『存在と時間』論 - 「非性の存在論的根源」について(1988年) 2007年09月20日
ある読者の方から、お前のハイデガー論を読みたいとのメールを頂いた。何を今頃、と思ったが、私の著作(『書物の時間』)はもはや手に入りづらくなっているので、この際、ブログ版で再録することにしました。今でも悪くはないですよ(充分読む価値はありますよ)。関心のない人は読み飛ばしてください。
『存在と時間』論 - 「非性の存在論的根源」について(1988年)
●目次
1.「世界(Welt)」と「環境世界(Umwelt)」
2.手許存在者の「非性 (Nichtheit)」と「世界親密性」
3.存在可能(Seinkonnen)としての実存と超越の「有限性」
4.現存在の「全体性」と(非=)本来性
5.現存在の全体性と「存在の問い」
凡例
1)『存在と時間』の引用に際しては、Max Niemeyer Verlag の第12版を使用してい る。例えば、(286)、と、断りなしに頁数を指示したものは、この第12版 の頁数のことである。なお、この原典のページ数は、中央公論社版『存在と時間』欄外にも記載されている。ドイツ語版が手元にない読者は中央公論社版を参照されたい。
2)ハイデガーの別のものの引用に際しては、Vittorio Klostermann 社の現在刊行中の『ハイデガー全集 (Gesamtausgabe)』を使用しており、例えば、 (Bd.9,121) と いうふうに指示したものは、9巻「道標 (Wegmarken)」121㌻ということである。
3)『存在と時間』では中央公論版(原佑・渡辺二郎訳)の訳に、その他のものは創文社版『ハイデガー全集』の訳にほぼ準じている。中央公論版『存在と時間』はそれほど悪い訳ではないが、In-der-Welt-seinを「世界内存在」と誤訳していることだけはここで指摘しておく必要がある。正しくは文字通り「世界-内-存在」と訳すべきだ。-(ハイフン)なしで訳すと、「世界内」が「存在」の単なる形容詞に堕してしまい、世界があることと「世界内存在」=「現存在」との等価性が見えなくなる。「世界内存在」と「主観」との差異が見えなくなる。中公版の読者は是非気をつけてもらいたい。
4)その他の出典は、そのつど(或いは前後関係において)指示した(つもりである)。
5)テクストの前後関係、特に引用した研究者の訳語の(既)決定によっては、ハイデガー特有の用語(訳語)を論文全体を通して統一的に使用することはできなかった。お許し願いたい。
6)原典にあった引用中のゲシュペルト、傍点、下線などの強調は、サイト収録の技術的都合上すべて割愛してある。お許し願いたい。
7)原典にあったドイツ語のウムラウト、フランス語のアクサンなどの表記は、サイト収録の技術的都合上、それらをはずした英語表記になっている。お許し願いたい。
8)欧語のハイフネーションについては、今回のサイト収録に当たり、一切無視している。お許し願いたい。
9)段落の分け方については、サイト収録上の見やすさを考慮して、私の原著作(『書物の時間』)の初出とは異なったものになっている。
10)原著作にはないが、サイト収録に際して(サイトでの読みやすさを考慮して)、長文の引用の文頭には★マークを付けている。★マークで始まり、頁表記で終わるまでが、一つの引用文全体を意味する。
1.世界(Welt)と環境世界(Umwelt)
辻村公一は、ハイデガーの〈世界性〉を周知のように「世界性A」と「世界性B」にわけて考えている(「ハイデガーに於ける世界の問題」in『ハイデガー論攷』)。
「(…)世界性Aは、『世界の内部にあるもの』への繋がりに於ける世界の構造であり、要するに吾々が日常その内に住み慣れてゐる世界の本質構造である。世界性Bは、さういう世界がその根源の方に向かって開かれた場合に現れてくるその世界の性格であり、要するに根源への繋がりの内で世開する(welten)その世界の根源的な相である」(p.100) 。
辻村によれば、ハイデガーの世界性は、その指示の性格に関して「二義」的に考えられており(「或る獨特な二義性」p.78) 、「すなわち、世界の構造といふ意味での世界性は指示性(Bedeutsamkeit-有意義性)であり、世界が世界として開示された場合の世界の根源的性格といふ意味での世界性は非指示性(無意義性)であると」(p.80)される。
世界の指示性(有意義性)は、「道具的に手許にあるものの有の構造」(p.66)としての「する=ため (um=zu)」の連関を規定しているのであって、それはハイデガーが「世界性」の分析の最初に、つまり「環境世界(Umwelt)」の分析に際して取り上げたものである。環境世界は、現存在の「日常性」、すなわち「現存在の最も身近な存在様式」(66)として、ハイデガーによって考えられており「日常的現存在の最も身近な世界は、環境世界である」(同前)と言われている。
ハイデガーは、続けて「もっとも身近に出会われる存在者の存在を現象学的に呈示することは、日常的世界-内-存在を手引きとして遂行されるが、この日常的世界-内-存在をわれわれは、世界の内での、かつまた世界内部的な存在者との交渉とも名付ける」(66f.)と言う。世界の「内での」また「世界内部的な存在者」(さしあたり「道具的に手許に有るもの」)「との交渉」、と、最初の分析から含みをもたせられているのは、「世界」自身は、この交渉を規定している「配慮 (Besorge)」の主題にはならないということをいみしているからだとおもわれる。たとえ、この交渉の対象が「世界内部的にあるものの全部」として表象されようとも、である。
辻村は、それゆえ「世界は『内世界的にあるもの全部』では無い」(p.74)と言う。すなわち、「世界は『内世界的に有るものの全部』から、さういふ有るものがそれの内部に於いて有るところの一種の場所として區別されて有ると」(同前)。辻村にとって世界問題は「世界は『内世界的にあるもの全部』では無い」と言う場合の「『無い』を如何に理解するかに懸かってゐる」(同前)。「常識的理解」あるいは「日常的理解」においては、この区別は「『内世界的に有るもの全部』といふ或る有るものと世界といふもう一つ別の有るもの乃至は場所として有るもう一つ別の有るものとの區別として理解されてゐるに過ぎない」(同前)からである。
辻村によれば「世界が世界として(als Welt)開き示されてくる」ということは「『不安』に襲われるときに起る」(p.75)。
「不安のうちでは『内世界的に有るもの』は總じて『重要さを失ふ』。『重要さ』とは、何か或るものが何かに或ひは誰かに屬する、しかも何かを或ひは誰かを擔ふといふ仕方で屬するといふことであらう。從って、『内世界的に有るもの』が總じて『重要さを失ふ』とは、『内世界的に有るもの』が總じて-全体的に-現存在を擔ふといふ仕方で現存在に屬してゐるといふ有り方を失ふといふことである」(p.76)。
それゆえ、「不安の何に面して (Wovor der Angst)」ということについて言えば「それは無であってどこにもない」ということがあらわになっている。辻村は続けて言う。「この『無にして何處にも無い (Nichts und Nirgends)』といふことの内には『全き非指示性』が告知されており、その『全き非指示性(die voellige Unbedeutsamkeit)』は次のやうな事態を言ってゐる、すなはち『内世界的なるもののこの非指示性に基づいて世界がその世界性に於て唯一的な比類無き仕方でなほ押し迫って來るといふこと』を」(同前)。
「世界そのもの」あるいは「世界としての世界」は、辻村によって「不安(の何に面して)」の「非指示性(無意義性-Unbedeutsamkeit)」というふうにとりだされる。
そして、「…『指示性』と『非指示性』といふ一見したところ相互に背反するこの二つの性格は、世界において一體如何なる關係のうちに内にあるのかといふことが、當然問題に上って來る」(p.78)のである。
その(関係の)「共通の根拠」は「『現存在は彼のために実存する (Das Dasein exis-tiert umwillen seiner.) 』といふ命題に言ひ現はされてゐると思はれる」(p.85)と辻村は言い、続けて次のように結論する。
(…)彼のためにといふ規定性は、先述された一切の『する=ため=諸關聨』が最後 的にそこに歸着すると共に最初的にそこから發源するところの『その=ために』である。 (…)この諸關聨の聨關が『指示性』と言はれた世界構造に他ならない。それゆえ、か くして世界の指示性は、『現存在は彼のために実存する』といふことの内に含まれてい る『彼のために』といふ規定性に第一次的に根據づけられている。
★併し他方 ― と辻村は続ける ― 、「現存在は彼のために実存する」といふことはそのことを根據としてそのことから形成されて來てゐる世界つまり指示性という構造をもつた世界に、まさしくその世界の根據である故に、本來は頼り得ないといふことであり、況んや指示性としての世界の内部で出會はれている「内世界的に有るもの」の一切に自己を附託することは出來ないといふことである。そのことは、現存在は「彼のために」に基づいて指示性としての世界を形成し-或いは同じことであるが、企投し-つつ実存するが、正にさういふ世界を形成し企投することに於て、形成され企投された指示性としての世界をいはば一歩脱け出ており、その世界の内部で出會はれている「内世界的に有るもの」を全體的に超越してゐるのである。そのことは、現存在が「彼のために実存する」といふこと へ、すなわち彼は彼自身であるといふ現存在の「最も自己的な有り得ること」へ、一切の雑多な実存諸可能性を踏み越えて衝き返されるといふことである。そのことは、現存在が彼の実存に於て彼の実存の端的な不可能性としての無すなはち彼自身の死に向かって空け開かれるといふことに於て起る。(…)そこでは既に明らかである如く、一切の「内世界的に有るものは重要さを失ひ」「帰趨統態はそれ自身のうちで崩落し」、指示性としての世界つまり「私がその内で実存している世界は非指示性へと沈み落ちる」。 それゆえ、吾々は次のやうに言ふことが出來る、すなわち、世界の非指示性-一層的確に言へば、「世界として開示された世界」の非指示性-は、現存在の実存の「彼のために」といふ規定性に-一層的確に言へば、彼の実存の端的な無つまり死にまで空け開かれた場合の「彼のために」といふ規定性に-基づいてゐると。世界の非指示性は、いはば、世界といふ超越の圏域にその影を写した死である。(p.77f.)
世界(環境世界)の「道具的に手許に有るもの」の指示的な諸関連は-「用途性(Wo-zu) 」の「帰趨(用向き)」(Bewandtnis)を媒介にして-現存在の「彼のために」へと還元される。すでにハイデガーは『存在と時間』第3章・第14節「世界一般の世界性の理念」において「存在論的には、『世界』は、本質上現存在ではないところの、まさにその存在者の規定ではなく、現存在自身の一つの性格なのである」(64)と言い、また「道具的に手許に有るもの」から「内存在」へと(実存論的)分析が進んだときにも、「世界は、世界-内-存在としての現存在の自己存在に属している」(146)と言っている。
このベクトルは、最終的には第69節(「世界-内-存在の時間性と、世界の超越の問題」)の「現存在は実存しつつ自分の世界である」(364)というテーゼへと収斂するのである。 とすれば、辻村が言うように「…世界の非指示性と指示性とは世界の同じ一つの次元に属する二つの性格ではなく、非指示性のほうが指示性よりも一層高い次元に属しており、指示性の分析は非指示性の次元へ『導き上げる』ための『準備的』にして『下位的』な意義のものである」(p.81)ことになる(ようにおもわれる)。「俗流プラトニズム」(辻村)的な二世界説を退けるとしてもである。
しかし、世界の内にあるということと、世界があるということとは別のことではない。仮にそれが別のことであるならば、その場合「世界は一つの客観である」(179)-「孤立化された自我主観」に対する-ことになるからである(cf.55,59)。
それゆえ、辻村は「同じ一つの世界」の(「月の」)「表」と「裏」という「比喩」に訴えねばならない。「…指示性は、吾々の方に向けられた世界の側面つまり表の面の構造であり、非指示性は、その世界の通常は隠されてゐる側面つまり裏の面の性格であり、指示性と非指示性とは、比喩的に言えば、月の表面と裏面との如き、同じ一つの世界の表面と裏面として表裏一體の關係にあると言へるであらう」(p.83)。
しかし、世界概念が「二義的」であると指摘しながら、その一方で「同じ一つの世界」の「表裏一體」」性について「月」の(「表」「裏」の)「比喩」に(通俗的に)訴えねばならなくなるのはなぜなのだろうか。
そのいみは、世界の非指示性とは、世界(の全体)は-「帰趨(用向き)全体性」と区別された-一世界内部的存在者(道具)ではないということである。指示ということで言えば、指示が究極に帰趨するところは、それ自身一世界内部的存在者(道具)ではないということである。
「非指示」という言葉が出てくるのは、第40節「現存在の際立った開示性としての不安という根本情態性」においてであり、辻村の文脈で言えば、「不安の対象は世界そのものである」というハイデガーのコンテクストと絡むところである。ハイデガーはそこで次のように言っている。
★世界の内部で手許的(道具的)に(zuhanden)存在していたり眼前(事物的)に(vor-haden)存在していたりするものは、なに一つとして、不安がそれに対して不安がるもの(Wovor der Angst) の機能を果たしはしないのである。手許的存在者や眼前存在者の世界内部的に暴露された帰趨(用向き)全体性は、そのものとしてはそもそも重要性(Belang)をもたないのである。そうした帰趨(用向き)全体性は、それ自身において崩壊する(sinken)。世界は完全な非指示性(Unbedeutsamkeit) という性格をもつのである。不安においては、何らかの帰趨性が脅かすものとしてのそれでもってえられるかもしれないようなあれこれのものは、出会われることがないのである。(186)
この前後の文脈を勘案しても、ここでハイデガーが考えている世界の非指示性を(辻村のように)非指示的な世界、つまり「世界性B」というふうに考える(置き換える)ことはできないようにおもわれる。
辻村は「不安がそれに対して不安がる対象は、なんら世界内部的な存在者ではない」(187)とハイデガーが言うこと-それが「非指示性」ということであるのだが-について「世界の非指示性」という言い方をする。そうすると「指示化のはたらきの関連全体」を「指示性(有意義性)」とハイデガーが呼び、「この指示性は、世界の構造、つまり、現存在そのものがそのつどすでにその内で存在している当のものの構造をなすものなのである」(87)とハイデガーが言ったいみと、この「非指示性(無意義性)」は対立するように(辻村には)理解されることになるのである。
しかし、ハイデガーがここで言わなくてはならないことは、つまり、世界を辻村が言うように「二義的」な仕方においても言わなくてはならないことは、「帰趨(用向き)全体性」が「崩壊する」ことと「世界」が「崩壊する」こととは同じことではないということである。言いかえれば、指示的な世界がその指示性を失うということと世界が「崩壊する」こととは別のことであり、それは「世界の不在をいみしているわけではない」(187)ということである。
つまり、世界から現存在へというベクトルは、世界の、現存在への、その世界性の消去(還元)のためのものではなくて、むしろ世界-内-存在としての現存在を際立たせるためのものだと言うことである。しかし、このことは説明を要する。
「さしあたり」、現存在の実存論的分析論は、「世界性という現象へと近付く通路」(66)として「現存在のもっとも身近な存在様式としての平均的日常性という地平」(66)を主題とする。この「身近さ」は、(さしあたり)道具的に手許にあるものの(「許にある」)身近さであり、ザイン・バイ(Sein bei)として、むしろ、現存在(の自己存在)自身は「あそこ(Dort)」の身近さとして計られることになる。
「現存在がさしあたって『自己自身 (sich selbst)』を見出すのは、現存在が、従事し、使用し、期待し、防止する対象になっているもの(was) において-さしあたって配慮された環境世界的な手許(道具)存在(Zuhandenes)においてである」(119)。そのようにして「共現存在」としての「他者」も「『仕事中』の彼ら」(120)において出会われているのである。さしあたって「『私』は、自分に固有な自己といういみで『存在している』のではなく、世人という在り方における他者なのである」(129)とすれば、現存在自身はこの分析論の〈端緒〉においては、自分自身( Ich-Hier としての)さえも「あそこ」(と等しい「ここ」)へと疎外する、つまり「おのれをさしあたって逸し、隠蔽する」仕方-「自分のここを現存在は、環境世界的なあそこに基づいて了解している」(107)-において示されるのである。
「身近さ」は、「さしあたり (zunachst) 」(=「近さ」において)現存在の自己自身からの「遠さ」としてとらえなおされねばならない-「さしあたり (zunachst) 」と「近さ (nahe) 」との関連についてはグラネルの「『存在と時間』とフッサール現象学との関係についての注記 (remarques)」in: Durchblicke (Martin Hei-degger zum 80.Geburtstag),s.358f. を参照されたし。
従って、この問題は「内存在そのもの」(第5章)の分析の主題となる。「世界-内-存在」の構成契機である「内存在」は、「世界」の(が)あることと区別されないとすれば、その場合、この「内」ということは「わたる(kreuzen) ことができない」(108)距離として考えられねばならない。つまり「あそこ」は単なる空間的な隔たり(「測定」される距離)なのではなくて、現存在(Da-sein) が「そこ」にある延び拡がり-Ent-fernung (疎隔化=近接化)の動きとしての-なのである。
