なぜ、人を殺してはいけないのか? ― 一つの〈責任〉論 2007年03月28日
●2007年03月20日 22:08
今日、ある人から、「人を殺してはいけない理由」って何ですかね、突然聞かれた。子供に突然尋ねられたらしい。
私は即座に「殺してはいけない理由なんてないよ。殺すことが〈できる〉ことが人間〈である〉ことよ」と答えておいた(以前にも答えたことがあるが増補して再録しておく)。
昔『文芸春秋』が「なぜ人を殺してはいけないのか?と子供に聞かれたら」という特集を組んでいた。
山折哲雄(宗教学)、野田正彰(精神分析学)、岸田秀(精神分析学)、矢沢永一(国文学)、三田誠広(小説家)など一冊くらいは自分の書棚にある人たちの名前が並んでいたので、意見を聞いてみたいと思って買ったが(私は基本的に雑誌を買わないが)、案の定、サイテーの内容だった。
この人たちは、結局は凡庸な“ヒューマニスト”にすぎない。
私であれば、自分の子供に、「人間は殺しうるものだけを愛しうる」と教える。
人間の歴史は、殺すこと(否定すること)の対象を拡大することにあったわけです。
〈自然〉が脅威の対象であった時代には、自然を愛することなどはあり得なかった。自然から自由であることが自然を愛することの根拠であったわけです。
もし桜の木が人間を襲ってきたら、春になって桜を愛でるなんてことはなかったでしょう。桜からいつでも自由であることが、桜に近づきたい(桜を見に行きたい)理由なのです。
その存在を否定できることと接近したいこととは同じ理由なのです。「世の中に絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし」(古今和歌集)と在原業平が詠んだとおりです。
そうやって人間はまず〈自然〉を殺しうるすべ(=道具)を心得た。そのようにして、人間の歴史の“進歩”というものがあり得た。
一人の人間を愛することが〈できる〉という根拠も、その人間から自由に離れうる(その究極の形態として殺しうる)ということなしにはあり得ないことです。
それは動物の殺し合いとは全く別物。動物の殺し合いは、弱肉強食ですが、人間だけは、“弱い”人間でも“強い”人間を殺すことができる。子供でもちょっとした“武器”で憎い人間を殺すことができる。
人間が武器や戦術を持ちうるというのは、人間が自然的な諸条件(子供、女性、病者など)を超えて、どう猛な動物や強者から肉体的に自由であるということです。
どんなに愛し合う間柄であっても、いつでも、その相手から逃げることができるという原理が根底にない限り、「離れられないんだよね」なんて絶対に言えません。
場合によっては一突きで殺しうるからこそ、人間は命をかけて添い遂げることができるのです。
つまり人間は自由に殺しうるからこそ、自由に(=深く)愛しうるわけです。動物の〈愛〉と人間の〈愛〉とを類比的に語る連中がいますが、そいつらはとんでもない勘違いをしています。
動物の愛と人間の愛とは全く別物です。動物の愛(あるいは家族)は強さの表現ですが、人間の愛はそういった強弱からは最初から逸脱しています。人間の〈愛〉は〈自由〉が根底に存在している。あえて動物的に言えば、この自由は殺しうる自由です。
「なぜ人を殺してはいけないのか」。バカな問いを発してはいけません。殺すこと(殺しうること)は、人間の最大の自由、人間が人間であることの原理です。人間はどんなに“強い”人間であれどんなに“弱い”人間であれ、殺しうることと愛しうることとを同時に手に入れた。ここに人間の愛憎の本質があります。
● 2007年03月20日 23:49
ヘーゲル(ドイツの哲学者1770-1831)は、人間を殺すことは、人間を〈否定〉したことにならないと考えます。かれは、殺すことを〈否定〉ということから考えるわけです。
ある人間を否定することにとって一番重要なことは、その否定する人間(殺す方の人間)の存在を相手(殺されるはずの相手)に認めさせる契機を持つということです。
