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 家内の症状報告(109) ― 「EAE:誤った方向性のMSモデル」 2008年02月26日

ご親切にも、Pさんが108番の議論(http://www.ashida.info/blog/2008/02/_mseae.html#more)に関するいくつかのEAEに関する文献を紹介してくれています。


EAEに関する文献の要旨を参考までに和訳しましたので御高覧下さい。

●Annals of Neurology誌 2005年12月
【タイトル】EAE:誤った方向性のMSモデル
【著者】Sriram S・Steiner I(米国Vanderbilt Medical Center)
【要旨】長年に渡る精力的な研究にも拘らずMSの理解と治療は不充分である。覇権する仮設はMSが免疫性疾患であり、またEAEがその病因と治療を解明する為に適したモデルであるとするものである。

本総説ではEAEがMSの適切かつ有用な動物モデル足るかを批判的に吟味し、確たる証拠が存在しないことを提示する。EAEはMSよりも中枢神経系の急性炎症のモデルと言える。我々は、特に治療を検討する際には、EAEを用いることを再検討するべきであると提唱する。これは同時にEAEによる束縛を解除してMSを解析すること、即ち、類似性の解析ではなく、(実際のMSにおいて)何が起きているか、を解析することを要求するものである。


●Annals of Neurology誌 2006年7月
【タイトル】如何にしてEAEによる動物実験をMS研究に適切に応用するか
【著者】Steinman L・Zamvil SS(米国Stanfordd大)
【要旨】「EAE:誤った方向性のMSモデル」の総説においてSriramとSteinerは「EAEがMSのモデル足るかと考えた時に最も落胆するのは、MSに対する有意義な治療や治療方針を策定する上でほとんど全く役に立たないところだ」と述べている。

実際にはEAEは、MSに役立つ3種類の薬剤の開発に直接的に寄与した。それはGlatiramer acetate(註:Copaxone)、mitoxantrone、natalizumab(註:Tysabri)である。その他幾つかのMSに対する治療薬がEAEにおける前臨床的研究での成功を元に臨床治験が現在行われている。EAE研究によって見つかった発見が、MSにおける発見と合致した際には、MSの原因や病態マーカーに新しい知見をもたらしている。

確かにEAEの過剰に依存すると落とし穴があるが、それは他の疾患のあらゆるモデルにおいてそうである。にも拘らず、過去73年以上、EAEはMSの研究を補助する意味で極めて有効であることを、それ自身が証明してきている。

※註:SteinmanはTysabri開発を主導した研究者でMS動物実験の大御所。今でもNature等のTop JournalにSteinmanはEAE=MS論による論文を多数出している(ある意味で「MS=T細胞自己免疫疾患」の旗振り役)。

一方で、「EAEがMSモデルであることを否定」しつつも、「MSにおけるリンパ球は悪である」という概念までは否定できていない」というような研究者も居ます(神と仏は切りましたが、やっぱり己は切れませんでした、ってとこでしょうか(苦笑))。下記も総説です。


●Acta Neurologica Scandinavica誌の別冊 2007年
【タイトル】多発性硬化症の免疫学的起因:既存概念と矛盾
【著者】Holmoy T(ノルウェイOslo大学)
【要旨】MSの発見から150年が経過したが、その原因のみならず病態生理すらほとんど解明されてらず、現存する治療薬は十分な効果を持たない。 MSの疾患概念はEAEという動物モデルに依存する。70年に及ぶEAEの経験に基き、MSは髄鞘特異的なT細胞によって引き起こされる、髄鞘及び神経細胞に対する炎症が主体であると広く認識されている。

しかしながらMSにおいて髄鞘特異的なT細胞が中心的役割を担うという概念を支持する証拠は弱く、また、もしそうなら何故免疫における自己寛容(註:外来抗原は攻撃するが自分の蛋白は攻撃しないという特徴のこと)が破綻するのかという問いに答えられず、更にはMSにおける際立ったB細胞(註:抗体を産生する細胞)の反応はEAEにおいては反映されていない。

