「コピペ」は本当に悪いことなのか ― NHK『クローズアップ現代』の視点は不毛(小樽商科大学、金沢工大、茂木健一郎、野口悠紀雄、斉藤孝、みんなバカなことを言っている) 2008年09月02日
今日1日のNHK『クローズアップ現代』はばかげていた。テーマは、「コピペ ― ネットの知とどう向き合うか」。「コピペ」が学生レポートを軽薄なものにしているというものだった。自分で考えて書かずに、ネット上の文章を切り貼りしたものをレポート提出されて困っている(教員が)、というものだ。
バカなことを言ってはいけません。学生がレポートをまともに書かないのは、教員自身がそのレポートをまともに読まないからです。そして先生が困っているのは、いい加減に読んでいる限りはコピペかどうかを判断できないから「困る」と言っているだけです。だから原因は学生の方にあるのでもネット社会の方にあるのでもなく、先生自身がまともに学生を評価しようとしていないことにある。
そもそもレポート提出というのは、教員にとってもっとも簡単な評価法。先生は何もしなくてもいいのですから。ところが、この手抜きの評価法もネット社会によって、少しは真剣に読まざるを得なくなった。場合によっては先生自身がだまされることが起こってきた。要するにレポートを真剣に読まないと本物か本物でないかを見分けることができなくなってきた。それで「困る」と言い始めた。それだけのこと。要するに教員は何もやりたくないのです。何も考えていないのは、学生ではなくて教員の方です。
このレポートで「困る」と言って登場したのは、小樽商科大学 江頭進教授。専攻は経済学史。この教授は困ったあげく、レポート提出を止め、「学生同士の討論による授業」をやり始めた。これも手抜き授業の典型。先生は教室の後ろで座って授業の様子を見ているだけ(ときどき思いつきのコメントを投げつけるだけ)。まともな講義ノートを書く必要が全くないのがこの種の授業モデル。
講義で学生に授業を聴いてもらえない、レポート(宿題)で学生をいじめられない先生や学校が最後にやり始めるのが学生参加型の授業。先生が何もしなくても学生同士で盛り上がっている。少なくとも従来型の授業に比べて学生は寝はしない。先生も手を抜ける、学生は楽しんでいる、いいではないか、というのが、ここ数年の大学の教育改革モデルの主流。私がここ数年審査を続けた「特色GP」(http://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/kaikaku/gp/003.htm)の申請のほとんどはこの種の取り組みで占められている。
そう思いながら、テレビを見ていると今度はあの金沢工業大学の杉光一成教授が出てきた。この教授は、学生のレポートの引用情況を自動的に判別してくれるソフトを開発中という。そのプログラムに学生のレポートテキストを落とすと引用箇所が自動的にマーキングされて「引用率69%」などと出てくる。
この教授がやっていることは、小樽商科大学の江頭が「困る」と言ったことをさらに発展させているに過ぎない。要するに、いかにレポートを真剣に読まないで済ませるかを追求しているに過ぎない。〈教育〉をどんどん放棄することを国の予算を使って“研究”している。バカじゃないの(失礼!)。
(教育者としての)教員の仕事を評価する最も簡単な方法は、その教員がどんな方法を使って学生評価をしているのかということ。つまり学生のOUTPUT=OUTCOMEを測るノウハウをもっているかどうかが決め手。
教員とは〈教える人〉ではなくて、〈問う人〉(問いの専門家)だということをわかっていない。どんなにトークがうまくても、どんなに板書がうまくても、どんなに教材作りがうまくても、どんなに授業が盛り上がっていても、最終的にどんな仕上がりに学生をもっていくのか、またその最終的な仕上がりをどんな方法で確かめるのか、そこが曖昧であれば、全ての教育法改善は宙に浮いてしまう。
小樽商科大学や金沢工大のような偏差値の低い大学の教員がやるべきことは、「コピペ」を嘆くことではなくて、レポート提出(やポートフォリオ教育)しか学生をいじめる術を知らない学生評価法を転換することなのである。
そこがわかっていない。
もう一つ。この番組のコメンテーターはあのクオリア理論紹介者の茂木健一郎。彼もまた「苦労しないで得た知識は身につかない」などと“普通のこと”しか言っていなかった。その上、野口悠紀雄の「コピペも悪くはない。要は使い方」。最後には斉藤孝が出てきて「三色ボールペンを使って紙片に書き込まないと頭には入らない」とそれぞれ勝手なことを言って番組は終わっていた。
