2007年入学式式辞 ― 読書「初級」「中級」「上級」 2007年04月05日
ご入学おめでとうございます。
今日は天候にも恵まれて、保護者の皆様、来賓の皆様も多数ご列席頂き、あなた方の新しい門出を祝してくださっています。
また昨年来の学校見学会でお相手をさせて頂いた、わが小山学園の入学相談室スタッフ、見学会対応した教員一同、今日のこの日を迎えるに当たって、感慨ひとしおであります。
皆さんの学校選択が正しかったことを証明するのが、これからの私どもの仕事と思っております。ぜひ期待して頂きたいと思います。教職員一同、心を引き締めてこの式典に参加しております。
今日の私のお話は、みなさんがわが学生として受けることになる最初のメッセージとなります。教職員を代表して、少しお話しさせて頂きます。
皆さんはほとんどの方がこの学園が最後の学校になると思います。「最後の」というのは、出口は別の学校ではなく、〈社会〉だということです。まさに皆さんは社会に出るために、この学校へ入学してきたわけです。
実務の世界は厳しいと言われますが、そんなことはない、と私はこれから学生になる、そして最後の学生時代を送るあなた方に言いたい。
実務の世界は、一言で言えば、分業の世界です。
〈効率〉と〈精度〉を求めて分業に走ります。分業における効率と精度とは、本来の意味での〈勉強〉を必要としません。〈勉強〉をしないでも働ける条件を作り出すのが、分業における効率と精度の意味です。
たとえば、会社組織では、技術部門、広報・営業部門、経理・財務部門などと別れている。
技術者は、「良い商品を作ればいいんでしょ」と言う。
営業は、「売ればいいんでしょ」と言う。
経理・財務は、「儲かればいいんじゃない」と言う。
もちろんこんなことしか言わない技術者は「良い商品」なんて作れないし、営業も売ったりできない。もちろんも儲けることもできない。
また同じ技術部門の中でも、エンジンの設計、部品作り、組み立て、すべて別々の人がやっている。
建築も〈設計〉と〈施工〉は完全に別れている。憎しみあってすらいる。
設計者は美しさにこだわる。施工工事者はつぶれなきゃいいじゃない、と言う。意見が合うわけがない。
トヨタなんて会社は、本当か嘘か知りませんが、新卒を採用するときにクルマのことに関心のない人を採用すると言います。
変に狭い了見で入社されても困るというものです。偏った知識、偏った関心によって、クルマやクルマのマーケットの〈全体〉が見えなくなることを危惧してのことです。社内全体に広がる分業主義、セクト主義を最初から排除したいわけです。
学校は、それに反して〈全体〉を学ぶところです。
学校は、エンジンの部品や機械部分を学ぶだけではなく、燃焼や流体力学までをも学びます。いわばエンジンの〈心〉を学ぶわけです。
建築も施工へ行こうが、設計をやろうが、設計は施工の心に配慮し、施工は設計の心を配慮できるような全体を学びます。その結果、建築の〈心〉を学ぶわけです。
工事をやる人は、壊れなければいいんだよ、と思って工事をやっていますが、設計をする人は、美しくなければいけない、と思っています。仲がいいわけがない。設計をやる人はほとんどが一生設計、施工工事をやる人は一生工事という感じです。
よく30過40過ぎの社会人が、「もう一度学校で勉強したいな」と言うのを聞きます。
彼らは、分業で寸断され、断片化された自分の知識や技術をもう一度統合化したいと思っているのです。いわば、自分の扱う商品の〈心〉を再発見したいわけです。
若者には情熱がある、とよく言われますが、それは、あなたたちが単に体力があって元気だという意味ではなく、〈学生〉であるからです。勉強する、全体を勉強する学生であるからであって、〈心〉を学ぶ学生だからです。
経験主義を離れて、〈心〉を学ぶ学生にとって、読書は必須ですが、本の読み方にも「初級」・「中級」・「上級」があります。
〈初級〉は、自動車や建築のことが知りたい場合、「自動車」「建築」という言葉がタイトルや目次に出ている本を買う人たちです。
この人たちは、普段、雑誌や新聞しか読まない人たちです。本を読んでもせいぜい司馬遼太郎か歴史小説しか読まない。朝礼当番か、プレゼンの前の日に忙しく本を読む人たちです。本を買っても新書しか買わない。
〈中級〉は、本の一部を地の文のまま一段落以上引用することのできる人です。これは大学院生程度でしょうか。でも大学院生でも自分の都合の良いところを「引用」しているだけです。一種の分業主義的、職業主義的な引用なのです。彼らの“職業”は、引用の数で飯を食うことですから。
〈上級〉は、著者(の魂)で本を買うことのできる人です。著者のモチーフとそのモチーフの解決場所が一冊の本のどこに書かれているかを見出せる人です。
本のモチーフやその解決場所は、序文や後書きを読めばいいというものではありません。かえって目立たないところにその著者の根性が見えるときがあります。いわば、書物の心というものです。それが著作のどこかでほのかに見えてくるときがある。
20年ほど前、誰かがこういうことを言っていました。書物には、著者の〈入射角〉〈出射角〉があると。彼は著作の動機を〈入射角〉、解決場所を〈出射角〉と呼んだわけです。
