ZARDの坂井泉水が死んだ ― 同じ曲を何曲にもして歌える希有な歌手が逝った。 2007年05月28日
ZARDの坂井泉水が死んだ。
自殺か事故死か勘ぐられているが、どんな死も人間の死は自然死に決まっているではないか。死ぬべくして死んだのだ。
「ハイヒールを脱ぎ捨てて」「あなたを感じていたい」「こんなにそばに居るのに」「誰かが待っている」「サヨナラ言えなくて」「こんなに愛しても」など、私はアルバムで言えば、forever you と HOLD MEに収められている曲が好きだった。
2枚のアルバムを引っ張り出し、何曲か聴いて思うのは、何と言ってもZARDは、「誰かが待っている」かな。
ただし、今、私が追悼の気持ちをこめて見ている(聴いている)DVD:What a beautiful moment(http://www.amazon.co.jp/What-beautiful-moment-ZARD/dp/B0009INFQE/ref=pd_bbs_sr_1/503-0878195-6101556?ie=UTF8&s=dvd&qid=1180356495&sr=8-1)には「誰かが待っている」は収録されていない(ちなみにこのDVDでは、「Today is another day」がいいですよ)。
しかしZARDは、何を聞いてもZARD。どの曲を聴いても同じ曲に聞こえる。それがZARD。一曲好きな曲があればずっと何でも聴いていられる。ZARDは、全体が一つの曲なのだ。それがZARDの魅力だった。
山口百恵が『横須賀ストーリー』で変貌を遂げたり、松田聖子が『チェリーブラッサム』で変貌を遂げたりする必要は、ZARDにはなかった。そんな変貌なしに、ZARDはただ一つの曲を変奏し続けたのである。珍しい歌手だ。
ZARDの曲で歌われている女性は、今となっては決して存在し得ない(優しい)女性だった。それは今となってはマザコンボーイたちの女性像だった。
若い世代で「ZARDが好き」な男性たちは、みんなマザコンだ。だから「ZARDが好き」という男たちには気をつけたほうがいい。 ZARDが好きな男と付き合う女性は息苦しいはず。自分勝手に女性のイメージを作り上げているからだ。
ちょうど「尾崎(尾崎豊)が好き」という若い男たちと同じように、世俗化されたロマン主義がZARDにも尾崎にも蔓延している。私はこの種のロマン主義が嫌いではないが、1年に一回くらい出会ったり思い出したりする感性で充分だ。
ZARDも尾崎もいない。そんなことありえないだろう、と言いながら聴き続けられる歌手がどんどん消えていく…。
よりにもよって、くそリアリズムの松岡農水相の自殺の日に同じ病院で死んでしまうとは。人間は自分の死だけを死ぬことができる。 本来の意味で、ZARDも松岡もそれぞれの人になったのだろう。冥福を祈ります。
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