「『ここにいる私(Ich-Hier)』の『ここ』は、つねに道具的(手許的)に存在している『あそこ』に基づいて了解されている。(…)あそこは、世界内部的に出会われるものの規定性である。『ここ』と『あそこ』は、なんらかの『現(そこ)』においてのみ可能である、言いかえれば、『現(そこ)』の存在として空間性を開示してしまっているなんらかの存在者が存在しているときにのみ可能である」(132)。つまり、(「世界」と「内存在」との「間」を)「わたることができない」というのは、現存在が現(そこ)として「ここ」や「あそこ」を可能にするような「在処(Ort) 」そのものの「明るみである」ことからきているのであって、そのような現存在が「ある」ということそれ自身が、「現存在が世界-内-存在として明るくされている」(133)ことのいみなのである。
このような「明るみである」ことの世界性と現存在が自己を疎外する「あそこ」のウム(Um)=環境世界性とは、辻村の言うような仕方で、世界性B、世界性Aというふうに分けることはできないだろう。たとえ、あとからその「共通の根據」(辻村)として現存在の「根源的な意志」を「接着剤(Kitt)」(ハイデガー:132)のようにもち出してくる(辻村)としても、である。
辻村がそうするのは、世界性の問題を指示の問題に収斂(局限)させてしまうからである。つまり、世界の指示性(有意義性)ということについて、ハイデガーが一方で非指示性ということを言うために、それを世界の指示性の反対領域-世界性Bというふうに-のように見なしてしまうのが辻村の問題である。
世界とは環境世界である。そしてこのことを一つの言葉で言えば、「現存在は世界-内-存在である」ということである。つまり「世界-内-存在として明るくされている」ということである。このことを理解するためには辻村のアプローチ(の仕方)を離れる必要がある。
2.手許存在者の「非性 (Nichtheit)」と「世界親密性 (Vertrautheit mit Welt)」
「世界そのもの」が、(辻村も指摘しているように)「不安の対象 (Wovor)」の「無」であるということは、現存在が、〈他〉の存在者と「並んで」、世界の「内」にあることを越えて、「存在者の全体(Seiendes im Ganzen)」を、そのいみでの「世界」を経験するということである。世界の「内」にあるということこそが、現存在が〈他〉の存在者と「並ぶ (neben)」ことの、つまりそれ自身「無」ではない世界内部的な存在者と「親しむ」ことのいみである(cf.54)かぎり、不安はその対象(Wovor) の「無」であることにおいて世界-内-存在である現存在を「脅かす」のである。少なくとも、世界は、〈非〉現存在がなんらかの仕方で問題になるような主題であることに(ハイデガーにおいても)変わりはない。
しかし、「存在者の全体」を「それ自体において把握すること」など「不可能である」(『形而上学とは何か』 in:Bd.9,110, cf.140-「根拠の本質について」 )。「全体」ということが、もし現存在に問題になるとすれば、それは、否定的な仕方で、つまり、「無」が現存在に「露呈する」という仕方で、存在者が有意義などんな連関にも属さないとされたときに問題になるのである。
したがって、「全体」-「無」のこの連関は、現存在の「有限性」-「非性」という概念を介在させなければ理解することはできない。
不安に「直面する (vor)」ことにおいて「逃避する」その先は「存在者」=「世界内部的な存在者」であって、存在者の乗り越えとして乗り越えられた不安の(世界の)無を「前 (vor)」にして、現存在はふたたび「存在者」=「世界内部的な存在者」へと「逃避する」(「頽落」する)-「何かの許での存在(Sein-bei)」として-と考えられていたことをおもい起こさなければならない。「乗り越え (Uberstieg)」は、世界内への乗り越えとして有限(endlich) なのである。
そのいみで、何かの許での存在(Sein-bei)が脅かされることと何かの許での存在に復帰することとは同じことである。
「不安」は(「恐怖」と違って)「世界内部的な存在者に直面してその前から(vor) 逃避するのではなく、まさしく世界内部的な存在者へと(zu)逃避する…」(189)のであって-このような「逃避」は、むしろ不安の「不気味さ(Unheimlichkeit)」を了解する「日常的な様式」(189)として「積極的」なのものである-だからこそ、不安の対象(Wovor) は「無であってどこにもない」のであり、「非指示的(無意義的)」だということになる。
この脅迫の運動は、それ自体としては、無である。
世界の存在は、環境世界との差異においてあるが、それは差異としては無なのである。厳密に言えば、世界が - 世界の(という)対象として - 無なのではなくて、「不安の対象」と言われているものと「世界内部的存在者」との差異が、それ自体としては、無なのである。世界と環境世界との差異は不安である。
『形而上学とは何か』では、それは、無は不安の中で「全体」としての存在者と「一つになって (in eins mit)」出会われるという言い方をされている(ibid.113)。
そうして、この脅かしと復帰(「逃避」)-「世界」への「依存性(Angewiesenheit)」としての(『存在と時間』:87)-の指示性格は、ハイデガーによって「拒絶的指示」(abweisendes Verweisen) と言われることになる(『形而上学とは何か』in:ibid.114)。これは、『存在と時間』で「世界の非指示性(無意義性)」と言われていたものの指示性格である。つまり『存在と時間』で「現存在が自分に指示する連関 (Zusammenhang des Sichverweisens des Daseins) 」(86f.)と言われていたものをそれとして構成している指示の性格をいみしている。
無ということで言えば、それは、自分自身を無にする無なのであって- Das Nichts selbst nichtet. -、(世界内部的)存在者へと「差し向けられている(angewiesen)」(87)現存在は、そのように差し向けることによって、自分自身としては「無の中へ投げ込まれて保たれている(Hineingehaltenheit des Daseins in das Nichts)」(=現存在の「超越」)のである(『形而上学とは何か』in:ibid.118) 。しかし、むろん、このことで「現存在が自分に指示する連関」の問題が解決しているわけではない。
このような、差し向けられて(依存して)いること(Angewiesenheit)の問題-(周知のように)M.ミュラーは、この問題を(こそ)中心に据えて、ハイデガーのケーレを論じている(62, in :『ハイデガーと西洋の形而上学』理想社)が、私の関心は、この問題を『存在と時間』にとどまって論じるところにある-、つまり、ザイン・バイの脅かしとザイン・バイへの復帰の同一性の問題が、『存在と時間』で最初に暗示されているのは、道具的な手許にあるものの分析の中で示されている「指示の諸連関 (Verweisungszu-sammenhange)」の「断絶 (Bruch)」(75)のテーマ系でのことである。それは「世界親密性(eine Vertrautheit mit Welt)」(76)の問題として展開されることになるのである。
ハイデガーは、『存在と時間』第15節で「環境世界の内で出会われる存在者の存在」の分析を次のように(その周知の箇所で)始めている。
★厳密に解すれば、一つの(ein) 道具だけが「存在している (ist)」ということは決し てない。道具の存在にはそのつどつねになんらかの道具全体が属しているのであって、 そうした道具全体(Zeugganzes)のうちでその道具は、その道具がそれである当の道具で あることができるのである。道具は、本質上、「…するための何か (etwas,um-zu)」で ある。有用性、寄与性、利用性、手頃さ(Dienlichkeit,Beitraglichkeit,Verwendbar-keit,Handlichkeit) といったような、この「するため (um-zu)」のさまざまな在り方が、道具全体性というものを構成しているのである。「するため (um-zu)」という構造のうちには、或るものの或るものへの指示(Verweisung)がひそんでいる。(68)
道具的に手許にある存在者は、たしかに「ための」といういみでの指示的な性格を(このように)有しているが、しかし、それは、指示的な性格としてはそれ自身「表て立っている」わけではない。むしろ重要なことは「さしあたって手許(道具)的に存在するものに特有なのは、まさしく本来的に手許的に存在するためにこそ、自分の手許性のうちで言わば退却している(zuruckziehen)ということである」(69)。つまり「手許的にあるものは、総じて理論的に捕捉されてもいなければ、配視(Umsicht) にとってすらさしあたっては配視的に主題的であるのでもない」(69)。道具的に手許にあるものは(あらためて)「認識」されるものなのではなくて、そのつどの配視にとって「出会われる」ものなのである。
自ら「退却する」手許存在性=指示性こそが手許存在者(道具)の「有用性、寄与性、利用性、手頃さ」を構成している。「たとえば」「ハンマーでもって打つことは、ただ単にハンマーの道具性格に通暁している一つの知識をもっていることではなく、それ以上には適切には可能でないように、この道具を我がものにした(zueignen)ということである。(…)ハンマーという事物が単にぼーっと見られている(begaffen)だけであることが少なければ少ないほど、つまり活発に使用されればされるほど、この事物へと態度をとる関係はますます根源的となり、この事物は、この事物がそれである当のものとして、つまり道具として、ますます赤裸々に出会われる」(69)。
「一つの道具だけが『存在している』ということは決してない」のは、一つの道具と他のもう一つの道具が指示し合う関係(「媒介」関係)にあるということを言うのではなく、「個々の道具に先立って(vor) 、そのつどすでになんらかの道具全体性(Zeugganzheit)が暴露されている」(68f.)ということをいみしている。
だからこそ、「世界内部的存在者を接合(Zusammenfugung)してゆけば、その総計(Summe)として『世界』といったものが生ずるわけではない」(72)のである。
つまり、この分析の「端緒」の理解においては、一つの留保が必要であって、「指示」は、この場合、指示関係として「一関係体系 (Relationssystem)」のように「思考されたもの (Gedachtes)」ではないということである。「指示性としての世界性を構成している指示連関」(88)の「形式化(Formalisierung)」としての「関係体系」は-カッシーラーも含めてその後のサイバネティクスもそうであるように-「形式化された実体概念(formalisierte Substanzbegriffe)としてのみ可能なのである」(88)。手許(道具)存在者の指示関係は、「形式化」され得ない。「思考」的な対象としては、それは絶えず「退却する(zuruckziehen)」ものだからである。
そうすると、仮に現存在の「世界親密性」というものと「現存在の最も身近な存在様式としての平均的日常性」(154)というものが重なるとすれば、そして、その「最も身近な」ということが、一つには、「主題的な捕捉」とか「理論的な」「認識」の以前に「出会われる」道具存在者との「交渉」をいみしており、一つには(環境)世界分析を実存論的分析論の「端緒」にしたことのいみだとすれば、「退却する」世界の指示性格は、最初から、現存在の分析論を「困難 (Schwierigkeiten)」(52)なものにしているようにおもわれる。
「いかにして世界は『与えられている(es gibt)』のであろうか」(72)と、それゆえ、ハイデガーは問うのである。
言いかえれば「現存在が手許的な道具の許に配慮的に気遣いつつ没入しているとき、このような没入の圏域内では現存在自身は、ある存在可能性を、つまり配慮的に気遣われた世界内部的存在者とともに(mit) 、この存在者の世界性がある種の仕方で現存在に閃いてくる(Aufleuchten) 存在可能性をもっているのであろうか」(72)という問い(直し)が、-「世界の世界性」(第3章)についての問いかけが始まり、「手許存在者」の「するための」という「指示性」が指摘された第15節の直後の第16節でなされねばならない。
そして、この問いの再開始こそが「もっとも身近な手許的存在者(das nachstzuhandene Seiende)は、利用不可能なものとしてその特定の利用にはあつらえむきでないものとして、配慮的な気遣いのうちで遭遇されることがある」(73)という指摘で始まっているのである。「手許的な道具が目立つようになるのは、ある種の非手許(道具)性においてである(Das Auffallen gibt das zuhandene Zeug in einer gewissen Unzuhanden- heit)」(73)。この「非手許性」は世界の退却性をそれ自体として引き止める、つまり世界を「世界として」あらわにするようにおもわれる。
この「非手許(道具)性(Unzuhandenheit)」について、ハイデガーは三点挙げている(73f.)。
一つは、道具の損傷などによって道具が利用不可能になること[道具が目立つこと(Auffaligkeit)]、一つは、指示の構造の一文節である一つの道具が欠けてしまうこと、そのことによって、その道具によって指示されていた道具が役立たずになること[道具の押し付けがましさ(Aufdringlichkeit)]、一つは、道具の指示性が変様して、場違いのものとなること[道具の手向かい(Aufsassigkeit) ]、この三点である。
「一つの道具だけが『存在している』ことは決してない」(68:第15節)ということは、それが、一指示関係に属していることからではなくて、その指示関係が断絶していること(「指示の諸関連の断絶(Bruch) 」75:第16節)からこそ理解される(理解され直す)べきなのである。
「諸々の指示は、それ自身としては、注視されていないのであって、むしろそれらの指示は、配慮的に気遣いつつそれらの指示に従うとき、そのことのうちに『現にそこに』あるのだが、指示が表て立って(ausdrucklich)くるのは、その指示が妨げられること(Storung der Verweisung)-何かにとって(fur) 利用不可能になること-においてなのである」(74)。
従って、表て立たないことが、道具存在者を構成する「するための」という指示性の存在性格を規定している。
「非手許(道具)存在性」(の三点)に対照される「目立たないこと、押し付けがましくないこと、手向かわないことといった欠性的な((privativ) 表現は、差し当たって道具的に存在するものの存在の積極的な(positiv) 現象的性格を言いあてている」(75)。
世界の指示性と言われているものは、それゆえ、その指示性を失うことのほうから、〈そこ〉へと近付くことができるのであって、それ自体で「形式化された実体概念」のように「一関係体系」として-「世界性A」と言うように-近付けるわけではない。
彼(ハイデガー)は、確かに、個々の道具は道具全体性との関連のうちにおいてのみ 道具であること、用途(Wozu)、原料(Woraus)、利用者(Benutzer)への指示連関のうちに おいてあることを指摘しており-と広松渉は言う-、さらには、道具の道具性を、 適用的に適所せしめるという実践的態度における配視(Umsicht)と相関的に論じている。 この意味では、彼はなるほど、道具が道具としてある在り方をその被媒介的連関構造に おいて捕らえている。(『事的世界観への前哨』112)
広松渉は、このようにハイデガーの世界の指示性を「追認」?し、直後に次のように続けている。「しかしながら、彼は指示的連関性においてすでにある道具的存在性に定位してしまっており、道具的存在性の当の『ある』そのことの存立構造を究明しない」。
というのも、ハイデガーは「手許(道具)存在者」を「先行的に(vorgangig) 」「存在させる (Sein lassen) 」というが「先行的に存在させるとはそのつどすでに『存在しているも の』をその手許(道具)存在性において暴露させること」(85)であって、この場合の「エントデッケン」の「発見性」は、「たとえば貨幣という道具は、“物を購えるという性質”をもっており、適所的使用においてそのことを発見する、というのと同じ構制の物象化的錯視である」(広松:113f.)からである。
このようなまと外れの理解(批判)が生じてしまうのは、広松が「存在させる (sein lassen)」ことの「アプリオリ的完了(ein apriorisches Perfekt)」(85)とハイデガーが考えているものを、手許(道具)存在者の「非」手許性の指摘に暗示されている世界の「退却」性をぬきにして問題にするからである。
広松は、この場合、(「非」の問題をめぐって)二重に誤っているのであって、広松の指摘の前半にある道具の「被媒介的連関構造」-広松が「なるほど」と言ってハイデガーに譲歩しているそのところから、すでに彼は、何か(ハイデガーとは)別のことを言い始めている。そこをこそ譲歩すべきではないのである。
道具が「(被)媒介的」に-つまり(通俗)ヘーゲル主義的に-あるかどうかでないのはすでにはっきりしている。言いかえれば、一つの道具が「指示連関」のうちに属しているかどうかということは、少なくとも第16節のハイデガーにとっては関心の外にあることである。この論文で広松は世界の指示性(有意義性)について「祖述的追認」をなすにあたって、「環境世界の世界適合性」-詳しくは「内世界的な存在者に即して自己を告げる、環境世界の世界適合性」(Die am innerweltlich Seienden sich meldende We-ltmassigkeit der Umwelt)という見出し語を有している第16節の(コン)テクストを全く無視している。
