退職しました(その2のプレ議論) ― 専門学校に於ける情報リテラシ教育とは何か? 2008年10月10日
先の記事「退職しました(その1)」の「703号」さんのコメント(http://www.ashida.info/blog/2008/10/1.html#c13551) を読んで思い出したことがありました。
私が小山学園でやった大きな仕事の一つに〈情報リテラシ〉運動というものがあります。1995年テラハウス東中野校舎を新設したときに、竣工6ヶ月前に、私は前理事長(山本眞理事長)にお願いして、全館(全教室)インターネットに繋がるネットワークを敷くべきだ、と「主張」しました。「主張」というのは、誰も学内にそんなことを言う人がいなかったからです。
私はそのとき管理職でも何でもなかったのですが、11階建ての立派な校舎(日建設計設計・前田建設施工)を東中野駅前に作りながら、このままではただの引っ越しに終わってしまう(新校舎建設に伴う学校の戦略的な特長作りの議論が全く出来ていない)という認識があったからです。
私はWindows95に始まるネットワーク(インターネット)の大衆化を、ただならぬ文明的な動きだと思っていました。特に、教育や授業のあり方は根本的に変化していくだろうと予感していました。
この校舎新設を契機に、全館、全教室定員数の情報コンセント(ネットワークポートと電源コンセント)を用意すべきだと主張したのです。誰もその「主張」を理解してくれませんでしたが、唯一関心を示してくれたのが、前理事長(山本眞)でした。
「全館でなくてもいいだろ。一部で開始して成功したら広げればいいじゃないか」などと経営者らしいこと(苦笑)を言っていましたが、「いやいや、コンピュータを使った教育は何もIT教育だけではなく、すべての分野で日常的に行われるようになる。もはやコンピュータ教育は『情報処理教育』ではなくなる。『全館』ということがわれわれのコンピュータ教育の特長を示す体制なのです」と「主張」しました。まだATMの標準仕様もできていないネットワーク夜明け前の時代です。
全学を上げた議論が始まりました。設計・施工現場ではもはやきれいな仕様変更は出来ず、テラハウスの7階から11階まではエレベータ前の床がゆるやかに膨らんでいます(プライドの高い日建設計の美学には確実に反していました・笑)。まさに竣工6ヶ月前の大決断だったわけです。
当時全館定員数の情報コンセントを有した学校は、大学も含めてわが校だけだったと思います。同時に95年の段階で(IT系だけに留まらず)全ての学生にノートパソコンの購入を義務付けたのも、このときです。前理事長の決断はまさに決断だったわけです(「703号」先生と私以外、全教員が反対していましたから)。
「703号」さんのコメント(http://www.ashida.info/blog/2008/10/1.html#c13551) ― 「以前に小山学園の会議にて、芦田先生と『自動車整備専門学校卒業生はブレーキパッドの交換作業の向こうに自動車の全体世界を見通せるか?』といった議論をしていたことなどが思い浮かび、とても緊張しました」は、その時の議論です。今朝パソコンを整理していたら、その当時のファイルが見つかりました。
このとき、私は専門学校の実習授業には問題が多いと考えていました。わが学園の情報リテラシ運動は、実習授業改革だったのです。以下その一部の議論を再録します。なお、この「実習の専門学校」という問題についてはこの情報リテラシ議論とは別に「退職しました(その2)」で全面的に報告します。
※文中「703号」さんを「A先生」と呼び変えておきます。1995年夏の私たちのやりとりです(当時、ニフティの「フォーラム」を利用して校内グループウエアを展開していました)。
A先生 全くの誤解です。
私は、実習に意味がないといったことは一度もありません。「実務」「実業」教育という意味で実習に(大幅に)依存するカリキュラム体制を考え直す必要があるといっただけです。また、実習をすべてシミュレーションに代えろといったことも一度もありません。その意味では私はマルチメディア派では全くありません。
問題は、「全体と部分」の問題ではありません。私はA先生の「全体」ということばを評価しましたが、そのとき念頭にあったのは「全体と部分」の対立というよりは、「実習」とか「実験」とかいわれる場合の「実」の部分です。
つまり手仕事の領域がどんどん縮小して手や目で〈本質〉 ― とりあえず、「本質」と呼んでおきましょう ― を把握する技術教育の意味が希薄になりつつあるということです。それはあらゆる領域で「近代化」が進んできているということの一般的な認識にすぎないと言えます。
