学生は〈顧客〉か? ― 〈学校教育〉とは何か? 2006年12月04日
この間、若手教員と話していて、面白い議論になった。 保護者と学生とは授業料を頂いている〈顧客〉なのだから大切にしなくてはならない、「CS=CUSTOMER SATISFACTION(顧客満足)」を意識しない学校運営は意味がないという意見だ。
私は若手のその意見を聞いていて、ずーっと違和感があった。
一番大きな違和感は、まさにCS=〈顧客満足〉という言葉そのものだった。
私は、言葉の意味になかなか合点がいかないときには、その反対語を考えることにしている。
「顧客満足」の反対語は何か?
「顧客満足」の反対語は「教育」でしょう、と私はふと思った。
教育される側は、本当に「顧客」なのか?
もともと「顧客」や「CS」というマーケティング概念は、〈消費者〉という概念が成立して以来の概念だ。
というよりも〈マーケティング〉という領域そのものが《消費者の時代》の到来と分かちがたく結びついている。
では《消費者の時代》とは何か。それは個人消費が国家の総消費の50%、60%超える時代のことを言う。
一回で億単位のお金が動く大企業の設備投資よりもデパート、スーパー、コンビニ、行楽地などでの個人消費の方が消費額として上回る時代が《消費者の時代》だ。
70年代以降、高度先進国はのきなみそういった《消費者の時代》に突入していった。
別の言い方をすれば、生産が消費の前提ではなく、消費が生産の前提、消費が新たな消費を生み出す時代ということだ。古典経済学では〈不足=欠如〉が生産の前提だが、つまりその意味では生産が消費の前提だが、そんな〈不足=欠如〉など高度な消費大国では存在していない。
何重にも記号化され、シンボル化された消費(消費の必要のない消費)が、人々の消費行動を規定している。
こういった人々を〈消費者〉、〈顧客〉という。
〈顧客満足〉とは〈不足=欠乏〉や〈必要〉(機能という意味での必要)を超えた消費者、自立した消費者としての〈顧客〉の“満足”を意味している。つまり生産に従属しない主体的な消費者=顧客の“満足”を意味している。
この意味で、〈学生〉というのは、どう〈顧客〉なのだろうか。
私は〈学校教育〉の対象は、すべて〈顧客〉ではない、と思う。
〈学校教育〉の反対概念は、〈生涯教育〉、〈社会人教育〉だ。
これらの教育(〈生涯教育〉、〈社会人教育〉)は、最終的に目的の定位者は受講者の方にある。各講座は、すでに存在している、受講者の目的に従属している。色々な講座を“必要”に応じてチョイスして、それらを何に役立てるかは、受講者側の自立した動機が決めている。
したがって、〈生涯教育〉、〈社会人教育〉には受講の〈主体〉が成立している。それは消費的な教育、〈顧客満足〉が問われる教育なのである。そもそも〈生涯教育〉、〈社会人教育〉が成立する社会はそれ自体が高度社会、高度な消費社会でしかない。
〈学校教育〉は、そういった意味での〈主体〉をもたない。そういった主体を形成するための教育を行うのが〈学校教育〉であって、教育目的の形成は学校側(教育する側)に委ねられている。
あえて「満足」という言葉を使うとすれば、何に満足すればよいのか、何に満足すべきではないのか、そこまでをも含めて教育するのが学校教育である。
学校教育の基本モデルは(誤解を恐れずに言えば)〈家庭〉だと思えばいい。そもそも親は子供を〈子供満足〉のために育てているのではない。〈親〉は文字通り子供の“生産者”だからだ。
〈学校教育〉は、その意味でこそ、学生の〈不足=欠如〉(=主体以前の欠如)に定位した生産型の教育を行う場所であって、〈消費者〉としての“受講者”を想定しているわけではない。
〈学校〉で形成される教員と学生との関係は、教員への〈尊敬〉と〈敬意〉との関係であり、〈利害〉関係ではない。家庭の親子関係が〈愛情〉に基づくものとすれば、〈尊敬〉と〈敬意〉は、〈愛情〉の社会的な関係と考えればよい。
社会がどんなに高度化しようと、〈学校〉は非消費的な場所である。高度情報社会のように社会が緊密に組織されればされるほど、非消費的な学校という場所はまずます必要とされている、と私は考える。
たとえば、なぜ、専門学校は「学校教育法」に於ける「一条校」(=〈学校〉)ではないのか。
大概の専門学校が資格の学校だからである。
