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 息子の就職活動は、結局のところ私の自業自得だった。 2007年06月13日

息子・太郎の就職活動がやっと終わった(と思う)。

2月25日、テレビ朝日で内定1号
4月9日、博報堂で内定2号
4月21日、三井物産で内定3号
5月1日、電通で内定4号

ここで、もう採用試験受験は打ち止め。どの会社も、「早く決めてくれ」「まさか他の会社に行こうとは思っていないよね」と催促と“圧力”が厳しい。

すべての内定者懇親会は出続けて、学校OBヒアリングや活躍する中堅のリーダー達との個別面談まで採用担当の方に用意していただいて、どの会社を選んでも悔いはないところまで行っていた。

これらの会社の面接試験は、上に上がれば上がるほど圧迫面接になっていく。圧迫面接のパターンは二つ。

一つは面接官が無反応を装うこと。何を答えても評価が表れる反応をしない。質問される以前に面接者自身が何も質問してこない。

もう一つは矢継ぎ早の質問。相手に考える余裕を与えない。

太郎によれば、ある会社は、「5分で自己紹介して」となり、一人ずつ、やり始めたら、いきなり、「面白くないな」で終わり。本人はもちろんのこと、他の被面接者まで、びびってしまうそうだ。

DEN通の面接などは、最終面接で健康診断がセットされており、役員面接が終わったあとの血圧測定ではほとんどの被面接者は180を越えているらしい。息子はなぜか120の平常値。

「お前は、どうしたの?」と聞いたら、「そんなことでびびってもしようがない。勉強しないと分からないことを聞かれるのじゃないし、自分のことを聞かれるだけなのだから、びびってもしようがない」

「それで、あなたは自己紹介でどう言われたのよ」

「話が少し長いな」(これは親譲りの欠陥か)

「それでどうしたの」

「『長いですか。スミマセン(笑)。何でも話しますから、どんどん聞いてください』というしかないじゃない。こんな感じだよ」と言って、わざわざその時のポーズまで取ってくれた。前屈みで両手を膝の上に置いて、身を乗り出すように話すのが太郎の被面接のパターンポーズらしい。私も家内もそのポーズには大笑いしてしまった。

「で、どう言われたの?」

「『お前、面白いやつだな。そういう食いつきが仕事では大事なんだよ』だって」。

この3ヶ月の就職活動中は、21年間子供を育ててきた中で、初めて親子の会話ができた時間だった(家内は別だが私はこんなに息子と話したことは一度もない。この3ヶ月でのべ1時間!も話している)。それでも1時間か、というなかれ。父親なんて、こんなものです。

そういった面接活動が続き、日々会社評価が凸凹する中で、DEN通、三井物SANが浮上していたが、先週末までは三井物SANに99%決定していたところ(決めて日経新聞を今頃真剣に読みはじめていた)、真っ先に候補から外していたテレビ朝HIに大どんでん返しで決めてしまった。

息子が「テレビ朝HI」に決めた直接の動機は、6月8日のタモリの『ミュージックステーション(Mステ)』(http://www.tv-asahi.co.jp/music/)の内定者見学だった。

この番組は、1回、本番と同じ事を出演者自身が繰り返して、本番に臨むらしい(ただしわがままな歌手は事務所が本人よりも上手に歌い上げる代役を用意するらしい)。さすがに本番そのものは内定者であっても見ることもできない(それほど生放送の現場はぴりぴりしているということか)。

彼の言い分は、その“事前本番”を見せてもらって、体中が舞い上がるほど「興奮した」というもの。スタッフ全体が出演者を最善の演出で守り立てようという気概が痛いほど伝わってきて、これしか俺のかけるものはないと熱く思ったとのこと。事前にカメラスタッフの説明や美術さんなどの説明を聞いていたから余計そう思ったらしい。

