人間が死ぬとは何を意味するのか ― 私、私の死、世界 2007年01月27日
すでにあること(=過去)だけが確実(な事実)であって、将来に起こることは誰にも予想できないということが本当だとすれば、死は、まだ自分は死んでいないという点で不確実なもののように思える。その意味で、「将来」は、まだないものとして何一つ確実なものを持ってはいない。
しかし、死は自分にとって将来起こるもの、その意味で不確定なものであるにもかかわらず、どんなに(起こることの)可能性の高い出来事より確実にやってくるものであることを誰も否定しはしない。この場合、“やって来る”というのは、まだ来ないものとして「いつかは来る」という意味なのではない。
死がまだないというのは、猶予としての将来を意味しているのではなく、むしろいつ来てもおかしくない“切迫”としての将来なのである。つまり死の将来性は、まだないものとして単に不在=無であるのでなく、間断なく存在する不在としての将来性なのである。
というより、将来や過去があること自体が死のメタファーなのだ。
用意や予測、覚悟や準備、認識や知識を持たなくても、人間はすでに充分に死ぬことのできる年齢になっている。
生きるということが瞬間としての出来事ではなくて、これからも生きる、つまり将来的に生きるということだとすれば、死の切迫性は生きることに先行している。ある時間を生きたことは、死がまだやってこなかったことの結果にすぎないからである。
言いかえれば、人間は生きた結果、死ぬではなくて、すでに死んでいるにもかかわらず、まだ死んではいない(=結果として生きている)。
死は、まだないことがすでにあること、すでにあることのまだないことという固有な時間的緊張の内にあると言える。
人間は死を知らなくても死ぬことができるし、死を知っているからと言って、死を避けることができるわけではない。
また自殺をしたからといって、それは人が食事をしたというふうに或ることの行為者になるわけではない。
人間があることをしたということが言えるためには、その行為の時間(行為の終末)を追い越さなくてはならない(食事が完了した後も生きていなければならない)が、 死後の時間を生きる訳にはいかないからである。それは〈生きる〉という言葉の乱用に過ぎない。死後も生きるのなら、生死の区別はすでにそこで消失している。
死後の世界を語る人間は死んだ人間ではなくて、死にそこなった人間、つまり生きている人間であって、彼はまだ死んではいない。
つまり人間は自分の力で死ぬことができない。自分の力で死ぬことができないにもかかわらず、死は自分の死でしかない。他人が死ぬことによって、自分の死が代理される(自分の死を免れる)わけではないからだ。
おそらく、どんなに個性的(特長ある、私的)なことであっても、それと同じ個性や特長を持つ他人は存在しうるだろう。つまりその個性は代理され得るだろう。
しかし、死ぬことだけは〈私〉の死であり得る。私は単独で=一人で死んでいく。
逆に、人間が「個性」だとか、「私」「自分」というものを持ち得るのは、死が代理のきかない、他人に譲れない死であること、死が〈私〉の死であることからきている。
〈私〉が存在することと〈死〉が存在することとは、だから、同じことである。
しかしそのもっとも私的なことこそが、私にとって不可能なことだ。私は私の死であるが、しかし私は(自殺が根源的に不可能であるようにして)死ねない。
私は死ねない。とすれば、私は私ではない。私とは私の他者である。
世界の中で一番遠いところ、どんな他者よりも遠いところに私にとっての私が存在している。
というより、〈世界〉という距離は、私が私にとって自明でないこと(私=死)から生じる距離なのである。この距離があらゆる諸々の他者へと私が眼差しを向けることの根拠である。
なるほど、世界は私の世界ではない。世界は彼(彼女)にとっても世界であるからこそ世界であると言える。
私がその中にいる世界は、私がいない(=死んでしまった後での)世界と同じものである。
しかし私がいない世界を私が考えることができること、それは結局、私(私=死)というものが、もとから私(私=死)としては不可能であること、不可能なものの可能性であることの意味だ。
私がその中にいる世界と私のいない世界とが同じものであること、つまり、私の〈外部〉が存在すること ― 世界の外部というものが考えられない以上、世界とは外部のことである ― は、私が私の死としては私の死を死ねないこと、私が私として私の外部〈である〉ことからきている。
私の死が世界の中で起こる“出来事”でないのは、そのためである。