〈資格〉教育は人材像が教育する主体(教育する側)にあるのではなくて、その資格の提供側に存在している。したがってその教育を受ける学生は、資格の有無の利害を消費する受益者の立場に立っている。
学習主体を前提する生涯教育組織がほとんどの場合、資格教育であるのはそのためである。
資格学校は、その意味では(出来ればなしで済ましたい)通過点の“学校”にすぎない。専門学校に同窓会がなかなか育たない理由の一つは、専門学校の教育が〈学校教育〉ではなく資格主義的な〈消費教育〉になっているからである。
専門学校が本気で〈学校〉を目指すのならば、自ら人材像を形成する力を付けなくてはならない。
少子化や大学全入時代を迎えて、大学も専門学校もますます「顧客満足」主義を前面化しようとしているが、今こそ〈学校〉(特に高等教育)は、自分たちがどんな人材を育てたいのか、どんな人材教育を提供できるのか、そのために学生たちの信頼(尊敬と敬意)に応えうるどんな教員を用意しているのか、を明らかにしなければならない。またその自己研鑽に不断に努めなければならない。
顧客(顧客主義的な顧客)が先にあるのではなくて、われわれ(学校)は何を教えうるのかが先にあるのである。それが〈学校〉という場所だ。
若い学生(まだ数々の〈欠如〉に満ちた学生)を前にして、「顧客満足」というようなテーマを掲げるようでは、〈学校〉への道のりはまだまだ遠いと言わざるを得ない。
(Version1.0)
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ミクシィ(MIXI)からの反応より。
●2006年12月04日 22:27 反応者(1)
コメントは初めてかも知れません。宜しくお願いいたします。
もう学舎の世界にメリケン的市場経済原理を持ち込むこと自体、おかしいと思います。
学問を究めるのは道であり修行となります。前時代的な師弟マイスター関係はなくても、
先達の残した書物・研究成果との、文字通り戦いになります。
半端にしかファイト出来ないヤツは学究のリングを去れ!と
このぐらいのことが言えないで、何が教育かと思います。
失礼いたしました。
●2006年12月04日 22:35 芦田
そうですよね。ただ、学校が市場主義的ではないにしても、自己研鑽に励んでいるとはとても思えないのも現状です。
営業主義的な学校も困りものですが、学校主義的(=教育主義的)な学校も困る。
学校が内面的に開放される体制とはどんなものなのでしょう。まだ誰もこの問いに答えていないような気がします。
●2006年12月04日 22:45 反応者(2)
なんか読んでいて疲れました。難しい問題ですよね。最近の学生募集や学校運営は、子供が商品みたいな印象を受けます。人間はゲームみたいに上手くいかないですからね。
●2006年12月04日 22:50 芦田
そうです。まだまだ疲れなくてはならない「難しい問題」なんですよ。“教育再生会議"なんて何にもわかっていません。
●2006年12月04日 23:09 反応者(3)
初コメントであります。
表現は世代価値観の相違で良くもとられ、悪くもとられ・・・
【CS論】も【教育論】も双方頷ける世代でありますが、どちらかと言えば【教育論】寄りのアッシが思うに、昔より【熱き血潮の滾る】先生も生徒も、少なくなったような気がします。。。。 時代が違うんですかね・・・・・・
●2006年12月04日 23:23 芦田
そうですね。最近は、やっぱり学校は先生がすべて、というような気がします。先生が良ければ、どんな学生だって甦る、私は、いつもそんな現場を見続けています。
学生は先生次第。その逆はあり得ない。これは原則ではなくて、真理です。そう思います。
●2006年12月05日 00:44 反応者(4)
これはとても大きな問題を提示しています。数日前のNHKの教育特集でも、「教育諮問委員会」のメンバーの市場導入主義が目立っていました。医療でも同じで、患者は「顧客」か?という問題があります。ある人は、丁寧語のつもりの「患者様」という言葉の持つ危険性と戦略的誤りを提起しています。
●2006年12月05日 03:59 反応者(5)
学校は先生がすべてだと私も思います。
特に10代は、どんな人と出会うか、どんな時間を過ごすかで人生が劇的に変わるからです。
大切なのは、友達や先生、そして家族ではないでしょうか?