何だ、この番組は? と怒っていたのは私だけではあるまい。
IT技術の成果である「コピペ」は単に人間の能力の一部が反映したものに過ぎない。そもそもすべてのIT技術は人間の経験(人間的な経験)のノウハウが反映したものに過ぎない。ワードもエクセルも数々の(超優良な)人間のノウハウを一般化したものに過ぎない。なぜそんなものをわざわざ三色ボールペンを使って陳腐化しなければならないのか。
そもそも研究者の論文とはコピペ(=引用)でしかないではないか。むしろ参考文献の多さがその論文の価値を決める、と思い込んでいる論文審査が多いのだから、そんな先生達に「自分の頭を使わないでコピペするのは困る」なんて言われる筋合いはない。
私の研究者時代なんて、ちょっと気の利いた文章を自力で書くと、「芦田君、このことって文献、何から引いてるの?」と何度も聞かれたくらい。また私が参照文献の一切ない論文を(わざと)仕上げたときにも教授達の紀要審査会で問題になったくらい(最後には通ったが)。大学院では良いアイデアは大概の場合、「コピペ」だと思われている(苦笑)。そもそも修士課程も博士課程も言ってみれば「コピペ」の技法を見倣うところなのだから。
研究者は実際読んでから引用しているのだから、学生の「コピペ」とは根本的に異なる、などという声が教授達から聞こえてきそうだが、引用論文数の数だけを上げるための形式的な引用は昔から(ネット技術以前から)捨てるほどある。それは学会の日常的なあり方だ。学生の「コピペ」を批判する教授達の傾向はむしろ近親憎悪とも言える。
大学が膨大な助成金を国家からもらってやっていることは、自由な「コピペ」文化を大衆的な規模で実現するためのもの。
学者の仕事の中核は「翻訳」。よく、翻訳ばかりやって、ろくに自分の思想も持たないくだらない翻訳学者、というレッテルを貼る輩もいるが、それは大きな間違い。翻訳を何一つやらずに未邦訳の文献を使って自分の意見しか書かない研究者の方がどれだけたちが悪いか。
まずは世界的な水準の研究を自国文化に馴染ませることが研究者の仕事。研究者がたくさんの文献をこなすのは正確な翻訳をするためのこと。その翻訳が多数の自国読者(特に新しい世代の新しい読者)を生み、たくさんの読解=解釈を生み、そのことによって底辺文化が広がり、その結果、研究水準全体が上がっていく。それが大学教授を国民が税金で養っている理由。
教授=研究者達はなぜ「コピペ」文化を嫌うのか。その理由ははっきりしている。ネット文化の方が自らの旧式の文献研究をはるかに飛び越える可能性があるからだ。場合によっては、学生達の方がはるかに有益な文献を探し出してくる可能性がある。
だからこそ、先生達は「コピペ」を「困る」と言うのである。それは学生が「頭を使わない」こととは何の関係もない。NHKさん、取材が足らないよ。
(Version 2.2)
※このブログの今現在のブログランキングを知りたい方は上記「教育ブログ」アイコンをクリック、開いて「専門学校教育」を選択していただければ今現在のランキングがわかります。
この記事へのトラックバックURL:
http://www.ashida.info/blog/mt-tb.cgi/951
私はビジネスマンですが、ある機会に大学生に連続シリーズで講座を持ったことを思い出しました。
そこで感じたことは、「講義って大変だなあ」「ディスカッションは楽だし盛り上がるなあ」ということでした。後ろめたさを感じて、自分には教員は無理だと痛感しました。
でもビジネスも同じかもしれません。ブレストは楽ですが、目標を具体化して心から理解させるのはすごく難しい。
そうですね。
大田さんの判断は正しいと思います。職業人大学院などを初めとして、最近の大学、大学院などでは、実務家講師が増えていますが、大概の場合は失敗しています。
その原因は二つあります。
1)知っていることと教えることとの間には千里の径庭があるということ。
2)実務家の知識はえてして経験的(断片的)なものが多く、カリキュラムや体系的な教育に馴染みづらいということ。極端に言えば、講義を始めて2,3ヶ月経つと、その後は自慢話ばかりが目立ち、数週間で学生に飽きられるということ。
以上であるが故に、実務家教員はレポートや明確な目標のない質問・討論・発表授業に走りがちなのです。困ったものです(苦笑)。
非常勤で大学生に情報関連の講義をしているものです。
芦田先生が仰っている学生評価法を転換すること、教員側の姿勢という点はなるほどと思いました。
ちなみに芦田先生は具体例として、試験やレポート、ディスカッション(これは自分も苦笑して観ましたが)以外に、或いはそれらをどのように捉えなおす評価方法を考えられますか?