私の死は、世界の境界で生じる。厳密に言えば、“その中で”出来事が生じる外部そのものという意味では世界に境界などないのだから、私の死は、境界そのもの、世界そのものなのである。
死者は生きており、生者はすでに常に充分に死んでいる。世界〈がある〉ことと世界の外部〈がある〉こととは同じことなのである。
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ミクシィ(MIXI)日記からの同記事の反応を紹介します。
●2007年01月27日20:17 Kさん
何度読み返しても、意味がわかりません。
●2007年01月27日20:23 芦田の返答
スミマセン。重篤なKさんには少し長すぎました。最近、恩師(=川原先生)が亡くなったので、ちょっと昔書いていたもの思い出してUPしました。
一言で言えば、死は、在って無いもの、無くて在るものということです。Kさんには、死なんて「全く気にするな」と言いたい。長くてゴメンね。
●2007年01月27日21:25 Kさん
良くわかりました。
●2007年01月27日 21:30 芦田の返答
>さらにKさんへ
〈現在〉に、あなたの好きな「一億年」を刻んでください。一秒を一億年生きてください。
生きる、ということは、現在(=今)を拡張する、ということであって、長生きすることではありません。長生きしてたって、とっくの昔に死んでいる奴はいくらでもいます。
元気でいてね。
●2007年01月27日20:22 Oさん
むずかしいですね。とりあえず人が死んだら悲しいってことです。
●2007年01月27日20:28 芦田の返答
>Oさん
いやー、そんな感じではないと思うんですよ。悲しい、と思う人は、そう思うときには、自分は死なない、と思ってる、と私は思います。
たぶん、そんな人は飼い猫や飼い犬が死んでも「悲しい」。
では人が死ぬ悲しみは、飼い猫や飼い犬が死ぬ悲しみと同じなのか。たぶん、悲しみ、という点では同じなんですよ。
だから、人の死は、悲しい、というだけでは汲み尽くせない何かなんだと思います。
●2007年01月27日 20:24 Dさん
なかなか難しい内容ですね。しかし時には向き合うことも大切だと思います。
そうすることで人生に深みがでると信じています。
死とは人生を不幸にするものではなく、深みを与えるもの。そうであればいいと思います。
●2007年01月27日 20:35 芦田の返答
>Dさん
いやー、デリダでさえ、最後には自分の死を受け止めれなかったみたいですよね(25日の私のブログ)。私にはデリダが死んだことより、死に対する彼の態度がショックでした。
だから、死はいくら向き合っても、人生を深くしたりはしない。
そもそも〈人生〉なんて、死を忘れているときにこそ出てくる言葉ですからね。人の生死が〈人生〉なわけないと思います。
私は、死を人生論(生き甲斐論)や人間論に結びつけるあらゆる傾向を避け続けています。それはハイデガーから学んだことです。
●2007年01月27日23:16 Lさん
死ぬことは必然的な事だから友人とかが誰か死んでも、素直に受け入れなきゃいけないんすよね!!
●2007年01月27日23:31芦田の返答
>Lさんへ
キューブラー・ロスの有名な『死ぬ瞬間』(読売新聞社)という本があります。タイトルの割には科学的で実証的なしっかりした本です。
この本の中に、死を前にした人間の5段階というのがあります。あなたのコメントでそれを思い出しました。
たとえば、ある人(あるいは自分)が「あなたはガンです。余命5ヶ月です」と言われた場合、大概の人間は、以下の5段階を経る、というものです。
第一段階 否認 (何だって、そんなことあるわけがない)
第二段階 怒り (神様は、何で私にこんなひどい仕打ちをするのか)
第三段階 取り引き (何でもしますから、私をお許し下さい)
第四段階 抑鬱 (やっぱり、ダメか)
第五段階 受容 (お気に召すまま私をお裁き下さい)
こんな感じです。しかし、これは世界内でおこるすべての事件の受容過程を包含しています。逆に言えば、人間にとって、死は、世界(=出来事)を生きる原理だということです。
素直に受け入れる、といっても5段階のいくつかのプロセスを経ることなしには、難しい。〈受容〉というのは、人間の思考や認識の中で、もっとも高次の段階を意味しているのですから。
●2007年01月27日23:34 Dさん
私は病気で自分が死ぬということを分かって生きた人をみてきました。
彼らは死に向き合うことで精一杯生きました。その結果色々なことに挑戦し学び彼らは生きることについて経験から答えを出していました。
