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 退職しました(その2) ― 「実習の専門学校」をどう考えるのか、どう考えたのか?(単位制の大学と時間制の専門学校、どう違う?) 2008年10月14日

「資格の専門学校」が躓きの石だったようにして(http://www.ashida.info/blog/2008/10/1.html#more)、「実習の専門学校」も私(たち)には問題の多いもののように思えた。

専門学校では、実習授業にかなりの時間を取っている。大学では単位数がカリキュラム全体の時間数(=科目数)を規定しているが(124単位以上)、専門学校では文字通り時間数(1年間に800時間以上:ここで言う「1時間」とは45分~50分のこと))がカリキュラム(科目数=科目配置)を規制している。

単位制では、実習授業は講義授業の半分の単位しかない。90分授業×15コマの講義科目は通常2単位だが、同じ時間数をとってもそれが実習授業であれば、1単位になってしまう。大学では実習授業を増やせば増やすほど単位数は減る。実習授業を増やしながら単位数規定を守ろうとすれば、科目数の増大(教室数、教員コマ数=教員数)、つまりコスト増を意味するため、いたずらに実習授業を増やすわけにはいかない。

なぜ実習授業は講義授業の半分の単位数しか認められていないのか。INPUTの生産性が、実習授業では半分以下に落ちるからである。あるいは講義授業に予復習(時間外勉強)はつきものだが、実習では授業〈時間〉中心の学習になるという点も単位数が軽薄になる理由になっている。要するに大学の単位数は授業における知性(インテリジェンス)の度合いを評価している。

これは、〈知性〉か〈実際(リアル)〉かという選択の結果ではない。大学生にもなれば、(子供じゃないのだから)〈知性〉自身に〈実際(リアル)〉を感じないようでは勉強したことにならないという原則が貫かれている。それは〈近代社会〉の原則でもある。(IT社会)ではますますそうだ。

さて、年間平均で言えば、8科目程度(90分×30週×8科目)の「講義」授業を履修すれば、124単位以上の卒業履修が大学では可能になるが、専門学校は時間規定の規制しかないため、年間800時間をクリアしようと思えば、年間13科目から14科目の履修が必要になる。

この差の基本は、結局のところ実習授業の多少に関わっている。総科目数8科目の授業で、そのうち実習授業を含むということではほとんど用を足さないからだ。しかし、専門学校では全ての授業を実習授業にしてもよいし、全ての授業を講義授業にしてもかまわない。国交省や厚労省関連の資格「認定校」の場合は、講義・実習の時間規定が存在しているが、それ以外には「講義」「実習」のしばりはない。「単位」ではなくて「時間」がすべてだ。専門学校が「履修」ではなくて「出席」重視のマネージメントに走る原因の大きなものがこの「時間」主義にある。

専門学校生が大学生より忙しそうに見えるのは、専門学校が単位制でないからだ。講義(実習ではない)の生産性に欠けている分、専門学校生は忙しい。

大概の場合、専門学校の授業は実習授業を中心に構成されている。その理由は、二つ。

1)大学的な「講義」に耐えられない学生が多い。
2)大学的な「講義」に耐えられない教員が多い。

1)の場合「大学的な『講義』」とは、この場合、教材がないという意味である。学生にとっては、ひたすらノートを取る授業という意味。専門学校生の場合、ノートを取ることの出来る学生は全体の2割もいない。大学の学生もこの傾向は強くなっており、その分純粋な講義がなくなり、講義でも実習でもないPBL(Problem Based Learning)型授業が増えている。PBLは講義授業が成立しない(学生要因のみならず、教員要因でも成立しない)大学教育の衰退のあらわれでしかない。

2)の場合は、4単位(90分×30週分)の授業の中身が一切の設備教材なしに構成されている授業。少なくとも400字詰め原稿用紙で500枚くらいの論文(薄めの一冊の書物)が書けないと講義には立てない。要するに教科書を自分で書けるのが大学の教員でなければならない。

この場合、〈論文〉というのは、比喩にすぎない。〈書く〉という出来事は、現実の秩序を観念的に圧縮して再構成する能力そのもの。この能力が実務経験しかない教員には決定的に欠けている。