「これまで自分は、スキルと自己成長性という観点から就職を考えていたけれども(それで商社に決めていたが)、第三番目の評価軸、好きか(楽しいか)どうか、という観点も必要な気がした」とのこと。

なんとまあ、単純なことか。

こんな危うい選択は、わが専門学校生では絶対にありえない。専門学校生は、日々の勉強がそのまま就職への自信と展望にかかわっている。自分が何で会社に貢献できるかをわかっている。

というより、会社は、自分の実力を表現する衣装に過ぎない。だから会社を文字通りの意味で“選ぶ”ことができる。そもそもわが学生たちは、入社した途端に、会社の先輩に学校で学んだ新しい技術を教えている学生もいるくらいだ。

ところが、大学生は会社をその意味で選べない。勉強の延長に就職が見えないからだ。そもそも勉強そのものをしていないのだから、選べるわけがない(勉強したのは受験勉強だけ)。それに中身がないのだから選ぶ根拠(基準)がない。結局、追い込まれて、「好き」「楽しい」が大事、と言っているに過ぎない。

「あなたは、中身がないからそう言っているだけだよ」と私は言った。

「そうだけど、でも、中身がないのだから、それしかないよ」。

最初、息子が「内定」を蹴るかもしれないと察した『テレビ朝HI』の人事(採用担当)は、澤將晃(この人は、とんねるずが『オールナイトフジ』で花咲く元になったテレ朝深夜番組『トライアングルブルー』1984~1986)で彼らを発掘した人、とんねるず、川上麻衣子、可愛かずみ、恵などが織りなす独特な雰囲気は、今でも鮮烈に私は覚えている。たしか、タイトル曲はアンルイスの『六本木心中』だった)、板橋順二(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E6%A9%8B%E9%A0%86%E4%BA%8C)といったテレ朝の名プロデューサーたちを次々と息子に(単独で)会わせ、特に板橋順二氏とのやりとりには太郎は痛く感動していた。

板橋氏は、今だと『ロンドンハーツ』(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%84)の「格付けしあう女」たちでロンブーの淳(あつし)を育てたのが有名。

私の息子は最後の役員面接で、板橋氏には「あなたなら、ロンドンハーツ、どう盛り上げる?」と聞かれて、「淳(あつし)をだますのはどうですか」と言ったが、「いやー、淳(あつし)は勘がいいからだませないのよ」としみじみ言われたらしい。その最終面接で評価してくれた板橋さんが、「何だって、お前、ほかの会社に行こうとしてるんだって?」とすごんで息子の前に現れた。

「商社も大手の広告代理店も、確かに魅力的かもしれないけど、俺たちはゼロから番組を作り出しているんだよ。商社も広告屋も右から左へものを動かしているだけじゃないか。お前、番組作りの面白さがわからないのか。テレビやりたいって言ってたじゃないか」と板橋さんからお叱りを受けた。社員でさえ、この二人とはめったに話せない雲の上の人らしい。採用担当の人たちさえ、「こんなことありえないよ」と独り言のように言っていたらしい。

しかし、この後、博報DOU(4月初旬)、DEN通(5月初旬)の内定を受けて、その担当者から、「テレビ番組を作ってるのは、私たちだよ。テレビ局ではテレビ番組しか作れないけど、われわれなら何でも作れる。すべての企業の企画部みたいなものなんだから」と言われ、そうか、と思って、まずテレ朝はないな、と息子は判断(うちの息子は超単純!)。2月中旬に内定をもらったテレ朝は就職候補から真っ先に脱落していた。カリスマプロデューサー板橋順二氏のインパクトの強い印象もそこでは歯が立たなかった(申し訳ありません)。

売り上げ2兆円のDEN通からみれば、売り上げ8千億円の博報DOUは子供のようなもの。「あいつらは大学生ののりでやっているだけのこと。たしかに博報DOUのほうがDEN通より仕事は楽しいと思うけど、それだけではね」とは、息子が人事からの紹介で会わせてもらったやり手DEN通マンの言葉。DEN通も必死だ。

