在者)が「机」を「指示する」というふうに「ペン」と「机」との「指示連関」をいみしているわけではない。
「ペン」という存在者が「指示する」というのは、再び、「ペン」を「一個のの道具」として“考える”ことに後戻りしている。
「ペン」と「机」との指示「関係」ということで言えば、それは、たとえば〈書く〉という上位の“概念”に“包摂される”かぎりで自明と思われる「関係」にすぎない。
それは、書くということの実体性(包摂性といういみでの)を「形式」的に分節しただけのことである。つまり、ハイデガーが言うように〈関係(Relation)〉とは「形式化された実体概念」(88)になお留まっている。〈関係 (Relation)〉は、手許性の「指示連関」を「平板化」してしまうのである。
したがってハイデガーは、「1個の道具」が、たとえば「ペン」が「机」を「指示する」わけではないと、言い直さなければならなくなる(83~84)。というのも「ペン」の書く“作用”は、「ハンマー」の「打つ作用」がそうでないのと同じように「存在者の固有性(die Eigenschaften des Seienden)」ではないから。
「これらの作用は、固有性(属性)というこの名称が諸事物(Dinge)の何らかの可能的規定性の存在論的構造を表示するとでもいうのならば、そもそもいかなる固有性(属性)でもない」(83)。
もしも、書く「ため」に「ペン」というものが存在しているということであれば、この場合の「ため」の「指示」性格は「存在者の固有性」として実体的に理解されているわけである。
しかしそのいみで言うならば、「一存在者」は「せいぜい適性とか不適性とかを有しているだけのことである」(83)。「ペン」は、書く「ため」に“適している”ということである。あるいは、適しているものを「ペン」と呼んだのである。
しかし、書くことにとって適しているものといういみでは「ペン」だけが、あるいは「ペン」と呼ばれているものだけがそうであるわけではない。
場合によっては、単なる棒切れによって道端に書かれる文字や記号があるだろうし、壁画として描かれる場合に「ペン」で描くのが適しているとは言えないだろう。
また、それとは逆に「ペン」は書く「ため」にばかり使われるのではなくて、あるときには、書物のページの間に挟まれて枝折りの代わりになるかもしれない。つまり、この場合「ペン」と言われているもの、あるいはそう考えられているものの上位の概念は、おそらく無数(「さまざまな適性」83)に想定されるのであって、それを「形式化」することはできない。
“無数”というのは、この場合、経験的なこととして無数ということではない。「適性」とか「不適性」というのは、経験的な無数性として実体(包摂的な-)概念に敵対しているが、適性が無数にあることのいみは、人が手許に近付けうるもののどれ1つとしてそれ以外に-たとえば「ペン」が書く「ため」ということで流通している用途以外に-使いようのないものはないということである。
そのいみで言えば、「適性」「不適性」ということも「道具」の存在規定としては不充分なのである(83)。
このことは、「世界素材(Weltstoff)」(85)と思われている〈自然〉-おそらく「適性」といういみでの「用途性」が最も大きい(広い)概念としての-から最高度に抽象された人工的なもの(〈人間〉的なもの)であっても同じことである。
無意識としての-とくに人間が意識をして生産したものではないといういみでの-〈自然〉は、無意識というそのいみで“無数”の「適性」を有していると言える。
しかし、仮に、この、いわゆる〈素材(質料)〉としての〈自然〉に手を加え、つまり意識化し、特定の用途(適性)にそれを抽象した-たとえば、「ペン」は書く「ため」に“作られている”というふうに-としても、「ペン」の〈自然〉性(無意識)は、そのことによってなくなりはしない。それがなお別のものに使い得るようにして。
ヘーゲル=(初期)マルクス的な〈労働〉概念は、この種の〈自然〉性を〈止揚〉することはできないのである。
「ペン」の「書く」ことが、「ペン」という存在者の「固有性」でないのは、それゆえ、さまざまな仕方で「ペン」が書く「ため」ということ自体をうらぎることがあるからである。
「適性」という仕方で書くこと(書くということの実体的な包摂性)とは別の適性をその〈自然〉性において有し得るからである。手許にある身近なもの、さしあたりハイデガーによって「道具」と呼ばれたものが別のものに使い得るということは、それがそのつど或る無意識を、どんな作為にも解消され得ないような無意識を構造的に引き連れているということであって、それは、だからこそ、「机」と「ペン」との「関係(Relation)」と言った場合には見失われてしまうような何かなのである。