教育の時間は、人工性そのもの。カリキュラム(講義や実習の進行)というのは、現実の過程そのものではない。〈書く〉こと(の時間性)がそうであるように。大学院の訓練が大概の場合、書く訓練であるのは、講義の能力を身に付けるためだ。

教育の時間性は現実の過程そのものではないが、しかしその進行の中に現実の全過程を反映させなければならない。その反映力を教育力と言い換えてもいい。有限な時間の中に現実の無限性を閉じ込めたもの(圧縮したもの)がカリキュラムであり、授業時間というものだ。学校の〈校門〉は、そういった独特の時間性(観念的な時間性)を表象している。

それは〈社会〉から(あるいは実務から)〈学校〉が閉ざされているということではなくて、〈校門〉の内部に世界そのものを遺漏なく反映させようという教育の根源的な欲望を表現している。〈学校〉はそれ自体が〈世界〉でなければならない。

大学でも、実務経験者を講師や教授に取り込む動きがあるが、大概の場合失敗している。その理由は書けない教員は講義教育力が決定的に欠けているからだ。

実務家の教員採用は、大概の場合、自慢話(経験話)をして終わる。最初のうちは学生に“受ける”が最後には「またか」で終わる。これは実務上がりの専門学校教員の運命と同じ。彼らには〈学校〉に〈校門〉がある意味がわからない。事実、大概の専門学校には〈校門〉がない。

実務の延長で実習教育が拡大する傾向があるのが専門学校のカリキュラムの特長。これは「資格の専門学校」と並んで「実習の専門学校」という内外認知と一致する。「時間」しばりしかなく、教員資格も緩い専門学校の一般的傾向だ。

実習や実務教員にこそ、専門学校の特色があると豪語する経営者もいるが、どんな実習やどんな実務教員が専門学校の特色を形成しているのかと聞き返すと何も応えない。豪語は事実をなぞっただけの居直りに過ぎない。規制の緩さを本来の「民間の力」に変えている専門学校経営者は少ない(ほとんどいない)。規制の緩さはそのまま教育力低下(色々な意味でのコストダウン)に繋がっているのが現状だ。

私の認識では、〈資格〉と同様、〈実習授業〉も専門学校の教育力が社会認知されない大きな要因になっている。

われわれは、98年の改革取り組みの最初に、わが学園の4校の授業を50くらい見て回ったが(そのほとんどが実習授業)、その時に露見した実習授業の問題点は以下の諸点。

1)同じ授業の同じ時間の同じ教員の同じ学生の授業でも、作業の進捗がバラバラ。みんな別のことをやっている。終わりかけている学生もいれば、ほとんど何も進んでいない学生もいる。

2)時間毎の目標が明確ではない。また履修判定も何を持って合格かの基準が明確ではない。講義授業の履修判定さえ曖昧なのだから、実習授業の合否判定はもっと曖昧。目標と判定が明確である授業もあるにはあるが、大概の場合それは単純作業やトレーニング成果の合否判定に留まる。大学ではTA程度が行える実習授業を、専門学校では「先生」と呼ばれる人たちが「講義」の「先生」と同じ扱いを受けてやっている。そして高度実習ではプロセスも目標も曖昧なままに留まる(出来る人間だけが出来る)。どこかおかしい。

3)進捗のばらつきを「個人差」(個人の素質の差)と考える教員が多く、進捗のばらつきを教育的に問題視する教員がほとんどいない。

4)実習授業に知識要素と実習要素が混在しており、〈実習〉から〈知識〉、〈知識〉から〈実習〉の組み立てができていない。効果的な実習の位置づけができていない。この混在は、一つの実習授業の中に留まらず、講義と実習という授業間でも存在している。何を実習で再認するために実習を行うのか(知識の強化)、講義(知識)では補えないどんな実習要素(知的な感覚)を学ばせるのかが明確ではない。依然として〈技能〉教育に留まっている。〈技術〉教育ではない。職業訓練校以下の実習授業しかできていない。

5)実習設備(設備教材)は存在しているが、その設備教材を活かす教材(説明や手順を示す教材)が足りない。したがって少しでも見過ごしたり、聞き逃したりすると付いていくのが難しい授業になっている。脇目もふらないまじめな学生であっても作業能力の遅い学生はついていけない。つまり授業プロセスを再現する教材に乏しい。一度躓くと最後まで付いていけない授業になっている。

