宮本顕治氏が亡くなった ― 二段階革命論と敵の出方論 2007年07月22日
宮本顕治氏が亡くなった(http://www.asahi.com/politics/update/0718/TKY200707180450.html)。
彼の革命論の特徴は二つある。
一つは、「二段階革命」論。
一つは、「敵の出方」論。
前者は、「まず」民主主義革命。「その後に」社会主義革命というもの。
共産党は天皇制も認めていないし、自衛隊も認めていない。
自衛隊は違憲(=憲法を守れ)と言いつつ、天皇制は(民主的ではないから)認めない。
ただし自衛権は自然権として認め、軍隊は持つべきだとも考えている。自衛隊に反対するのは、今の憲法に反しているからであって、国家が軍隊を持つことに反対しているわけではない。
民意に依拠しつつ、民意が(もっと)成熟すれば、天皇制を廃止し、軍隊も持つべきだと考えている。要するに憲法改正論のもっともラディカルな政党だ。
ただし、そこまでは〈民意〉は進んでいないと共産党=宮本顕治は考える。自分たちの本来の意見はそこにはないけれども、当面は民意に“妥協”して、次の段階で自分たちの本来の主張と政策を展開しよう。これが「二段階」革命論。
どこがおかしいのか。
結局のところ、〈民意〉を重視する気はないということだ。民意の成熟は自分たちよりもはるかに遅いが自分たちはいつでも覚醒しているというようにして〈民意〉をどこかで飛び越えている。
大衆的前衛主義とは言うものの、依然として前衛主義に立っている。つまり国民政党ではないということ。「二段階革命」論に立つ限り(この「二段階革命」論は宮本氏だけの個人的な思想の問題ではなく、国際的な社会主義運動の致命的な迷妄だったが)、共産党はイデオロギー政党に留まっている。前衛主義は、二段階革命論と表裏一体の関係にある。
二つ目の「敵の出方」論。これは、社会主義への移行は暴力革命なのか民主的な(=議会主義的な)移行なのかという革命論の古典的な問いかけについて、宮本氏がそれは「敵(権力)の出方」次第と答えた、有名な革命論(初出は、昭和33年第7回党大会)。
これもおかしい。国家権力はいつでも暴力装置(警察・軍隊)を有しているのだから、法=暴力といういみで、権力はいつでも暴力的。その意味で言えば、敵が暴力的に来るのなら、こちらも暴力的に対抗せざるを得ないという「敵の出方」論は、それ自体暴力革命を主張したことと同じことを意味する。
共産党(=宮本顕治)は「敵の出方」論を暴力革命論を否定する立場で称揚する。相手(国家権力)が理性的に対抗すれば理性的に対応する。相手(国家権力)が非理性的=暴力的に対抗すれば、暴力的に対応する。
こんなことをもし近代的な市民が1人1人言い出したら、〈社会〉は成り立たない。どんな市民も、国家、あるいは個人に対抗する方法は法的な方法以外にはあり得ない。
仮に暴力的に反抗したとしても(それはどんな場合でもありうることだが)、それは法的に(=暴力的に)裁かれることを拒絶することにはならない。
「敵の出方」次第でこちらも暴力的であり得る、というのは、そもそもが暴力革命論の立場を自ら再認したものに他ならない。
公安警察が、代々木の共産党本部をいまでも偵察し続けているのは、この「敵の出方」論を意識しているからだ。「敵の出方」論に立つ限り、共産党は議会主義政党ではないことになる。
二段階革命論と敵の出方論。その提唱者の宮本顕治氏が亡くなった今、共産党は国民政党(脱イデオロギー、脱反議会主義の政党)になれるのかなれないのかの真価を問われている。
私は、共産党は国民政党になるべきだと言うつもりはまったくないが、しかし国民政党のふりをしているのはよくない。宮本氏が亡くなった今、現在の執行部は二段階革命論と敵の出方論についてはっきりとした見解を表明すべきだ。すぐには無理だろうけれども。
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