MSの病因に関する研究は、従って、MS患者の組織標本或いは細胞を用いて、可能な限り病気に侵されている臓器に近づいて行われるべきである。多発性硬化症の脳脊髄液から得られたリンパ球の解析はT細胞の活性化にはウイルス感染が関与していることを示唆しており、T細胞とB細胞の内なる「共役」が免疫反応の維持に繋がっていると考えられる。これらの結果はMSにおける持続的な免疫反応が特定の抗原に依存せずに成り立つことを示唆している。

芦田さんの分野でも、医学の分野でも、研究にまつわる状況は似ているのではないでしょうか?ただまぁ、医学や自然科学の方が「学問としては素人」でも生き残りやすい土壌にはあると思いますが。


●私のちょっとした感想。

そうですね。2006年7月の段階でも、まだSteinmanみたいな奴がいるんですね。でもSteinman自身の書き方もかなり自己弁解的な感じは充分感じ取れるってところですかね。

パパさんの言うとおり、「己は切れない」という感じかな。

たしかに「神」や「仏」まではちょっと勉強すれば、切れる。しかし、一番厄介なのは「己」、こいつが一番たちが悪い。


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投稿者 : ashida1670  /  この記事の訪問者数 :
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感想欄

Pさん、最近本当に忙しいので(あなたもでしょうが)、これも閑話休題にして下さい。質問は山ほどありますが、文章に整理できていません。お忙しいあなた(+専門家)に質問するにはそれなりに時間がかかります。しばらくお待ち下さい。そこでちょっと閑話休題。

あなたの「己を切る」というコンテキストが面白いなぁ、と思っています。

狭い意味での科学論は、基本的にはカールポパーの批判的実証主義とトーマスクーンのパラダイム論の間を動いています。

ポパーの科学的真理は簡単に言えばこういうことです。

たとえば、経験的に(=実証科学的に)1,2,1,2,1,2,1,2と見出された列がある。最後に来た「2」の次の数字は?

次の数字は、普通は「1」と予測するでしょう。

でも、「3」という数字が来たら?

そうすると「1、2」というルールはルールではないことが実証的に証明される。

ひょっとしたら、この数列は1,2,1,2,1,2,1,2,3,1,2,1,2,1,2,1,2,3という新しいルールの始まりかも知れない。

つまり、「3」の登場は、新たなルール探しの旅の始まりなのです。「1、2」のルールが、MS=T細胞免疫論やベータフェロンEBMだとしたら、メイヨークリニックの2004年12月「NMO-IgGの検出」や2008年1月のAnnals of Neurologyの論文(液性免疫主体論)などは、大げさに言えば、その「3」に当たるものかも知れない。これがポパーの批判的実証主義です。

もう一方で、もう少し観念的な科学論がクーンのパラダイム論です。彼は科学的真理は、一つのパラダイムの発見、たとえば、MS=T細胞免疫疾患という「パラダイム」が一度成立してしまうと、その後の科学的発見はひたすらその発見を補強するようにしか進まないというものです。〈真理〉はどんどん内閉していくということ。つまり実証的な真理というもの、あるいは真理の連続的で史的な発展があるのではなくて、相対的に自立したパラダイムの輪切りのようにして真理(=その時代を画する公共的な幻想)が存在している。それがクーンのパラダイム論です。

すぐにおわかりのように、この両者は一見対立しているように見えますが、それほど遠くにいるわけでもない。1,2,1,2,1,2,1,2というセットの3番目や4番の「1,2」はある意味で「1,2」パラダイムに縛られている実証性だとも言えるからです。また「3」の発見も、それ自体は、実証的なものではないかもしれない。慶應大学と都老人研の「FcRg」の2003年6月の発見は、それ自体偶然なものだった。この偶然性を「実証的」とは言えないでしょう。ある種「パラダイム」論的な偶然性(=非連続性)を孕んでいます。

「己を切る」というのは、案外、悲壮な決意や強い意志によって(ましてや高潔な正義感や倫理観によって)ではなく、偶然を素直に受け入れるスタンスにあるのかもしれません。それは、科学も哲学も同じです。

以上、お粗末な閑話休題でした。

投稿者 芦田の自己コメント : 2008年02月27日 21:38
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