実習のような一回的な体験こそが学びの中心であるような授業こそ、再現性の高い教材(説明テキストであってもいいし、実物であってもいい)を用意する必要がある。極端に言えば、その実習授業に出なくても、そのテキストを読めばわかったような気になるほどの再現性の高い教材が必要になる。「もう実習なんか要らない」と言えるほどの教材を揃えてこそ、やっと一つの実習が生きる、という感じだろう。そうでなければ、教員の教えたいことの2割も学生は学べない。

講義では「練習問題」が授業の前後に(授業のまっただ中でも)存在しうるが、〈時間〉に追われる ― また空間=場所に制約を受ける ― 実習では、そういった〈中間地帯〉を用意するのは難しい。

特に助成金のない専門学校で実習教場に〈中間地帯〉の実習設備を設けるのはほとんど不可能。カリキュラムで工夫するほどのコマ数を余分に持ち込むコストもかけられないのが現状。稀少時間の中で実習目的を完遂するためには知的な再現教材を用意するしかない。それが専門学校の実習授業にはほとんどない。大概の専門学校実習教員は、実習教材とは設備教材のことだと勘違いしている。

6)専門学校の実習教員は、実習過程を、実務過程を矮小化したものと考えている。実務>実習。両者はむろん同じものではないのだから〈学校の学び〉は〈実務の学び〉よりも貧弱なものと考えている。こういった教員によって実習を学んだ学生は、実社会に出て半年もすれば学校で学んだことは何だったのかと思い始める。学校の実習の陳腐さに気付くからである。実際に働き始めて学んだことがどんどん摩滅していく。半年もすれば、アレは何だったのかということになる。

これは結局、教員が経験したこと(大なる実務→小なる学校)を学生が再び経験しているだけのこと(小なる学校→大なる実務)である。教員も学生も、自分が教員であること、学生であることに誇りを持てていない。要するに学校でしか学べないことが何であるのかが(教員が)わかっていない。

7)「学校でしか学べない」こととは何か。それは通常、「基礎」教育とか、「体系的」な教育と言われるものである。

この場合、「基礎」教育というのは、程度としての、たとえば「初級」「入門」教育なのではない。技術者として、あるいは職業人として一生を支える何かをつかませる教育である。

なぜ、専門学校の実務教育は、基礎的で体系的な教育が出来ないのか。

専門学校の教員は、実務経験者が多い。大学の専門教育を受けていない教員も多い。また大学の専門教育を受けた者でもトータルな教育は受けていない。ゼミの試験はあるにしても4年間の教育成果を問う卒業試験がないからである。わずかに大学院に進む者が体系性の片鱗を問われる試験を受けて進学するが、大学卒も結局のところ、大学で学んだことを活かして実務能力を身に付けている者は(ほとんど)いない。

専門学校教員の中では実務経験を競う者が多いが、それは一体、何を競っているのであろうか。

たとえば、整備の実務を遂行するのに、自動車とは何かを理解することは「実務的に」必要なのか。言い換えれば整備の「基礎」や「体系」などというものを整備の「実務」で学ぶことなどほとんど不可能だろう。また「建築の実務家」などは実際には存在せず、設計、構造、施工などと実務は専門分離しており、設計の実務家は実際のところ構造計算を構造屋さんに任せたりもする。そして専門学校の建築系教員は放っておくと街の設計事務所からあぶれた人ばかり(「口のうまい人」ばかり)が教員になり、その人たちが構造や施工を教えることになる。情報系の場合でも、プログラマーの実務家はいつまでたっても(何年実務経験を重ねても)プログラマー止まり。設計の仕事をできるかできないか(アーキテクトになれるかなれないか)は、経験の差ではない。プログラマーの世界も実務的な分業に満ちている。

結局、(実務的には)やったことのないことを学校では教えなくてはならない事になる。

そういった意味では(=ある意味では)、〈実務〉は断片にすぎない。その意味での実務経験者をいくら集めてもそれだけでは〈基礎〉教育はできない。

8)最後に、これは、すでに先のプレ議論で触れたが(http://www.ashida.info/blog/2008/10/post_301.html#more)、 実習主義の単純主義の問題。