「近代化」とはむろん非自然化であり、手や目で触れるものがそれ自体人間的に加工されたものの無限循環の中に入り込むということです。たとえば、「近代化」の成果だとされる「基本的人権」 ― たとえ身体(脳も含めた)に障害がある人間であっても「一人の人間」として尊重されるべきだという「ヒューマニズム」 ― も、自然主義(弱肉強食)的には反真理であって、にもかかわらず「人権」が叫ばれるということは、自然が自然的に与える素材以上のものを“人間”が開発し始めたからです。
そのことによって、一人の人間が生きるのに必要なもの以上のものを過剰に生産し始めたときに、その過剰性の担保が“弱い者”にも人権があるという思想になってきた。
たとえば、その過剰生産のきっかけになったのは、人間が手の延長として棒きれを持ったときかもしれない。人間が身体的な延長以上の「道具」を獲得したときに過剰生産の契機があったと言えるかもしれない。そのとき道具の媒介はすでに自然 ― 人間の身体的自然も含めて ― の変容の始まりだったと言えます。身体自身の変容は高々しれてますが、たとえば背が高いとか低い、足が速いとか遅いというように大した差異ではありませんが、道具を媒介にする高さの変容や速さの変容は、無限展開する可塑性を持ち始めるからです。
〈動物〉に文化や文明、そして歴史がないとすれば、それは、かれらには身体自身を変容させる以外にかれらの〈世界〉を変容させることができない、つまり身体=世界だからです。人間は道具変容の分だけ、世界と自己とを変容させてきた、つまり歴史を持ったということでしょうか。私はこれをマルクスから学びました。
道具の間接性が、言い換えれば、自然に対して自然的に関係しないことが、人間性(=人権)の起源だといってもよい。したがって、たとえばキーボードという“道具”は、他のどんな道具にもまして全自然に間接的に対峙するという意味で、最も人間的なものだといってもよいのです。
コンピュータが批判されるとすれば、それが「機械的」だから批判される ― 19世紀的な反動としてに ― べきなのではなくて、高々人間的なものにすぎないからこそ批判されるべきなのです。もっとも今その話しを私はすべきなのではないのであって、重要なことは近代化は避けられないし、極限まで押し進めるべきだろうし、「ポストモダン」などということを安易に言える段階ではないということです。
もし、ここで「手仕事」や「職人的技術」というようなもの ― たとえば「人間国宝」というような仕方で ― が残るとすれば、それは近代的な過剰生産の結果であって、(反近代性としての)現実性や自然性の徴表としてではないのは明らかです。つまりそれらはきわめて近代的なもの(“ぜいたくなもの”)なのです。もし、「シミュレーション」などということばにいみがあるとすれば、それは近代的な生産の人間的な循環性(間接的な自然関与)を言い当てているからでしょう。「シミュレーション」とは「ヒューマニズム」のことにすぎません。
私が言いたいのは、自然的な手や自然的な目で世界に触れることから、人間はすでにはずれた存在だし、近代という時代はますますその傾向を露呈させつつあるということです。そもそも(自然的な)手がなく、目が見えなくても、また身体を介在させる能力を持たなくても(「身体障害者」であっても)、人間は人間的であり得るということを露呈させたのが近代テクノロジーだったと言えます。現にコンピュータは多くの身体障害者を“救い”つつあります。
その種の技術教育、つまり近代的な人間の近代的な本質に全面的にかかわることができない専門学校技術教育などあり得ないというのが私の認識です。つまり、手や目を鍛える実習教育が目標ではなくて、手で触れ得ない、目で見ることのできない〈本質〉に目覚めさせることが(近代的な)実習教育の目標でなければならないということです。
“実”を巡ってのもう一つの問題は、たとえば、ブレーキパッドの交換という技術でわが校東京工科専門学校「自動車整備科」の技術教育の成果を“表現する”ことはほとんど不可能であり、そのことの意味はブレーキパッドの交換が(A先生の言う意味で)「部分」だからではなくて、〈現実〉だからだということです。
この意味での現実は、ある意味で“単純なもの”です。ブレーキパッドとは何かということを語らせれば、十人十色の答えが返ってくるでしょうが、ブレーキパッドを“現実に”交換することになれば、その成果の優劣で先の認識(ブレーキとは何か)を表現することは不可能です。
おそらくどんな〈現実〉も一つの認識やイメージを再現するためには不十分なものなのです。私がこうやって、私の認識を開示しているときにも、人々が使うのと同じことば(ことばの“現実”)を使っているという意味では単純すぎるものです。
たとえば、消費税とは何か。そしてそれに反対するか、賛成するかという“問題”があったとします。行動(現実)としては、2値(あるいは3値)しかありませんが、認識はほぼ無限にあるでしょう。その中には経済学者の認識や中小商店主の認識、あるいはなにも考えていない人の“認識”も含まれるに違いありません。しかし結果(行動)としては「反対」「賛成」「わからない」にすぎない。