指示性は、それ自体としては近付き得ないという、世界性の実存論的分析論の再開始についての認識を全く無視している-「行論の事象的内実に即して批判を展開すべき段取り」(広松:104)がとられ、「稍々煩瑣にわたることを憚らず(…)引用文を連ねて論趣をたどっておこう(…)」と言われながらも、広松の「解説」の中には、第16節からの引用文は不思議なことに皆無である。
世界の指示性がそれ自体としては近付き得ないということ、それは、指示性が広松的に言えば「物象化」され得ないということの存在論的意義であって、ハイデガーは手許(道具)存在性を「既存の存在」(広松:114)として世界性の分析の「端緒」に定位することこそ拒否しているのである。
しかし、むろん、一つの道具存在者が「物」(広松的ないみで)的にあるかどうかが、ここで問題であるわけではない。広松自身は「(機能的・函数的)関係の第1次性」ということで「伝統的な実体主義的存在観」(『存在と意味』461)(とやら)を批判するが-つまり「……実体もまた、真実態においては、「関係規定」(…)を“内自化”し“即自化”したものであって、それ自身で存在するものではない」(同前460)というふうに-しかし、「関係」ということは、「それ自体、その形式的・普遍的性格のゆえに、存在論的根源を指示(Verweisung)のうちにもっているということ」(『存在と時間』:77)-すでにそれは「形式化された実体概念」としてのみ可能だとされたわけだが-こそがハイデガーによって示されねばならないことなのである。
仮に道具的に手許にあるものがそれとして「表て立たない」ことがその存在性格をなしている(第16節)としても、しかし「さまざまないみで諸指示がそこで眼前に見出されるような道具(Zeug)」=「記号」についてなおハイデガーが(反語的に)分析を進めている(第17節)のは、広松が「実体主義」批判としてもちだす「関係」こそが「指示 (Verweisung)」に基づいていることを示すためである。
「記号」は、むしろ諸関係を表て立てる「ため」の「道具」であって、そこでは指示関係-「指示および指示全体性 (Verweisung und Verweisungsganzheit) 」(76)としての-は、それ自体「退却」せずに「眼前に見出される」ようにおもわれる。
たとえば、車の方向指示機としての「赤い矢」は、一つの「注意記号」であるが、それは、「人がそのときどきに『心にかけるべきもの (Woran)』を示す。諸記号が第1次的につねに示しているのは、人が『そのうち』で生活している当のもの(Worin) であり、配慮的な気遣いがその許に引きとどまっている当のもの(Wobei) であり、いかなる適所性(用向き)をその記号がもっているかということである」(80)。
つまり記号の指示することは、世界内部的存在者の「環」性(「人がそのときどきに『心にかけるべきもの』」)を「肯定的」な仕方で表て立てているわけである。肯定的というのは、それが「道具の損傷」のようにして「非道具存在性」のほうから環性としての指示性へと言わば否定的にしか接近できないというわけではないからである。つまり記号は、それ自身で回付性を有しているという点で、それ自身も一道具存在者でありながら道具存在者の存在である指示性により積極的な仕方で関与しているようにおもわれる。記号は自分の道具性(指示性)を、つまりは(環境)世界性を(自分自身で)むしろ「目立たせる」のである(80)。
「記号は、配慮的に気遣いつつある交渉の配視に向けられているのだが、しかも、その記号の指図にしたがう配視が、このように同時にその指図に従いつつ、環境世界のその時々の環境性(das jeweilige Umhafte) を表て立って『概観(Ubersicht) 』させるというふうに向けられている」(79)。ハイデガーは、このことを記号(という道具存在者)の「優越性(Vorzug)」(82)というふうに呼んでいる。実体主義批判ということで〈関係〉というものがもちだされるときには、一般に、この記号論的な「優越性」-「形式」主義の「優越性」-が、背後ではたらいているのである。
この「優越性」において、(環境)世界性の分析は、記号の分析に収斂するようにおもわれる。言いかえれば、(環境)世界性の分析は、記号という道具存在者に定位して(再)開始されるようにおもわれる。(環境)世界性を構成する「指示連関」が、「表て立って近付き得るもの」(82)として-「退却する」「非」的な世界性という16節の指摘に対して(反して)「優越」的な17節(「指示と記号」という章題をもつ)の分析が開始されているのである。
しかしなお、ハイデガーは記号の指示性を手許(道具)性一般としての指示性から区別しなければならない。記号の道具性を種別的に規定している「示すこと (Zeigen) 」(という指示性)は、ハイデガーによれば、やはり道具性一般としての指示(Verweisung)性とは異なる規定に属しているのである(77)。「(…)注意すべきことは、示すこととしてのこの「指示すること」は、道具としての記号の存在論的構造ではないということである」(78)。つまり、「有用性がそのために用いられる用途性(das Wozu der Dienlichkeit)が、示すことのうちにその具体化をもっているということ、このことは、道具機構そのものにとっては偶然的なことなのである」(78)。
「たとえば」、「目印として熟知されている『ハンカチ』の結び目」は、「多くの、また、このうえなく様々なことを示しうる。そうした記号において示されうることの範囲が広くなれば、それに対応して、その記号を了解し使用することの範囲は狭くなる。そうした記号は記号としてはたいていその『創設者』にとってしか道具的に存在しないというばかりではなく、創設者自身にも近付きえないものとなることがあるのであって、その結果、第一の記号が配視的に利用されうるためには、第二の記号が必要となるに至る」(81)。
「ハンカチの結び目」が何かの隠し場所を指示する場合、そのような回付性は、フッサールが記号の「指標」性という点で考えていたように「その『創設者』にとってしか道具的に存在しない」性格を有している。『創設者』以外のものにもそれがわかれば、それはもはや隠し場所ではないわけだ。つまり、それが「このうえなく様々なことを示しうる」こと-「指標」的な回付の任意性-は、何かの隠し場所の記号としては必然的なことである。しかし、この任意性は『創設者』自身にとっても、それが「このうえなく様々なことを示しうる」ことによって、「ハンカチの結び目」の記号化そのものを「創設者自身にも」阻んでいる任意性でもあるのである。それが何のため(ウム・ツー)の記号であるか分からないときに、(逆に)それは「表て立ってくる」。
「ハンカチの結び目」が何も回付しなくなったとき、それは、記号性という道具存在性を失うわけではない。それは、「創設者」にとって目立つようにして作られたがゆえに、またそのように目立つことによって、それが回付するものとの「身近」さのゆえに、逆に「安らぎ」をえながら(も・またそのゆえに)目立っていたのである。この身近さが疎遠さに転化するとき、つまり記号としてのいみが稀薄になるとき「ハンカチの結び目」は「押し付けがましさ」を獲得することになる。それは、「損傷」した道具のように押し付けがましい物なのである。それは、依然として道具的に-つまり「示すこと」という「ために」-損傷しているがゆえに、つまり配慮の対象であるがゆえに押し付けがましいのである。
この「押し付けがましさ」を避けようとして「第一の記号」に続いて「第二の記号が必要になる」。ちょうど「損傷」した道具が「修復」されたり、別の道具にとって代わられるように。それは、結局のところ指示(Verweisung)性の存在に記号の「示すこと(Zeigen)」が遅れているということをいみしている。記号が「表て立てること」、あるいは表て立てる「関係」は、そのことがいつでも少なくとも「創設者」にとっては熟知のこととして親密であること、つまり「表て立たない」ことのいみなのである。それ自身で〈非〉を有した、つまり退却性がその内部にとどまるようにおもわれた記号-「退却」性(「非性」)がその内部にとどまるような回付構造を「関係」と呼ぶのである-も道具の指示性に基づいている。押し付けがましい道具が存在しているようにして、押し付けがましい記号もまた存在しているのである。
非手許(道具)存在性は、世界の世界性(としての指示性)をそれ自体として - まさにその「非」手許(道具)存在性において - 表て立てることができるのだろうか。〈そこ〉に道具が「あった」(「アプリオリ的完了(ein apriorisches Perfekt)」)ということに、かの「非手許存在性」において気付いて、「世界性」は〈そこ〉に「閃く」であろうか。「記号」という道具の分析は、この問いかけに絶望的な仕方で答えたのである。
★道具の「損傷」において道具の存在が「目立つこと」(道具の指示性の消失)は、それ自身、何かの〈ため〉ということが〈そこ〉で損なわれてしまうような損傷であって-そうでなければ「損傷」と言うような欠如性(非性)は「認識」され得ないであろう-、その損傷としての「非」(「非手許(道具)存在性」)は、言わば「依然として (immer noch) 」(74)手許(道具)的である。手許(道具)存在性は「跡形もなく消え失せるのではなく、利用不能のものが目立っている間、言わば自らに別れを告げるのである。道具性は、もう一度(noch einmal) 自分を示すのであり、またまさしくその際、手許(道具)存在者の世界適合性(Weltmassigkeit der Zuhandenen) も自分を示すのである」(74)。
手許(道具)存在者の存在を構成する指示性の断絶すること、そして、その断絶によってこそ、道具が自立的にあるのではなくて、一つの指示連関のうちにあることが表て立ってくること、そのことによって、たしかに、指示性は表て立ち、道具存在性は「自分を示す」けれども、それは、とりもなおさず、指示性が「もう一度、自分を示すこと」、つまり「ふたたび退却する」(73)ことをいみしているのである。指示が表て立ってくる「そのときですら、まだ存在論的構造として表て立ってくるのではなく、仕事の道具の損傷に突き当たる配視にとって存在的(ontisch) に表て立ってくる」(74)にすぎないのである。
★「非手許(道具)存在性」の「非」は、なお道具の手許存在性のうちに「縛り付けられている(gebunden)」(74)。それは「片付けられること」や「修理されること」を求めているように手許・道具的(=非手許・道具的)なのである。「非」の「こうした変様の分析をもってしても、われわれはなお世界内部的なものの存在の許にとどまっているのであり、われわれは世界現象にはまだ近付いていない」(74)。環境=世界性の分析における再開始は、ふたたび屈折するようにおもわれる。「それゆえ、環境=世界性の解明に即してなされる世界という現象の探求は、それ自身《再出発》の連続であり、そこでは同じ《挫折》が生じるのである。こうして第15節で予告された再出発は第16節でも繰り返し予告され、それがまた第17節でもう一度繰り返されるのである」(グラネル:148f.in:Traditionis traditio )。
問題は、「指示の諸関連の断絶」においては、この「断絶」こそが断絶しているということである。手許存在者の存在である指示性は、そこで二重の断絶にであっているのであって、一つは、指示性は、非手許存在性のほうからしか近付けないということ、一つは、この接近は、指示性が「もう一度己れを示す」ことにおいて、ふたたび「退却する」こと(=「目立たないこと、押し付けがましくないこと、手向かわないこと」)なしにはあり得ないということなのである。
この指示性の二重のニヒト(ハイト)のゆえに、「配慮 (Besorge)」の現在は、(道具)存在者のニヒトを「存在的」に回収するのであって、指示されてあるもの-存在者が、そこから指示されている〈そこ〉をつかみ損ねてしまう。
にもかかわらず、このような二重のニヒト(ハイト)こそが「環境世界」が(現存在にとって)「もっとも身近な世界 (die nachste Welt) 」(66)であることの事実を構成している。そしてこの「身近」さこそが、ハイデガーが『存在と時間』を始めるに当たって、世界性の論究の、そしてまた「実存論的分析論」の最初に「環境世界」を取り上げた理由だったのである。つまり「世界内部的なものの存在の許に(beim Sein des Innerweltlichen) とどまっている」ということは、単に否定的(消極的)にのみ再認されているわけではなく、世界性への接近と「世界現象にはまだ近付いていない」という認識とは「身近」性のいみとしてのみ、つまり、「世界親密性(eine Vertrautheit mit Welt)」(76)のいみとしてのみ考えられねばならないのである。
3.存在可能(Seinkonnen)としての実存(Existenz)と超越の有限性
したがって、再出発を余儀なくされるのは、世界性の不在によるものではない。世界性の「退却」性は、その不在とは別のものである。「配慮された世界としての道具環境世界(Zeugumwelt)の特有な(spezifisch)手許性は、その非手許性において構成されている」といった、「パラドキシカルな定式(形式)化 (paradoxe Formulierung)」(Bd.20,256) -或る種の認識論(心理主義)的な跳ね上がりとしての-に、それ自体いみがあるわけではない。「非」の「積極的な (positiv)」理解が必要とされていたのは、「非」のパラドクスを「定式(形式)化」すること-グラネルの論文(前出)にその傾向が見られた-のためではなく、世界の指示連関の「いつも-すでに-現に」を予示するためであった。「こうした特有な不在(Abwesenheit) は、その可能性としてその不在の基になっているものを予示しているということ、つまりそのような不在は、何かが欠如することによってじゃまされ、また特有な不在によって際立つ親密な指示連関のいつも-すでに-現に (das Immer-schon-da eines vertrauten Verweisungszusammenhanges)を予示している」 (i-bid.) のである。「世界親密性」とは、世界が「先行的」に開かれていることをいみしている。現存在の「世界開放性 (Weltoffenheit)」(137)とハイデガーは言う。
「道具の損傷」によって「欠如」しているものは、「世界親密性」-「親密」といういみで「世界開放性」-といういみでいえば、すでに一つの認識なのではない。これということもなく、「ひと (das Man)」がペンをとり、書いている-あるいは書くときには、これということもなくペンをとる、そういったことがそのペンの損傷によって乱されるのは、一つの気分(Stimmung)だとハイデガーは考えている。ちょうど、これということもなくペンをとることが、そのこれということもなくという点で、一つの気分であるように。「ペン」といわれているものがその何の「ために」ということで「いつも-すでに-現に」了解されている〈そこ〉は、気分によって開示されている世界である。「了解は、つねに気分的に規定された(gestimmtes)了解なのである」(142)。
この気分は「知識や意志でもって」(136)支配されることもあるが、その場合でさえ、「決して気分からまぬがれて支配するのではなく、そのつど何らかの反対気分(Gege-nstimmung)に基づいて支配する」のであり、「理論的な眺めやり」としての「テオーリア」でさえも「何かの許での平静な滞留において(im ruhigen Verweilen bei…) 」(138)こそ可能になるものなのである。
〈気分〉はそのいみで「全ての認識や意欲以前(vor) 」或いは「認識や意欲が開示する射程以上(uber)」(136)のものである。
ハイデガーは、〈気分〉を、「存在論的には」、〈情態性(Befindlichkeit)〉と言いかえる。現存在が情態的にある(sich befinden) ということは、現存在がこれということもなく存在しているということ(Dass es ist)である。〈情態性(Befindlichkeit)〉という名称が選ばれたのは、「自己を見出してある(sich befinden) =情態的にあるということによって、自己自身への何らかの反省をいみしないように予防するため」(Bd.20,352)であって、情態的にあるということにおいて、現存在は、先ず真っ先におのれの現(Da)としての世界なのである。
〈そこ〉にある現存在は、これということもなくペンをとり(とることができ)、また、そのペンがいたんでいるときには、これということもなく、また別のペンをとる-別のもので間に合わせる(ことができる)現存在である。
この場合には〈誰〉が〈何〉をするかは非対象的(非「反省」的)であって、この非対象性のいみは、現存在は〈そこ〉では何をすればよいかがわかっているようにして「自己を見出している」ということである。つまり何をすればよいのかがわかっているようにして-それは「有意義性」において「現存在が自己に指示する連関」が「了解」されているということであるが-現存在は一つの「世界開放性」なのである。
現存在は、「いつも-すでに-現に」何かが(これということもなく)「できる」ようにして〈そこ〉にある。これということもなく、というのは、なにかが「できる」ということである。それは、現存在が「企投することとして」(145)了解的にあることのいみである。ハイデガーが、現存在の〈可能性〉は「被投的」であると言うのは、この可能性が事実的であって、それは、不可能なことの反対措定ではないということである。ペンが使い物にならない=使用できない(道具の損傷)。しかし、それは一つの「できる」こと(たとえば書くこと)をめがけること(企投)なしにはありえない出来事であり、その「できる」こと-何か〈で〉何かができること-の「欠如的変様」でしかないだろう。つまり、なんらかの仕方で〈自己を見出している〉現存在は、いつでも何ごとかを「できる」現存在であって、この場合の〈自己〉が、非対象的(非「反省」的)であるのは、それが〈可能性(できる)〉=「未だ-ない」ものの別名に他ならないからである。
