家内の症状報告(113) ― MSは自己免疫疾患ではない!?(炎症は髄鞘再生に必要) 2008年03月02日
>芦田さん お疲れ様です。お互い、忙しいようで(苦笑)。急ぎませんのでゆっくりで結構です。
症状報告110番のベタフェロン実態調査について、情報源が気になったりもしますが(笑)、何かあると訴えられるのではないかと萎縮する傾向にある現状医療現場でベタフェロンが淘汰されるのには、「効いても30%」、でも「ひょっとしたら悪化するかも知れない」という漠然とした情報だけで十分なのかも知れません。医療現場における訴訟回避の動き(=インフォームドコンセントの名の下に患者自身に責任を押し付ける動き)は勢いを増してますから、新規導入の際にもかなり後者の可能性を説明することになり、「でもやってみる」という患者はどんどん少なくなるでしょう。
科学論について、ポパーもクーンも知りませんでした(恥)。勉強になります。
慶応大の先生の総説の一つで、彼の発見のストーリがこう書かれています。
「(前略)我々はこの条件に見合う分子の同定を目指していたが、ある時偶然にも培養OPC(無固定)を抗IgE-Fc受容体抗体で染めた際に陽性染色像を得た。 これは面白いと思い、更にFACS解析すると結果は陰性であり、また固定組織切片で調べてもそれらしい細胞は染まらなかった。その後RT- PCRにおいてはOPCにおけるIgE-Fc受容体の発現は否定された。ブロッキングが甘かったのだろうかと意気消沈していたが、ふと思いついたのである。 IgE-Fc受容体に対する抗体はIgGである。ゆえに仮にIgG-Fc受容体があるならば、無固定条件下でのみ染まり得るのではなかろうか、と。この失敗によって我々はOPCにIgG-Fc受容体が発現していることを発見した。OPCをIgGで刺激するとFynは見事に活性化され、形態的分化が起こり、同時にMBPの発現著増が観察される。IgG-Fc受容体の信号伝達はそのgamma鎖(FcRg)とFynの会合によってなされることを確認したが、このFcRgを欠損させたOPCではIgG刺激に反応せず分化しない。 更にはFcRg欠損マウスではミエリン形成が重度に障害されていることが確認された。これらのことはFc受容体が生理的ミエリン形成トリガーであることを示唆している。」
ちなみに、この先生は東北大の免疫学の研究室との共同研究で、FcRgと相同性が近い分子(DAP12)という分子についても調べていて、この分子が形成後ミエリンの維持に必要であることを報告しています。
DAP12は、ミエリンの変性を主体とする早発認知症のNasu-Hakola病の原因遺伝子であることが既に分かっています。Nasu-Hakola病は早発認知症と共に骨病変が特徴的ですが、DAP12は破骨細胞にも出ていて重要な機能をしている。
つまり、慶応大の先生が「ふと思いついた」偶然?の発見を契機として、脳、免疫、骨とこれまで別個に扱われていた概念に代えて、「脳免疫連関」、「脳骨連関」という新しい概念が生まれた。 しかし彼の「ふと思いついた」のを単に偶然と呼べるかどうか。髄鞘再生治療を作るために、彼は「この条件に見合う分子の同定」を目指してた、そう動かしていたのは、脱髄疾患の治療を成し遂げようとする「情熱」だったようですが、その熱い想いが、ふとした直感を決して見逃さなかったのではないか、と思います。
>「己を切る」というのは、案外、悲壮な決意や強い意志によって(ましてや高潔な正義感や倫理観によって)ではなく、偶然を素直に受け入れるスタンスにあるのかもしれません。それは、科学も哲学も同じです(芦田さんの発言より)。
ご指摘の通りだと思います。「己を切る」というのは、当人にとってはむしろ「気がついたら己が切られていた」ということであり、己を切ろうとする意志によって切れるものではない。卑近な例えですが、映画「アポロ13号」で大気圏に再突入する宇宙船のタイルが摩擦熱でボロボロに溶けていくが如く、熱い想いの中で溶けていくもの、というように感じます。
とりあえず、ここまでです。
※文中「科学論について、ポパーもクーンも知りませんでした(恥)。勉強になります」というのは、症状報告104番、109番の「己を切る」論について、4日前の2月27日に私が書いた以下の科学論を受けている。
あなたの「己を切る」というコンテキストが面白いなぁ、と思っています。
