金メダルと国家 ― なぜオリンピックは人を国家主義者にするのか 2008年08月24日
「やはり金メダルは美しい。なぜ人は勝ちたいのか。それは苦労話を手放しでしたいからだろう。負けた者の苦労話など誰も聞きたがらない。苦労話もまた美しくなければならない。上野由岐子の右手の中指はぼろぼろになっていたが、それでも美しく見えた」と私は先の記事(http://www.ashida.info/blog/2008/08/post_293.html#more)に書いた。
そのついでにこんなことを考えた。なぜオリンピックの選手たちは、ろくに日本史や日本文化、そして国家=日本を考えたこともないくせに(失礼!)、金メダルの国旗掲揚と国歌斉唱でしんみりとなるのだろうか。
もちろん彼ら・彼女らは世界的な水準の競技者であるがゆえに、世界戦を転戦し、その意味で文化的な差異を実感し、否が応でも比較文化論的な国家主義者になっているに違いない。
しかしその種の国家主義は『国歌の品格』(藤原正彦)レベルのものに過ぎない(http://www.ashida.info/blog/2006/04/post_144.html)。くだらない国家=文化論だ。
オリンピック選手たちは、誰にも言えないほど努力と研鑽を重ねてきた。つらいつらい日々を4年間、8年間、12年間にわたって続けてきた。この世界大の努力はしかし金メダルというOUTPUT(OUTCOME)なしには“存在しない”。「つらい」ということの本来の意味は、他人(ひと)に話しても伝わらないだろう、という意味だ。
人は、つらさそのものがつらいのではなくて、そのつらい自分を誰も見ていない、そのつらさを誰かに話してもわからないだろう、ということがつらいのだ。宗教=神が弱さの表象であるのは、どんなにつらくても神だけはその私を見続けているという確信だからである。その意味で宗教者は真の孤独を知らない。キルケゴールの「不安」なんていい加減なものだ。
金メダル受賞者は、その孤独な努力を世界大の公共性の中で一気に発散させる。「つらかった」ということを誰にでもわかる条件で語ることができる。金メダルは強者の神なのである。
〈国家〉とは、絶対的に孤独な〈私〉ごと ― 金メダルを取ることができるような選手たちは絶対に他人にはわからないような(=伝わらないような)努力やつらさを一度ならず体験している ― を伝えたい、伝えうると感じられる他者との共同性の別名だ。
これは必ずしも楽しいことだけではない。アウシュビッツの体験もまた国家を意識せざるを得ない。これは負の金メダル、つまり伝えるべき憎悪の共同性である。こんなにも伝わりやすい不合理がなぜ伝わらないのか、という負の共同性である。ハーケンクロイツは、負の金メダルである。
この憎悪もまた、伝えうるはずだという前提がなければ憎悪にはならない。孤独な憎悪は憎悪にならない。憎悪こそ己の憎悪を組織化する。ユダヤ人レヴィナスが言う〈対面(face-à-face)〉とは、単に個別性の交感ではなく、それ自体が共同性の極致なのである。イスラエルほど国家主義的な国家はない。
人間は自分ひとりで自分の努力や憎悪を受け止めることができない。日の丸もハーケンクロイツも、その〈表現〉でしかない。というより〈表現〉そのものである。国家主義に反抗するあらゆる左翼思想が(必ず)挫折するのはそれが憎悪を組織化するからだ。それはもう一つの国家主義に他ならない。であるとすれば、国家の「こ」の字もわからないオリンピック選手の国家主義の方に人々が走るのは当然だ。左翼主義者もオリンピックの日の丸を見て泣いている。同じ国家主義者だからである。右左の国家主義が崩壊するとしたら自分の努力や憎悪を単独で担いうる時だけだ。そんなことが本当にできるのだろうか。しかし思想の課題はそこにしかない。
※関連記事:都立校君が代問題(http://www.ashida.info/blog/2005/03/hamaenco_5_30.html)
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