現存在の〈情態性〉において開示されているのは「現存在は存在しているということ(という事実)」と共に(しかも)「現存在は存在しなければならない(存在に向かわなくてはならない)ということ(という事実)」(Dass es ist und zu sein hat.)でもある-それは現存在は存在「できる」こととして被投されているということの別の言い方である-のは(134)、現存在は世界-内-存在として(「世界開放」的な世界-内-存在として)「情態的」であることのいみなのである。
ところで、「ひと」は何かが「できる」ようにして一つの「道具」(〈現在〉-cf.365)に「復帰 (zuruckkommen) 」(366)している。道具の損傷というのは、この復帰が「破られること」(「抵抗(Widerstand)に会うこと」)であって、何かの許にあることの「脅かし」の、一つの在り方である。この復帰をハイデガーは現存在の「世界依存性 (Angewiesenheit auf die Welt)」(139,cf.Bd.20,350)、つまり現存在が世界へと差し向けられていることというふうに理解している。
現存在が一つの「できる」こととして〈自己〉であることは、現存在の「自己外出」をいみしているが、それは、いつでも一つの道具の許にあることとして現存在の内世界性を招き寄せる(「世界依存性」)」。そのいみでこそ現存在の超越は-「自己外出」としての、あるいは一つの「できる」としての「超越」は、従って、「(現存在の)自己性を構成している」(Bd.9,138)ことになるのだが-「世界-内-存在」と同じことであるのである。超越の、その先は世界(そのもの)である(のは周知のことだ)が、世界はその場合世界「内」ということ(あるいは「内」そのもの)を可能にする条件それ自体であって、だからこそ、世界は「超越論的」であり、世界は、世界-内-存在という「統一的(ein- heitlich) 現象」(53)として超越論的なのである。(カントがそうであるように)「世界は諸現象を乗り越えるが、しかも世界が諸現象の全体性としてまさしく諸現象へ関係付け返されて(zuruckbezogen) いるという仕方で、世界は諸現象を乗り越えるのである」(Bd.9,152)。むろん、このことで「できる」こととしての現存在の「自己」と「世界」との関係について何かが言われたわけではない。
ハイデガーは超越が自己性を構成しているというとともに、それはまた、自己と非自己とを区別するともいっている。非自己とは、その場合、手許存在者(Zuhandensein)と眼前存在者(Vorhandensein) とのこと-広いいみでの手許存在性のこと-だとすれば、これはまた別の言い方をすれば、それは、世界内部的な存在者であり、さしあたり、何かのため(um-zu) という用向きの連関(=Bewandtnisganzheit) によって乗り越えられているものである-「世界企投 (Weltentwurf)」=「超越」(『根拠の本質について』in:Bd.9,166)とは「(現存在の)ためにという企投(Entwurf des Umwillen)」(ibid.165)だと言われていた-と言ってよいようにおもわれる(cf.194)。
乗り越えの、この先(Woraufhin) が〈世界〉だということ、〈世界内〉ということを可能にする〈世界〉だというのは、そういうことである。
自己は、そのように非自己を乗り越えることにおいて、自己で〈ある〉、ということは、自己は手許(道具)存在者(世界内的存在者)と出会うことによって、そのつど、先送りされているものなのである。だからこそ、ひとは手許存在性の近親性に「埋没する」-〈自己〉を忘れて-ことが〈できる〉。世界への乗り越え(超越)が世界内へと「落ちる」(「戻る」)ように。
越えるということは、したがって、越えている当のものへと戻ることと同じことである。そのいみで、超越の向かう先としての〈世界〉は、「世界の無」とも言われている。つまり、それは単に「どこにもない」無なのではなくて、絶えず、世界(内)の「どこか(hier und dort) 」を参照しなければならないような無、有限な無なのである。そのことから、『存在と時間』では単に「非指示的(無意義的)」と言われていた指示の性格は『形而上学とは何か』では「拒示(Abweisung) 」と言われることになったのである。
「無は、自分自身のほうへ引き寄せるのではなく、本質上、拒示的(拒絶的)である。しかし、自分自身から拒示すること(Abweisung von sich)は、そういうこととして、沈下して行く全体としての存在者のほうへ、滑り落ち行かせつつ指示すること(Verweisung)である」(『形而上学とは何か』in:Bd.9,114)。つまり、この「無-それが無にすることにおける無(das Nichts in seinem Nichten)-は、われわれをまさしく存在者へと指示するのである」(ibid.116)。「跳躍(Uberschwung) 」は同時に(存在者による-「ハイデガー後期」とは別のいみで)「奪去(Entzug)」である(『根拠の本質について』in:Bd.9,167)。
ところで、越えるということにおいて留保されている現存在の自己は、世界との関係において、自分の「未だ-ない(noch-nicht)」ことである。自己が〈そこ〉において「未だ-ない」ところ、それが〈世界〉である。しかし、そもそもからして、現存在は「自分が存在できるということにおいて実存論的には未だそれでないものである」(145)。
「現存在の根本存在機構の本質のうちには、不断の未完結性(eine standige Unabgeschlossenheit) がひそんでいる」(236)のであって、「存在の未済を除去することは現存在の存在を絶滅させること(Vernichtung) に他ならない。現存在が存在者として現前している(ist) かぎり、現存在は自分の「全未済分(Ganze) 」を決して達成してはいない」(236)。
「自己に先んじて (sich vorweg)」-現存在の実存性は、このいみでこそ解消不能なものである。ここで先送りされているものは、もし「存在の未済を除去することは現存在の存在を絶滅させること(Vernichtung) に他ならない」のであるならば、その「現存在の存在を絶滅させること(Vernichtung) 」つまり現存在が死ぬことである。ハイデガーはここで現存在の死は不断に先送りされざるを得ないと言っているようにおもわれる。
現存在がかりに死ぬことが「できる」とすれば、それは不断の先送りの中に自己を保持することにおいて他にない(先駆的決意性)。(現存在の自己が)死ぬことが「できる」ことは、存在することが「できる」ことと同じことである。というのも、死ぬことは死ぬことが「できる」こと、つまり死の「未だ-ない」こととしてのみ「ある」(=ありうる)のであって-したがって死ぬこと自体は現存在にとって不可能な何かであり、それは自己自身を差異化するもの(「それが無にすることにおける無」)であるわけだ-この可能性(konnen)において現存在の自己のあることは保持されざるを得ないからである。それは「超越が自己性(Selbstheit)を構成している」(『根拠の本質について』in:Bd.9, 138 )ということである。
非自己が現存在の(自己の)ウム・ヴィレンによって乗り越えられているように、そのようにその自己も、この可能性において保持されているかぎりは、乗り越えられている。それは、自己が自己としては「深淵(脱底)」であるということであった。「現存在は世界を企投することにおいて存在者を乗り越えることのうちで、自己自身を乗り越えねばならず、このような高揚から自己を初めて深淵(脱底)として理解しうるに至るのである」(ibid.174)。もとから現存在の(自己の)ウム・ヴィレンとは、「非力な (nichtig)」-そのいみでこそ「根源的な」-意志であったからである(ibid.163f.)。
死への被投的な(=非的な)根拠(284f.,306)としての現存在の非性にこそ(cf.285)、現存在の「世界依存性」は、基づいている。「世界は、世界-内-存在としての現存在の自己存在(Selbstsein)に属している」(146)というのは、現存在の自己性と言われているものが、「非力 (nichtig)」なものだからである。「非力な」意志としての現存在のウム・ヴィレンは、(世界を)「建立すること(Stiften) 」としての「基づけ(Grunden) 」であるが、それは、「非力 (nichtig)」であるがゆえにこそ、「地盤を受け取ること(Bodennehmen) 」としての「基づけ」でもあった(cf.『根拠の本質について』 ibid.165 )。
「なぜ (Warum)」(ibid.169 )という問い(「なぜそうであって別様ではないのか。なぜにこれがあってあれがないのか。なぜそもそも或るものがあって無があるのではないのか」)が生じることが「できる」のは、「可能性の企投」として世界を「建立すること (Stiften) 」-それ自体としては超越的な意志である-が、その世界のほうから「地盤を受け取ること(Bodennehmen) 」として、つまり「存在者の真っ直中に情態的にあること」における、その「可能性の奪去」(事実的な可能性)としてのみ可能であるような「非力な」(「根拠付け(Begrunden) 」の)意志だからである。この意志は「未だ-ない」こととしての現存在の「非力な」自己に属していることによって、つまり、乗り越えが「非的」であることによって、世界内的に(「事実」-「頽落」的に)越える。
つまり、現存在の超越は内に(あるいは横に)向かって越えて行く。その意志は、従って「撤回 (zurucknehmen)」の意志であると共に「取り戻し (zurucknehmen) 」の意志でもあったのである(308)。
「先駆的決意性」と言われている、その意志は「現存在」をその本質上の「責めある存在(Schuldigsein)」、つまり死への未済の「非性」という点で「責めある」存在において了解するが、この被投性(=「非的」な「企投」)の「引き受け(Ubernahme) 」は「現存在は自分がそのつどすでに存在したとおり (wie es je schon war)のままで本来的に存在しているということ」(325f.)をいみしていたのである-「被投性の引き受けは、到来的な現存在が、自分のもっとも固有な『自分がそのつどすでに存在したとおりある』で、言いかえれば、自分の『既在』であることができるというふうにしか可能ではない。現存在が、私は既在しつつ存在しているという形でそもそも存在しているかぎりにおいてのみ、現存在は復帰して戻るというふうに、到来的に自分自身へと到来することができるのである」(326)。
この「復帰して戻る (zuruck-kommen) 」ことにおいて、現存在は、「現(そこ)のそのときどきの状況 (die jeweilige Situation des Da) 」を開示し「環境世界的に現存しているもの(Anwesendes)」を出会わせることができる(326)。
この超越の非性において現存在の超越と「世界の超越」(69節)とは重なるのであって、「現存在は実存しつつ」-まさに実存しつつ、つまり非的に超越しつつ-「自分の世界である( Dieses[Dasein] ist existierend seine Welt )」(364)と言われたのである。
もっとも、『存在と時間』第2編で「現存在の全体」と言われることになるもの、つまり「先駆的決意性」において「実存的」に証示された「死への存在」としての「現存在の全体性」が、「世界性」-「自然的世界概念」(52)をも包括する世界性(の全体)と単純に重なるかどうかは、難しい。
『形而上学とは何か』・『根拠の本質について』で頻繁に用いられる「存在者の全体」と言われているものと「現存在の全体」とははたして同じものなのだろうか。
4.現存在の全体性と(非=)本来性
ところで、周知のように「現存在の存在」としての〈関心 (Sorge)〉の構造は、(それが分節されれば)「実存性(Existenzialitat) 」、「事実性 (Faktizitat) 」、「頽落存在 (Verfallensein)」であった。「すなわち[世界内部的に出会われる存在者]の許での存在として、自己に先んじて[世界]の内ですでに存在している (Sich-vorweg-schon- sein-in-(der Welt-) als Sein bei(innerweltlich begegnendem Seienden)」(192)というものである。
「世界親密性」-「世界性という現象へと接近する通路」獲得のための「出発点」が「日常的」現存在の「親近」性としての「環境世界」に定位されながら(66)も、その試みの再開始を余儀なくさせていた「世界親密性」、つまり、「世界内部的に出会われるものに自分を喪失し、このものによって気を奪われること」の可能性は、それ自体、自分自身に「先んじる」(=「未だ-ない」)現存在の実存性に基づいている。この自己喪失が「積極的なもの」であると分析の当初から言い続けられたのは、「世界親密性」-特に内世界的には「事実性」と「頽落」に関わる-が、「関心」の「全体性」に関わっているからである。
しかし、関心の「日常性」は、それ自体の様式を関心の全体性として有しており、それは「配慮(Besorge) 」(及び「顧慮(Fursorge)」)と言われている。この場合、実存性は「予期」(期待)と言われる特定の様態をもち、実存性一般ではない。というよりも、「実存性」は「非本来的には」-つまり「日常的には」-「予期」であり、「本来的には」「先駆」であるというふうに分節されている。
「関心」は、『存在と時間』第2編(「現存在と時間性」)に入ってから全体として「時間性」へと「還元」(九鬼周造)され、「将来」としての実存性が「予期 (Gewaltigen) 」と「先駆 (Vorlaufen)」、「既在」としての事実性が「忘却 (Vergessen)」と「反復(Wiederholung)」、「現在」としての頽落存在が「現前化(Gegenwaltigen) 」と「瞬視(Augenblick)」とに分節されることになる。これらは「非本来的」関心(=配慮)、「本来的」関心(=先駆的決意)という仕方で関心の様態として、それぞれの全体として捉え返されているのである。
ハイデガーは、第1編(「現存在の予備的な基礎分析」)の終わりに近いところ-「関心」という現存在の「全体性」が(やっと)取り出されたところで、「実存性(Exis-tenzialitat)」、「事実性 (Faktizitat) 」、「頽落存在 (Verfallensein)」といった「分節されている(gegliedert)」構造が、そのように分節されざるを得ないかぎりで求められざるを得ない(こういった)「関心の構造上の多様性の統一と全体性とを存在論的に支えているような、更にいっそう根源的な現象」(196)を暗示している。これが現存在の存在の意味としての「時間性」、つまり「関心」の分節構造がそこへと還元される「時間性」(=「既在しつつ現前化する到来(gewesend-gegenwartigende Zukunft)」:326)であることは明らかである(cf.327)。しかし、そういわれながらも、その「時間性」は「本来的な時間性」と「非本来的時間性」とにふたたび分節されている(65節)。これでは「根源的現象」として「時間性」が取り出されたいみは曖昧になる(ようにおもわれる)。
たとえば、「時間性」への「還元」ということでいえば、そういった「本来性」と「非本来性」と言われているものの「時間性」こそが求められねばならないにもかかわらず、そのそれぞれに「到来」、「現在」、「既在」が先のように対応しているのであれば、この試みのいみは、曖昧なものにならざるを得ない。
言いかえれば、「日常性」の「配慮」にも「先駆的決意性」にも時間性格が認められるということ(ハイデガーの分析はそのように進んでいる)と、時間性への還元とは別のことのようにおもわれる。つまり(一つの)時間性の内部で、「本来性」と「非本来性」とが分節されるのではなく、それらが「本来的時間性」と「非本来的時間性」というふうに分節されるとすれば、そ(れら)の時間性の時間性-さしあたり、ハイデガーは「時間性は時間(時熟)するが、しかも、自分自身の様々な可能的な在り方を時間する(時熟させる)。これらさまざまの在り方が、現存在の存在様態の多様性を、なかんずく本来的及び非本来的実存という根本可能性を可能化するのである (Zeitlichkeit zeitgt und zwar mogliche Weisen ihrer selbst. Diese ermoglichen die Mannigfaltigkeit der Seinsmodi des Daseins, vor allem die Grundmoglichkeit der eigentlichen und uneigentlichen Existenz.)」(328)、と、「時間(時熟)する(zeitigen)」という「時間(Zeit)」という名詞の動詞的用法によって、この問題に触れている-はどうなっているのか、とふたたび問われる必要はないのだろうか。