学問も大切ですが、生きてる間は、ずっと学び続けるのですから、何をどうやって学ぶのかという基本姿勢を身につけるのが、学校の教育だと思います。
子どもは商品ではないし、もちろん顧客でもありません。
お金払ってもらってるからえらい、大切にするという考え方では、お金に敬意をはらってることになってしまうと思います。
敬意を払うべきなのは、人格や、経験(学問的なことも含む)や、愛情に対してだと私は思っています。
だから、先生を尊敬し、敬うのは当然の事であり、それを自覚している先生がたくさんいてくださる事を望みます。
●2006年12月05日 08:45 反応者(6)
学校教育そのものに、市場原理を持ち込む事が是か非かはまだ解りませんが、学校運営をより良くするために顧客の視点を持つことは大変有効だと思います。
私の場合、顧客は「常にニーズをウォッチすべき対象」だと考えます。産業界を含めた社会、学生・保護者、そして教員を中心とした学校、の3者のニーズ・ウォンツが有り、校種によりこれのバランスが異なると考えます。
優秀な企業が進めるミッションステイトメントと現場業務の筋通しが今後学校でも求められるような気がしてなりません。
その際、最も大事なのは、社会が求める人材像の抽出とこれの周知徹底ではないでしょうか。
もちろん、社会人とは何が出来る人かの定義がまずあり、その上に職種や役割に応じた人材像があるわけでしょうが。
満足とは、この目標人材像への到達度合いを3者が感じることではないでしょうか。
市場原理導入と言うよりは、企業が推し進める自身の改革に用いる経営ツール、例えばSWOT分析などを学校運営に取り入れ始めた学校が結構でてきたように思います。
お金を払う人の言うことだけを聞いていれば良いわけではない学校だからこそ、その指針は、教員の合議制だけで決められるものではなく、教員を含めた優秀な経営チームが必要となるのではないでしょうか。
反応者(6)様へ from ashida
反応者(6)さんが、学校経営者の観点からそう言われるのは、わからないわけではありませんが、少し問題を整理させて下さい。
一つは、「企業」を、「学生」、「保護者」と並んで〈顧客〉というのは、〈顧客〉概念を拡張することでしかありません。
拡張した意味でなら、私は、「学生」、「保護者」、「企業」はみんな〈顧客〉だと思います。教員の中には、「たとえ今満足してくれなくてもいつかはわかってくれるし…」なんていうふうに〈顧客〉概念を拡張する教員もいます。
しかし、それは拡張した意味でであって、この場合の〈顧客〉はすでに〈CS=顧客満足〉という場合の〈顧客〉ではありません。「〈顧客〉にも広い意味と狭い意味があって」なんて言い出したら、もはやまともな議論にはなりません。
私は、〈学校〉にもしマーケティングや組織論というものがあるとすれば、三つあると思います。
一つは、あなたが言うように、企業マーケティング(企業社会マーケティング)です。企業が今後何をしようとしているのか、社会の動向がどう動こうとしているのか、その場合の〈人材〉像はどのようなものかという洞察です。マーケティングというよりはリサーチかもしれない。専門学校のみならずこれからの高等教育で企業交流が活発化しない学校は滅んでいくでしょう。
ただし、私はあなたが言うように「企業が求める人材像の抽出」とは、一概に言えないと思います。企業も様々であって、「企業が求める人材像」は一義的には決まらない。口を開けば、「コミュニケーション能力、問題発見=解決能力、表現力、人間力…」なんてことを未だに言い続けている企業がある。
この言い分を「企業が求めているのだから」と言って聞き始めたら、大学も専門学校も崩壊するに違いありません。これは企業の所為ではなくて、(これまでの)学校教育には期待することがないということの別の表現だと私は思っています。
だから、大学も専門学校も「企業が求める人材像」はにわかには定めがたい。大学も専門学校も、「企業が求める人材像」という一般的な言い方をするのではなくて、もう一歩踏み込んで、どんな企業、どの企業くらいまで特定できる体制を取らないと、「企業が求める人材像の抽出」は空回りするおそれがある、と私は思います。
もう一つは、それに伴う教員のマーケティングです。そういった洞察にかなう教員(あるいはそういった洞察ができる教員)をどこから調達するのか、既存の教員でまかなうとしたら(ほとんどの場合まかなえていないのが現状です)、どのような研修体制が可能なのか、です。ダメな学校関係者ほど「学生が勉強しない」なんて嘆いていますが、ほとんどの場合そんな学校は先生の勉強が足りないのです。学生に勉強させる最大の方策は、先生に勉強させることです。