まさにそのことは、「ペン」は、それ自体で(実体的に)「ペン」であるのではないということである。「一個の道具だけが『存在している』ということは決してない」(ハイデガー)。
それは、「ペン」が〈関係〉において-「机」や「紙」との-「存在している」わけではないといういみにおいてである。広松もカッシーラーも(もちろん辻村もレヴィナスも)『存在と時間』前半の世界論を読み間違えているのだ。
道具的な諸連関は「数学的な関数化には逆らう」(88)と先にハイデガーが言ったいみをさらに尖鋭化させなければならない。
(b)道具の指示連関とフレーム問題
すでに認知科学では、この問題は「フレーム問題 (frame problem)」という形で処理されようとしている。
…「ある人が電灯のついている部屋の内でテーブルの上においてあるカップをソーサーから持ち上げ、それを自分の口にもっていってカップからコーヒーを1口飲み、カップをソーサーに戻した」という状況を考えることにしよう。常識的にはカップをソーサーから持ち上げても、カップからコーヒーを飲んでも、カップをソーサーに戻しても、電灯には何の関係もない。もともとついていた電灯は相変わらずついているはずである。人間はふつうコーヒーを飲むときに電灯のことなど考えたりもしない。しかし、計算機でこの状況をまともに表現しようとすると、「カップをソーサーから持ち上げても電灯はついたままである」、「カップからコーヒーを飲んでも電灯はついたままである」、「カップをソーサーに戻しても電灯はついたままである」、などという規則をいちいち記述してやらねばならない。一般にある行為によって変化しないことは限りなく多いので、このような規則は無限に存在する可能性がある。したがって計算機で扱うのは難しい(というか不可能である)、というのがフレーム問題の発端である(22)。 (松原仁・人工知能における「頭の内と外」in『哲学』10号)
つまり「フレーム問題」とは、コーヒーを飲む「ために」カップを取るちょうど書く「ために」ペンを取るように-ということの内的・外的「関係」の問題である。コーヒーを飲む「ために」はコーヒーとコーヒーカップとのいわば内的「関係」とは別にそれとならんで、この「関係」の「ために」は、偶然な任意の「関係」であるにしても「電灯」との1定のいわば外的「関係」がなければならないし、またそれとは別にテーブルとの1定の「関係」も“考えられる”かもしれない。それは、コーヒーやコーヒーカップが1つのウム(um)を有しているということだが、「人間はふつうコーヒーを飲むときに電灯のことなど考えたりもしない」。
「考えたりもしない」にしても、しかしコーヒーを飲む「ために」は、この「考えたりもしない」「膨大な情報」(23)に何らかの仕方でかかわらざるをえない。かかわらざるをえないし、また現に「人間」はかかわっているのである。
たとえばコーヒーを飲んでいるとき、突然電灯が消えたとしよう。飲んでいる人は驚くに違いない。なぜ驚くのだろうか。恐らく、コーヒーを飲むことと電灯が消えることとの間には、変化にかかわる因果連関がないからである。普通〈人間〉は、何をすれば、何が起きるかという変化の関連を視野に収めながら-間違っている場合もあるにせよ-行動している。行動とはいつでも予期行動なのである。
この予期のうちには、主題的行為の変化連関と共に、同時に「変化しないもの」との連関も含まれている。〈人間〉は、コーヒーを飲むときに、コーヒーをすする音に一々驚いたりはしないが、その時に電灯が消えると驚く(場合がある)。
つまりコーヒーを飲んでも「電灯はついたままである」(松原)ということを(コーヒーを飲むと音がするだろうということと同じように)予期しているからである。
しかし、変化する「副産物(side effect)」(D・デネット「コグニティブ・ホイール」)を“考えること”以上に変化しない、言わばマイナスの「副産物」を“考えること”はもっと難しい。
というのも、コーヒーを飲むことにとって「変化しないもの」とはコーヒーを飲むことにとってさしあたりは関係のないものであり、関係のないものを“考えること”ほど考えることが難しいことはないからである。難しいというより、あまりにも任意性が高いため考えようがないのである。
