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 『幸せのちから』 ― 最近鑑賞した映画批評(一挙20本) 2008年04月27日

離婚の不幸は、母親(女)が子供を引き取る。貧乏の不幸は男親が子供を引き取る。そして貧乏は家族をバラバラにする。離婚より、貧乏の方がはるかに不幸。

父親が家族のために仕事を探すというのは、実は不幸そのものの事態だ。

子供が不幸を何も感じることなく眠りにつくとき、父親は誰にも知られないまま孤独に涙を流す。家庭の幸せは、父親の孤独を浮かび上がらせる。

久しぶりの自宅鑑賞映画批評です。DVDレンタルとBSハイビジョン(WOWOW)放映中心です。今回は80点以上の映画はありませんでした。


●『リトル・ミス・サンシャイン』(2006年) ― この映画は世評ほどには好きになれない
映画的ではない。随所にメッセージ性やメッセージを持ったこれみよがしな映像が前面化し、本来の意味で映画的ではない。

だからほどほどには感激するが(ついでに涙も少しは出るが)、でもなぁ、という感じか。家族をめぐる感動のドラマと言うほどではない。70点。


●『ボビー』(2006年) ― デミームーアとシャロンストーンのシーン!
この映画は評価が難しい。見方によっては、終盤へ至る80%までの“前半”がつまらないと言えばつまらない。最後の事実があるから我慢してみられるが、それがなければたぶん見ないだろう。

ただし配役陣は、何でこんな人がと言うほど大物揃い。しかも女優人がみんな美しい。デミームーアとシャロンストーンの掛け合いのシーンは、この映画の一つの山だが、私は最後までシャロンストーンかどうか分からなかった(情けない)。ただそれでも「うまいなぁ、この女優」という感じだった。このシーンを見るだけでも価値はある。68点。


●『ドレスデン、運命の日』(2006年) ― どれをとっても中途半端
なんだかなぁ。戦争映画でもなければ恋愛映画でもない。どちらかだとすると、どちらだとしても中途半端。映像も当時の実写フィルムとの質感の連続性を保持しようとするために、解像度も彩度もひどいものだ。史実としても中途半端だし…。70点。


●『デジャヴ』(2006年) ― 古典的なタイムマシン映画なのだが…
よくよく考えてみれば、単なる古典的なタイムマシン物語にすぎないのに、ここまでもっともそうに見せられるとそれはそれで納得する。トニースコットの腕かも知れない。

音楽も良かったが、最終盤ではなぜかなりを潜める。ラストシーンについては「つじつまが合わない」と言って批判する向きがあるが、もともとつじつまの合わない話なのだからそこを攻めてもしようがない。おもしろければいいいではないか。72点。


●『リベンジ』(1990年) ― ケビンコスナーがマデリーンストーを口説くためだけの映画
前半の展開と後半の展開のスピードが異なる。いつものケビンコスナーものと思って見ると前半は退屈この上ない。後半は盛り上がるが、それは前半の抑えた調子が効を奏しているのかもしれない。

しかしこの映画よくよく考えると、ケビンコスナーが人妻マデリーン・ストーを本気で口説きにかかっていると言えなくもない。その成果がこの映画か、その動機がこの映画か、よくわからないが、たぶん、この映画はケビンコスナーの私的な映画なのだ。観客不在と言ってもよいのかもしれない。こういった私的映画は、でもよくある(松方弘樹やロバートデニーロのように)。俳優っていいですね(苦笑)。70点。


●『みえない雲』(2006年)― こんな映画で原発問題を語る奴はバカだ
ドイツの若いカップルの、アメリカ映画とは明らかに異なるキスシーンがとても新鮮だった。70点。


●『トリスタンとイゾルデ』(2006年) ― 内容と映像が一致していない
映像は歴史物ふうなのだが、内容は悲恋もの。マッチしていない。それに脇役人が大物すぎて内容的な集中度にかける。68点。


