人間の病気は、機械の故障と同じではない 2007年02月06日
人間の病気は、機械の故障と同じではない。
たとえば、車の故障。エンジンが故障して、動かなくなった。それを修理してまた車が動きはじめる。
こういった車の故障と修理と元の状態への復帰は、なぜ、そう言われるのか。
それは車という《機械》が〈機能〉や〈目的〉をもった存在だからだ。通常、車は「走るための道具」、「移動の手段」と言われている。
すると、車の「故障」とは、走ったり、移動できない状態を意味する。機能を果たさない、目的を満たさない状態を「故障」と言うわけだ。
「故障」とは、〈機能〉や〈目的〉に関わって、それを満たさない状態を言う。
さて、だとすれば、人間の病気は、故障ではない。
もし故障だとしたら、人間の目的や機能が何であるかがあらかじめわかっていなくてはならない。
人間の目的とは何か、人間の機能とは何か。それを無くせば、人間の目的や機能が果たせなくなるものとは何か。
小学生や中学生ならば、心臓や脳と言うかもしれない。それは、半分正しい。死んでしまえば、人間は“無”だから。
しかし人間の“無”と車の「故障」とは別ものだ。「故障」はまだ直せるが、死は直せない。だから、死は〈機能〉や〈目的〉に帰すことはできない。
車の目的が走るため、というように、人間の目的が死ぬために、というようには言えない。
そもそも、死は、人間が生まれ落ちたときからどんな所与のものよりも先に与えられている。親が存在することが絶対的な受動であるようにして、死が存在することも絶対的な受動性だ。親(=家族)とは人間の生死の別名なのだから、死の受動性こそが先にある。
もし死が絶対的な受動性ならば、死が何のためにあるか(どんな機能のためにあるのか)、などと問うことは無意味だ。
〈目的〉や〈機能〉は、人間が作ったものにのみ属しているからである。
従って、死は故障ではない。死が故障ではないようにして、病気も故障ではない。
病気が故障であるように見えるのは、たとえば、それが仕事の中断を意味したり、手足の機能が不全になったりするからであるが、仕事の中断が別の仕事の再生であることもいくらでもあるし、手足の不全が身体(手足)に依存しない別の生の再生であることもしばしばだ。
そもそも、最大の病は人間が死ぬということなのだから、健康に戻るのは、“死ぬために”戻ることでしかない。病気も健康も、死ぬことの様相でしかない。健康は、時として死を忘れさせる分、もっと大きな病なのかもしれない。だから、病気もまた生きることの別の様相なのだ。病気や老衰だけが死に近いわけではない。
人間の生は、特定の目的や機能に従属しない分、毎日再生しているのである。それは人間の死が毎日再生する可能性の中にあることと同じことだ。
機械のように新品の製品が時間をかけて中古になっていくように人間の生は摩滅するのではない。老衰も青春もいずれも未熟だし、いずれも美しい。人間の生はいつでも廃品になるし、いつでも新品になる、そのように生死は間断なく再生する。
だから、人間の病気は機械の故障ではない。
(Version 1.0)
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