だから私は誰が何と言おうと死が人生を深くすることは間違いない。そう確信しているのです。
●2007年01月27日23:57 芦田の返答
>Dさんへ
私は、そういうのを“もうろく”だと思っています。
あなたは、「彼らは死に向き合うことで精一杯生きました」と言うことによって自分が死ぬことをすっかり忘れている。
人間が勉強したり、経験を積んだりする、というのは、わざわざ死に至らなくても(死を宣告されなくても)、自分と向き合える訓練をすることだと思います。
たぶん、それは思考や人間の知性の究極の課題なのではないでしょうか。たとえ、そのことが徒労であったとしても、私は最後までその態度を貫きたいと思います。
人間が死を宣告されて自分と向き合うようになるのは、或る意味で当たり前のことです。それ以上でも以下でもありません。
それはけがをした人が、その痛みに直面するリアリティとそれほど大した違いはありません。他人であるお前にこの痛みがわかるのか、というように。わかりません、と答えるしかない問いかけなわけです。
その意味では死に向き合う自己だけを何も特権化する必要はない。普通に健康に生きている人であっても、むしろ死にたいくらいに辛いことはいくらでもある(実際に自ら死を“選ぶ”人もいる)。
許せないのは、不治の病に陥って、急に人生や死を語り出したり、健康は大切だと言い始める人たちです。
まるで、人生や死や健康は病人の特権的な主題であるかのように振る舞う。健康なお前に何がわかるのか、というように。私は、これを病人や老人の“もうろく”と言いたい。
私には、病人の死も交通事故死も同じだというふうにしか思えない。死が辛いのは、死に意味はない、という点であって、それに向き合う、何らかの状態にあるわけではない、ということです。死はどんなときにでもどんなひとにでも平等に与えられている。
●2007年01月27日23:51 Pさん
『死ぬ瞬間』は有名ですが、わたしはスーザン・ソンタグの隠喩としての病」が好きです。
彼女自身をして癌に立ち向かわせ「隠喩」の存在を指摘したからです。
「癌」という言葉で示す、何ものかをも恐れるべきで、死はその向こうにあるのでしょう。(ちょっと言いすぎ)
●2007年01月28日 00:03 芦田の返答
>Pさん
ソンタグの病気の「隠喩」論は通俗的です。それは「癌」の通俗的なリアリティに頼りすぎています。それならキューブラーロスの方がはるかに実証的であるが故に文学的です。
●2007年01月28日00:24 Pさん
キューブラーロスのほうが古いですね。
わたしは、彼女自身がそれにたちむかったということが貴重だと思うわけで、学究的なソレを語っていません。
まあ、ソンタグファンってことかな?
看護婦なんかがみんなでキューブラーロスを読み出したときにわたしは、そっぽをむいたしね。
●2007年01月28日00:30 芦田の返答
>Pさんへ
私は、ジャンリュックナンシーにしてもデリダにしても、ソンタグにしても彼ら彼女たちが自分の死をネタにするのが好きではありません。文学にすらならない。
だって、死に向き合えば、誰でもネタに出来るでしょう。誰でも何か書けますよ。恋愛すれば、誰だって少しは詩人になるように。
だから、それだったら、元気な内に深く思考しろ、と言いたいわけです。
キューブラーロスの本は、看護や病人の本ではありません。たぶんそう読まれると、この本の意義はほとんど失われると思います。この本は、人がそう思う以上にはるかに文学的です。
ミクシィ(MIXI)返信・続篇
●2007年01月28日04:20 Sさん
「まだ死んでいない人間」
私は昨年父を送りました。この最後は私にとって何だか不思議な体験でした。かれは数年前から死を望む時間(皆、死にたいと思うことはあると思うのですが、それは大抵、単に今の辛さから逃れたいという瞬時的な感情だと思います。でも彼の場合はちょっと違っているように感じていました)が多くなってきました。
自分の死を、つまり外部にある死を直視して絶望的にではなく、その(自分の存在がなくなった)世界や自分の体が途絶えるその瞬間をちゃんと見据えているようにさえ感じたのです。
生きるということは、まだ死んでないということ ・・・ 生きるということは、肉体と精神のギャップを常に克服していかなければならないことなんだと彼を見ていてそんな風に感じることもしばしばでした。
彼はその死を、しっかり計画して(自殺ではなく)AM 11:17、に死んだのです。
冬季オリンピックのジャンプを見ながら、‘おいお前 約束の時間だ イチイチイチナナだぞ いいな’と私に言って(その朝、11時には終りにしようと話していたので)、すぐに血の気が引き始め朦朧として、私は彼の死を見ました。