〈政治家〉がなぜ相対的にバカなように見えてしまうのかといえば、彼らはいつでも「賛成」「反対」という行動(実行)の場にさらされていて、ある種の単純性を免れ得ないからです。逆に言うと単純性の重み(きつさ)を知っているのが〈政治家〉だと言えるかもしれません。おそらく認識の多様性(総体性)が行動の単純さに解消するのに耐えられない者が〈学者〉であり続けるのでしょう。
しかし、われわれ東京工科専門学校は〈政治家〉を作るわけでもないし、〈学者〉を作るわけでもありません。重要なことは、現実の〈単純さ〉に紛れて、認識もまた単純でいいというある種の実践主義(実習主義)をさけるべきだということです。
つまりブレーキパッドの交換実習に意味があるのか、ないのかという意味でいえば、あるといえばあるし、ないといえばないというのが私の認識のすべてであって(それは既存の実習授業すべてに言えます)、問題は交換が「実際にできる」ことが、ブレーキパッドのことがわかったことにはならないということです。つまり、卒業生は“実”際にはブレーキパッドの交換しかやらないのだから実習でそのことが「できる」ように教えれば、それが「職業教育」「実務教育」だというのはおかしいというのが私の意見です。パッド交換することとブレーキとは何かということを教えることの間には雲泥の差があります。
交換すること自体、ブレーキの本質を理解しないでも「できる」からです。それはちょうど消費税の本質を理解しないでも、それに反対したり、賛成したりすることが「できる」のと同じことです。10年費やして消費税の認識を持つこと、その結果「反対(賛成)する」者となにも考えないで「反対(賛成)する」者とは“目で見える”行動(実際)の水準では区別がつかないのです。
この種の区別の付けにくさに専門学校職業・実務教育は甘えてきたのです。むろんブレーキとは何かを知ったからといって、ブレーキ交換ができるわけではないことは明らかであるし、「何のために」知るかという意味では、「よい車を“実際に”作るため」といってよいでしょう。
しかし、パッド交換が実際に「できる」ということは車とは何かの「全体」(A先生)に必ずしも結びつきませんが、ブレーキとは何か教えることは「全体」に直結しています。パッド交換の実習教育とブレーキの本質を教えることの本質教育という意味でいえば、後者の方がはるかに高度な教育の形態が要求されているといえます。
そもそも、車自体が「全体」的に存在するようになってきて、部分的な補修にあまり大きな技術を必要としなくなってきたという意味では、本質認識こそがもっとも実践的な教育であるような局面に現在直面しつつあるとも言えます。それが近代的な技術の本質であるといってもよいでしょう。
技術ではなくて技術システム。私は、それに対応した技術教育の在り方をわが学園の全スタッフが知恵を出しあって考えていこうということを繰り返しいっているのであって、〈コンピュータ〉で〈実習〉をバーチャル化(マルチメディア化)しようなどという脳天気なことをいっているわけではないし、〈現実〉を軽視しているわけではありません。そもそも私は近代主義者(ヒューマニスト)ではありません。もしよければ、わたしの本『書物の時間』(行路社刊 1988)のあとがき(http://www.ashida.info/blog/2006/04/_1989.html)でもお読みください。
― 1995/8/25
私の言うリテラシ論は何度も言うように専門教育をやるためのものです。この場合、誤解され続けてきたのは、専門教育にもコンピュータを使って、いわば“自動的に(合理的・効率的・非人格的・非経験的・シミュレーション的など、など)”教育できる体制をとればいい、という提案を私がしている、つまり芦田はすべてがコンピュータで教育できるという脳天気なコンピュータ教育論を(コンピュータに浮かれて)提案しているというものです。それは私の「啓蒙主義的」(A先生)的で挑発的な文体の悪影響であったかもしれないと反省していますが、しかし私の本意ではありません。
一言で言えば、コンピュータでやれることはコンピュータに任せて、〈人間〉にしかできないことにもっと集中すべきだというのが、私のリテラシ論です。そこで各科の専門課程の中で、いったいどこがコンピュータにやれることなのかを考えて、もっと専門教育を本格化できる体制(人材育成の本格化)をつくろうじゃないかというのが私の提案の本意です。
そしてコンピュータにやれることは現在のわが学園の教育の現状からすると、かなり多いのではないか、大部分のカリキュラムがコンピュータによって「合理化」できる程度の“専門”教育しかできていないのではないか ― このわが学園の現状認識による「リテラシ」論が、コンピュータで専門教育も全部できると芦田は考えているという誤解の元になっているのです ― 、つまり、コンピュータで合理化できる程度の“専門”教育しかできていないのではないのか、それではいけないのではないのかということが、私の「リテラシ」論であったのです。
