映画『バベル』を観た ― 「危険のあるところ、救うものもまた育つ」(ヘルダーリン) 2008年03月09日
今頃、映画『バベル』を見た。
今年の4000字の年賀状で超高層ビル論を展開したら(http://www.ashida.info/blog/2008/01/post_258.html)、読者の1人から、『バベル』のラストシーンを浮かべました、と言われて以来、気になっていたからだ。賛否両論あるらしいが、この映画、悪くはない。
超高層マンションはバベルの塔を模しているとはよく言われているが、登場する3つの家族を結びつけるライフル銃は、遠いものをコントロールしたい人間の欲望を隠喩している。
超高層の高さ、天を支配したい高さへの欲望と銃の遠さ、距離を支配したい遠さへの欲望、いわば縦と横の超越の軸が、この映画の基本構成だ。
日本家族の母を自殺に追い込んだライフル銃は、モロッコの家族の子供達の手に渡り、「この銃は3キロ先のものにまで届くんだよ」と言わせる。
その遠くをコントロールするためのライフル銃は、最も近い自分自身を抹消する武器に変身して日本人家族の母を自害に追いやる。
さらにその銃はモロッコを旅行するアメリカ人夫婦のスーザンの肩にあたり、重傷を負わせる。
リチャード(ブラッドピッド)+スーザン(ケイト・ブランシェット)夫妻は、子供を預けてモロッコを傷心旅行するが、その幼い子供たちはメキシコ・アメリカ国境でトラブルに見舞われる。
リチャード夫妻のモナコもその子供達が災難に遭うメキシコ国境にも草木=自然がない。自然が存在しない乾いた土地(ニーチェ的な〈大地〉ならざる土地)がむき出しのまま続く。
これは超高層の空虚を大地の空虚感に重ね合わせる演出だ。いずれも近代の欲望(の結果) ― 人間が神の座に代わる欲望を隠喩している。
リチャード+スーザンの子供達はわずかに茂った草木の影に置かれて乾きを免れ最後には助かる。
この子供達は異国のメキシコ人に育てられるという超核家族の象徴。
ちょうど、荒廃した大地と超高層の家族観が、子育て自体を異国の人に任せるという超核家族、つまり自立した個人というイメージに繋がっている。
またそれらはメキシコ国境というバベル的な多言語分裂をも隠喩している。子供達が途方に暮れるきっかけとなったのも言語の問題だった。そういった風景が随所に織り込まれている映画。
モナコの惨劇に遭うリチャード+スーザン夫妻自身は、放尿とキスの愛撫という人間の肉体性と精神性の対極の形を見事に詰め込んだシーンの中で(ちょっとやり過ぎかな、という感じもあったが)、夫婦の愛を復活させる。
日本人家族の娘、菊地凛子は、聴覚障害で〈言葉〉を発することが出来ない。バベルの塔の建設によって、神が多国語への分散を強いた、その動機が菊地凛子の存在を演出する。近いものは近い、というコミュニケーションへの不遜がバベルの塔を築かせたのだ。
ラストシーンは、母亡き後父親の役所広司と菊地凛子の二人が住む超高層マンションのベランダで、母親がライフル銃で自殺したことを隠したい菊地凛子が父親に抱かれる(親子の愛を確認しつつ)シーンだ。ベランダを遠く後にしながら東京の超高層ビル群が映し出されるラストシーンだ。この家族は救われるのか、救われないままなのか。
「最も暗い夜の最も輝ける光」というメッセージと共にこの映画は終わるが、私にはこのメッセージはハイデガーの「不安の無の明るい夜」、ヘルダーリンの「危険のあるところ救うものもまた育つ」という言葉を意識したものだとしか思えない。
この映画はバベルの塔以後の人間(つまりモロッコ、メキシコ、アメリカへと分散した人間)が、ふたたび〈大地〉を荒らし、バベルの塔(超高層)を目指したが、人間の振幅や自然を取り戻すきっかけ(夜の中の光)をその中にもわずかながらに見せて終えようとする。
図式は相変わらず通俗的ではあるが、映画的な緊張感は充分にあって、143分、退屈せずに見られる。ただ、役所広司はやっぱり大根役者だった。二階堂智の刑事は悪くはなかった。菊地凛子は喫茶店で股を開くところには狂気を感じたが、肝心の全裸シーンでは迫力がなかった(カメラも良くなかったが)。その分、アカデミー賞を逃したという感じか。蛇足ですが。
(Version 2.0)
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