狭い意味での科学論は、基本的にはカールポパーの批判的実証主義とトーマスクーンのパラダイム論の間を動いています。 ポパーの科学的真理は簡単に言えばこういうことです。
たとえば、経験的に(=実証科学的に)1,2,1,2,1,2,1,2と見出された列がある。最後に来た「2」の次の数字は? 次の数字は、普通は「1」と予測するでしょう。
でも、「3」という数字が来たら? そうすると「1、2」というルールはルールではないことが実証的に証明される。
ひょっとしたら、この数列は1,2,1,2,1,2,1,2,3,1,2,1,2,1,2,1,2,3という新しいルールの始まりかも知れない。 つまり、「3」の登場は、新たなルール探しの旅の始まりなのです。
「1、2」のルールが、MS=T細胞免疫論やベータフェロンEBMだとしたら、メイヨークリニックの2004年12月「NMO-IgGの検出」や2008年1月のAnnals of Neurologyの論文(液性免疫主体論)などは、大げさに言えば、その「3」に当たるものかも知れない。これがポパーの批判的実証主義です。
もう一方で、もう少し観念的な科学論がクーンのパラダイム論です。彼は科学的真理は、一つのパラダイムの発見、たとえば、MS=T細胞免疫疾患という「パラダイム」が一度成立してしまうと、その後の科学的発見はひたすらその発見を補強するようにしか進まないというものです。〈真理〉はどんどん内閉していくということ。
つまり実証的な真理というもの、あるいは真理の連続的で史的な発展があるのではなくて、相対的に自立したパラダイムの輪切りのようにして真理(=その時代を画する公共的な幻想)が存在している。それがクーンのパラダイム論です。
すぐにおわかりのように、この両者は一見対立しているように見えますが、それほど遠くにいるわけでもない。1,2,1,2,1,2,1,2というセットの3番目や4番の「1,2」はある意味で「1,2」パラダイムに縛られている実証性だとも言えるからです。また「3」の発見も、それ自体は、実証的なものではないかもしれない。慶應大学と都老人研の「FcRg」の2003年6月の発見は、それ自体偶然なものだった。
この偶然性を「実証的」とは言えないでしょう。ある種「パラダイム」論的な偶然性(=非連続性)を孕んでいます。 「己を切る」というのは、案外、悲壮な決意や強い意志によって(ましてや高潔な正義感や倫理観によって)ではなく、偶然を素直に受け入れるスタンスにあるのかもしれません。それは、科学も哲学も同じです。
以上、お粗末な「閑話休題」でした。質問はいろいろとありますが、しばらくお待ちください。(2008年02月27日 21:25)
●2008年03月02日 18:34 今の段階での質問をしておきます。 もし「免疫反応不在でのオリゴの死」(2004年4月、Annals of Neurologyの論文)が「報告されたとしたら、MS・NMOは自己免疫疾患ではない、ということになる。
また抗AQP4抗体も「原因」ではなくて「結果」かもしれない。つまり「髄鞘再生という現象は、悪者であったはずの「炎症」と紙一重に生じているかも知れない」。
慶応大学の発見に擬して言えば「抗原は関係ないかも知れない(免疫グロブリン(抗体)そのものを(抗原によらず)認識する受容体が鍵として働いている)ということ」。「髄鞘再生に効いているのは、「抗体」それ自体かもしれない。
Cambridge大は「炎症は髄鞘再生に必要である」とまで言っている。 あなたのこれまでの刺激的な最前線報告ではそうなる。 となると、MS・NMOは自己免疫疾患ではないということ(か)。
とすると、炎症を抑える治療は病気を長らえさせるだけということ(か)。その場合、炎症をパルスなどをせずに(もちろんステロイド服用もなしに)、(辛いのを我慢させて)そのまま放っておくとどうなるのか。新潟大学の安保理論のように対処療法が諸悪の根源ということになるのかどうか。
つまり治療の基本は「FcRgの刺激を行う医薬品」にまでいくか行かないかは別にして、免疫抑制ではないということなのか。 だとすると、(「陽性」の家内の場合などは特に)「ステロイドが効く」(一日20ミリ以上続けると実際に効いている)というのは、どういうことなのか。
とりあえず、今日はここまでです(笑)
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