私の言葉を、その意味でもう一つ突っ込んで言うと、それは書物の〈像〉というようなものです。読み込んでいくと書物が継起的な言葉の羅列から離れて著者の〈像〉や書物の意味の〈像〉のように見えてくる瞬間がある。
その〈像〉から自然と逆照射されるいくつかの言葉やフレーズがある。それが〈入射角〉や〈出射角〉の言葉です。それは論理的な演繹でたどれるものではない。
書物の全体とは、言葉の全体ではなくて、〈像〉の全体性なのです。
どんなに大部な著作でも、たった一つの語句が〈入射角〉や〈出射角〉を決めている場合がある。それを見出すのは大変なことです。でもそれが著作の〈全体〉=〈心〉を〈読む〉ということです。それ以外は、すべてご都合主義的な断片化なわけです。時間とルーティンワークに追われている社会人には絶対にできません。
社会人は、その意味で本が読めない。会社の課長や部長が、朝礼や式典で、有名な知識人やベストセラー作家の名前を出しながら、話しをする場合には、みんな読書「初級」。まともに本なんか読めていない。彼らは自分の縄張り(=分業)を守ることに汲々としている人たちです。
本をまともに読むことができるのは学生時代だけです。効率主義で社会的に分業化された社会人は雑誌か新聞かベストセラーしか読めない。本を読むということは、もっとも〈効率〉と反することだからです。だから、書物の〈心〉さえもわからない。
じっくり書物が読めるときは、学生時代しかありません。卒業するまでに分厚い専門書を10冊は〈心〉まで読み込んでみてください。それだけで一生死ぬまで〈社会人〉に勝てます。
さて、最後に最近私の身の回りで起こったことをお話しして終わります。
私は千歳烏山に住んでいます。新宿方面に出るときには甲州街道をよく走ります。その甲州街道と環八の交差点の近くに「ENEOS高井戸」という小さなガソリンスタンドがあります(甲州街道と旧甲州街道の分かれ目にあるガソリンスタンドです)。
ここはいつ行っても大変お客さんが多い。それほど大きな店ではないのですが流行っている。セルフガソリンスタンドが流行る中、従業員も多い。
この店の特長は、単にガソリンを給油するときでも、必ずドライバーを外に出し店の休憩室の中に入れることです。
入れる方法は、「お客様、車内掃除を致しましょうか」です。
「やってよ」ということになります。
タイヤなども暇なときはワックスがけしてくれる。サービスがいい、というふうに見えます。だから流行っているのだと。そう考えてもいい。またこの程度のことは、どこでもやっている、と言っても良い。
でもこの間、面白いことがありました。
店員の1人が、「お客さん、タイヤ変ですよ。空気がちょっと減っていませんか?」と休憩所で休んでいる私に語りかけてきた。
「本当? チェックしてみてよ」
ジャッキアップしてもらって、私も一緒にチェックしましたが、釘拾いの形跡はまったくない。
結局、空気漏れの原因が分からない。
「明日の朝ディーラーに持っていって点検してもらうよ。空気だけは補充しておいて」と頼んで、その場を凌ぎました。
「タイヤ交換するのなら、うちでお願いしますよ」なんていやな一言をかけられて「ENEOS高井戸」を後にしました。
次の土曜日の朝、ディーラーに予約付きで持っていって1時間以上待たされましたが、「何も異常ありませんね」とのこと。
「だって空気圧があきらかに1本だけ異常なのよ。絶対空気漏れていると思いますよ」。
「いやお調べしましたが私どもではこれ以上無理です。タイヤ専門店で見てもらえばどうですか。『成城タイヤ』が近くにありますよ」なんて言われて追い出されてしまった。
『成城タイヤ』では、タイヤを外して石鹸水をかけてみてもらった。タイヤの空気漏れの一番原始的なリークテスターが石鹸水だ。
「お客さん、パンク修理したところから漏れていますね」と言われた。見せてもらったら、修理跡からプクプクと泡が出ている。やれやれ。
私が腹が立ったのは、私を追い出したディーラー。こんな程度のこと誰でもやれることではないか。ディーラーは私のタイヤに石鹸水さえかけていなかった、ということだ。そうやって「専門店」へ追い出す。どういうことでしょう。
しかも私は、専門店店員に「お客さん、このタイヤもう交換時期ですよ」と云われて、その店で4本とも買い換えることになった。23万円も突然の出費を強いられたのです。先月の実際の話です。
どうですか。みなさん、ディーラーは、なぜこんなバカなことをしてしまったのだと思いますか。
それはディーラーの人がバカだからではありません。
ディーラーは、クルマを売るところだと思っているのです。だから一度クルマを売ってしまって何百万かの大金が入ってくれば、2,3千円の修理には関心が無くなる。だからタイヤに石鹸水すらかけない。
車の売買契約書に判子を押した瞬間からもう私はお客様ではないと思っている。買い換えの時期が来るままではビジネスの対象ではないと思っている。
ディーラーは、クルマを売るところという分業主義がはびこっているのです。
修理箇所やクルマの現状全体をたえず顧客に提示して、ビジネスチャンスを拡大する気がない。