●『プリティ・ブライド』 (1999年)― こんな映画、見てられない
こんな映画、ジュリアロバーツファン以外見てられないだろう(私も嫌いではないが)。少なくとも35才以上の“大人”は見てられない。

美しい人はいつでも不幸だが、こんな映画をわざわざ作ってもらうこと自体がさらに不幸だ。

28才くらいからこんな映画を見て「素敵!」なんていっている女性はいつまで経っても結婚できない。62点。


●『幸せのちから』(2006年) ― 家族の幸せは父親の孤独の上に成り立っている
離婚の不幸は、母親(女)が子供を引き取る。貧乏の不幸は男親が子供を引き取る。そして貧乏は家族をバラバラにする。離婚より、貧乏の方がはるかに不幸。

父親が家族のために仕事を探すというのは、実は不幸そのものの事態だ。

子供が不幸を何も感じることなく眠りにつくとき、父親は誰にも知られないまま孤独に涙を流す。家庭の幸せは、父親の孤独を浮かび上がらせる。

そんなことを考えさせる映画。しかし「幸せのちから」というタイトルはヘンだ。70点。


●『ワールド・トレード・センター』(2006年) ― 事実は小説よりも奇なり
あの悲惨な9.11の実話映画など、まともみに見ることなど普通はできない。二つのビルのどちらもが他のビルまで巻き込んで全壊するといい結末を知っているから、なおさらのことだ。

それに、主演がニコラスケイジ。幸せそうなときでも不幸な顔をしている、泣きっ面に蜂のようなニコラスケイジが主演だと聞いて余計に見る気がしなかった(それゆえに、はまり役だったと言えるが)。

そんなこんなで長い間この映画だけは見る気が起こらなかったが、いくつか取りだめしていた映画がことごとくつまらなかったので、仕方なく見ることになった。

ところが、この映画、世評ほどは悪くはない。特によかったのは、クレイグ・アームストロングの音楽。実話の重さを反映したかのような抑制した音楽が全編を目立たない仕方で被って“事実”を伝えるのにふさわしい仕上がりになっている。

オリバーストーンの映画は軽薄な正義感が鼻についていつも幻滅させられるが、今回はクレイグ・アームストロングの音楽でかなり助けられている。

この映画を見て思うのは、助けられた人の生命力(=精神力)もさることながら、助ける人の勇気。本来なら見たくも近づきたくもない惨状に果敢に向かう人たちの活動や心理を後半のわずかな時間ではあったがうまく伝えていた。単調になりがちな救出劇に少しばかりの厚みが出た瞬間だった。

それにしてもマイケルシャノン演じるカーンズ海兵隊軍曹の存在は、いったい何だったのか。この人物までもが「実話」の人物らしい。「事実は小説より奇なり」だ。78点。


●『ニュー・ワールド』(2005年)
まず、脚本がよくない。流れをつかむだけでも至難の業。それに解説っぽいメッセージがそのまま出てくるのも興ざめ。実話映画の悪いところばかりが目に付く。映像(カメラ)も、素材がいいにもかかわらず今ひとつ。音楽はさらによくない。なぜ、コリンファレルは、こんな映画に出たのか。45点。


●『グエムル -漢江の怪物-』(2006年)
ポン・ジュノは私の好きな監督の1人だが、「アメリカ帝国主義」に60年代の火炎瓶闘争で戦う映画だった。この映画の意味は、若い年代にはわかるまい。76点。


●『トンマッコルへようこそ』(2005年)
この映画は、韓国版の宮崎駿映画。しかも良質な部類だ。宮崎映画が好きな人には十二分に楽しめる。

久石譲が音楽を担当しているが、騒がれているほどには良くはない。でも映像もキレイし、脚本も悪くはない。おすすめします。78点。


●『ゾディアック』(2006年)
前半が退屈だが(事実を追いすぎ)、後半から終わらないで欲しいと思うくらいに盛り上がる、悪くはない作品だ。単なる殺人事件の犯人捜しというだけでもなく、それなりに事件に関わった人間達の表情も描けていた。独特な風情がある。さすが、デヴィッド・フィンチャー。80点。