コーヒーを飲んでも、「電灯は付いたままである」「コンピュータ(の電源)はついたままである」「ドアは閉じたままである」「ソーサーが割れたりはしない」「猫が飛び付いたりはしない」などと任意に言い始めれば、きりがないことになる。「一般に或る行為によって、変化しないことは限りなく多いので、このような規則は無限に存在する可能性がある」(松原)。
コーヒーを飲むことにとって一見すると無関係で無意味なこれらの出来事が、しかし、無関係でも無意味でもないのは、こういった無関係なものとの何らかの関係が無ければ、たとえば(人間が)驚くことはありえないからである。もし「電灯は付いたままである」ということが、コーヒーを飲むことにとって、端的な無(無関係そのもの)であるとすれば、コーヒーを飲む者は、電灯の付いていること(明るさ)、あるいは消えること(暗さ)の如何を問わず、コーヒーをのみ続けることになるだろう。コーヒーを飲むこと自体は、部屋の明るさと直接的な関係を持たないからである。
つまり驚くことが〈できる〉者は、コーヒーを飲むことにとって無関係なものとの関係を何らかの仕方で有していなければならない。1人の人間にとって、コーヒーを飲むことは、場合によってはありえないことかもしれないが、“驚くこと”は、いつだれにとっても(何をしていたとしても)ありえないことではない出来事である。つまり、人間にとって人間〈である〉ことは、少なくとも行為の主題とは無関係なものに対する開放的な関係を常に有しているということである。
「人工知能」にこの「関係」を巡る「情報」を処理させるという認知科学の関心から言えば、内的であれ、外的であれ、これらの「膨大な情報」は「人間」の「頭の内」にあるのか、それとも「頭の外」にあるのかという「問題」にまで展開する。
もし、「膨大な情報」なしにコーヒーを飲むということがおこりえないとすれば、「情報」の「膨大」性は「人工知能」を絶望的な状況に追い込むことになる。なによりもこの「膨大」性は「人間が考えたりもしない」情報の「膨大」性であるからだ。
この状況が「フレーム問題」を生じさせている。この種の「フレーム問題」は、松原(の説明)によれば、「計算機が問題を解く際には、問題解決に関係する情報はすべて計算機の内面にある」(25)という「観念論的な方法論」の前提から生じている。計算機の「自閉症」的な「内面」を前提にすれば、この場合の情報の「膨大」性は、絶望的な仕方で強調されるほかないのである。
それに対して、この「膨大な情報」は、「自閉症」的な「内面」にではなくて「頭の外」にあるという「実在論的」な立場がある。「必要な情報は(全部ではないにしてもほとんどは)『頭の外』にあるのだ。それが『頭の内』との相互作用によって必要なだけ『頭の内』に取り込まれる。人間は手を動かしたり足を動かしたり声を出したりして、外界に対して作用を及ぼすことができる。その作用の影響を視覚・聴覚などの感覚器を通じて取り込むことによって、状況に応じた情報を得ているのである。だから膨大な情報の記述や処理に困ることはない、そこではフレーム問題は問題にすらならないのだ」(26)。
しかし、問題なのは、膨大な情報がどこにあるかを-たとえば「表象主義」に対して「状況意味論」的に-指摘することなのではない。単に膨大な情報の膨大性が問題なのではなくて、その膨大な情報の「情報処理」能力の膨大性がフレーム問題を生じさせているのであって、「実在論的な方法論をとっても膨大な情報から必要な情報を取り出す過程がなくなるわけではない」(27)。
そもそも何が「必要な情報」であるのかを決めること自身が困難であること-たとえば“驚く”ことにとって何が「必要な情報」であるかを問えば、困難さが尋常でないことがわかるはずである-がフレーム問題であったからである。言いかえれば「膨大な情報の記述」を「実在」主義的に「頭の外」へ追い出した分、推論の膨大性が「記述の膨大性」にとって代わるだけのことなのである。
大沢真幸が言うように「減少した記述は、推論の量によって補償されなくてはならない。ある状況で、ある定理が成り立っているかどうかを決定するためには、過去の状況に次々と遡る推論をしなくてはならない(…)。膨大な記述の検索が必要のない分だけ、膨大な推論を行わなくてはならない」(知性の条件とロボットのジレンマ」in『現代思想』18-3号)のである。
松原仁は、したがって「フレーム問題の本質」を「有限の能力しかもたない情報処理の主体にとって膨大な情報を完璧に扱うことはできない」(24)という点に求める。
松原の言い方で1番気になるのは、「膨大」という言葉-別の論文(「一般化フレーム問題の提唱」in『人口知能になぜ哲学が必要か』哲学書房)では「記述の量」の「爆発」とまで松原は言っている-の使い方である。