でも、そのDEN通マンも三井物SANには一目をおいている。「私の上司は物産から来た人。やり手だよ。何でもよく知っている。マーケティングにも強い。物産からDEN通、という転職はあるが、DEN通から物産へというルートはない。対銀行という意味でも広告代理店なんて銀行はなんとも思っていないが、財閥系の商社マンにはヘコヘコ頭を下げるんだよ。財閥は今でも圧倒的に強いぞ」なんて言い始める。「それにDEN通の生涯賃金が6億ある、と言ってもDEN通の場合、接待費はほとんど自腹。商社の場合はそんなことはありえない。その上、福利厚生面ではとてもかなわないよ」。

「でもさ、ワールドカップはDEN通が長い間取り組んで育ててきたのに、突然三菱商事の連中がフジテレビと組んで殴りこみをかけてきたのよ。彼らはつぎ込んでくるお金の桁が違う。100億、200億とかけてくるから、寸前のところでとられそうになったが、協会がサッカー広報のノウハウを知っているDEN通を最後は選んでくれたのよ」。

そんなことを素直に言ってくれるDEN通マンに息子は大いに惹かれていたのだが、それでも、やっぱり物産か、と腹を固めていた。

しかし、『ミュージックステーション(Mステ)』の本番見学は、板橋順二氏の「俺たちはゼロから番組を作り出しているんだよ」という言葉の意味を息子の心に焼き付けるのに充分だった。

『ミュージックステーション(Mステ)』の生放送における舞台演出のノウハウは、かの天下のNHKの音楽スタッフでさえ見学に来るくらいに評価の高いものらしい。

音楽収録と言えば、私には、長門裕之・南田洋子時代の『ミュージックフェア』(http://www.fujitv.co.jp/b_hp/mfair/)しか思い浮かばない。特に歌手の歌を生き生きと描き出すカメラワークには独特のものがあったが、これは生放送ではない。生放送の歌番組としては、『ミュージックステーション(Mステ)』は、あきらかにTBSの『ザ・ベストテン』(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%83%99%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%86%E3%83%B3)に近いところまできた。

そこで、「これしかない」と心に決めた、というのが事の顛末。

『ミュージックステーション(Mステ)』見学が終わった後、内定者同士で懇親会が予定されていたが、会社を出るときに人事から一人呼び出されて「芦田君、ちょっと残ってよ」。

ここで人事4人に引き止められ約1時間。「われわれは、あなたにやるだけのことはやった。もうこれ以上のことはわれわれにはできない。最後は自分で決めてほしい」。心はほとんどテレ朝だったが、その場は「よく考えてみます」と切り上げたらしい。

息子は、最初のときから、テレ朝の人事(採用担当)が「自分のことを(他の会社より)一番高く評価してくれている」と言い続けていた。

私からすれば、採用人数が(四社の中では)一番少ない会社なのだから(制作採用は10人足らずだ)、それは当然だろう、と思っていたが、本人はそう言う。「でもあなたがそう思う、という気持ちは大切なことだよ」と言うのが私の精一杯のアドバイス。

結局のところ、11日の月曜日夕方、三井物SANに出向き、内定断りの挨拶となった。

どれだけ「物産」の担当者に怒られたことか。「私は人事局長から絶対、芦田は採れ、と言われている」「人の心を踏みにじるなよ。こんなことは社会人には許されないことだよ」。

でも「テレ朝はキー局の中では今一番いいバランスの取れた会社だよ」とも。「最近、物産はテレビ業界にも積極的にかかわりを持とうとしているから一緒に仕事をすることもあるかもしれない、頑張れよ」と。 お互いが一瞬潤んだ瞬間だった。