●『あるいは裏切りという名の犬』(2004年)
アメリカ映画に毒されているせいか、フランス映画には入り込めないところがある。この映画もその典型。

特に景色も音楽も(そして俳優までもが)美しいのだが、ストリーがそれに付いていけない。音楽と風景だけを見ていたようなものだ。音楽と風景が盛り上がれば盛り上がるほど、そんな中身の映画だっけ? と白けてしまう。

それに銃撃シーンもさすがにハリウッド映画ほどの衝撃はない。“ハリウッドの”警察や刑事に比べれば、はるかに貧相。カメラも慣れていない。

ヨーロッパは、やはり遠い。68点。


●『カオス』(2005年) ― 音楽がサイコー!
ストリーも悪くはないが、トレバージョーンズの音楽がサイコー。音楽を聴いているだけで楽しい。80点。


●『世界最速のインディアン』(2005年) ― アンソニーホプキンスのはまり役
アンソニーホプキンスなしには考えられないほどにはまり役。この人の映画は『QB7』(テレビ映画)以来、印象的な映画が多かったが、この映画は、QB7以来のはまり役だった。文句なしに楽しめる。80点。


●『運命の女』(2002年) ― ダイアンレインがたまらない
ダイアンレインファンには色々な意味でたまらない映画でしょう。オリヴィエ・マルティネスの敵役がまたぴったりで、余計にたまらない映画になっている。リチャードギアが何のために出てきたのか、わからないくらいいい映画になっている。75点。


●『テキサス・チェーンソー』(2003年) ― 質の高いホラー映画(ホラー映画を超えている)
私はホラー映画好きではないが、この映画は二度と見たくないほどに怖い。内容そのものが怖い。監督マーカス・ニスペルは大したものだ。ポン・ジュノの『殺人の追憶』以来の怖い映画だった。80点。


●『ポワゾン』(2001年) ― 監督が女優を愛している
美しい女性は何をしても許されるということか。監督自身がアンジェリーナジョリーを好きじゃないと撮れない映画だった、と思う。70点。


●『バベル』→http://www.ashida.info/blog/2008/03/post_276.html
●『ロレンツォのオイル』→http://www.ashida.info/blog/2008/03/post_273.html
●『バンド・オブ・ブラザーズ』→http://www.ashida.info/blog/2008/02/post_262.html

(Version 3.1)


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感想欄

●同一記事でのミクシィ(MIXI)の感想

>Hさん 2008年04月27日 20:18

本文の本筋とは離れて恐縮ですが、芦田さんは、ヨーロッパ映画は、ご覧にならないのですか?

有名な、ゴダール、レネ、ブニュエル、タルコフスキーなど、哲学やる人が見ているような映画です。そういう映画の芦田批評を読んでみたいと思ったのです。もしそういう映画は関心がない、ということでしたら、その無関心の理由などのことを読んでみたいと思ったのです。

>Hさんへの返信  2008年04月27日 22:31
タルコフスキーやアンジェイワイダは昔よく見ていましたが、今は見ません。フランス映画は基本的に嫌いです。バカなくせに生意気なだけです。

そもそも「哲学やる人が見ているような映画」というのは、何を意味していますか。映画に哲学も何もないでしょう。

そんな意味でならタルコフスキーもアンジェイワイダも大したことないですよ。70点台くらいかな。

あなたの質問が意味を持つとすれば、自分が知らない映画よりは、有名な映画の方が私(=Hさん)にも関心が持てるという場合のみです。

それにそもそも映画で哲学を感じることなんてありますか。感じるとしたら、あなたの哲学や文学や思想の水準が低いのですよ(苦笑)。

あなた(たち)の最大の問題は、メジャーな王道の思想家や文学者を論じていれば、自分もメジャーになったように錯覚することです。

しかし私の「哲学」は、ウォッシュレットや携帯電話や掃除機を、ヘーゲルやハイデガーやデリダを扱うのと同じ文体で扱うことです。それが「哲学」というものです。

そもそも私の映画批評のスタイルをみればそれくらいのことわからなくてはならない。私は一切、(よほどのことがないかぎり)映画の内容に触れようとはしていない。それは映画についての私の哲学そのものです。タルコフスキーと(たとえば)相米慎二をなぜ区別(差別)しなくてはならない? バカを言ってはいけません。