たとえば、ブレーキパッドの交換という技術でわが校東京工科専門学校「自動車整備科」の技術教育の成果を“表現する”ことはほとんど不可能であり、そのことの意味はブレーキパッドの交換が先に言った「断片」だからということではなくて、まさに〈実習〉だからということ。

この意味での実習的実際(実習的実務)は、ある意味で“単純なもの”だ。ブレーキパッドとは何かということを語らせれば、十人十色の答えが返ってくるだろうが、ブレーキパッドを“現実に”交換することになれば、その成果の優劣で先の認識(ブレーキとは何か、ブレーキパッドとは何か)を表現することは不可能である。それは単に不可能なだけではなく、実習のうまい者がその内容を説明するのに下手であったり、実習の下手な者が逆に説明は上手であったりと逆のことも起こりうる。

「できる」ことと「わかる」こととは別なのである(また「できる」目標を「わかる」「知る」目標よりも単純に上に置くことも出来ない)。このことを専門学校関係者は、だから「できる」ことが大切だと言ってきた。「頭でっかちな人間を作ってもしようがない」と。これが「実習の専門学校」の時間主義(大学の単位主義と区別された)を形成している。

結果的には、この時間主義は実習の単純主義を認識の単純主義に変質させ、教材開発、カリキュラム開発に無縁な専門学校の元凶になっている。

おそらくどんな〈現実〉も一つの認識やイメージを再現するためには不十分なものである。私がこうやって、私の認識を開示しているときにも、人々が使うのと同じことば(ことばの“現実”)を使っている(=行動している)という意味では単純すぎる。

 たとえば、消費税とは何か。そしてそれに反対するか、賛成するかという“実践的問題”があったとする。行動(現実)としては、2値(あるいは3値)しかないが、それについての認識はほぼ無限にあるだろう。その中には経済学者の認識や中小商店主の認識、消費者の認識、あるいは何も考えていない人の“認識”も含まれるに違いない。しかし結果(行動)としては「反対」「賛成」「わからない」にすぎない。単純だ。

〈政治家〉がなぜバカにしか見えないのかと言えば、彼らはいつでも「賛成」「反対」という行動(実行)の場にさらされていて、ある種の単純性を免れ得ないからだ。逆に言うと単純性の重み(きつさ)を知っているのが〈政治家〉だと言えるかもしれない。おそらく認識の多様性(総体性)が行動の単純さに解消するのに耐えられない者が〈学者〉であるとも言える。

 しかし専門学校は〈政治家〉を作るわけでもないし、〈学者〉を作るわけでもない。重要なことは、現実の〈単純さ〉に紛れて、認識もまた単純でいいというある種の実践主義(実習主義)をさけるべきだということ。
パッドの交換は、ブレーキやパッドの本質を理解しないでも「できる」。それはちょうど消費税の本質を理解しないでも、それに反対したり、賛成したりすることが「できる」のと同じこと。10年費やして消費税の認識を持つこと、その結果「反対(賛成)する」者と何も考えないで「反対(賛成)す る」者とは“目で見える”行動(実際)の水準では区別がつかない。

この種の区別の付けにくさに専門学校職業・実務教育は甘えてきた。パッド交換が実際に「できる」ということは車とは何かの「全体」に必ずしも結びつかないが、ブレーキとは何か、ブレーキパッドとは何かを教えることは「全体」に直結している。パッド交換の実習教育とブレーキの本質を教えることの本質教育という意味でいえば、後者の方がはるかに高度な教育の形態が要求されている。

それは〈実習〉を放棄することではない。その高度な認識を高度な実習に結びつけるときにこそ、「実習の専門学校」が生きると言える。学校の実習2年間よりも実業人になってからの半年間の方がはるかに実習的である、というような反省を繰り返さないためにも、認識と実習との結合に充分に配慮された教材とカリキュラムが必要なのである。