〈殺す〉ということは、相手を文字通り、無にすることですから、殺す方の人間を相手に認めさせる契機自体を失うことを意味します。これでは、相手を〈否定〉したことになりません。
〈否定〉の最大の目的は、相手に自らを〈承認〉させることだからです。たとえば、自分の肉親を殺された人間が、殺した人間を許せないといって、その犯人を殺したとします。これでは、犯人は何を反省したのか(何を否定されたのか)わからないままに死んだことになります。それは、殺人犯に対する真の報復ではないとヘーゲルは考えます。
真の報復は、殺人行為をそれ自体に即して精神が反省することであって(その辛さを犯人が自覚することであって)、それ自体をも無化する死をもたらすことではない、とヘーゲルは考えるわけです。生きながら殺すことがヘーゲルにおける〈殺人〉の意味です。
したがってヘーゲルは、人を殺してはいけない、と考えるのです。これはヒューマニストの側からする一番深い殺人反対論です。
ヘーゲルには、死を感性的な痛みの極限と考えているところがあります。しかし本当に痛いのは、精神の痛み(心の痛み)だ、とヘーゲルは考えるわけです。
死ぬことはその痛みに比べれば、些細なことだと見なすわけです。したがって、殺人より高度な否定として、精神の否定(精神における否定)を想定するわけです。
この死の考え方は、ある意味では通俗的です。この死の考え方を20世紀最後の哲学者ハイデガー(1889~1976)は乗り越えようとします。
(今日はここまで)
●2007年03月23日 21:35
たぶん、殺意と殺人の起源は、出生の受動性にあると思います。
なぜ、私は非意志として(生まれたいと思ったわけでもないのに)この世に生まれてきたのかと。しかも「この」親の元に生まれてきたのかと。
この問いは、自己意識(=私は私である)にとっては最大の屈辱です。
生の受動性が受け入れられない人は自分を殺すか、他者を殺すこと(その究極は親殺し)によってしか自己確証できません。
一方、自己意識の最良の本質(=たぶんそれを〈愛〉と呼んでもいい)は、生の受動性を受け入れ直すことです。
それに失敗した人は、自分を殺すか、他者を殺すしかない。最悪の場合、そうなる他はない。
だから、殺意や殺人の問題は、なぜ殺してはいけないのか、ではない。
殺す(自分を殺す、他人を殺す)、殺さないかは、人が生きる局面で、「自分のせいではない」と思えることをどんなふうに受け入れ直すか、に関わっています。
人間にとって一番つらいことは、自分に責任(=負い目)のないことを受け入れることです。そしてこの世の中でもっとも自分に責任のないことは、自分が生まれてきたことです。生きることは、人間にとって、もっとも無責任であっていいことです。
生きている人、人殺しに無縁な人は、どんなふうにしてか、生の受動性を受け入れることのできている人たちなのです。その人たちを〈大人(おとな)〉と言います。
遠い責任(負い目)を受け入れることのできる人、それを〈大人〉と言います。
大企業の経営者は、会ったこともない自分の部下の不祥事で引責辞任を余儀なくされます。これはマネージメントの不備という以前に人間の組織の一つの〈美〉です。生まれ落ちた偶然にもっとも近接した人間の組織や社会性と言われるものの顕現です(動物の組織=社会には決してあり得ない)。大企業のトップ(あるいは大組織のリーダー)は、ほとんどの場合、遠い責任=偶然性を担える人でなければならない。彼は誰よりも〈大人〉でなければならない。リーダーとは部下を否定しない人のことを言います。
〈子供〉はなぜあんなにも残虐なのか。それは、まだ近いものにしか自分の責任を負えないからです。まだ生の偶然性を引き受けることができない。だから自分に向かっても他人に向かっても残虐性が近接しているわけです。偶然性を否定することによってしか死を受け入れることができない。
さて、あなたは〈大人〉ですか、〈子供〉ですか。
(Version 1.0)
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