息子は、いい人たちに出会えて、いい勉強をさせてもらっている。学生時代ほとんどまともに勉強しなかったバカ息子は、この2、3ヶ月で一番密度の高い勉強ができている。

好き(楽しい)を仕事に、というのは、まるでリクルートの進学雑誌のようなキャッチコピーだが、これが大学では何一つまともに勉強せず、受験勉強しかしていない大学生の限界かもしれない。

しかし、あれこれ考えるとこの選択は、私自身に責任があると思うようになった。私自身が大のテレビ好きだったのだ。

1985年生まれの息子・太郎とテレビとの衝撃的な出会いは、マイケルジャクソンの『スリラー』(http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%A9%E3%83%BC-%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%B3/dp/B00005Q8HD )(1982年)。

『スリラー』のレーザーディスクを37インチテレビ(当時はこれでも一番大きい画面だった)で見ていたら、まだやっと立ちはじめた1歳にもならない太郎が立ちすくんでいるのを気づいた。私と家内はマイケルジャクソンの踊りの衝撃にそれを気づかず、気づいたのは『スリラー』の後半までもうかなり進んでのことだった。

家内が驚いて、「どうしたの、太郎君」と言ったときにはもうすでにとき遅し。体が完全に固まって身動きができない。この世の恐怖というものを始めて太郎が感じたのが、この『スリラー』だった。

この体験は、息子にとっては恐怖の元痕跡(Urspur)となった。小学生の中高学年になっても、あの花屋敷(http://www.hanayashiki.net/)のちんけなお化け屋敷にさえ入ろうとしない。すべて、この『スリラー』のせい。本人は気づいていないだろうが。

次のテレビ体験は、生まれ年の1985年の『WE ARE THE WORLD』(http://www.youtube.com/watch?v=P7fog5EjJTc )(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89)。

レイ・チャールズ、ボブ・ディラン、マイケル・ジャクソン、ビリー・ジョエル、シンディ・ローパー、ダイアナ・ロス、ポール・サイモン、ブルース・スプリングスティーン、ティナ・ターナー、ディオンヌ・ワーウィック、スティーヴィー・ワンダー、クインシー・ジョーンズ(プロデューサー)などなど。

そうそうたるメンバーがそろって歌い続けた『WE ARE THE WORLD』もまた衝撃的だった(ただしボブ・ディランはいやいや歌っていたような気がするが)。

これを私が最初に聞いたのは、たまたま帰郷していた京都の河原町通りのレコード屋さん(この言い方がまた古い)。店頭で『WE ARE THE WORLD』のビデオを流していた。ふと立ち止まって聞いているうちにぐいぐい吸い込まれていって、勝手にボリュームを上げていったら、私の周りにちょっとした人溜りができるほどに衝撃的なイベント音楽だった。

同じ年(1985年)に、あのマドンナの衝撃的なコンサート収録作品:『MADONNA The Virgin Tour Live マドンナ ザ・ヴァージン・ツアー 』レーザーディスク(http://page8.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/h46960110)が発表される。

私は“ながら族”の代表世代。中学校のころから深夜のラジオ放送で育った世代だ。だから音楽かテレビがついていないと仕事をしない。論文を書くときも必ずテレビやビデオはつけていた。その“背中”を見て太郎が育っていったのだ。今から考えるとぞっとする“影響”だ。

特にこの『MADONNA The Virgin Tour Live マドンナ ザ・ヴァージン・ツアー 』 CHAPTER4の「INTO THE GROOVE」は最高のできで、この「マドンナ・ザ・ヴァージン・ツアー」を見るために当時75万円もした37inchテレビ(Victor M-370)を買い込んで、一晩中見続けて書いた論文が「表現と意味」(J・デリダ論:『書物の時間』所収)(http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_detail.cgi/3aefc10412c880103cc4?aid=&bibid=00666692&volno=0000 )。いまは絶版だが、ここ(http://www.ashida.info/blog/2004/10/post_83.html)で読める。