「頽落」が、あるいは「本来性」-「非本来性」が「道徳的な」契機として「誤解」された(cf.『ヒューマニズム書簡』第6章2節)-M.ミュラーは、この間の事情を次のように言っていた。「この著作全体は最初からほとんどいつも心理学的かつ人間学的に解釈されたので、この負い目(「存在の有限的現の構成に属する負い目」、すなわち、「有限的現」の「非性」のこと:註・芦田)もまた『悲劇的ペシミズム』の標識として解釈されてしまい、かかる解釈の仕方によって著作を貫く指導的問い、すなわち存在への問いへの通路がすっかり遮断されてしまった。もっぱらこうした人間学的-心理学的な誤った解釈から生まれてくるのが、『英雄的ペシミズム』とか『悲劇主義』や『ニヒリズム』であり、また『不安の哲学』や『有限性の絶対化』などといったようなレッテルなのである」(前出69f.)-のは、時間性のこれらの様態が「時間(時熟)する」こと以上の問題として論究されることなく、曖昧なままにされたからではないだろうか。
この問題は、おそらく、時間性としては「現在」の問題である。「現在」は「日常的には」-「配慮」の契機としては、道具「の許にある」こととして規定されている。書くためにペンを(身近に-「手許」的に)もっているというふうに。書くことという(それ自体としてはふたたび何かのための帰趨性を有した)、この場合の企投(企投の日常的様態)は、そのことの「ための」さまざまな道具(「ペン、インク、紙、下敷き、机、ランプ(…)」68)を「現前化」させる。企投の日常的(「非本来的」)様態の特徴は、復帰することができる現在、つまり、それ〈で〉もって何かをすることができる道具の現在を有しているということである。このいみで現前性(Gegenwartigkeit) とは手許(道具)性の総体 (Zeugganzheit)-あれこれの企投(将来)がそこを参照することができるような-のことである。企投が、そこへと落ちていくところとして、それは、それゆえ「頽落(Verfallen) 存在」としての「現在」であったのである-だからこそ、「頽落」は「道徳的」ではなかったわけである。
「これに反して」(328)、先駆的決意性(「本来的関心」)の「現在」には「そのような暗示(Anzeige) が欠けている」(同前)、と、ハイデガーはそう言いながらも、次のように続けている。「このことは、頽落することの根拠が時間性のうちにもまたないということをいみするわけでなく、配慮された手許的存在者や眼前存在者へ頽落することを第一次的に基づけている現前化することは、根源的な時間性の様態(Modus) においては、将来と既在性の中に閉じこめられた(eingeschlossen)ままであるということを暗示しようとしている」(同前)。
そうして、ハイデガーは、その「閉じこめられた」、先駆的決意性の現在(「本来的」現在)を「瞬視(瞬間)」(Augenblick ) と名付けている-この「瞬視」を「『瞬視』Augen-blick とは『目』Augen で状況を『目差し、見る』Blick といういみでハイデガーは使っている」(『「存在と時間」入門』(渡辺二郎編)205)と「解説」されても「入門」としては難しいとおもわれる。
「閉じこめられている」ものとしての「瞬間」は、この場合、そのかぎりで「現在」には落ちて(verfallen) いないのだろうか。それは、落ちていないようにして「閉じこめられている」のだろうか。「関心(Sorge) 」の三契機-「等根源的 (gleichursprunglich)」(191)な構成契機だとされた三契機の一つである「頽落存在」は、たとえば実存性が「先駆」と「予期」というふうに振り当てられたようにしては、「現前化」と(ともに)「瞬視」というふうには様態化(つまり「本来的な」頽落存在というふうに様態化)されないのだろうか。「瞬視」ということが「脱現前化(Entgegenwartigung) 」(391)ということであるにしても、この「脱」(ent) ということは、「現在」に落ちないということなのだろうか。
「本来的実存もまた『住んでいる(wohnen)』のである」(川原栄峰『ハイデッガーの思惟』402)と言うのであれば、それは、単に「住む」という語の問題なのではなく、「脱現前化」としての「瞬視」と、ザイン・バイ(Sein-bei)としての頽落性-まさに「『私はある(Ich bin) 』の『ある(bin) 』と言う表現は『許で(bei) 』と関連がある」(54)とされた頽落性とを「時間性」として全体化する試みとともに言われなければ空虚なままにとどまるだろう。まさにそれは『存在と時間』という著作の構成全体に関わる「正念場」(川原栄峰・同前・361)なのである。
G.フィーガルは、この「閉じこめられた」現在の(無理解の)ために、「日常性」と「非本来性」とは「区別されなくてはならない」と言わなくてはならなくなる-「ハイデガーが世人(das Man) を『日常性の〈もっとも実在的な主体〉』と呼ぶにしても、日常性と非本来性とは区別されなければならない。すなわち、本来性や非本来性のいずれかに規定される存在様態に対して、日常性は『無関心 (indifferent)』である。言いかえれば、日常性において現存在は本来的にも非本来的にも実存する」(137,in: 『解釈学とは何か』-「不安定な自由における自己理解-マルティン・ハイデガーの解釈学的立場」)。
つまりこの「区別」の必要は、フィーガルがそもそも「本来性」と「非本来性」を対立的に並置する理解から来ている。「本来性」が「全体性」の問題であることが抜け落ちているのである。だから、実存の(「自己了解」としての)「自由」が「不安定な(instabil)」自由であることになる。
また竹市明弘は「根源的日常性」という造語まで案出して、「日常性」を擁護しようとしているが、フィーガルと同じように彼もまた「本来性」と「非本来性」とを対立的に理解し、つまり、「本来性」から「日常性」が締め出されてしまうというふうに理解し、「本来性」と「日常性」とが(『存在と時間』構成全体の)どこで「全体」化されることになるのかという問いかけを最初から断念しているのである-言いかえれば、竹市は辻村が世界性を「二義的」に解したように、その振り分けを「拒示する無」を形式化することによって、日常性(「根源的日常性」-日常性「B」と「通常」の日常性-日常性「A」というふうに)という別の概念に求め替えたにすぎないのである。問題は解決されたのではなくて、別の場所に移っただけである。(「無の現象学的分析から根源的日常性へ」in: 『思想』652号)
渡辺二郎は、「さてそれでは、本来的な『許での存在』はどのようにして可能になるのか」と自問し、「いかに本来的な現存在といえども-それは、先駆・瞬視・取り返しという本来的時間性の時熟において可能となる-、その際つねに同時に非本来的時間性の時熟の中に入り込み、これと交差せざるをえない(…)。或いは、その絡み合いの真相は、不分明のまま放置されているとも言われざるをえないわけである」。
ハイデガーの「結末」をそのように指摘して、「このことは何を意味するのか」と、渡辺二郎は、自分で考え始める。「してみれば、本来性と非本来性、真理と非真理、本来的時間性と非本来的時間性という対立を否定して、両者の絡み合いという中間項の中にこれらを媒介して全体化せざるをえない、言わば否定性の運動の必然性が、事態的には存立し、また承認されていたということにならざるをえない(…)。この両契機の変容と連関、その否定性を含んだ世界-内-存在する現存在の実存の力動的な生成の弁証法そのものを、ハイデガーは明確に分析の主題に据えることをしなかった(…)」(「無の問題をめぐるドイツ観念論期の思索とハイデガーの思索との連関」 21f.in:『哲学』30号)。
竹市が造語を案出してまで、ハイデガー(の用語)にこだわったのに対して、渡辺は、もはや全く別のコンテクストに立ち去っている。『存在と時間』は、翻訳者でさえある-私のこの論文は終始、渡辺(たち)の翻訳にお世話になっている-渡辺に見捨てられているのである-ついでに言えば、この渡辺の発表の「質問者」である山崎庸佑は、「人間が-人間以下ならともかく-およそ『根拠』なるものによって、真実人間として世にあらしめられているかぎり、非本来性と本来性といった截然たる対立的区別があろうはずはなく、区別を設けること自体、むしろ-ハイデガー哲学にのこる世界観的人生論的なものの残滓でないとすれば-正直にいって、哲学的な失敗ではないか。
あるいは非本来性と本来性の絡み合いは、渡辺氏も示唆されるように、『不分明のまま放置されている』というのが、実情ではないであろうか」(ibid.28) と、ハイデガー研究者(とされている)渡辺の結論に遠慮しながらもすりよっている。「本来的-非本来的」の「心理学的かつ人間学的な解釈」(M.ミュラー)によって。
デリダは、「本来性」を「近接性(proximite) の価値、すなわち、現前性一般の価値」に引き寄せて理解している。存在的-存在論的近接性(現存在の存在的-存在論的優位)と「本来性」の問題を等置するのがデリダのハイデガー理解である。しかし、本来性の問題は(時間性の問題として)全体性の問題である。全体性の問題としてのみ現存在の実存論的分析論の中心をなしているのである。「近接性の価値、すなわち、現前性一般の価値」つまり人間の人間への(存在的-存在論的)近さとしての「人間中心主義」の指摘(LES FINS DE L'HOMME in:Marges)には「全体性」=「世界-内-存在」としての現存在の超越の問題が抜けている。
抜けてしまうのは、「本来性」と「非本来性」との「対立(opposition)」(デリダ)を「根源的なもの」と「派生的なもの」との「対立」にまで、つまり(前者から後者への)「落ちる」ことのヘーゲル的水準、もしくはその「プラトニズム」にまで引き戻してしまうからである。「(…)根源的なものと派生的なものとの対立はやはりまだ形而上学的ではないだろうか。アルケー一般の探求は、この概念をどんな諸々の慎重さで包囲しようと、形而上学の「本質的な」オペラシオンではないだろうか。(…)頽落のうちには少なくともなんらかのプラトニズムがあるのではないか。どうして、一つの時間性からもう一つ別の時間性への移行(passage) を落ち込み(chute) として規定するのだろうか」(73f.in:Marges, OUSIA et GRAMME)というふうに。
時間性は、しかし、時間性としては「先駆的決意性」の時間性であるとハイデガーは言っている。「現象的根源的には、時間性は、現存在の本来的な全体存在に即して、つまり先駆的決意性という現象に即して経験される」(304)。つまり、「本来的時間性」とは時間性のことである。
「死への存在 (Sein zum Tode)」が『存在と時間』第二篇「現存在と時間性」で分析される、その当初から問題になっているのは、現存在の全体存在可能性ということであるが、この場合、「全体」とは、「死へと関わる存在が根源的にまた本質上現存在の存在に帰属しているかぎり、死へと関わる存在はまた-たとえさしあたっては非本来的であるとしても-日常性のうちでも、呈示されうるのでなければならない」(252)ということの「全体」である。つまり、それは「非本来性(Uneigentlichkeit)は、その根底に可能的な本来性(mogliche Eigentlichkeit) を有している」(259)ということであって、そのように「本来性」は「非本来性」を可能にする全体として本来的なのである。
全体性とは、さしあたり「現存在のそのつどの可能な全体性を境界付け、規定している」(233)ものとしての現存在の終わりとしての死にいたる全体のことである。「日常性」が、その場合、比喩的に言って「生誕と死との『間(zwischen)』の存在」(233)であると考えられているかぎり、死への先駆(的決意)としての本来的実存は、非本来的実存と並ぶものではなくて、それを含むものと考えることができる。
とはいえ、この全体性(への先駆)は、その分析の当初から「絶望的な企て(ein hoff-nungsloses Unterfangen) 」として断念せざるをえないようにおもわれていた(236)。というのも、周知のように、それは、「未だ-ない」こととしての(現存在の)存在の未済としての死(実存的=死)に参照されるかぎりは、「未だ-ない」全体でしかなかったからである-「現存在は『現存在が存在しているかぎり(solange es ist)』、自分の終わりにいたるまで(bis zu seinem Ende)、自分が存在できることへ(zu seinem Seinkonnen)と態度をとっている。現存在が、まだ実存していながらも、もはや『前途(vor sich)』に何ものをももたず、『自分に決着(自分の決算)をつけてしまった(seine Rechnung abgeschlossen)』ときですら、現存在の存在はなお『自己に先んじて』によって規定されている」(236)。そのいみで、全体的実存-「自己に先んじて」全体存在すること-というのは一つの「矛盾 (widersprechen)」(389)であったのである。
しかし、現存在にとってのあらゆる存在可能(あることができること)が死の可能性であること、つまり、死の未だ-ないこととしての死の可能性(=不可能性)であることはすでにはっきりしている-だから、そのつど現存在がそれである「未だ-ない (noch- nicht)」は、厳密に言われる場合には「未済(Ausstand)」ではない(246)。決算される「総計 (Summe)」として死は現存在の「全体」であるのではない(242)。
「現存在は自分が未だ-ない(noch-nicht)ということが補充された(aufgefullt)ときにはじめて、いっしょになって存在するどころか、そのときにこそもはや存在していないのである」(243)。「『未完成の (unvollendetes)』現存在であっても終わる」し「また他方、現存在は自分の死とともにはじめて成熟に達する必要はないどころか、終わりに至る以前にすでに成熟を踏み越えてしまっていることもある。たいていは現存在は未完成のうちに終わるか、さもなければ崩壊したり憔悴したりして終わるのである」(244)。
つまり現存在の「未だ-ない」は、その種の「完成」(「成熟」)や「未完成」(「崩壊」「憔悴」)よりも先にあることとして「未だ-ない」のである。「自分の終わりにいたるまで(bis zu seinem Ende)、自分が存在できることへ(zu seinem Seinkonnen)と態度をとっている」というのは、それゆえ、現存在は「終わりにいたるまで」自分の終わりであることなのである。「現存在は現存在が存在しているかぎり、不断に、自分の未だ-ないであるが、それと同じく現存在は、いちはやくつねに自分の終わりである」(245)。
現存在は終わることができないこと-より先にあること、つまり「自分に先んじて」-として終わる。そもそも、現存在の「終わる」ということが、現存在の存在「できる」ことの別名であるからである。
可能性(=実存)として現存在はすでに全体である(cf.276)。それが現存在が死「への」存在 (Sein zum Tode)であることのいみである。
従って、現存在に全体性が拒まれる(「絶望的な企て」として断念されざるを得ない)のは、全体性が保持されざるを得ないことと同じ理由(Grund) によるのである。だからこそ、断片化されざるを得ない「間」としての日常性は、「誘惑(Versuchung)」-「現存在が頽落におちいる不断の誘惑」(177)なのである-断片化としての『存在と時間』の未完(中断)、あるいは、「誘惑」としての「ケーレ」。
先駆的決意性の現在が、将来と既在との中に「閉じこめられている」のは、それが可能性を「可能性として」保持することにおいて、死(「自己に先んじて」)を「現実(=現在)」化することを断念している(cf.262)-先駆的決意性の「非決意 (Unent-schlossenheit)」(299)-からである。決意は「非力 (nichtig)」である。この(非=)決意において先駆的決意性は「責め(が)ある(schuldig)」。「決意性の固有ないみのうちには、この責めある存在(Schuldigsein)をめがけて自己を企投することがひそんでいるのだが、現存在が存在してるかぎり、現存在はそうした責めある存在として存在している」(305)。ハイデガーは次のように続けている。
★決意してこそ、現存在は、自分が自分の非力さの非力な根拠であるということを、自 分の実存において本来的に引き受ける。死をわれわれは、実存論的には、先に特徴付け ておいたとおり、実存の不可能性の可能性として、言いかえれば、現存在の絶対的な非 力さとして把握した。死は、現存在にその『終わり』に際して継ぎ合わされるのではな く、関心として現存在は、自分の死の被投的な(言いかえれば非力な)根拠なのである。 現存在の存在を根源的にあまねく支配している非力さは、死へと関わる本来的存在にお いて、現存在自身に露呈してくる。先駆こそが、現存在の全体的存在の根拠のうちから、 責めある存在をはじめてあらわにする。関心は死と責めとを等根源的に自分のうちに蔵 している(bergen)のである。(306)
非力さの根拠ではなくて、その非力さの非力な根拠であるということ - 後の『根拠の本質について』では「根拠への自由」と言われることになる - が、ハイデガーの非性の存在論をあらゆる弁証法的な非性(=「否定性(Negativitat) 」)、つまり、非性の弁証法的な根拠付けから分けている。この点で、W.シュルツの古典的労作「M.ハイデガーの哲学史的位置付けについて(1953/4)」(in:Otto Poeggeler(Hrsg.) Heidegger, Athenaum Taschenbuecher) は、古典的ゆえに根深い誤解-特にハイデガーの〈無〉(拒示的無)を「弁証法的媒介 (eine dialektische Vermittlung)」(109) において理解している点で-にみちている。この傾向は、比較的最近の(大著)「自我と世界 (Ich und Welt) 」(1979)-副題は「主観性の哲学」である-において(10節)も基本的に変わっていない。