でもそれから12時間をまだ生きている者達へ贈り物(ありがとうという彼の精一杯の肉体:死んでない私たちの勝手な思い込みですが)として残し、というよりは、まだ生きている者達が彼の肉体を無理やり12時間引きとめただけに過ぎないのかもしれませんが、とにかく一日の半分の間 余韻を残して、その深夜ちょうど11時過ぎ、彼は一息深く深呼吸をして、その肉体との闘いを終えたのです。
生きている者の思い込みに過ぎないとしても あんな風に最後まで自分が自分であれたら いいな・・・ 病気になって何もかもぐちゃぐちゃして・・・・肉体に精神が負けてしまったような状態、あるいは精神とは全く無関係に肉体を人に預けたような状態ではなく あくまでも自分の精神が肉体を克服しているような有様のまま 外側の死に至れたらいいな~と思いました。
●2007年01月28日 12:11 芦田の返信
Sさんへ
「あくまでも自分の精神が肉体を克服しているような有様のまま 外側の死に至れたらいいな~と思いました」。
これは、私は逆のような気がします。精神と肉体が一致する状態、というのは、むしろ動物状態ではないでしょうか。動物の〈反射〉行動は、その究極の状態だと思います。彼らには、心と体との分離がない。まさに“知行合一”です。
それに比べれば、死に向かう老後の人間は、精神(思考)と肉体とが完全に分離しています。思ったことを実現しようとすると数分かかる。
私の家内などは、4年前に多発性硬化症という難病にかかって脊髄をやられ、現在ほとんどまともに歩けません。10秒以上連続して立てない。家の中を伝え歩きするのが限界です。
また神経系が侵されているために歩き始めて、数秒経たないと足がどっちの方向を向いているかを自覚できない。どうやって歩いているかと聞くと、「目で(足のむきを)確かめながら」なんて言います。目で歩き始めて数秒経って神経が機能し始める。そんな感じです。
これは、何も難病の彼女の特殊事例ではない。年を取れば、誰でもそうなることを少し早く体験しているだけです。
要するに思考(意志)と身体とが完全に分離しているということです。吉本隆明はたしかこの状態を〈超人間〉と呼んでいました。動物に対して極限の人間性を体現しているのが介護の必要な〈老人〉だというのです。
死に至る、というのは、むしろ純粋思考と純粋身体とが分離するような状態なのだと思います。宗教は(身体を無化するようにして)生きながらにしてそれを実現しようとするのでしょうが(特に禅宗はそうです)、それが矛盾した行いであることに自覚が足りない。人間を動物のような反射性に再度退行させようとしているだけです。
思考(意志)と身体とが完全に分離した老人にこそ、むしろ人間の本質がある。だからこそ人間は死ねる、と思います。思考と身体が一致していたら人間はとても死ぬことは出来ないでしょう。
私は、この状態は、思春期の女性の身体の受け入れ方と似ていると思います。若い女性は自分の身体が男性にどう受け入れられているかを全く自覚できない。完全に、身体と意志とが分離しています。この分離にこそ、若い女性の性的な魅力(男性への誘惑)の本質が潜んでいます。ちょうどそれは老人の性の反対状態です。
30才、40才になって、女性が自分の性的な身体を受け入れるようになった段階(女性における身体と思考の一致)は、出産も終えた女性の“終わり”を意味しているわけです。性の生死と人間の生死とはそういった関係になっていると思います。動物の性行為はそこでもまた反射的ですが、人間の性関係は時間性(=ズレ)なしには存在し得ない。
いずれにしても人間の思考と身体との関係は、複雑なものです。動物のようには“一致”しない。
多くの読者には芦田先生の話はわかりにくいのではないでしょうか。
私はこう考えるのですがいかがでしょうか。
人間=電気自動車
人生=レース
若者=電池満タン
老人=電池切れかけ
病気=マシントラブル
奥様=電気回路故障中
病院=ピット
電力不足になると命令が伝わりづらく、動力も足りなくなる。
電気回路の故障でも同じ現象が起こりうる。
マシンの性能や電池の寿命は人によって違う。
オキシライド電池を積んでいても事故死の可能性もある。
吉本隆明=オウム真理教の麻原をベタ褒めした左翼主義者。人の批判ばかりして孤立した。
既に死んでいる人間=リタイヤ組
思考と身体の分離=マシン状態を把握しないで走らせている状態
女性の“終わり”=老けた女性に魅力は無い
●芦田先生に伺いたい点
・人間以外の動物も思考して生きているのでは?