認識と実習との結合とは、ブレーキとは何か、ブレーキパッドとは何かについてすぐにでも1000字以上は書ける教員に実習を学べるかどうかだ。要するに内容のあるシラバスに基づいた実習が出来るかなのである。当時の教員たちは、400字書くのさえ苦労していた。ほとんどの専門学校ではシラバスさえまともに存在していない。シラバスとは選択科目のある学校(大学)にしか必要がないとさえ思っている。

そもそも、車自体が「コンピュータ」化され「全体」的に存在するようになってきて、部分的な補修にあまり大きな技術を必要としなくなってきたという意味では、本質認識こそがもっとも実践的な教育であるような局面に現在直面しつつあるとも言える。それが近代的な技術の本質であるのだから。技能主義的な時間主義を捨てるべきなのである。

大学では、GPA(Grade Point Average)評価を持ち込み始めている。これは単位制自体を質的に差異化(序列化)しようというものだ。講義と実習の単位的な序列化以上に成績評価を加えようというものである。その分、成績評価の透明度も高めようとしている。

大学が、授業時間→単位制→GPAと展開している一方で、専門学校は未だに「実習の専門学校」=「時間の専門学校」に留まっている。「時間」の無政府主義が未だに続いている。これで大学に勝てるのか。これで良いのか。

以上、約8点が当時のわたし(たち)の認識だった。結局、実習カリキュラムが作れなかったのである。

カリキュラムが作れないというのは、単に「資格の専門学校」(http://www.ashida.info/blog/2008/10/1.html#more)、低次の資格教育しかできない「資格の専門学校」だったという問題だけではなく、実務教育、実習教育自身が持つ矛盾の問題だったと言える。

〈講義〉が出来る教員がいない。講義授業中はみんな寝ている。実習は単純なトレーニング実習しかできない。実習作業に「必要な」知識が実習中に与えられるだけ。講義との連関がない。しかも指摘5)の「中間地帯」(再現教材)がないため、実習参加の度合いにでこぼこが大きすぎる。その上、そのでこぼこは「中間地帯」(再現教材)の不在の問題ではなく、指摘3)の「学生の素質」問題にすり替えられる。課題が課題にならない。

要するに、専門学校の学生は、偏差値(+SPI試験)だけで差別されているだけではなく、身体能力(身体素質)ででも差別されているということだ。専門学校の教員自身がそうしているのだから、専門学校生が救われる場所など社会的にはなかった、と言える。

たとえば、専門学校の大きなボリュームを占める情報系の場合、実務経験者(たち)はどんなカリキュラムを作るのか。

C言語もやる、JAVA言語もやる、PHPもやる、OSの勉強、ネットワークの勉強、組み込みの勉強もやる。データベース(オラクルやXMLなど)もやる。理由は「どれもこれも実務に必要だから」ということになる。これらを2年間の専門課程でやるとなるとほとんどどれも中途半端になる。この中途半端というのは、実際に社会人になって仕事をし始めると半年足らずで摩滅してしまう程度ということだ。自動車整備のエンジン脱着実習と同じ程度ということ。

「JAVAだけではなくて、PHPもやっておいた方がいいですよ。その方が、実務的、実践的ですよ」などと専門学校教員は、「実務的、実践的」という言葉を使い続けているのである。

そもそもこんなカリキュラムでは何をやっても中途半端。学生が毎日、毎時間授業を受けることによって、自分が日々何かの専門家になりつつあるという実感はなにもわかない。

高校までの時間割カリキュラムのように、国語があり、数学があり、英語があるというのと大差のない授業が専門学校でも繰り返されることになる。それは大学でも同じだ。

元々その種の授業が嫌いな学生が入学してきているのに、再び“不幸”が繰り返されることになる。

その“不幸”を表面上、避けるのが、多科体制、コース制、選択制である。「好きなことが出来るよ」。しかし本当に好きなことだけをできてその道の専門家になれるのなら、そのカリキュラムの総時間数は膨大なものになり、教員数も設置基準を超えることになるだろう。実際はそうではない。

情報系の専門学校は「情報処理科」「ネットワーク科」「セキュリティ科」「高度情報処理科」などと各科が並ぶが、中身はほとんど同じ。科名に関わる科目が相対的に10%(多くても20%程度)違っているに過ぎない。その程度では各科に分ける意味がない。本格的な専門分化は納付金収入が90%を超える(国庫助成のない=授業料収入しかない)現在の専門学校では不可能に近い。