まだまだ私のテレビ好きの波はやまない。生まれて2年後の1987年:『F1グランプリ』(http://www.fujitv.co.jp/b_hp/f1gp/)放送が始まる。THE SQUARE(http://ja.wikipedia.org/wiki/T-SQUARE)の『TRUTH』(http://ja.wikipedia.org/wiki/TRUTH)の音楽とともに始まるあのタイトルバックは、日本中のクルマファンをぞくぞくさせたものだ。

太郎もすぐさまF1好きになり、深夜遅く放映されるグランプリを、今度は100インチスクリーンのサラウンドで聞いたり、見たりすることになる。100インチスクリーン映像(今は液晶だが、当時は3管式)とサラウンドシステム(当時はYAMAHAが群を抜いていた)は、F1グランプリのために(それを私が見るために)、太郎が2歳のときに大枚をはたいて買ったものだった。

当時はマンセル(ウイリアムズ)、プロスト(フェラーリ)、セナ(ロータス)の全盛時代時代。いつも自宅の和室の敷居の上に、ミニチュアF1カーをならべて、「セナがプロストをコーナーで抜きました…」などと自己解説、口角泡を飛ばして一人遊びしていたころ(太郎はなぜかレイトンハウスのグージェルミンをこよなく愛していた)。そのバックにはTHE SQUAREの『TRUTH』とフジテレビのF1中継ビデオが流れていたわけです。

物心ついてもうひとつの事件となったレーザーディスクが、1991年の『イン・ベッド・ウィズ・マドンナ』(http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A4%E3%83%B3%EF%BD%A5%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%89%EF%BD%A5%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%82%BA%EF%BD%A5%E3%83%9E%E3%83%89%E3%83%B3%E3%83%8A-%E3%83%9E%E3%83%89%E3%83%B3%E3%83%8A/dp/B000MRA8O4)。

この映画の最終章(レーザーディスクで言えば「CHAPTER8」)、フランスコンサートでのKEEP IT TOGETHER(マドンナの隠れた代表作)の収録は珠玉の名作。この映画はアレックケシシアンという30歳にも満たない若手で無名の監督をマドンナ(たち)が抜擢して作った映画で、しかしそのカメラワークといったら、もう最高だった。

国内のコンサート映像では、ユーミンの『WINGS OF LIGHT』 (http://www.amazon.co.jp/gp/product/B0000687TM/sr=1-2/qid=1181731302/ref=olp_product_details/250-7713650-7717031?ie=UTF8&qid=1181731302&sr=1-2&seller=)が秀逸だが、ケシシアンの映像には、さすがのユーミンも勝てない。ビデオ作家は、映画作家のカメラには絶対に勝てない。

特に22台のフィルムカメラをコンサート会場に持ち込んで縦横無尽にステージを映像に取り込んだその腕は大したものでした(もっともお金を使うユーミンのコンサートでさえ、22台ももち込みはしません。それに持ち込んだところでせいぜいビデオカメラ)。私は、一晩中、CHAPTER8をリピートして聞き(見)続けていました。そのそばでぽかんと見ていたのが太郎。

たぶんコンサート映像でこのフランスコンサートKEEP IT TOGETHERは、世界で1,2位を争う出来だった。マドンナの踊りの特徴は軸がずれない、ぶれない“男らしさ”にありますが、このKEEP IT TOGETHERでは、わざと腕も曲げたり、腰を曲げたり、足を曲げたり、全体に中腰になったマドンナの表情や姿勢(たぶんKEEP IT TOGETHERの主題である家族の愛が“中腰の”愛であることと相関的なのでしょう)をケシシアンが見事に描ききっていた。そう熱っぽく太郎に語りかけても、6歳の太郎には反応がない。こいつバカじゃないの、と思って無視していました。

結局、『スリラー』『WE ARE THE WORLD』『F1グランプリ』『MADONNA The Virgin Tour Live マドンナ ザ・ヴァージン・ツアー』『イン・ベッド・ウィズ・マドンナ』、この五作が、太郎が生まれたときから小学校へ入る前まで我が家に流され続けていた音楽と映像で、それが彼の無意識を形成している。