・キューブラー・ロスの5段階はあくまでも一例で万人向けではないのでは?
「匿名」様
あなたの、「人間」(=電気自動車)から「病院」(=ピット)までの分類は、ありがちな類推だけど、決定的に間違っている点があります。
それはまるで人生に「全体」があるようにして人間の生死を表象しているという点です。電気不足、電気回路の故障、電池の寿命、マシンの性能、こういった言い方は、まずそれぞれの機能や性能の極点(=全体)を前提にしなければ、出てこない。
しかし、人生の「全体」(=満点の機能や性能)とは何でしょうか。そんなもの、どこで誰が「知る」のでしょうか。
人間の病気というのは、機械の故障と同じでしょうか。機械が故障から復帰するように、退院患者は復帰するのでしょうか。その場合、復帰とは何への復帰なのでしょうか。健康が人間の“全体”や“本質”を直ちに意味するのでしょうか。
そんなことあるわけがない。健康だからこそ、ぼけている人間はいくらでもいるし、病気であるからこそ悟っている人間はいくらでもいる。もちろん病気になって、もっとひどい病気になる人、たとえば説教くさい病人(自分だけが〈人生〉や〈死〉を語れると思いこんでいる病人)もいる。だから、それはあなたが比喩するどんな事態とも並行していない。
私が「既に死んでいる人間」と言った事態をあなたは「リタイヤ組」と言う。そんなことはない。他人からも自己確信としても“頂点”だと思われていても、「既に死んでいる人間」はいくらでもいる。
私が「思考と身体の分離」と言った事態をあなたは「マシン状態を把握しないで走らせている状態」と言う。そんなことはない。私は、むしろ「思考と身体の分離」こそが人間がフルに走っている状態、最高性能で走っている状態(あなたの言葉で言えば)と言いたかったわけです。
私が「女性の“終わり”」と言った事態をあなたは「老けた女性に魅力は無い」と言う。そんなこと私が言うわけないでしょ。柳沢厚労省大臣じゃないんだから。私は女性が身体を受容できない状態を〈性〉性としての女性と呼んだのであって、それは必ずしも年齢のことを指してはいない。
動物と人間との違いについてですが、それについてはヘーゲルが面白いことを言っていました。動物(あるいは自然)は、自分がそう理解されていることについて文句を言わない。そう理解されていることについて、「それは違う」と言えるのは人間だけ。
「それが違う」というのは、言い換えれば、〈自己意識〉のことです。ただし、この問いかけ(動物と人間との違い)には色々な答え方があると思います。私が印象に残っている答え方はヘーゲルのものだというだけのことです。いくつもの答え方を知らないわけではありませんが、ヘーゲルのこれは、面白かったです。
キューブラー・ロスの5段階説は、悪くはないと思いますよ。
第一段階 否認 (何だって、そんなことあるわけがない)
第二段階 怒り (神様は、何で私にこんなひどい仕打ちをするのか)
第三段階 取り引き (何でもしますから、私をお許し下さい)
第四段階 抑鬱 (やっぱり、ダメか)
第五段階 受容 (お気に召すまま私をお裁き下さい)
これは、人間の認識が認識論から存在論へ跳躍するプロセスそのものを意味している、と私は思います。否認は、人間の認識のもっとも低次な段階です。
物事を理解できない人ほど、〈否認〉したがる。〈怒り〉には、否認よりわずかに受容の契機が見られます。〈取引〉〈抑鬱〉になるともっとそうです。
そして身の回りの一出来事について、あるいは人生について〈否認〉で終わる人もいれば、〈受容〉まで至る人もいる。しかし、どんなに世界“内”で人間の認識力の優劣があっても、〈死〉を巡るプロセスには必ず〈受容〉までの全行程が人間に訪れる。
私は、この指摘は大変重要だと思いますよ。
人生に全体をおいたわけではありません。言い忘れた部分を付け足しましょう。
世界=レースコース
ある人が生まれた時、その人もレースに参戦するということになります。
ただ、ゴールはありませんし、参加者は常に変わります。(生死によってのみ)
耐久レースをする人もいればトップを走りたがる人もいるでしょう。
走りを楽しむだけの人もいれば、軽く流して風景を楽しむ人もいるでしょう。
人間の病気はまさに機械の故障ですよ、芦田先生。