コーヒーを飲むことにおける情報の膨大性という点で言えば、それは、せいぜい何かカップのようなもの-飲む「ため」の“適性”を有した「道具」-で飲まれるだろうということ以外には演繹的に(形式的に)取り出される情報はないのであって、にもかかわらず、このこと(コーヒーを飲むこと)は、それ以外の「情報」-ハイデガー的に言えば、それは〈世界〉性のウム(um)ということであるが-を松原の言い方で言えば「必要とする」ということである。
この“それ以外”ということを松原は認知科学者の立場から「膨大」という情報の“量”の問題に安易にすりかえている。問題は情報の膨大性ということではなくて、1つの出来事が存在しうることの諸条件をなんらかの形式化(実体的な“包摂”性)によって取り出すことはできないということである。
言いかえれば、「考えもしない」電灯とカップを(意識的に)とることとの「関係」を「形式化」(「数学的な関数化」ハイデガー)することができないということである。
しかし、ここで、“できない”ということはなんらかの能力-認知科学が言う「情報処理能力」というように-の問題なのだろうか。それは、またしても「状況意味論」的な、そしてまた実在論的な立場に後戻りすることなのだろうか。
それは、コーヒーをのむ「ため」にコーヒーカップを“とる”こととそのときに「考えたりもしない」電灯を“とる(とっている)”こととの落差にかかわっている。情報の「膨大」性という言葉は、この落差の本質性を稀薄なものにするように思える。この落差は「膨大な情報」を処理する能力を有した「計算機」の出現によって解消するのだろうか。
松原が認めるように、コーヒーを飲むことにとって、つまりコーヒーを飲むことのフレームにとって、電灯の点灯(の如何)は「考えたりもしない」ことかもしれない。しかし、「考えたりもしない」ことなしには、コーヒーを飲むことは“考えられない”のである。この種の無意識はどのような意識的とされる出来事にも付き纏っている。
そして、この無意識をこそ、「膨大な情報」を処理することによって、量的に覆うことができる(だろうか)というのが認知科学者の「計算機」にかける期待(と不安)なのである。しかしこの場合の「情報」とはたとえば、「ペン」-「紙」-「机」-「インク」… と連想ゲームのように辿られるようにしてなされる「コーヒー」-「コーヒーカップ」-「ミルク」… と「表象」-いわゆる認知科学で言う「表象主義」的表象-される事柄にすぎない。-松原自身も「フレーム問題」を「一般化」して「情報の量」の問題にすることによって、この問題を理由はあるにせよふたたび「頭の内」の問題に後退させている(前掲書・27~28)。
つまり、ここではコーヒーを飲むことではなくて、コーヒーを飲むこととはどういうことかと問われたあとで“考えられた”諸関係(Relationen)が、言いかえれば、フレームの諸項の“包摂”関係が、あるいはまた各フレーム間の“包摂”関係が規整されているだけなのである。情報が「膨大」になってしまうのは、コーヒーを飲むことを“考える”からなのである。
しかし「日常的現存在」(ハイデガー)は“考える”のではなくて、「配慮する(besorgen)」。
ハイデガーは言う。「配慮的交渉(Umgang)というこの存在様式のうちへと、われわれはあらためて身を置き移す必要はない…。日常的現存在は、すでにつねに、こうした在り方において存在している(ist)のであって、たとえば、ドアを開きつつ私は取手を使用しているのである」(SuZ 67)。
(c)接近と離反
通常、人(日常的現存在)が、「ペン」と「インク」との「関係」、コーヒーとカップとの「関係」を“考える”ことがあるのは、認知科学者の研究室の内でのことではなくて、両者の「指示連関」がある種の「妨害(Stoerung)」や「断絶(Bruch)」に出くわすときのことである。