そこでクラッシクを流し、ゴッホの絵の本物を飾っておけば、商社に行ったのかもしれないが、『スリラー』『WE ARE THE WORLD』『MADONNA The Virgin Tour Live マドンナ ザ・ヴァージン・ツアー』『イン・ベッド・ウィズ・マドンナ』では、『テレビ朝HI』が限界なのかもしれない(笑)。

その後、家族がテレビに集合する番組は、90年代の前半は、フジテレビの『ダウンタウンのごっつええ感じ』(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%81%AE%E3%81%94%E3%81%A3%E3%81%A4%E3%81%88%E3%81%88%E6%84%9F%E3%81%98)。

後半は、日本テレビの『THE夜もヒッパレ』(http://ja.wikipedia.org/wiki/THE%E5%A4%9C%E3%82%82%E3%83%92%E3%83%83%E3%83%91%E3%83%AC)でした。

どちらも作りこみがよくできた番組で、大人の私たちでも十分楽しめました。

今でも、家族が集合する番組はフジテレビの『めちゃ2イケてるッ!』(http://www.fujitv.co.jp/b_hp/mechaike/index.html)です。太郎は、『テレビ朝HI』の面接でも、『めちゃ2イケてるッ!』や2004年夏の『FNS27時間テレビ』(http://www.ashida.info/blog/2004/07/hamaenco_4_66.html)のような番組が作りたい、と叫んだらしい(要するにフジテレビの「ナイナイ」岡村グループ)。怒られると思ったら、あれはいい番組だよ、とのこと。肩透かしを食らったようだ。

さらに2002年から続く私の紅白歌合戦リアルタイム全曲批評(http://www.ashida.info/blog/cat20/)も、さらに追い討ちをかけたのかもしれない。

紅白に、追加するものと言えば、『国会中継(特に予算委員会)』『朝まで生テレビ』。この2番組は、太郎が物心付いた頃から、なぜかビデオを回しながら、食卓で見る、という奇妙な光景。はちゃめちゃなテレビ文化が家庭内に充満していた(チャンネル権は絶対的に私にあり、太郎の部屋にはテレビも電話もないが)。

こういった家族集合する番組の中で、私がいちいちコメントをする癖が太郎にうつって、テレビは単に見るものじゃないんだ、と潜在的に思うようになったのではないか。今回の『テレビ朝HI』選択は、自業自得というものだ。

それに私は、太郎に前々からテレビ局の盛衰は、生放送が鍵を握っていると言いつづけて来た。

「日テレ」が「それって日テレ」で大成功を収めた機縁になったのは、1991年『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A8%E3%82%93%E3%81%AD%E3%82%8B%E3%81%9A%E3%81%AE%E7%94%9F%E3%81%A7%E3%83%80%E3%83%A9%E3%83%80%E3%83%A9%E3%81%84%E3%81%8B%E3%81%9B%E3%81%A6!! )。

この番組は「局アナ」から最近独立した福澤朗アナウンサー(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E6%BE%A4%E6%9C%97)を世に知らしめた番組だが、それ以上に大会社なのに、テレ朝と同じくらい田舎くさい日テレを元気付けた。

実はこれには伏線がある。

『久米宏のテレビスクランブル』という番組(同じく生番組)が日テレのゴールデンタイムで1983年から2年間続いたが、この生放送も、『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』以上に過激だった。

この番組でたまたま特別ゲストに登場した横山やすし。とにかくすでにこの当時から横山やすしはハチャメチャで、「まだ横山やすしさんはスタジオに来ていません」なんていうのは当たり前。登場しても完全に酔っぱらっていた。それが話題になり、横山やすしは「特別ゲスト」ではなく、いつのまにかレギュラーになっていた(いつくるかわからない「レギュラー」というのもおかしなものだが)。