ヘーゲルの否定性は「否定的なものを存在へと向け返す(umkehren)」「威力 (Macht)」(『精神現象学』序論)-これはシュルツがハイデガーの「ケーレ」を「無から存在へのケーレ」(110) と理解するのと無縁ではない-であって、ハイデガーの決意の非性は、この「威力」に対してこそ、「非力」であることによって、あらゆる「非性の存在論的根源(der ontologische Ursprung der Nichtheit)」(286)であるはずなのである(cf.285f.)。
「非力さの非力な根拠である」ことを「引き受ける (ubernehmen) 」ということは、そのいみからも、「非本来性」の「非」として「頽落すること」を先駆的決意性の非力さにおいて「非力」に根拠付けるということである。現存在は非力さの根拠としてこそ「非力」-言われているとおり「非力な根拠」として-だからである。「この非力さこそ、頽落における非本来的な現存在という非力さの可能性にとっての根拠なのだが、現存在はそのつどすでにそうした頽落としてつねに現事実的に存在している」(285)。
「関心」が先駆的決意性として全体であるのは「関心」が先駆的決意性として「徹頭徹尾非力さに浸透されている」-「関心自身は、その本質において徹頭徹尾非力さによって浸透されている」(285)ことによって、頽落(「配慮」)の非力な根拠-したがって、「非本来性」の「非」の「非力な根拠」-としてであり、だからこそ、「関心はたとえ欠性的(privativ)でしかないにせよ、常に配慮的な関心であり、顧慮的な関心である」(194)と言われていたのである。
全体性が拒まれると同時に生きられているのは、それゆえ、現存在の存在(=関心)が「被投的企投として」(つまり先駆的決意として)「非力さということの(非力な)根拠である」(285)という理由からであり、「誘惑」は非力な根拠に非力に基づくのである。
この「根拠」であることの「重さ」-「非力」なゆえの-が、「不安の気分」と言われていた(cf.284)。「気分」というのは、「非力な」決意性の現在、つまり、「将来と既在性に閉じこめられた」現在の現前性のことである。つまり「閉じこめられている」というのは、その現在が「非力」であることのいみなのである。それは、「閉じこめられる」こととして「非力」に現在へと「落ちる」のではなかったか。
「不安」は「不安現象」として現存在に与えられている。「不安」が『存在と時間』で最初に取り上げられるのは、(周知のように)「第6章・現存在の存在として関心」でのことであり、その40節は「現存在の際立った開示性としての不安という根本情態性」となっている。「現存在の存在」としての「関心」は、この「際立った開示性」としての「不安」が現象として指示されたあとに、とりだされる。「不安は現存在が存在できることとして、不安において開示された現存在自身と一つになって、現存在の根源的な存在全体性を明示的にとらえるための現象的地盤を与える。現存在の存在は関心として露呈する」(182)。「不安」は「現存在の根源的な存在全体性 (Seinsganzheit)」-あるいは「現存在の構造全体の根源的な全体性」(180)ともいわれている-の「地盤 (Boden) 」である。そのような「全体性」の、「存在的『解明』」(184)-現存在が「存在的に開示するもの (was das Dasein selbst ontisch erschliesst)」(185)の解釈として「不安現象」の解釈がなされている。
ここで、(「全体性」の)「地盤」とか「存在的 (ontisch)」な開示性と言われていることのいみは、先駆的決意性の「本来的な全体性」が落ちる「現在」が「不安」であることなのである。つまり「瞬視」の(「存在的」な)可能性は、「不安」である。「不安の現在(Ihre(der Angst) Gegenwart) 自身が瞬視として可能なのであり、また不安の現在のみが瞬視として可能なのだが、そうした不安の現在は、瞬視を、まさに跳躍させようと保持している(auf dem Sprung halt) 」(344)。
先駆(的決意)が死への(「非的な」)企投として現存在の「全体」存在可能であったように、だから、「不安」は「死を前にする不安(die Angst vor dem Tode)」(251)であったのである。「死への存在は、本質上、不安である」(266)。「不安がその前(vor) へともたらすその無(Nichts, davor die Angst bringt)は、現存在をその根拠において規定している非力さを露呈させるのだが、この根拠自身は死の中への被投性として存在している」(308)。
不安の「前(vor) 」にするというのは、現存在の死を「前」にするということである。「前」にするという点では、その対象性といういみで、不安は死「の許にある」頽落性-ある種の眼前存在性(vor-handenheit)なのである。しかし、死の頽落性の現在は、その場合、何「のために」存在している-つまりどのように有意義化(指示)されている-のだろうか。
死の実存論的分析論が明らかにしたように、死は追い越し得ない(unuberholbar)ものとして(の現存在の「存在できる」で)あったのだから、この現在は帰趨(用向き)をもたない現在でしかない。そのいみで、「不安の対象(Wovor) においては『それは無であってどこにもない』ということがあらわになる」(187)と言われていたのである。
それゆえ、不安の「前 (vor)」とは、現存在の実存性としての「自己に先んじて(sich vor -weg) 」の「先 (vor)」-だからそれは現存在の「死」のことである。それは「先」んじているものの「前」にあることとして死を対象にしているのである。「死」は「自分を無にする無」として「不安の無」である。
不安の「前」は、「先」から来る「前」(=後)-この「先」から来る「前」(=後)のうごきが、デリダによって形式化されてしまうと「差延(differance)」(differer + different)と呼ばれることになる(差延と死との連関については「猶予される時間」(片山恭一)in:『試行』67号を参照されたし)-として、それ自身が、何かの「ため(um- zu)」の理由(Worum)であるような「前」である。「不安がそのために不安がる理由は、不安がそれを前にして不安がる対象」と、同じものであって、それをハイデガーは「実存論的自同性」(188)-「不安がそれを前にして不安がる対象と不安がそのために不安がる理由との実存論的自同性(Die Selbigkeit des Wovor der Angst und ihres Worum)」-と呼んだのである。
なにかができることとして情態的に自己を見出している現存在-「世界開放」的現存在は、これということもなく存在できるが、これということもなく不安になる。情態性の、これということもなくは、情態性として開放されている世界-内-存在自身が不安であることのいみである。
「不安がること(Sichangsten) は情態性として世界-内-存在の一つの在り方なのであり、不安の対象(Wovor) は被投された世界-内-存在なのであり、不安の理由(Worum) は世界-内-存在できる(In-der-Welt-sein-koennen)ことである」(191)。
先駆的決意の現在が将来と既在性とのあいだに「閉じこめられたままである」のは、不安が「実存論的自同性」において「自己を狭める (Sichangsten)」(=「瞬間」)-「息苦しいほどの近さ」(186)において-からである。「被投された」世界-内-存在と世界-内-存在「できる」こととして、不安は世界-内-存在「である」現存在の全体である。 〈そこ〉で「不安(Sichangsten) 」が「自己を狭める(Sichangsten) 」のは、一つの拒示(Abweisung)として手許存在者を指示する(verweisen) からである。拒示というのは、気分としてはこれということもなくであり、それはこれということもなく手許存在者を出会わせるのである。
不安になることがこれということもなく(理由なく)訪れる(betreffen) ように、不安になることの理由などない。それは、先駆的に決意することに理由がないのと同じことである。というのも、それは、(これということもなく)存在できることとして、先駆的決意であるからである。これということもなくペンをとることができるようにして、先駆的決意であるからである。つまり世界-内-存在を(「全体」として)可能にすることとして先駆的決意であるからである。これということもなくということは、それゆえ、決意の反対(opposition)ではない。一つの「非決意」(299)としても、それは「非力な」決意なのである。「非力な」決意として「不安の気分」へと(非力に)落ちているのである。
決意性(Entschlossenheit)は、本来的な自己存在(eigentliches Selbstsein) として、現存在をその世界から引き離したり、現存在を宙に浮いた自我へと孤立させたりはしない。決意性がどうしてそんなことをするわけがあろうか-なんとしても決意性は、本来的開示性として、世界-内-存在として以外には決して本来的に存在することがないからである。決意性は、自己をまさしく手許(道具)存在者の許でのそのときどきの配慮的に気遣いつつある存在(das jeweilige besorgende Sein bei Zuhandenem)の中へと引き入れ、また自己を、他者と共なる顧慮的に気遣いつつある共存在(das fursorgende Mit sein mit den Anderen) の中へと押しやるのである。(298)
決意性は不安の非力な決意として世界-内-存在である。
「(非=)決意」として「落ちる」。世界内に「落ちる」。
ところで、「ひと (das Man)」が「自殺」できないのはなぜなのだろう。一つの高みから「転落 (Absturz)」(178)死する自殺(“決意”しての死)が、それでもなおそれは自殺であると言えないのはなぜだろう。おそらく、それは「落ちる」途中で(「間」に)死ぬことを後悔したかも知れない-〈神〉が〈世界〉を〈創造〉した(〈神〉が〈世界(内)〉に「落ちる」)ことに後悔しているかも知れないように-という憶測をだれも拒めはしないからである。拒めないのは、どんな自殺も道具死(世界内死)-何か〈で〉死ぬ-であるからである。
道具死であるということは、道具の「ために (um- zu) 」は、いつでも中断される-その「非」道具存在性によって-ことができるといういみで、死ぬことを断念することができるということである。しかし、どんな死に方を“考案”したところで、死を中断することが「できる」道具(「瞬間」に死ぬことが「できる」道具)というようなものはない。というのも「できる」というのは、それ自体「自己に先んじる(sich vor - weg)」といういみでの一つの延期であったからである。道具死(自殺)を中断することが「できる」のは、したがって、死ぬことそのものによってでしかない。
あらゆる中断は死ぬことのほうから、死ぬことを「前 (vor)」にしてやってくる。つまり、どんな道具-死ぬという意志(死ぬ「ための」意志という道具)さえ-も、それが用いられるのには時間がかかることによって、死の時間(「実存論的自同性」としての瞬間)には間に合わない-だから(死への)先駆的決意性の現在は将来と既在の「間」に「閉じこめられている」のである。
間に合わないことによって自殺の中断、つまり自殺を事故死にする中断がおこる(geschehen) 。つまり一つの死の中断はもう一つ別の死が介在することによってしか可能ではないのである。死を中断することが「できる」のは、それ自身死である。死は〈自己=死〉する。
死ぬことは、「落ちる」ことの「先(何かのためとしての)」-落ちて(から)死ぬというふうに-だが、しかし、死ぬことはもう一つの別の死として「後」からも追ってくる(cf.184)。死ぬことは落ちて死ぬまで待てないのである。それは事故死であったかもしれない。「後」からの死としてはである。つまり「落ちる」ということはこれということもなく-自殺(「前」としての vor)と事故死(「後」としての vor)との「実存論的自同性」における〈自己=死〉において-「落ちる」こととしてしか不可能なのである。
落ちて死ぬということは、それゆえ、いつでも、これということもなく死ぬということである。だから先駆的決意性が、「落ちる」こととして死ぬことは、一つの(非=)決意であったのである。
「落ちる」こととして死ぬこと=非本来性であることは、先駆的決意性の〈自己=死〉として、〈自己=死〉の全体として世界-内-存在である。落ちる「間」に現存在の「日常性」は生きられている。先駆的決意性の〈自己=死〉として、これということもなく「日常性」は生きられている。
5.現存在の全体性と「存在の問い」
しかし、現存在の全体性が、その非力さにおいて、全体的であるのだとしても、その非力さは、日常性の実存論的-存在論的基礎付けのためだけのものではなかったはずである。非力さが日常性だけの基礎付けに終われば、『存在と時間』の全体は、人間学の存在論的変種の一つにとどまるしかないだろう。そうだとすれば、存在「一般」の意味はいったいどうなっているのだろうか。
非力さの非性は、もともと、良心における負い目の問題として、「現存在の自己を世人の中への喪失から呼び開く」(274)といういみで、「世人の中への喪失」つまり「自己忘却的な喪失を脅かす」(277)非性でもあったこと、その非性の「脅かし」といういみで脅かされているのは「日常的な」(非本来的な)現存在であることははっきりしている。フィーガルやデリダらの混乱は、『存在と時間』第2編に入ってのこの差別を「存在の問い」の課題を抜きに拡大して理解するところからきていたものだが、しかしむしろ、この差別は『存在と時間』の企てを「世界観的人生論的なもの」(前出・山崎庸佑)からこそ差別するためのものであって、その逆ではないのである。
なるほど、ハイデガーはそうした混乱を誘発するかのように、たとえば次のように言っている。「先駆は、何ら捏造されて現存在に押し付けられた可能性ではなく、現存在のうちで証しされた、実存的に存在できることの一様相(Modus) なのであって、現存在が決意したものとして本来的に自分を了解しているとすれば、現存在はあえてそうした様相を自分に要求するということ(…)」(309)。
もし本来性がそのように先駆における全体性の様相化の契機であるとすれば、日常性とは別の「様相」を現存在はもつのではないか。「二元論」的に。
たしかに、様相性としての記述は良心論の全体の中で散在しているのであって、任意にあげても次のようなものがあげられる。「黙秘(Verschwiegenheit)」-「世人の悟性的分別の騒々しい空談」に対する-(296)、「静けさ(Stille)」-「呼び声は、不気味さという無言の静寂(Lautlosigkeit) からやってきて、呼び開かれた現存在を静まりかえるべきものとして、現存在自身の静けさのうちへと呼び返す」(296)、もしくは「醒めきった不安」における「歓喜(Freude)」-「先駆的決意性は、実存とその諸可能性とを飛び越えている『理想主義的』要求から由来するのではなく、現存在の事実的な諸根本可能性の醒めきった了解から発現する。単独化された存在可能に直面させるこの醒めきった(nuchtern)不安には、こうした可能性で覚える身構えのできた歓喜(gerustete Freude) をともなっている」(310)、あるいは、その単独化の様相をもっと具体的に言えば、「『世間的な』声望や能力の無視」-「良心の呼び声は、呼びかけにおいて、現存在のすべての『世間的な』声望や能力を無視する」(307)、等々。
しかし、こういった(コン-テクストにおける)、たとえば「歓喜」といった「根本気分の分析は、その基礎存在論的な目標(Ziel)を通じて当面の解釈に定められている諸限界を踏み越えることになる」(310)と、ハイデガーはすぐに続けている。つまり、どんな(どんな様相を有した)現存在(人間)が、「本来的」なのか、あるいは「本来的」に「決意」しているのか、という問題は、基礎的存在論の積極的な主題ではありえないということである。
もちろん、ここで言われている「基礎存在論的な目標」というものは、周知のように、存在「一般」の意味とは何か、特に、存在的-存在論的差異における存在(の意味)とは何かということであって、基礎存在論的、つまり前-存在論的な分析は、そこへと定位付けられている「諸限界」を越えるわけにはいかないということをいみしている。
ここでおもい起こすべきなのは、世界-内-存在としての現存在の分析が進んで「内存在そのもの」の「主題的な分析の課題」(第28節の標題)を明示するときにも、それまでの「予備的な分析」については「哲学的人間学の実存論的なア・プリオリなものをまとまりをつけて仕上げるという点に着目すれば、さまざまに補足される必要がある」と、ハイデガーが言い、続けて「だが、そうしたことを目下の根本的探求は目指しているのではない。この根本的探求の意図は一基礎存在論的な意図(Absicht) なのである」(131)としていることである。
この分析の当初の段階でもはっきりしていることは、「現存在の存在の統一的な根源的な構造を現象的に引き立てること」(130)が実存論的分析論の「最も近い目標」であって、そのかぎりでのみ、世界-内-存在の諸相がこの分析のまなざし(の内部)に入ってきているということである。
そして、その「統一的な根源的な構造」が(不安現象の分析でもって)「関心」として析出され、さらに第一編の最後で、ハイデガーは次のように言っている。「しかし、関心という現象でもって、現存在の最も根源的な実存論的・存在論的機構(Verfassung)が開示されて存在している(erschlossen ist )のであろうか。関心という現象のうちにひそんでいる構造上の多様性は、事実的な現存在の存在の最も根源的な全体性を与えるのであろうか。これまでの根本的探求は、そもそも現存在を全体としてまなざしのうちへと取り入れていたのであろうか」(230)。ここで erschlossen ist という場合の「存在している」が斜体(傍点)で強調されているのは、「現存在の最も根源的な実存論的・存在論的機構」の「実存的な証示」(=「先駆的決意性」)を予想して言われているのは明らかである。そして、「関心という現象のうちにひそんでいる構造上の多様性」の中で与えられる「死への実存的な存在」(=「先駆的決意性」)(234)が、全体性として(存在的に)開示された、つまり「関心の様相 (Modus der Sorge)」(234)であることをはっきりさせることが、公刊された『存在と時間』後半(第2編)の最初の課題だったのである。