追伸(1)
批評とは、ダメという場合にも一流、褒めるときにも一流という作法を持つことです。したがって、対象自体(の一流や二流)から自由でなければならない。

そもそも一流か二流かを歴史や風評から離れて解釈することを批評というのですから。「一流」や「二流」をなぞるくらいなら、わざわざ〈書く〉意味はない。そのことを私は〈古典〉から学びました。

追伸(2)
アンジェイワイダの『灰とダイヤモンド』は、学生時代、池袋の文芸座に通って何度も見ました。マチェクのサングラスをまねしてかけていたくらいです(苦笑)。でも、映画で扱う主題としては重すぎます。あらゆる戦争映画、革命映画がそうであるように。映画というのは生意気な主題を扱うべきメディアではないのです。

追伸(3)
たとえば、ランボーに「永遠」という私の好きな詩があります。

Elle est retrouvée.
Quoi? ――L'Eternité.

また見てしまった。
何を?  ― 永遠を。

この「また見てしまった」の時間性の緊迫感を映画が伝えることなど不可能でしょう。ゴダールの『狂いピエロ』はこのランボーを引用しながらも足元にも及ばない。単に生意気な映画にすぎない(「ヨーロッパの映画」(哲学的な?映画)にありがちな)。映画は「たかが映画されど映画」くらいでちょうどいいのです。


>ふたたびHさん  2008年04月28日 11:13
どうも芦田さんにはうかつな言葉は言えませんね。「哲学やってるような人が見るような映画」とは、最低ラインの会話言葉です。

たんに、思想系の本を読んでいれば、そういう映画をみるという契機になる、そういう契機を芦田さんは持たなかったのか、あるいは持ったにせよ、なにゆえに、関心は、アメリカにゆくのか、ということに興味があったわけです。

ヨーロッパ映画が哲学的だ、というわけではありません。

あと、音楽で言うと、ユーミンもドリカムも、ロック音楽からすれば音的にも、思想的にもまったくただの従来的な人間のさまにすぎません。

芦田さんがなにゆえにロック音楽にその世代でありながら、関心を持つにいたらなかったのか、それも興味がありますね。


メジャーどころでは、ピンクフロイドをキングクリムゾンを、いかに批評されるか、その音を言葉を、それをききたい。

ドリカムの情緒的な言葉に酔う芦田さんはつまらないですよ。

あとわたしがミクシィでメジャーな人間を話題にするのは、「マイナー」な名前はこういう場所では、瞬時に拒否をおこす人が多いためです。いわば、読むきっかけにならないからです。それはちょうど、わたしにとっては、超マイナーな映画群のこの芦田さんの日記を印象的な文章をのぞいて完全に素通りしたというわたしの読み方から、自分の読み方からそう思うわけですね。

ついでに質問させていただきたい、芦田さんにとってパソコンとはあくまで、計算機的な機能にすぎないようにおもわれます。岩谷宏の言うような、コミュニケーションの可能性、かかわりの可能性としてのパソコンについてはどうお考えか、お時間あればお答えいただきたい。

もうひとつお時間あればお答えいただきたい

1なぜロックの発声はシャウト(叫び)なのか。
2なぜロックのギターの音はわざわざ歪んだ音なのか

芦田さんがロック音楽について知っている範囲内ででもお答え願いたい、と思います。

芦田さんの関心よりも無関心な、語られない領域にわたしは関心があるのです。

見事な大見得を切った、「ランボーとゴダール」のくだりは感動しました。

ただそれは言葉にできません。そのランボーの詩は、あまりにも難解だからです。その詩については、いつかどこかで再度論じていただきたいものです。

それにしても芦田さんの書き物には、芦田さんに「ついていける」コメントがないですね。とりあえずみんなわたしのように質問をすればいいとおもいますね、これを読んでる芦田読者の方々・・・。