生放送で横山やすし(それも酔っぱらった横山やすし)は何をしゃべり出すかわからない。久米宏にとっては黒柳徹子を相手にするよりははるかに自らのトークに芸や技を要求されることだった。それを乗り切ったすえの『ニュースステーション』だったのである。久米宏は生放送の久米宏だったが、横山やすしなしには、『ニュースステーション』(1985年)は存在し得なかったし(どんなニュースの大事件よりも、横山やすしのトークはそれ自体が破滅的な大事件だったのだから)、それ以上に、この日テレの生放送体験は、『天才・たけしの元気が出るテレビ』(1985年)に引き継がれ、90年代の「それって日テレ」の爆発につながっている。

生放送は、何が起こるかわからないから、上層部が保守的で権威主義、形式主義に走ると必ず縮小していく。だからゴールデンタイムの生放送の有無は、そのテレビ局の盛衰を握っている。

大放送局・TBSの凋落はそこから始まっている。というかドラマと報道のTBSでは、『久米宏のテレビスクランブル』や2004年の『FNS27時間テレビ』のような番組は作れない。したがって、局内が盛り上がらない。

いつのまにかドラマさえもフジテレビに追いつかれ(『東京ラブストリー』『あすなろ白書』など)、報道さえも『ニュースステーション』『サンデープロジェクト』(テレビ朝HI)に持っていかれてしまった。日曜日の『報道特集』の凋落ぶりがその最たるものだ(入江徳郎も草葉の陰で泣いているに違いない)。

たしかに横山やすしや久米宏なんて採用すれば、何枚始末書を書いても足りない。言うことを聞かないやつは使いたくない。そう思い始めると誰も使えなくなっていく。大ヒットが生まれない。使ったとしてもせいぜい録画収録でしかない。どんなテレビ局のプロデューサーも録画収録に走りたがる。

そうでない場合は、ドラマ作りくらいだが(バラエティ部門と違って、ドラマ作りではプロデューサーとディレクターはほぼ対等な地位があるが)、ドラマはテレビのメディアでなければならない分野ではない。映画や小説・文学から見ればはるかにサブカルチャーだ。

テレビ局としてはマイナーな『テレビ朝HI』(それでも就職人気ではフジテレビについで2位らしい)の最大の課題は、番組ごとの個性ではどこにも負けないそこそこの番組を作っているのに、全体のブランディングに失敗しているということだ。フジやTBSは、いい意味でも悪い意味でもひとつのイメージがあるのに、日テレやテレ朝には、田舎くささしかない。それをどう拭うのかが、最大の課題だろう。

ついでに言えば、日テレとテレ朝は、(少なくとも大世帯の東京圏では)チャンネル位置がよくない。端にあるのがいけない。TBSとフジは真ん中にあるだけでメジャー。だって、日テレのとなりは教育テレビ、テレ朝の隣はテレビ東京。これでは、どんなにいい番組を作っても王座を奪えない。

さて、テレビの本領は、(誰もが言うように)生放送。インターネット時代であっても、テレビが生き残る要素は生放送以外にはない。良くも悪くも、テレビメディアは〈現在〉表現でしかない。

さて、私の息子は、そんなひたすら〈現在〉へと消耗する仕事を選んだ。ドメスティックで、ヒューマンな現在に、だ。どこかでもう一幕、人生を切り開かなくてはならないような気がする。

※そんなこんなで、就職活動総括をやっているうちに、DEN通から電話が今かかってきた。「『テレビ朝HI』に決めたい」と言ったら、そんなこと物ともせずに、「じゃあ、メディア担当のマネージャーを紹介するよ。『報道ステーション』、うちが作ってるんだから。その連中、紹介するよ。芦田君もわかってるでしょ」とのこと。こわーい。私は知らないよ、どうなっても…。まだ続くんじゃないの、この就職活動。

(Version 2.5)

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投稿者 : ashida1670  /  この記事の訪問者数 :
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