諸々の指示それ自体は考察されている(betrachtet)わけではなくて、むしろそれらの諸指示は配慮しつつそれらの諸指示に従うときに「現にそこに(da)」存在しているのである。しかしながら、指示が妨げられる(Stoerung der Verweisung ) ときに-何かをするために利用不可能となるときに、指示は表て立ってくる。(…)それと同様に、日常あまりにも自明な仕方で存在していたのであらためて気にも止めなかったような手許存在者(Zuhandenes)が、あるとき見当たらないということ、それは、環視(Umsicht) において暴露されていた指示連関の断絶(Bruch )ということである。環視(Umsicht) は当てを失い、そしていまはじめて、無くなったものが何のために(Wofuer )、なにと共に(Womit )手許にあったのかを思い知らされる。ここでもまた(指示が妨げられていたのと同様の仕方で-引用者註)環境世界(Umwelt)がおのれを告げている。このようにして閃いているもの(Was so aufleuchtet)は、それ自身他の手許存在者のうちの1つではなく、まして手許的存在者を基礎付けていると思われている何らかの眼前的(事物的)存在者(Vorhandenes) ではない。それは、すべての確認や考察に先立って「現にそこに(da)」あるのである。(74~75)
ペンのインクが切れてペンがそれとしては使い物にならなくなったときに初めて「ペン」と「インク」との「関係」を「日常的現存在」は“考える”ことができる。
単に“考える”場合でさえ「日常的現存在」は“考える”場処(um)にいるのであって、つまり“考える”ことが〈できる〉という〈可能性〉を与えられている(es gibt)のであって、それこそが“考える”ということが「考えたりもしない」(松原)ことによって生じていることのいみなのである。
肯定的には近接不能な「関係」をこそ、ハイデガーは(さしあたり=身近さにおいて)手許的なものの「指示連関」(あるいは「指示全体性(Verweisungsganzheit)」)と呼んだ。
だから、それは、“考える”ことによって近付きうる「関係」ではない。ハイデガーは「現にそこに」ある「閃いているもの」をこの引用の直ぐ後で「環視(Umsicht)」にとって「エアシュリーセン(erschliessen)されている」と言っているが、この「エアシュリーセン」は、「推論によって間接的に得る(erschliessen)」ものではなくて「開きあける(aufschliessen)」といういみでの「現にそこに」の「開示性(Erschlossenheit)」をいみすると(周知のように)わざわざコメントしている。
「考えたりもしない」でコーヒーを飲むことが〈できる〉こと、あるいはペンで書くことが〈できる〉ことをハイデガーは手許的なものへの「没頭(Aufgehen)」とか「心を奪われている(sich verlieren)」と言っていたのであり、ウム(um)としての世界は、その場合「退却」(69)していた。
むしろ「退却する」という仕方で「世界が己を告げないということ(Das Sich-nicht-melden der Welt)は、手許的なものがおのれの目立たなさ(Unauffaelligkeit)のうちから踏みでないことを可能にする条件である」(75)。
このような「退却」性が、「妨害」や「断絶」によってしか近付くことができない手許性のウム(um)を構成しているのであって、それは「情報処理の主体」の「有限な能力」(松原)によっておこる「退却」性とは別のものである。言いかえれば、そのことが世界性が「前提」されていることとその遺失とが世界内部性の「2義的」な意義だとされた唯一のいみなのである。(この項続く)
※ここまでの言及した限りの参照文献
ハイデガー『存在と時間』渡部二郎他訳/中央公論社
辻村公一「ハイデガーに於ける世界の問題」/『ハイデガー論攷』/創文社
J・デリダ「人間の目的=終末」/『現代思想』7-12号/現代思想
レヴィナス「哲学と無限の観念」/『超越・外傷・神曲』/国文社
レヴィナス「逃走について」/『超越・外傷・神曲』/国文社
レヴィナス「存在論は根源的か」/『超越・外傷・神曲』/国文社
レヴィナス『時間と他者』/法政大学出版局
松原仁「人工知能における『頭の内と外』」/『哲学』10号/哲学書房
D・デネット「コグニティブ・ホイール」『現代思想』15-5号/青土社
J・マッカーシー他『人工知能になぜ哲学が必要か』哲学書房
大沢真幸「知性の条件とロボットのジレンマ」『現代思想』18-3号/青土社
※この論文の関連論文が翌年に書いた「フレーム問題と世界―人工知能・哲学・ハイデガー」(1996年)http://www.ashida.info/blog/2008/01/post_261.html。関心があれば、参照してみて下さい。
(Version 3.0)
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ごぶさたしております。
もはや「若い」とは言えないし、ハイデガーのいい読者でもない(どちらかというと苦手)のですが、メモをとりながらたいへん興味深く拝読しました(レヴィナスからの引用箇所で、MiteinanderseinがMiteinenderseinとなっていました)。