抽象論ではないお考えを聞かせていただければ嬉しいのですが・・
「抽象論ではないお考え」はすでに何年も前に以下の論考にまとめてあります→ http://www.ashida.info/blog/2004/06/hamaenco_4_53.html
かなり前のブログ記事のようですので、問題のクローズアップ現代は記憶にありませんが・・・。
たぶん、問題は剽窃ということではないかと思います。
研究者の論文は出典を明記しますが、学生のコピペはまるで自分の意見のように書いてしまうところが問題なのではないでしょうか。
アメリカでも金沢工大の先生と同様のシステムが開発されています。やはり剽窃が多いためだろうと思います。
アメリカでは大学の講義の初年次教育として、まず剽窃について厳しく指導されます。にもかかわらず、コピペする学生が多いのが現実のようです。
(貴ブログを最近見付けました。教育に興味を持つ主婦です)
社会人です。
そもそも「学校」とは生徒が積極的に学ぶ場(=知識を得る、思考力を育てる場)だと思います。
研究論文をただコピーしているのは、提起された問題について思考出来ていないということではないでしょうか?
さらに、研究者自身に許可を取らない論文のコピーは「盗作」でもあります。
芦田先生は、どういう理由で「コピペ」が真っ当なことだと思われているのでしょうか?
>学生がレポートをまともに書かないのは、教員自身がそのレポートをまともに読まないからです。
このように学生の怠慢を正当化し甘やかすことで、各人が持っている資質が健全に成長する機会を失っているとしか思えません。
芦田先生は、この問題について実際に調べられたのでしょうか? ただの偏見と思い込みで声高に主張されると、子どもたちが習得すべき社会常識までゆがめられるのではと不安を感じます。
1)学校が「生徒が積極的に学ぶ場」であり得るのは、教員がそれ以上に自己研鑽を積んでいる場合にのみ可能なことです。
2)「研究論文」もまたコピペで成り立っているものがほとんどです。学生の書くものだけがコピペ論文であるわけではありません。
コピペでない「研究論文」もありますが、それは学生の論文がコピペでないものもあるのと同じです。そもそも修士課程も博士課程も、コピペの技法を学ぶための場所です。
3)「研究者自身に許可を取らない論文のコピーは「盗作」でもあります」。これは正確には間違っています。コピペ(=引用)には著者の「許可」はいりません。引用したことを明示する必要があるということは言えるかもしれませんが。
しかし、大概の場合、学者も本当に依存している著作の内容については巻末の文献表にも入れたりはしません。
学者はコピペが上手なだけで、コピペをやっていないということではありません。学生はコピペが下手なだけです。
※全般にあなたの言いたいことはわからないわけではありませんが、私はあくまでも教育関係者側の立場に立って発言しています。「学生の怠慢」なんてことを私が言えるのは、私が親の立場でなら言うかもしれませんが、教育側では絶対に口にしてはならないことです。「学生の怠慢」は、私の立場では、「教員の怠慢」と同義です。
ついったーで生暖かく晒されていたのでやってきました。
「研究」「研究」と繰り返していますが、それって文系の「研究(笑)」のことでしょ?
本物の研究は、「コピペ」なんかでできるわけないじゃないですか。
たとえばSPring-8での結晶構造解析を誰がどうやってコピペするんです?
この投稿が公開されるとは思えませんが、あまりにひどかったので一言だけ書き込んでおきました。
ツイートから飛んできました。
院生として教壇に立った経験もあり、これから大学教員を目指して就活に入る身として、耳が痛く、また肝に銘じる内容で勉強になりました。
それにしても、ツイッターでもそうですが、自分の固定観念を覆すような意見を見てまるで全人格を否定されたかのように脊髄反射する人って多いですね。まずは論の本質を読み取り租借してから反論できないものか。
理系でなければ「本物の研究じゃない」とか思い込んでる人などは論外。自分で言ってて恥ずかしくないのかな?