そのためにこそ、徹底的な既存教育体制のコンピュータ化・データベース化(WWWサーバーによるハイパーメディア化)をはかるべきだというのが私の提案動機であったのです。
つまりわが学園の「専門」教育は、2年間3年間経ても所詮「入門」程度 ― あるいは入門それ以前(「しつけ」教育) ― のことしかできていなくて、そんな能力は機械(コンピュータ)でもできる程度のことになりつつあるのであって、言い換えれば、これまで「入門」教育と思われていたものは機械(的なもの)が代理し、〈人間〉がわざわざやる必要のないものになってきたのであって、その意味で「情報リテラシ」に基づく教育とは、「入門」の過程を省いた教育、まさに「専門」教育 ― 専門的な人間が専門的に(秘伝的に)教える ― から始める教育のことを言うのだというのが、私の「情報リテラシ」教育論です。
この提案のどこに、〈専門性〉を軽視したり、「コンピュータを過大評価しすぎている」傾向があるというのでしょうか。「ひとりごと」であってもそう思って欲しくないというのが私の気持ちです。
「たとえば、僕は「情報リテラシー」を「入門教育」という具体的な事例として理解したわけです。その後で芦田先生に反論されてしまいましたが、概念として「情報リテラシー」がそれ以上の一般性をもったものであることはこれまた概念としては理解できる、けれども、それに照合する具体事例が見あたらない状況に陥ってしまうわけです」とあなたは言います。
あなたはそこで、多変量解析SPSSの「具体例」やその種の「ソフト」「開発」のことを念頭においているように思いますが、私はそこまで大げさなことを今の段階で考えているわけではありません。
たとえば、私は一人の教員として、一授業を終えたときに〈教材〉(=「メディア」)が適切であったかどうかに迷うことがあります。それはたとえば、教科書の選定を間違えたなどという大げさな話しではなくて、授業のあれこれの箇所で、あの場所はことばでしゃべるよりは「文字」(文章)にして学生に前渡ししておいた方がよかったのではないかとかと思う場合があるわけです。
これは、「実験」や「実習」中心のバイオテクノロジー科のI先生の授業であっても一人の教員として同じように思われることがあると思います。
そこで、毎年同じことを〈話す〉箇所が授業のそこかしこにあるとしたら、それはもう「教材」化(メディア化)しておいた方がいいのではないか、学生にとっても取り組みやすいのではないかとおもうわけです。
だいいち教える私にとっても、そのほうが“楽”です。そしてメディア化するというのは、場合によってはその部分を授業では省略できるかもしれないということを意味します。「家で読んでこい」ですますことができるかもしれない。それについての質問から授業を開始できるかもしれない。
その分、その〈先〉の話しをすることができる。あるいはまた、メディアになっている(自分の頭の〈外〉に出ている)ことによって、わざわざ自分が教える必要はないかもしれない。
たとえばI先生のバイオテクノロジー科の「実験」は、おそらくある種ルーティン化(実験マニュアル化)できる部分でしょうから、わざわざI先生ほどの知見のある人が教える必要はないかもしれない。大学院生でもいいかもしれないし、理系の大学院生が忙しいというのであれば、「上級生」でもいいかもしれないし、ちょっと知的な国立(くにたち)の主婦に実験助手的な訓練をしてまかせもいいかもしれない。その分、I先生はI先生しか〈話す〉ことのできない授業を行うことができる。ピペットの持ち方の名手はI先生以外にもたくさんいることを(手仕事的な実験の重要性を主張される)I先生であっても否定されはしないでしょう。
また主婦の時間給にコストが縮小した分、もっと高度な実験設備を整えることができるかもしれないし、もっと専門性の高い先生を雇うことができるかもしれない。そういうことが情報リテラシに基づいた授業を行うということであって、「ワープロ」を教えることが情報リテラシでないのはいうまでもなく、ピペットの持ち方をビデオでシミュレーションするのがコンピュータ教育なのでもありません。そして高度なシミュレーションソフトの開発に取り組むことが真っ先の課題になるわけでもありません。
つまり情報リテラシ教育というのは、その先生が自分にしか教えられないことを教える(〈話す〉)ことのできる教育(教育環境の構築)を目指しているということです。言い換えれば、自分の主宰する授業の中で、“これは私(専門家としての)がわざわざやらなくてもできることではないか”と反省できるところはすべてメディア化(時間を持て余している主婦を採用することも含めて)すればいいというのが情報リテラシ教育の本意なのです。