芦田先生の論文のなかでは「わかりやすい」という印象です。
その「おもしろさ」が少しでも理解できるという意味で。
たぶんおもしろいことを言ってるんだろうけど、何がおもしろいのかはっきりわからないということも多いですから。
「実体主義から関係主義への転換」などといったキャッチフレーズってあまりピンとこなかったのですが、その理由がわかった気がしました。
ハイデガーも否応なく通俗化されてしまってるんですね。
私事ですが今朝、(人間関係上)とりかえしのつかない大失敗をやらかして、かなりへこんでいましたので、一時的な没頭(忘却)の機会を与えてくださってありがたかったです。
このような(いわば目的外)利用が可能だということは、このご論文自体の無意識的・開放的・全体的なumの指示連関(「論文」はそれ自体で「論文」であるのではない)を暴露しているのでしょうか。
だってそんな極私的な利用の仕方は決して予め「考えられはしない」でしょうから。などとくだらないことを考えたりしました。
つづきも楽しみにお待ちしています。
お仕事を辞められたとのことですが、次なる展開を楽しみにお待ちしております。
>匿名希望さん
誤字訂正ありがとうございました。
早速訂正しておきました。
この時期の80年代後半から90年前半は、ハイデガー(とフッサール)に「没頭」していました。特にハイデガーの『存在と時間』前半の世界論はかなり読み込んだつもりです。
当時は辻村の世界の二義性論と広松渉の「関係」論が幅をきかしていて、なんかおかしいとずっと思っていましたが、その疑問を解くためにはハイデガーの「世界」論を自力で解きほぐすしかないと思っていました。
しかしハイデガー自身もかなり屈折しています。その原因はキリスト教的な創造論-終末論なしに〈世界〉概念を論じようとするハイデガーのもくろみ自体にあります。
ヘーゲルはもちろん、マルクスさえもキリスト教的な〈世界〉論から自由であり得なかったわけですから、ハイデガーの「世界-内-存在」が数々の困難にぶち当たらないわけがないのです。
だからこそハイデガーの「ケーレ(Kehre)」が起こったのです。この論文の続きは「ケーレ(Kehre)」論に繋がっています、が、まだ私にはこの続きを書く自信がありません。しばらくお待ちを。
umとしての指示連関が「"考える"ことによって近付きうる『関係』ではない」ということで、自己論に還元できない世界性がすべて論じれたわけではないですよね?
クライマックスはこの後ですよね?
現在無職ということですが、今のうちに続きを書いてください。
死ぬまでに、ぜひ続きを読んでみたいと思いました。
有意義性について、芦田先生のご教示をお願いいたします。
有意義性とは世界の世界性とのことですが、指示連関を中心に説明がなされていますが、ものの存在(用在、物在)と現存在との関わりでの説明が主で、現存在と現存在との関わり、つまり、共存在との関わりでの有意義性の説明がなされている本、あるいは論を見たことがございません。
内世界存在者には、ものもひともいるわけですから、それらと現存在との関わりのあり方が「有意義性」だと思いますが、道具連関ばかりでなく、共存在である他人もきちんと含めた、有意義性の説明を、ぜひとも、芦田先生にお願いいたしたく存じます。
だれも教えていただけませんので。
芦田さまになら答えていただけるのではないかと、書き込みいたします。
子供に障害があって、絵と具体物が結びつかないのです。
かなり精密に描かれた絵を見せてもわかりません。写真だと少しできます。
パズルをやっても輪郭線をつなげるとか頭の下に体のピースというようなことができません。でも線に沿って切るとか、簡単な人の顔を描くことはできます。
子供を理解したいために、ぜひお聞きしたいのは、具体物と写真、絵、シンボルとは、どうやって人はそれが同じだと認識できるのでしょうか。
コップは、色も形もすべて違うのにコップだとわかります。
それはなぜなのでしょうか。コップの形や色の違い(差異性)を抽象化して、コップ一般(同一性)の認識があるから、コップだとわかります。だから、同一性(抽象化)が成り立たないと、コップという概念は成り立ちません。そこがつながらないとわかりませんね。
子供は、定型発達者のような、差異性と同一性の二重性で、物事を捉える、ということはできていないんだと思うのです。
どんな本を読めばこうしたことが分かるるようになるのか、できましたら教えください。
よろしくおねがいいたします。