外国語を読む訓練は、読むことそのものの訓練 ― 〈検索〉&〈会話〉教育は大学生をバカにするだけ。 2008年01月20日
ミクシィ(MIXI)でいちばん面白くないのは、思想系のコミュニティ(と思想系の読書レビュー)だ。
私は、自分の“得意な”分野については ― ミクシィの全会員1000万人がよってかかってきても負けない分野については、一切、該当コミュニティには参加していない(本のレビューも出来るだけ避けるようにしている)。それらの記事を読み始めると腹が立ってきて、「身体に悪い」からだ。それに老婆心で一度でも口出しするとくだらない反応にまみれてもっと「身体に悪い」。
最近の若い連中(と言っても40歳以下)は、本の読み方を知らない(なんて書き方を私もする年になった。老害かな)。
なぜか。
〈検索〉で本を読むようになってきたからだ。昔は、「訳者後書き」や「索引」をたどって本を読んだ気になっていた人たちがたくさんいたが、今ではパソコン〈検索〉がすべてを読んだ気にさせる。一行に1年かけたり、一個の前置詞の解釈に1年かけたりすることがない。
大学(高等教育)において、英語や第2外国語の勉強が重要なのは、“国際コミュニケーション”のためではなくて、言葉を大切にしようということだ。それは、本を読むことの訓練なのである。会話では〈思考〉は鍛えられないからだ。
最近は第2外国語のみならず、英語さえも学ぶ時間が短くなってきているが、とんでもない話。辞書を引きながら、一つ一つの言葉に立ち止まることが、〈思考〉訓練の基本なのである。
外国語であれ、日本語であれ、文書理解の鍵を握る〈助詞〉に敏感になるのは、本格的な外国語教育を受けるときだ。〈助詞〉を理解しない人は、文章を書くことも読むことも出来ない。
大学はラテン語、ギリシャ語だけを4年間学ぶくらいで、ちょうど高等教育になるはず。
英会話の時間を増やそう、なんてとんでもない話だ。
要するに、パソコン〈検索〉と会話主義が、大学(教育)における読書人の貧相を加速化させている。学部学生も院生もつまらない“会話”をくり返している。
そんな人たちばかりが、思想系のミクシィコミュニティ(昔のニフティフォーラムのようなもの)にうんざりするくらい集まっている。インフレした言葉の掃きだめのようなコミュニティだ。
結局、何も読めていない。
“難しい”文章や本を読むのが苦手な人というのは、何が苦手なのだろうか。
その理由ははっきりしている。“難しい”本を読めないのは、順追って最初から読んで行こうとするからだ。どの一行にも意味があると思って(もちろ ん意味はあるのだが)、そしてまた後の行、あるいは後の段落は、最初の行や最初の段落を理解しなければ理解できないと思って、最初からきまじめに読もうと する。
そして「こりゃあ、ダメだ」と言って投げ出す。そしてパソコン〈検索〉か、〈訳者後書き〉、〈解説書〉に走る。これではどんなに自己研鑽を進めても“難しい”本は読めない。
すべての文言が理解できる本などというものは、ほとんどあり得ない。“本が読める人”というのは、むしろ読み飛ばすことができる人のことを言う。
どんな難しい本も、必ず2行や3行くらいは“わかる”文章に出会うことがある。そういった2行や3行が5頁おき10頁おきに1ヶ所、2ヶ所必ず存在している。
そういった“わかる”箇所を一つ、二つと見出しはじめていくと、従来わからなかった箇所の一部までもが何となくわかってくる感じがする。点が線で結びついていく。そうやって、こじ開けるようにして難しい本を読み開いていく。それが読書だ。
本を読める人というのは、すべてがわかる“賢い人”なのではなくて、わからないことを恐れない人のことを言う。わからないところで断念するのでは なくて、飛ばして先に進む勇気があるかないか、それが読書の境目。本を読めない人は、わからないところが出てくるとすぐにそれであきらめる。誰が読んでも わからないものはわからない、そう思えないのが本を読めない人の特徴。
本の“全体”とか“部分”というのは、機械の部品(の集積)のような全体でも部分でもない。一行の文章がその行を含む一冊の書物の全体を表現して いる文章であることもあるし、どの行もどの言葉も均質の意味を有し続けている全体であることもある。それはどちらにしても最初とか最後という時間性を拒否 しているのである。
言葉を読み込む、文章を読み込むということに最初もなければ最後もない。点を線につないだり、線を点に戻したりしながら、一つの同じ言葉が、一つの同じ文章が何回もその意味を変えていく様(さま)を体験すること、それが読書だ。
だから、文章の“全体”に始まりも終わりもない。どこから読んでも読み終われるのが文章というもの。古典的とも言われる“名品”の書物ならなおさらのこと。
ダメな文章ほど、因果(あとさき)に縛られ、ストーリーに縛られている。直木賞の文学が芥川賞の文学に差を付けられているとすれば、三流の文学は因果的だということに他ならない。
推理小説が文学としてくだらないのは、2回目を読む興奮は最初に読む興奮よりも半分以下になっているだろうからである。推理小説を後(うしろ)か ら読むことは危険この上ないことだし、飛ばし読みも難しい。推理小説がもし本気で〈文学〉でありたいとすれば、2回目に読むと“犯人”が別の人になるくら いの“工夫”がなければならない。3回目にはまた別の“犯人”が登場するというように。
大概の古典は何回も“犯人”が変わる推理小説のようだ。私の20代後半はヘーゲルの『大論理学』、ハイデガーの『存在と時間』を読むことに明け暮れていた。なんど読んでも“犯人”が見つからない。最高の文学=哲学だ。
何回も読み直せるかどうかがその文学を本質的なものにする。それが始まりも終わりもない書物や文学の本質を言い当てている。だから本来の文章にはアプローチの作法というものはない。
三流の文学や思考、そしてまた官庁の白書、そしてまた区役所の広報情報、そしてまたリクルートの情報誌こそが丁寧に(後先を間違えずに)読まなければ“意味がわからない"文章にあふれており、不自由な“読書"を強いる。
それに比べて、自由な文学(文章)は自由な読書を可能にする。行儀良く読む必要などまったくないのである。
※初出 http://www.ashida.info/blog/2006/04/post_136.html に少し手を加えました。
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太田光vs芦田父
読ませていただいて、納得のいくことこの上ありませんでした。
大変ためになりました。
読むことに対し、勇気がわいてきたような気がします。