つまり、本来性が「様相」として非本来性と対立するのは、「現存在の最も根源的な実存論的・存在論的機構」としての「関心」の全体性、さらには「現存在の実存性の根源的な存在論的な根拠」(234)としての「時間性」を目指すかぎりにおいて対立するのであって-またそれを目指すかぎりでの様相が指摘されればよかったのであって-、「人間学(人間論)的」に、あるいは生きざまとして対立しているわけではない。だからこそ、「本来性」-「非本来性」は、一つの「価値」でも「道徳」の問題でもなかったのである。
しかし、なにがしかの様相上の、つまり「実存的」-「実存論的」なものに対して-な差異が指摘されねばならないということ、あるいは、そのことによって、特定の様相(先駆的決意性)が、その特定の目的(存在論的企投)に対してプライオリティーを有しているということは、「道徳」の問題とまで言わないにせよ、ある種の価値性、あるいは任意性を招き寄せざるをえないという問題は残る。もちろん、それは否定される必要はないのであって、良心論-先駆的決意性の議論のしめくくりのところで、ハイデガーは次のように言っている。「以上遂行されてきた現存在の実存の存在論的な解釈の根底には、本来的実存についてのある特定の存在的な把捉が、つまり現存在の或る事実的な理想が、ひそんでいるのではないだろうか。事実その通りなのである」(310)。
もしそうだとすれば、特定の「理想」=「実存の理念」が、それとして選ばれねばならない根拠は、どこにあることになるのか、言いかえれば、「先駆的決意性が、他のあらゆる実存的可能性に比して、最も根源的であると言う保証はどこにあるのか」(竹市明弘-講座『現象学』1 332㌻)-竹市自身は、結局のところ、「先駆的決意性自身の根源性は、その実存的な自証経験に基づくという他ないことになる」(同前328㌻)と言って(としか言わず)、この問題をふたたび人間学的な地平に狭隘化している。
ハイデガーは、第9節(「現存在の分析論の主題」)-第1章「現存在の予備的分析の課題の開陳」という章題をもつ、その最初の節-を、次のように始めている。「その分析が課題になっている存在者は、そのつどわれわれ自身である。この存在者の存在はそのつど私のものである。この存在者の存在において、この存在者はそれ自身自分の存在へと態度をとっている。この存在の存在者として、この存在者は、自分の固有な関わる存在(seinem eigenen Zu-sein)に委ねられている(uberantworten) 。存在とは、この存在者にはそれ自身そのつどそれへと関わり行くことが関心の的であるもののことである」(41f.)。そして、周知の通り、このことを「二重に」性格付け、1)現存在の本質は「関わる存在」として、その「実存(Existenz)」にひそむということと、2)この「実存」は、「そのつど私のもの(je meines) 」であるということをあげている(42)。
しかし、これらはハイデガーも指摘しているように「現存在の実存機構」の「形式的な(formal)意味」(43)にすぎない。「形式的」といういみでの「素描(skizzieren)」は、「現存在というこの存在者の分析論がある独特の現象区域に当面することを暗示している」-特に「実在性」という「伝統的な」存在概念を前もってしりぞけるといういみで-とはいえ、その限りで、それは一つの「前渡し (Vorgabe)」(43)に属することなのであって、それ以上のいみを有しているわけではない。そして、そのいみでこそ「実存の実存性」としてのこの「形式」性は、「実存についての何らかの具体的な可能的理念に基づいて構成することでは有り得ない」(43)、そのような「形式」性であったし、その限りで、この「発端 (Ausgang) 」は、様相上、「日常性という無差別性 (Indifferenz der Alltaglichkeit) 」において、開かれていたのである。
★この「形式的な意味」は日常性の分析の進展につれて、この議論で前から出ているように「関心」というふうに析出されていくが、しかし、それが形式的な全体であることに変わりはなかった。そこで、再度次の、第一編の最後のテクストが問題にされねばならない。「しかし、関心という現象でもって、現存在の最も根源的な実存論的・存在論的機構(Verfassung)が開示されて存在しているのであろうか。関心という現象のうちにひそんでいる構造上の多様性は、事実的な現存在の存在の最も根源的な全体性を与えるのであろうか。これまでの根本的探求は、そもそも現存在を全体としてまなざしのうちへと取り入れていたのであろうか」(230)。
「根源的な全体性」と言われているものが「時間性」であること、つまり、「関心」をさらに「時間性」へと、言わば還元することが次の第二編「現存在と時間性」の課題であることは明らかであるが、先の議論での「存在している」の斜体(傍点)の強調と、ここでの強調「全体として」とは対になった形で、この引用のコン-テクスト全体を構成している。ここで言われている「全体」は、「機構」あるいは「構造」としての「全体」ではむろんないのであって、それは、さしあたり「関心」ということが取り出されている、あるいは「前渡し」されているかぎりで「形式的」にはすんでいる。そうではなくて「全体」は「日常性」という様相上の相対性に対して言われているのである。
ここでは「存在的な」全体=先駆的決意性-またそれに即して読み取られる時間性こそが、実存論的分析論の次の課題であることが暗示されているのである。極端に言えば、様相上の無差別(日常性)から、差別(先駆的決意)に向かって、第二編は始まっており、しかもそのことが全体性という概念の確保をめぐって行われることになる、さらに、その様相上の対立(差異)から形式中の形式とも言える「時間性」が取り出されることになるのであれば、先駆的決意性が「実存の理想」であるということを「事実その通りなのである」などといって、簡単にすますわけにはいかないのではないか。
つまり、一方では、「それ(先駆的決意性)に即して」読み取られるべき「形式」としての、その限りで全体としての「関心」がそこへと還元される「時間性」があって、また一方では、それ(時間性)を「目標」にして読み取られるべき(差別化された)様相としての先駆的決意性がある、これは、「循環」であるし、また、この場合、「先駆的決意性」-特に「哲学的人間学」的規定ではないとされた-が「実存の理想」-ハイデガーの言う「存在的把捉」としての-にすぎないのであれば、この循環の全体は、それ自体、任意なものにすぎない、つまり、結局のところ、先駆的決意性自身の根源性は、「実存的な自証経験」(竹市)に基づくというほかないようにおもわれる。
「循環」ということについては、「決定的なことは、循環のうちから抜け出ることではなく、むしろ循環のうちへと正しい仕方にしたがってはいりこむことである」(153)とハイデガーが言っていることからすれば、実存の実存的な「自証経験」が特に退けられねばならない理由などないが、この「自証経験」が「日常性の有りのままに根源性を与える道」(竹市・同前335㌻)に向いているとすれば、「存在の問い」の問題はすでに棄却されているのである-竹市自身は、ハイデガーは「結局、存在についての一つのミュートスを語ってしまった」(334㌻)と言って、この棄却をむしろ積極的に理解する。しかし、それは、ハイデガー理解としては、批判するにしても評価するにしてもやはり一つの混乱とでも言うほかないのである。
何が問題なのだろうか。
先の引用での、例の Es geht um …という現存在の規定が二重化されて「実存 (Existenz) 」と「そのつど私のもの(je meines) 」とされているところで、それを「実存の実存性」の「形式的な意味」という点から考えたことについて、この二重性は、第二編の最初で「死への存在」という形でふたたび統一されているようにおもわれる。実存、つまり「関わる存在 (Zu-sein)」の「関(Zu)」ということも、「そのつど私のもの(je meines) 」の「各自性(Jemeinigkeit)」も、ふたたび、「死への存在」としての現存在の分析によって(第二編の最初で)捉え返されてくる。この場合、「死への存在」(という規定)は、単なる「形式」でもなければ、「様相」でもないもののようにおもわれる。
ハイデガーは、この第二編の最初で、「求められているのは存在一般の意味への問いに対する答えであり、それに先立って、すべての存在論にとってのこの根本問題を徹底的に仕上げる可能性である」(231)と、ふたたび、「実存論的分析論」の「目標」を喚起し、それに続けて次のように言っている。「だが、存在一般といったようなものが了解可能になる地平から邪魔ものを取り払うこと(Freilegung)は、存在了解内容一般の可能性を解明することと同じことになるのであって、この存在了解内容自身は、我々が現存在と名付ける存在者の機構に属している」(231)。
ここで「存在了解内容 (Seinsverstandnis) 」と言われているものは「日常性」の分析において扱われていた了解性(「日常的」な存在了解)を含んで言われているが、しかし、もしこの了解性(の解明)が、「存在一般といったようなものが了解可能になる地平から邪魔ものを取り払うこと(Freilegung)」と「同じことになる」-この同一性が「循環」と指摘(批判)されねばならないところであるが-のであれば、現存在の「日常性」の存在論上の「可能性」が、現存在の存在了解内容の「全体」であるのかどうか、特に「存在一般といったようなものが了解可能になる地平から邪魔ものを取り払うこと(Freilegung)」にとって「全体」的に寄与し得るのかどうなのかが問われねばならないのである。
そこでハイデガーは次のように問い返している。「実存論的分析は、この分析が日常性にその発端を置くことによって、全体的な現存在を-つまりその『始め』からその『終り』にいたるまでのこの存在者を、主題化する現象学的なまなざしの中へと押しいれたと、いつ、また、いかにして確認したのであろうか。
なるほど、関心が現存在機構の構造全体の全体性だということは、主張されていた。しかし解釈のためにおかれた日常性というこの発端のうちにすでに、現存在を全体としてまなざしのうちへともたらす可能性を断念することがひそんでいなかったであろうか。なんといっても日常性は、まさしく生誕と死との『間』の存在なのである」(233)。この地点でこそ様相上の無差別(Indifferenz) から差別へと転換し、日常性が現存在の「全体性」から相対化されねばならないということが求められていたのである。
しかし、この問題はむろん単純ではない。先の引用に続けてハイデガーは次のように言っている。「しかも、実存が現存在の存在を規定し、また実存の本質が存在可能によって共に構成されているのだとすれば、現存在は、実存するかぎりは、存在可能ということにとどまりつつ、そのつど未だ何ものかであるのではないはずである。実存が、その本質をなすような存在者は、自分が全体的な存在者として捕捉される可能性に、本質上逆らうのである」(233)。
ハイデガーは、このコン-テクストで「現存在のこれまでの実存論的分析は、根源性に対する権利を要求できない」とし、これまでの解釈上の「予持の中にあったものは、常に現存在の非本来的な存在でしかなく、しかもこの現存在は非全体的な現存在にすぎなかった」(233)と反省しているが、ここで注意すべきなのは、実存する存在者が「自分が全体的な存在者として捕捉される可能性に、本質上逆らう」という認識が、現存在の「全体性」においては撤回されるということについて特に差別されているわけではないということである。
むしろ、「本質上逆らう」からこそ、「日常性」の分析は「本質的」であったのであって、そのことを含めて、「死への存在」として現存在の「全体性」が、新たな(様相上の、つまり「実存的な(existenziell)」)差別において明らかにされると考えるべきなのである。
日常性が「様相」として先駆的決意性から差別されざるをえないのは、それが「未だ-ない」ものの様相、つまり「実存の実存性」としての様相を指し示し得ないからである。それは、日常性の中では、道具の損傷といった非性、恐れ(という非性)の現象、究極的には不安現象といった形で取り出されていた-「非性の存在論的根源」の問題の系列(の一部)として-ものであるが、不安現象でさえ、それは「もともと何でもなかったのだ(Es war eigentlich nichts)」というふうに、少なくとも日常性の内部では、ふたたび日常性に「埋没する」という仕方の「様相」でしか現われないものだった。
そのことは、時間性の問題としてはやはり「現在」の問題である。日常性の「頽落」を形成しているのは、時間性としては「現前化」という仕方での「現在」であって、ハイデガーも言うように「現前化することは、現在のために現前化する」(347)。「(…)現在は、それ自身からは、決して現在以外のなんらかの脱自的地平を獲得することはないのであって、もしも獲得することがあるとすれば、この現在が、決意においておのれの喪失性から連れ戻され、こうして、保持された瞬視としてそのときどきの状況を開示し、死へと関わる存在という根源的な『限界状況』をそれといっしょに開示するに至るときだけである」(348f.)。
たとえば、日常性での将来(未だ-ない)と既在の様相としての「好奇心」についていえば、「(…)好奇心は可能性というものを予期しておらず、すでに可能性をただ現実的なものとしてだけおのれの渇望のうちで熱望するというように、非本来的に到来的なのである」(347)し、好奇心の「現在の『発現しつつ跳び去る』 (Entspringen der Gegenwart) ということのうちには同時に、増大して行く忘却がひそんでいる」(347)と言われている。
つまり、ハイデガーが「非本来的時間性」として、あたかも、予期(将来)、忘却(既在)、現前化(現在)と三契機を有しているかのように論じていた(337~9)ものは、実はただ一つの契機、つまり現在という契機なのであって、「非本来的将来(到来)」=「予期 (Gewartigen) 」、あるいは「非本来的既在」=「忘却 (Vergessen)」とは、変様された現在(Gegenwart) にすぎない。したがって、実存を規定する「未だ-ない」といういみでの非性の問題は、日常性の諸様相の中では基本的に解消されざるを得ない、つまり「もともと何でもなかったのだ」というふうに解消されざるを得ないのである。
結局、対立しているのは(「対立」という言葉を使うとすれば)「将来-既在」と「現在」なのであって、「関心」の構造として言えば、「(世界内部的に出会われる存在者)の許での存在として、自己に先んじて(世界)の内で既に存在している(Sich-vorweg-schon-sein-in-(der Welt-)als Sein-bei(innerweltlich begegnendem Seienden)」という規定での「の許での存在として」の「として(als)」の前と後との対立である。様相上の対立は、この構造上の「対立」(存在的-存在論的差異)を浮き彫りにするかぎりにおいて取り出されているようにおもわれる。
そこで、たとえば、道具が損傷するとかいった仕方で実存の非性が暗示されていたようにして、さしあたり現存在が死ぬといった死現象が(現存在の全体性の主題として)取り上げられる。現存在の死というものは「様相」としては他者の死でしかない。自分の死の様相とは、死を(自分にとって)現前化することであるが、それに対しては死は「未だ-ない」ものであり続ける-「実存」(の死)として。しかし、死とは自分自身の死-「そのつど私のもの」としての-でしかない。他者が死ぬことによって、自分の死が免れるかといえばそうではない。そのようにハイデガーの現存在の「終り」としての「死」の分析(第47節以降)は進んでいる。
死は、そのいみで「未だ-ない」ものの「既に-ある」ものとして-「未だ-ない」ものの「引き受けざるを得ない(zu ubernehmen hat) 」既在(250)として現存在を全体化しているのである。
なぜそれが「全体である」のかと言えば、「引き受けざるを得ない」実存のアプリオリがあるとすれば-そのいみでの実存の「根源」というものがあるとすれば、その実存の「未だ-ない」こととしての死でしかないではないかということである。だからこそ、「循環」の指摘に対して、ハイデガーは「世界-内-存在は、自分が存在できることに関して、自分の死よりもいっそう高次の法廷をもっているのであろうか」(313)と反語で答えている(反語でしか答えていない)。なぜ反語でかと言えば、それは、論理的な反論でも、つまりそのいみで死は論理的なものではないし、あるいは「価値」からする反論でもない-死はそのいみではいつでも自然死としてしか訪れないだろうといういみで-からである。現存在の死(=「死への存在」)は「事実(Faktum)」-「様相」でも「形式」でもない-というほかないような位相を有している。
この場合、問題は二つある。一つは、その現存在の死と日常性とはどんな連関にあるのか、ということ。もう一つは、死への存在としての現存在の死が、「事実」として存在している(Es gibt) とすれば、そうであれば、先駆的決意はいったい何を決意する(している)のか、ということ。