芦田先生の蓄膿症はマフラーに汚れが溜まったという例えでいかがでしょう。
満点の寿命はまだ解明されていませんね。
ただ、理想的な生活を送ると140歳まで生きられると発表されたらしいですが。
満点の性能というのは非常に難しいですね。
それを限界まで引き出そうとしているのが思想家や研究者やスポーツ選手じゃないでしょうか。
まだまだ限界点を知った人などいません。
だから性能の限界点を引き上げるために人が努力するのだと思います。
極点が解明されていない場合はこれまでのデータから偏差値を出すことしかできないでしょう。それで優劣を付けるのが一般的かと思います。
「既に死んでいる人間=リタイヤ組」に関しては少し解釈が違います。
「トップ争いをしている人」だけが「生きている人間」ではありません。
「リタイヤ組=性能を引き上げる努力を辞めた人間」だと思います。
ヘーゲルもそこまで深く考えているとは思えません。
『所詮、畜生は深く物事を考えないだろう』と思って言ったのではないでしょうか。それこそ想像力に欠け、人間の世界しか見ようとしていない愚かな人間だと思います。
そういった人間の多くは地球環境など考える事も無いでしょう。
己の視野の狭さを言葉に露呈している哲学者の一つの例ではないしょうか。
そういった思いやりの心が欠けている人が哲学者には多く見受けられるように思います。
キューブラー・ロスの5段階説が認識論から存在論を表すという話、深く同意いたします。
(あなたは言う)「世界=レースコース。ある人が生まれた時、その人もレースに参戦するということになります。ただ、ゴールはありませんし、参加者は常に変わります。(生死によってのみ)耐久レースをする人もいればトップを走りたがる人もいるでしょう。走りを楽しむだけの人もいれば、軽く流して風景を楽しむ人もいるでしょう」。
●バカなことを言ってはいけません。ゴールのないレースなんて、レースではないのだから、レースという言葉を使いながら、ゴールのないレース、という言い方をするのは、地方の文学青年・文学少女並みにくだらない比喩です。もはや比喩の機能を果たしていません。
(あなたは言う)「人間の病気はまさに機械の故障ですよ、芦田先生。
芦田先生の蓄膿症はマフラーに汚れが溜まったという例えでいかがでしょう。
満点の寿命はまだ解明されていませんね。
ただ、理想的な生活を送ると140歳まで生きられると発表されたらしいですが」。
●とんまなことを言ってはいけません。「寿命」なんて本気で言っているのですか。そんなものこの世の中には存在していません。寿命も人生も、そんなものは存在しない。
いいですか。病気も生きることの一形態じゃないですか。それが機械の「故障」と人間の病気の違うところです。さらに言えば、生きることは死ぬことの一形態(=生きることは死に始めること)ですから、生きることは、もっとも大きな病気と考えてもいいわけです。それを私は何度も言っているのに、あなたは聞く耳を持たない。くだらない通俗的な表象に頼ってしか死や生や病気を考えようとしない。
(あなたは言う)「満点の性能というのは非常に難しいですね。それを限界まで引き出そうとしているのが思想家や研究者やスポーツ選手じゃないでしょうか。まだまだ限界点を知った人などいません。だから性能の限界点を引き上げるために人が努力するのだと思います。極点が解明されていない場合はこれまでのデータから偏差値を出すことしかできないでしょう。それで優劣を付けるのが一般的かと思います」。
●人生や寿命なんて、存在しない、というのが私の日記の内容ですから(あなたは私の本文を全く読めていない)、そんなものに「性能」や「優劣」なんてあるわけがない。人が死んだり、生きたりしていることに何の意味があるのですか。意味がないから、優劣も何もないのですよ。その意味でなら、動物も生きているし、死ぬ。そんな生死はどうということもない。
「思想家」「研究者」「スポーツ選手」に優劣は付けられるでしょうが、人の生き死にに優劣などない、という私の議論をあなたはいつのまにかすり替えている。
(あなたは言う)「『既に死んでいる人間=リタイヤ組』に関しては少し解釈が違います。「トップ争いをしている人」だけが「生きている人間」ではありません。『リタイヤ組=性能を引き上げる努力を辞めた人間』だと思います」。