故障箇所の展開は、それ自体が次の車を買うサインだということをわかっていない。故障は故障だという“分業”主義に陥ってもいる。
たぶんこのディーラーは整備部門と販売部門との連携がとれていない。
それに、このディーラーは、私に「もうタイヤ交換の時期ですよ」とさえ言わなかった。
みすみす何の関係もないタイヤ専門店に客を取られてしまったのです。
サイテーのディーラーです。
一方「ENEOS高井戸」は、自分たちをガソリンを入れるだけのガソリンスタンドとは思っていない。
一台の車がガソリンを入れに入ってきたら、給油口に給油ノズルを差し込んでいる間に、窓ガラスから、タイヤのクリーニング、車内清掃まで綺麗にやってくれる。
私は最初、これは付加価値サービスだと思っていましたが、そうではない。
車体、タイヤ、車内を毎回チェックして、ビジネスチャンスを見出そうとしている。“付加価値”ではなく、このガソリンスタンドにとってはクルマのすべてが“価値”なのです。
まるで私がユーザーとして車を愛するように、ビジネスとして車を愛している。愛している、というのは、いつでも全体を愛しているということです。
ガソリンスタンドはガソリンを入れるところ、ガラス拭きはガラス拭き、車内清掃は車内清掃、そういった分業主義を排しているわけです。
昨日も、仲良くなった店員が、私が待合室で休んでいる間、私の車のボンネットをあけて、オイルや冷却水などをすべてチェックしていました。
この「ENEOS高井戸」でガソリン給油だけをして、「ありがとうございました」と送り出されたときには、お客様の車には異常がありません、と言われたとことと同じことを意味します。
そう思うと、私は、このガソリンスタンドの〈入射角〉、〈出射角〉が読めてきました。
このガソリンスタンドは、クルマ全体を相手にしている、クルマの心を読めているガソリンスタンドなわけです。
大資本に安住し、分業主義で固まっているディーラーよりはるかに全体を見通せる仕事をしている。
いわば、ここの社員は、社会人であっても勉強している社員なわけです。勉強熱心な、知的な、インテリジェントな社員達なのです。
分業主義の組織では全体を見ているのは、〈社長〉だけですが、このガソリンスタンドでは、すべての店員が〈社長〉の目=知的な目で顧客を見ている。
ガソリンを入れる〈経験〉、清掃の〈経験〉だけでは、決して〈全体〉や〈心〉までは読めない。
〈経験〉主義では、10年ガソリンスタンドに勤めても、ただガソリンを入れるのがうまくなる、掃除をするのがうまくなる、タイヤ交換がうまくなるだけで、それぞれがクロスすることがない。それでは〈経営〉にならない。
甲州街道沿いのガソリンスタンドはセルフスタンドにお客様を奪われつつあるのですが、セルフスタンドよりははるかに高いガソリン代を払っても、ENEOS高井戸はビジネスが成立している。それは車全体を経営“資源”にしているからです。
みなさんは、高校までの勉強に不満をもっている。国語は好きだけど、数学は嫌い、というように。そしてやっと好きな勉強ばかりができる専門学校に入ってきた。
だけど、エンジンさえも、さまざまな要素の集合体であることに気づかされます。機械工学から、化学、物理学など多分野に渡ります。どんなに専門を掘り下げても、必ず周辺領域や異分野の勉強をしなければならない。それが専門を極める、全体を勉強することの本来の意味です。
学生時代こそ、ご都合主義や効率主義、分業主義では見えてこない他者への関心を育てる時期なのです。〈全体〉や〈心〉を読みとる時期なのです。
特に最近はインターネットの〈検索〉という便利なものができて、全体というものが、以前よりもはるかに見えやすくなったように思われていますが、それは断片の全体であって、決して本来の意味での全体ではありません。だからインターネット情報では〈心〉や〈像〉が見えない。
インターネットのグローバリティやユニバーサリティは、私が言う意味での〈全体〉を隠蔽し続けます。
もっともっと一つ一つの書物に、あなたたちは沈潜すべきです。内部に全体があると思える時代が学生時代の最大の特権です。
インターネットは、社会的には、放って置いても使わざるを得ない水道水のようなものなのですから。
しかし〈勉強〉はインターネットのようにいつでもできるものではありません。年を取って本を読んでいる奴なんて、私は絶対に信じません。そんな連中は職場の中では必ず嫌われ者です。
若いときの勉強や読書の質は、その人の勉強の一生のスタイルをすべて決めているのです。
これからの最後の学生時代、みなさんには心して勉強して頂きたいと思います。
それが、私がみなさんにお伝えしなければならないこの門出の入学式の言葉です。
これをもって、入学の式辞に代えます。今日は本当に入学おめでとうございます。
(於・中野サンプラザ 大ホール)
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ここに書かれてる事に凄く共感出来るし良く分かる。胸の奥がスーッとする感じ。でも俺、出世出来ないのは何故だろう?苦笑