現存在の死と日常性との関係という問題は、現存在の全体性としての現存在の死(=「死への存在」)が、日常性をどのように「間」に入れているのかということである。そして死が「引き受けざるを得ない」現存在の事実(=アプリオリ)であるとすれば、「日常性」において現存在が「引き受けざるを得ない」ものはなに一つないということであって-何かあれば示してほしいというのがハイデガーが先程の反語にこめたいみである-、「日常性」とはそのようなしかたで絶えず死に対して相対化されざるを得ない(諸)様相(無差別としての諸様相)なのだと言うしかない。
それに対して先駆的決意の様相性、つまり決意が何を決意しているのかということについて、それには答えがない。あるいは「答えを与え得るのは、決意自身のみである」(298)とハイデガーにならって言うほかない。レーヴィットが、ナチズム批判を意識してここの件りを揶揄していたが、この決意の「無規定性」は、あくまでも様相上の無規定性(「実存的な無規定性」)にすぎない。この限りで様相としての本来性は、様相としては、非本来性と何も変わりはしない(本来性は非本来性-その「非力さ」において-である)。「様相」とは「現前性」の別名だからである。どんな様相が本来的であるのか、ということを「前もって」(「引き受けざるを得ない」仕方で)提示することなどできはしない-逆に言えば、決意性はどんな様相でも「引き受ける」のである。
先駆的決意が「非力な」決意として(非=)決意であるのはそのためである。そのことははっきりしている。はっきりしているというのは、「実存的な無規定性」に対して、この無規定性は「実存論的な規定性」を有している(298)ということであって、それは、この決意が死への決意であることによって、どんな「前もって」もそこで相対化される「未だ-ない」ものの引き受け(既在)であるからである(302)。だから「決意した現存在」というハイデガーの言い方はどんな「人格」(人間のあれこれの恒常的な様相)をもいみしてはいない。
この「実存的な無規定性」といういみからハイデガーは「先駆的決意性」の「現在」は「将来と既在性の中に閉じ込められたままである」-「配慮された手許的存在者や眼前存在者へ頽落することを第一次的にもとづけている現前化することは、根源的な時間性の様相においては将来と既在性の中に閉じ込められたままである」(328)-ということを言ったのである。
ハイデガーは次のように言っている。「実存論的分析の存在論的『真理』は、根源的な実存的真理を根拠にして形成される。けれども、後者の実存的真理は前者の存在論的真理を必ずしも必要とはしない」(316)。このことが『存在と時間』の実存論的分析論をあらゆる人間学から隔てている。
この「必ずしも必要としない」ということ-特に「実存的無規定性」において-を露呈させることが、先駆的決意性の非力さ、つまり非力さの「本来的」側面である。この非力さにおいて、現存在は自然をも含む他の存在者と「並ぶ (unter)」可能性を得るのであって、現存在は、その点で相対化-「脱中心化」(『根拠の本質について』 Bd.9, 162)されるはずだったのである。
ここで、あらゆる人間学的-「人間中心主義的立場 (anthropozentrischer Standpunkt) 」(同前)が相対化されねばならないのは、M.ミュラーが言うように「存在による存在者や現存在の創設(Grundung)の仕方(先-創設)は、存在がそれの作品つまり存在者のうちに創設されていること(帰-創設)とは根本的に違っている」(前出65㌻)という認識からのことである。ハイデガーのケーレ(転向)と言われているものが単にその思惟の変転にとどまらず、「事柄そのもの」の変転でもある(リチャードソンへの手紙)のは、このいみでのことであり、それは、単にベクトルの向きの問題(現存在から存在へ、存在から現存在へ)にとどまらない「問題」を孕んでいる。
それは、「世界の超越」-「現存在の超越」ではなくて-の「問題」(第69節)である。ハイデガーは次のように言っている。
★現存在は、自分自身が存在できるためを意志して(umwillen eines Seinkonnens sein er selbst)) 実存している。現存在は、実存しつつ被投されており、また被投的なもの として存在者に委ねられている(uberantwortet) のだが、現存在は自分が存在するとお りに存在することができるために(um sein zu konnen) 、すなわち、自分自身のためを 意志して(umwillen)、そのような存在者を必要とする(bedurfen)のである。現存在が事 実的に実存するかぎり、現存在は自分自身のためを意志してとそのときどきの何かのた めのとがこのように連関付けられていることのうちで、自分を了解する。実存しつつあ る現存在がそのうちで自分を了解する内部的な場処は現存在の事実的な実存と共に「現 にそこに」存在している。第一次的な自己了解の内部的な場処は、現存在という存在様 式をもつ。現存在は実存しつつ自分の世界である。(364)
存在者(一般)が、なんらかのウム・ツー(um-zu) とウム・ヴィレン(umwillen)との「連関」において、現存在に「必要」とされている。また、必要とされているかぎりで現存在は存在者に「委ねられている」。この必要と委譲との「連関」において「了解」されているものは、他ならぬ現存在の「自己」であること。世界性の問題は現存在の、この種の超越性の理解においては、現存在論として、つまり、一つの人間論として解消するほかはなかったのである。
しかし、世界性は、その「退却」性において、ウム・ツー(um-zu) とウム・ヴィレン(umwillen)との、かの有意義性の連関を担っている。この退却性こそ、不安現象の分析の中で「世界の無」としてとりだされたものだったのである。この「無」は、現存在の自己の「未だ-ない」のことの「既在」として世界を形成する「非力な」意志の不安だったのである。つまり、現存在が自己を了解するとは、非自己を了解することと等価だといういみで、この超越的な意志は、非自己としての存在者「一般」に「並ぶ」意志、つまり、「世界が支配することを許容する」(Waltenlassen von Welt) 意志でもあったのである。
『存在と時間』での「不安」は、「頽落」における「自己自身からの離反」(185)、あるいは「現存在が世人のうちへと日常的に喪失してしまっていること」(189)に対する「脅かし」として理解されている。「世人のうちに没入し、また配慮的に気遣われた『世界』の許に没入することは、本来的な自己存在することとして、自分自身に直面して、そこから現存在が逃避するといったようなことを、あらわにする」(184)。さしあたり、「不安」は、「自分自身に直面」させることのように考えられている。もし、ここで、「自己自身」からの、「不安」における「逃避」こそが「世界内部的存在者」への「逃避」であるとすれば、「不安」そのものは「現存在の自己」への-「世界内部的存在者」=『世界』への、ではなくて-「投げ返し (zuruckwerfen) 」(187)として、「世界内部的存在者」の「無意義性」と対照されるほかなかったのである。ここでは、この場合の「現存在の自己」というものは、「独我論的」な自己ではないということ(188)、あるいは「現存在は単独化されているけれども、それは、世界-内-存在としてである」(189)というふうに、無用な誤解をさける程度の記述にとどまっている。
『形而上学とは何か』での「不安」は、「不安の無」が、「拒示的 (abweisend)」なものとして、自分自身を「無にすることにおける無」としてとらえ直され、不安そのもの-「不安」からの「逃避」ではなくて-が「世界内部的存在者」を指示する(=拒示する)ことになり、記述としては一歩ふみ出している。
『根拠の本質について』では、「不安」は(記述としては)「情態性」にとってかわられ、「情態的にある (sich befinden)」とは「存在者の真っ直中にある (inmitten von Seiendem) 」こととされ、「存在者の真っ直中にある」ことこそ(現存在の)「超越に属する」のであり、「乗り越えていくものとそのようにして自己自身を高めるものは、そのようなものとして、自己自身を存在者の中に情態的に見出さざるをえない」(Bd.9,166)と言われている。この「情態性」は「存在者による捕捉性(Eingenommenheit von Seienden)」(ibid.) とまで言われることになる。
『存在と時間』(1927)以後(直後・1929)の、この二つの議論に共通することは、「存在者の全体」、あるいは「存在者としての存在者」という主題である。この「問題」は、『存在と時間』では、少なくとも、ウム・ツー(um-zu) とウム・ヴィレン(umwillen)との、かの有意義性の連関における存在者の乗り越えという点ですんでいるようにおもわれた。そのようないみで、まさに全体として存在者が乗り越えられているということこそが「不安の無」における現存在の自己への「投げ返し」であったのである。
そのかぎりで、「存在者の全体」は、「現存在の全体」として先駆的決意における自己企投に含まれているようにおもわれたのである。しかし、後の議論ではこの全体は「現存在としての存在者と非-現存在的な存在者」との、あるいは現存在の「自己と非自己的なもの」との全体である。
ここで言われている「非-現存在的存在者」、あるいは「非自己」というものは『存在と時間』の前半、「世界性」の最初の分析で出てくる Zuhandensein(手許的道具存在)、あるいは、その欠如的変様としての Vorhandensein (眼前的事物存在)と同じものだろうか。
言いかえれば、「不安」における「存在者への拒示」(『形而上学とは何か』)や、「情態性」の「存在者による捕捉性」(『根拠の本質について』)は、『存在と時間』で「世界親密性」と言われた(配慮的に気遣われた存在者との)「親密さ(Vertrautheit)」(76)をふたたびいみすることになるのだろうか。
ところで、「存在者の全体」が存在「一般」の意味を問うことの、特にその「一般」性の意味の主題であることは明らかであるとしても、ハイデガーも言うように「存在者の全体」を「それ自体において把握すること」など「不可能である」(Bd.9,110)。「全体」ということを「全部性(Allheit) 」というふうに考えた場合には特にそうなのである。
しかし、陰画的な仕方ではあるにせよ、かりに「世界内部的存在者」への「親密さ」が、ことごとく「崩れ落ちる」(189)という仕方で「世界内部的存在者」がことごとく「無意義」なものにおもえてくることがあるとすれば、またそういういみで、無が露呈する可能性が現存在に与えられているとすれば、それは、「存在者の全体」ということが保持されていることになるのではないか。ことごとく、ということは、何もないという否定的な仕方で言われるかぎりは、「全体」を反映し得るのである。何もないということに、「全部」も、またそれと対照されるかぎりでの「部分」もないからである。
だから、「不安の内で存在者の全体は崩落的になる」(Bd.9,113)としても、それは、全体ということが崩落するのではなくて、むしろその逆、つまり、現存在にとって、存在者の「全体」ということが、存在者全体に対する「或る無関心さ」において、否定的な仕方で(=「有限」性において)保持されているということをいみしている。現存在が「死への存在」として全体的であること、また、死への存在として「無のうちに投げ込まれて保持されてある」(Bd.9,115)こと、そのことが、したがって、「存在者の全体」、つまり「世界の超越の問題」を「問題」として準備しえたのである。ハイデガーにとって「不安の無」が、心理的な意匠と区別されざるをえないはその点でのことだった。
世界内部的な存在者の、「不安」における「無意義性」が「世界の不在」をいみするのではないとされた(187)のは、「全体」という概念を確保するためである。それは、はっきりしている。だからこそ「不安の対象(Wovor) は世界そのものである」(187)と言われたのである。「世界そのもの」というのは「存在者の全体」のことだからである。しかし、一方で、この「不安の対象」としての「世界そのもの」こそが「世界-内-存在自身である」(187)とも言われている。むろん、この「世界-内-存在自身」というのは、「現存在の自己存在」(146)ということである。
「世界そのもの」ということについて、「存在者の全体」ということと「現存在の自己存在」ということとは、ここで、矛盾しているのだろうか。
『根拠の本質について』では、このことは、次のように言われている。
★乗り越えのうちで現存在は初めて、現存在がそれであるもの、つまり現存在「それ自 身」としての現存在へ到来する。超越は自己性を構成している。しかし他方、乗り越え は、さしあたって自己性に関わるのみならず、そのつどそれと一つにおいて、現存在「それ自身」がそれではない存在者にも関わる。いっそう正確に言えば、乗り越えのうちでかつ乗り越えをとおして初めて、存在者の内部で区別がなされうるのであり、だれがそしていかにして「自己」であり、そして何が「自己」でないかが決定されうるのである。(Bd.9,138)
したがって、現存在の「自己の自己性」、つまり「企投しつつ超越する」こととしての「自由」は、「世界が支配することを許容する (Waltenlassen von Welt)」ことと同じことなのである(Bd.9,164)。この論文(『根拠の本質について』)では、現存在の先駆的決意は「世界-内-存在」としての現存在の「世界企投」であることがたえず喚起されている。「超越」は「世界-内-存在」することと同義である(Bd.9,139)。つまり、超越は世界へと超越することにおいて「世界が支配することを許容する」超越なのである。
しかし、このことが理解できるのは、「存在者の全体」ということが、かの無の介在において、現存在に「有限」な仕方で開かれているからこそなのである。つまり「自己でありつつ現存在は、自己としては被投的な存在者である」(284)。この「自己として」こそ被投的である(=「非力」である)現存在の存在こそが「不安の対象」であり、現存在の自己企投が世界企投と断りもなく同じものとして扱われることの理由なのである。『存在と時間』での、このコン-テクストは、次のようになっている。
現存在は決して自己の根拠に先んじて実存に基づきつつ存在していることはなく、そ のつど、自己の根拠から、また自己の根拠としてのみ実存に基づきつつ存在している。 したがって根拠であるということ(Grundsein) は、最も固有な存在を決して根底から支 配する力をもっているのでは非ざるものであるということにほかならない。こうした非 (Nicht) は被投性の実存論的意味に属している。根拠でありつつ(Grundseiend) 現存在 自身は、自己自身の非力さ(Nichtigkeit) である。非力さは、事物的な非存在とか非存 立(Nichtvorhandensein, Nichtbestehen) とかをいみするのでは断じてなく、現存在の 被投性という、現存在のこうした存在を構成している非のことを言っている。
★こうした非の非性は実存論的には次のように規定される、すなわち、自己でありつつ現存在は、自己としては被投的な存在者である、と。自己自身によってでは非ずして、自己自身のところへと根拠から解放されて、この根拠として存在するにいたる(Nicht durch es selbst,sondern an es selbst entlassen aus dem Grunde,um als dieser zu sein.)。現存在は、自分の存在の根拠が自己に固有な企投から初めて発現するかぎりにおいては、それ自身自己の存在の根拠ではないのだが、しかし、自己存在としては根拠の存在なのである。根拠はつねに根拠であることをその存在が引き受けざるをえないような存在者の根拠でしかない。(284)
したがって、「自己存在」として「根拠の存在」であることは、「根拠への自由」(Bd.9,165)として根拠であることである。むろん、ハイデガーにとっての「自由」は、「非力さ」-ヘーゲルの「威力 (Macht)」とは反対に-と同じことである。この「非力さ」として理解された「自由」こそが「世界が支配することを許容すること」の「自由」だったのである(Bd.9,164)。
だからこそ、自己存在としての先駆的決意性の〈自己=死〉は、あらゆる可能的なことの中断(Nicht) の可能性、つまり「不可能なものの可能性」(306)として、「可能性」の「重さ (Schwere)」(284)として、世界「内」に「落ちる」、言いかえれば「世界が支配することを許容する」。〈自己=死〉は、「存在」の「先-創設」(M.ミュラー)を「前 (vor)」にして「死への自由」(266)、つまり「重さ」としての「自由」として「落ちる」=落ちて死ぬ。そのように「非-自己」に「並ぶ」のである。
存在者「一般」-単に現存在という「一」存在者にとどまらず-の根拠としての存在、つまり存在「一般」がそれ(=存在)に基づいて存在している「一」存在者の企投において露呈しうるには、その存在者の企投が非力な企投としてふたたび、存在者としての「一般」性に「並ぶ」可能性、つまり存在的-存在論的差異の露呈の可能性としてとらえなおされねばならなかったのである。そのかぎりで、Zuhandensein(手許的道具存在)とは別の「存在者としての存在者」論が再開始される道が残されたのである。
しかしはっきりしていることは、現存在という「一」存在者が存在的-存在論的問題の優位性における「範例的存在者」(7)に選ばれうるのは、なんらかの「人間中心主義的」挙措においてではなくて、その逆、つまり、人間(的現存在)が、「一」存在者として、その存在(の「一般」性)において、相対化(「脱中心化」)されるためにこそ選ばれるということである。現存在は「非力」に選ばれている。それは、一つの「退-引 (zuruck-ziehen)」しつつある選択なのである。かの「自由」な自己=死の選択として。(了)
(Version 1.0)
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