●ふざけたことをいっている場合ではありません。自分の「性能」って何ですか。そんなこと自明なことなのですか。私なんか、未だに自分の性能がわかりません(というか、「性能」という点では全くのポンコツです)。「性能」には目的と機能が備わっていなければなりません。人間はあれこれの目標や機能に解消されてしまうものなのですか。そんなことあるわけないでしょ。
(あなたは言う)「ヘーゲルもそこまで深く考えているとは思えません。『所詮、畜生は深く物事を考えないだろう』と思って言ったのではないでしょうか。それこそ想像力に欠け、人間の世界しか見ようとしていない愚かな人間だと思います。そういった人間の多くは地球環境など考える事も無いでしょう。己の視野の狭さを言葉に露呈している哲学者の一つの例ではないしょうか」」。
●ヘーゲルは、あなたがそう判断するようなことをどこで言っていますか。教えてください。あなたはヘーゲルの何を読んでそう思ったのですか。ぜひ教えてください。私はヘーゲルが「想像力に欠け」た思想家だと思ったことは一度もありません。ぜひ教えてください。
(あなたは言う)「そういった思いやりの心が欠けている人が哲学者には多く見受けられるように思います」。
●なぜ、哲学者に「思いやり」が必要なのですか。哲学は人生論とも生きることとも何の関係もないですよ。ましてや良く生きることとも関係ないですよ。人には「思いやり」が必要だというのならわかりますが、哲学者に「思いやり」なんて、お門違いですよ。そもそも哲学者でなくても「思いやり」のある人はいくらでもいます。哲学者にも「思いやり」のある人はいくらでもいますが、それは彼が哲学者であるからなのではありません。
(あなたは言う)「キューブラー・ロスの5段階説が認識論から存在論を表すという話、深く同意いたします。」
●「同意」なんていりません(私は「同意」を得るために書いたのではありません)。わかるかわからないか、です。たぶんあなたはわかっていないと思いますよ。そもそも「認識論」ってあなたの理解では何ですか。「存在論」ってあなたの理解では何ですか。
否認が認識論で、受容が存在論だというのをどういう意味であなたは理解していますか。もしこれにあなたが「同意」するのなら、「性能」だとか、「レース」だとか、「病気」は「故障」だなんて言う訳がありません。
はじめまして。
この記事、大変興味深く読ませていただきました。足りない頭で、分かろう分かろうとした結果、とんだ夜更かしになってしまいました(笑)。それだけ面白かったです。読んで考えたことを書かせていただきます。
ぼくは、死が恐いと考えたことがあります。けれど、ぼくがこの記事の内容を誤解していないならば、死が恐いとは言えないと思います。では何が恐いのか。今仮に拳銃や刃物を突きつけられたとしたら、ぼくは恐怖します。
しかしそれは死への恐怖ではありません。痛いだろう苦しいだろうと予想するから恐いのです。肉体的苦痛に恐怖するのです。肉体的苦痛を過去に経験したものとして知っている上に、過去のそれらを遥かに上回るだろうと見込まれる事態に見舞われるのは、ご免です。
ではそこでもしぼくを殺そうとしている人がその道のプロで、何の苦痛もなくぼくを即死させるとしたらどうか。それでもぼくは恐いです。ぼくが死んだら、ぼくの周囲の人たちはたぶん悲しんでくれることでしょう。ぼくは悲しませたくありません。
とくると、死が恐いのではなくて、その人たちの悲しむ姿が恐いということになります。では、誰も悲しんでくれないとしたら(そう思いたくはないですが)。それでもやっぱり恐いです。
死んだら、やりたい事ややらなければならない事が出来なくなります。前途が絶たれるのは嫌です。
もっといって、「もうこれ以上することはない、やるべきことも果たした、せーせーした、さあ殺ってくれ」という心境に自分があったらどうか。これは、そんな状態になったことがないので判断しかねます。
こう考えると、どうやら死そのものを恐れるのは難しいことのようです。しかしそうは言っても、今後決して死に恐怖しないという自信を急には持てない、というのが正直なところです。芦田先生の叱責の対象になってしまうかもしれません(笑)。
長くなってすいません。理解の行き届いていないところがあれば指摘して下さい。