>再度の、Hさんへの返信 2008年04月28日 19:28

いやいや、私の「マイミク」の中で、私の書くものの意味を一番わかっていないのは、あなたのような思想崩れの人(たち)です。

私の「ランボーとゴダール」で感激して、吉田美和とユーミンは「従来的な人間のさま」、ふざけんじゃないよ、と私は言いたい。 そもそもランボーの「永遠」はそんなに難しくないですよ。「永遠を見た」と書かずに「永遠をまた見た」と書き出しで語るところが、この詩のすべてです。「また」というところに永遠の存在の強度が一気に噴出しているのです。書き出しで「また見た」なんて言われたら誰でもショック。さすがにランボーです。

追伸(1)

ユーミンのたとえば、「ジャコビニ彗星の日」。この詩の水準は、たとえば、クラプトンの「レイラ」よりははるかに上です(「レイラ」も大好きな作品ですが)。あなたは、ギターの音に拘っているようですが、すべての楽器は人間の〈声〉の変奏です。もっとも豊かな音、それは人間の〈声〉です。そしてもっとも豊かな声、それは美空ひばりの声です。ロックごときに惚れ込むあなたには死んでもそのことがわからないでしょう。


 夜のFMからニュースを流しながら

 部屋の灯り消して窓辺に椅子を運ぶ

 小さなオペラグラスじっとのぞいたけど

 月をすべる雲と柿の木ゆれてただけ

    72年 10月9日

    あなたの電話が少ないことに慣れてく

    私はひとりぼんやり待った

    遠くよこぎる流星群

 それはただどうでもいいことだったのに

 空に近い場所へでかけてゆきたかった

 いつか手をひかれて川原で見た花火

 夢はつかの間だと自分に言いきかせて

    シベリアからも見えなかったよと

    よく朝弟が新聞ひろげつぶやく

    淋しくなればまた来るかしら

    光る尾をひく流星群

               (ユーミン「ジャコビニ彗星の日」より)

 6行目「あなたの電話が少ないことに慣れてく」。ここはすごい。電話が少ないことに「慣れてく」。この言葉は創作の段階ではなかなか出てこない。少なく「なっていく」、ではない。少なくなっているのに「気づく」わけでもない。少なくなって「悲しい」わけでもない。まして電話を「待っている」わけでもない。「弟」のつぶやきに耳を傾けられる程度に私の日常は冷静だ。でも何十年、何百年に一回の出来事(=ジャコビニ彗星の日)が、私の「慣れていく」日常を揺さぶる。

 そういった微妙な心理描写が、自宅の庭から一気にシベリアにまで飛ぶ広がりの中で(この空間の転換は圧倒的だ)、もっと(客観的に)絶望感を強調する(結局「72年 10月9日」のジャコビニ彗星は現れなかった)。「どうでもいいことだった」だけに、それはもっと絶望的な出来事だった。「どうでもいいこと」にさえ見捨てられる「私」。「淋しくなればまた来るかしら」。「慣れてく」私と「ぼんやり待」つ私。この詩は、好きな人がもういないことに「慣れ」るということがどんなことなのかをぞっとするような仕方で教えてくれる。( http://www.ashida.info/blog/2002/07/hamaenco_1_7.html


追伸(2)
「芦田さんにとってパソコンとはあくまで、計算機的な機能にすぎないようにおもわれます」。

そんなことどこで思ったのよ。私のコンピュータ論は「ハイパーテキスト論」(1995年) 
http://www.ashida.info/blog/2002/08/hamaenco_1_22.html
で詳しく論じています。岩谷宏みたいなちんぴらと一緒にしないでよ。

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投稿者 ashida : 2008年04月29日 09:24
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