そしてわが学園の専門教育は先生方の専門性(プライド)をすべて生かし切れないまま、「実験」授業や「実習」授業でその専門性を疲弊させているというのが、私の認識です。
「情報リテラシ」こそが人間(人材)を大事にする教育なのであって、現在のわが学園の“人間的な”教育はただただ〈人間〉を磨滅させ続けているだけのものなのです。お願いですから、芦田は「コンピュータを過大評価しすぎている」などということをいわないで欲しい。
あなたがITOKIのインターネット(学内疑似インターネット=今で言う「イントラ」ネット)提案を受けて「こいつぁ、なんともおもしろい未来が現実化してきたなぁ、という気がしてまいりました」と言われたのは、決してあなたがコンピュータ(マルチメディア)派だからではなくて、「最高判断」による自由な授業ができるとお思いになったからでしょう。私もその意味で「情報リテラシ」が「おもしろい」と思ったのです。
―1995/8/23
※こんなやりとりをニフティ上で徹夜してやっていました。A先生も私も夜中の2:00前後にUPするのが常でした。懐かしい思い出です。
※このやりとりは、私の「ハイパーテキスト論」(http://www.ashida.info/blog/2002/08/hamaenco_1_22.html )に結実しました。ぜひ参照してみてください。
※この議論、まだまだ前後があります(順次公開します)。
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ハイパーテキスト論は分かりやすい内容で読みやすかったですよ(95年当時はまだ東京工科の教員ではありませんでしたが)。
自分も東京工科専門学校の教員になる前は(物理的な)経験から技術や知識を広げていくことしかできないアイランド的な技術者だったのですが、この学校のコンピュータ教育とPowerPoint講義授業構築のおかげで数々の「目から鱗」的体験を今もしています。
データベースには無限に情報があるし(当然、真偽を確かめなくてはならないが…)次々に沸いてくる「何で?」をある程度簡単に調べることができる。様々な分野の専門家の知識がリアルな映像と共に吸収できる(とは言えその時点での個々の脳力にも関係してくるが)。
こんな時代に専門学校の授業では何を教えればいいのか? それが最初の壁でしたが。
ディスクブレーキパッドの交換作業実習においてはどこまで知識が理解されているかの確認、もしくは知識を思い出すためのキーとしての役割なのではないかと思います。
パッドを見たらパブロフの犬のように無性に交換したくなる、兵隊のような技術者を養成しているわけではないので、大事なことは、パッド(やディスクロータ)に対する知識。技術者として必要な知識(原理、種類、材質、特性、機能、付随部品に対する知識など)が必要。
そこが理解できていないとまともなパッド交換はできない。開発を目指している学生以外はこれぐらいの理解でいいと思う(もっともそういう学生は自らハイパーテキストするだろう)。
しかし、このような内容は教科書には詳しく書かれていない。これを知ったらたかがディスクパッド(と一般には思われているだろう)という物がものすごくおもしろいものに見えてくるのではないだろうか。
教えるほうも楽しいし、教わるほうもおもしろい。興味を持てば自分から調べるようになるだろうし。本当の意味での学生になれる。卒業して就業していても、お客様との会話もおもしろい。職場でのコミュニケーションにも使える。ちょっと期待しすぎかもしれないがそういう可能性もあるなと。
我々が学生だった頃は教科書ベースでの授業。スクリーンがあってもOHPぐらい。それに比べれば学生(生徒)も教員ももっとおもしろい授業ができるはずな時代だと思っていますが日本の教育は相変わらずな状況なのはどうしてなんでしょうかねぇ。
このままだとこの国は滅びますよ。
1995年8月に、すでにこんな情報リテラシー論が学内で議論されていたというのは驚きです。
驚きの理由はふたつあります。
ひとつは、 Windows 95日本語版の発売(1995年11月23日)よりも前、つまり日本国内でのインターネット普及よりも遙か以前という状況であったこと。もうひとつは、13年も前にこれだけの議論を行っていながら、学内での情報リテラシーの普及は、なかなか進まなかったこと(1年ほど前まで、カルテの得点集計をノーツで自動処理していたのは、まだ私ぐらいだったことを思い出しました)。
しかし大学や他の専門学校に比べて、教材データベース、履修管理のデータベースがこれほどまでに充実している学校は絶対ないでしょう。全ての教員が少なくともパワーポイントにインターネットの豊富な教材を集約している学校は東京工科専門学校以外にはありません。
95年のこの議論が生きていると思います(私もこの議論に参加したかった)。