大概の専門学校の多科、多コース、選択制戦略は、マーケティング重視の産物であって(「うちにくれば、何でもやれるよ」と営業が入学マーケットに言いたがる)、教育重視でもなければ、出口重視(企業要求)の結果でもない。

しかし、この現象は単にマーケティング重視なのではない。教員にC言語やJAVA言語を2年間教え込む専門性がないのだ。一つの言語を本格的に教えれば、本来の設計(アーキテクチャー)の仕事を教える必要がある。実装はもちろん、要求定義だけではなくシステム分析も必要になる。それはもはや「プログラマー」の領域ではない。そこまでやる教員は専門学校にはいない。専門学校の情報系教員はほとんどの場合「プログラマー」止まりだ。

多科になったり、一つの科でも何を教えたいのかわからないようなカリキュラムになるのは、実務の断片主義によって、実務教員が「深い」授業が出来なくなっているからだ。実習作業の退屈な(長い)時間が「先生」でいられる条件になっている。週8コマの「講義」を持たせられる教員は専門学校にはいない。

私自身は、30歳前半に大学の講義授業の教壇に初めて立ったが(http://www.ashida.info/ronbun/hosei001.htm)、1年間(4単位)の授業の1回目の授業でほぼ10年間の大学院に於ける専門研鑽がすべて吹き飛んでしまった。次週からは地獄のような一年だった。ひどい自己嫌悪に包まれた1年だった。要するに勉強が足りないのだ。1年間の講義授業(4単位)を行うには1000枚くらいの論文が書けなくてはならない。

実務教育、職業教育というのが難しいのは、実務の教育性の本来的な部分の人材が企業の方に存在しており、学校側にはトータルな過程を再現できる人材=教員がいないということである。人文系はもちろんのことだが、理工系も大学には「研究」という言い訳があり得るが、専門学校が実務教育を標榜する以上、実務>教育になる。この図式である限り、専門学校実務教育とは、実務の脱落者教員による教育でしかない。

実務を全うした教員はもはや旬の勢いを失っているし、若い教員は何らかの実務上の挫折を味わっている(もちろん「挫折」も教育上のネタには充分なり得るが)。「実務教員がいる」ということは専門学校の実務教育の特長を形成しているのではなくて、むしろ躓きの石とさえなる危険性を有している。

だから、4年制の「高度」課程を作っても「インターンシップ」か、ビジネス系の授業(「基本情報処理」資格対策やマネージメント系・コミュニケーション系)の科目を追加してごまかすことになる。情報処理本来の科目には何も変化がない。2年課程と変わらない。水ぶくれの「高度情報処理科」でしかない。最後には「2年課程よりもじっくりと学べる4年『高度』課程」などと居直り始める。上に伸びない。横に広がっているだけなのである。「じっくり」などと言うと横にも広がらない。復習の毎日のようなカリキュラムだということになる。

偏差値50以下の学生を「勉強が出来ない」と毎日なじりながら、教員自身が高度なことを教えられない。

最近の高等教育人材論には「コミュニケーション能力」、「プレゼン力」、「問題発見・解決力」などのテーマがあふれているが、これは怠慢な教育現場から言うと渡りに船。まともな専門教育ができない大学や専門学校教員は自分が自分の専門の勉強やその教育方法の勉強をしないでも済むこの種の一般教養論に逃げ込んでいる。大した専門教育など出来ないだろうという企業人事部=総務部の見下した評価にそのまま乗っかっているのである。人事部自身が文系出身者に侵されている(つまり大学で学んだことを活かす職種ではない)ということもあるが、最近では経産省でさえこの一般教養パーソナリティ論に侵されている。

専門学校の教育が社会的信任を得るためには、実習教育と実務教員のあり方を根本的に問う必要があったのである。

まだまだ、私(たち)はあきらめてはいなかった。


※この問題意識に立って、私が2000年以降、授業評価を行った記録は以下→http://www.ashida.info/blog/cat14/

※この項:「『実習の専門学校』とは何であったのか」終わり。次項:「改革の本丸」に続く

(Version 3.2)

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