最後のマーケティングは、そういった社会的な洞察(とそれを担う得る教員の存在)を、若い入学者たちに直接むけても“わからない”“むずかしい”でしょうから、それをわかりやすく効果的につたえるためのマーケティングです。
この場合の社会的な洞察というのは、学校的に言えば、カリキュラムとシラバスです。カリキュラムとシラバスとは、学校が来るべき社会をどう解釈したか、どう先取しているかの見取り図です。
そしてそのカリキュラムとシラバスはどういった企業への就職を想定しているのか、この見取り図とそれに基づいて照準を定められた就職先企業を、高校生にもわかるように的確に示すことが最大のマーケティングです(私の学校でもなかなか進んでいませんが)。
すべては、学校教育の意志とビジョンが〈顧客〉より〈先に〉あるための必須の条件です。
〈学校〉はあくまでもそういった先行性(社会的な先進性や洞察)を広い意味での顧客に評価されるべく示すべきであって、それ以外のマーケティングに血道を上げる学校は、顧客重視の装いをすることによってむしろ顧客をバカにしているとしか思えません。多くの専門学校は大概の場合そうやって顧客をバカにしています。自分の不研鑽を棚に上げているわけです。
たとえば、まともな大学教授が研究論文を書くとき、〈顧客重視〉で書いたりしますか。こう書けば売れるだろう、と思ったときには、もうその教授は研究者としては失格です。
大学院の研究室の中でも、教授になる前は、指導教授の分野の論文ばかりを書き続け、いったん指導教授が引退したり、そのまえに自分が教授になったりすると、途端に専攻分野や研究対象を変えたりする研究者がいます(現に私の同僚がそうでしたし、そうやって“教授”になりました)。
彼は〈顧客重視〉で研究していたわけです。
こういった教授のいる大学で学ぶ学生は、悲劇です。早稲田や慶應のように自前の大学院から教授をとる大学の場合、こういった悲喜劇はしょっちゅう起こっています。だから早稲田や慶應の授業はつまらない。再就職(より高位の大学への転出)を目指して純粋な研究を続けている“教授”の多い周辺(1流半)の大学の授業の方がはるかに面白い(「一流半」とは自校の大学院を出てもその大学の教授にはなれない大学のことを言います)。
専門学校も同じであって、自立的な企業研究や企業交流、またそれを担いうる教員体制が存在していない中で、マーケティングをいくら重ねても生き残ることはできないでしょう。
私は実力があれば勝てる、なんて脳天気なことを言うつもりは全くありませんが、実力がマーケティングを主導するような体制を作り上げるべきだと思っています。学校マーケティングはそれ以外にはありません。
そうでない場合というのは、学校営業(募集部隊)がその学校の教務を見限っているからです。つまり学内が〈教務〉と〈広報=募集部隊〉とで分裂しているわけです。〈募集部隊〉(学内の人間)にさえ尊敬されない〈教務〉の学校が生き残れるはずがありません。
そのためにも(そのためにこそ)、内実のある学校作り(=“マーケット”と“広報”から〈尊敬〉されるような学校作り)を心がけるべきだと思っています。
※続編ミクシィ(MIXI)の反応より
●2006年12月05日 15:01 反応者(7)
「社会が求める人材像の抽出・・・」
この言葉は嫌いです。
社会が求める人材像の抽出・・・なんて言っていると、本質がおかしくなる。世の中がおかしくなる。
社会が求める人間になることが重要なのではなく、人がどう生きたいかを模索し、必要な事を学ぶために学校に行くのではないでしょうか?
また、社会(企業)が望んでいる人間を本当にわかっている先生がどのくらいいらっしゃるでしょうか?
大学を出てからすぐに教師になり、実社会で働いたことのない先生が社会の実態を知ることはありません。
本当に、社会が求める人材像の抽出をしたいのならば、先生はすべて教育実習ではなくて、社会人研修として企業または居酒屋などで、1年以上正社員と同じ状況で働いてみる必要があると思います。
雇用制度がどんどん変化し、自分のやっている仕事を自分で理解し、自身で変化できないと、仕事を失ってしまう世の中です。
社会に適応する人材をめざすから、適応できない場合自殺を考えるのです。適応ではなく自身の存在価値を知り自己革新する事を学ぶべきだと思います。
●2006年12月05日 15:42 反応者(8)
随分、昔のことを思い出しました。
「誰かが(良い、または悪い)影響をある人に与える。それは、元々、ある人がその影響されるものを持っているからだ」。
これは、30数年前、当時高校生で同級生の芦田君が、授業中の話し合いの時に言った言葉です。
教育には、本来その人が持っているだろうけれども、まだ、本人も知らないかもしれない可能性を伸ばすという意味があるだろうと思います。
学生がある先生の授業に満足しているかどうかと、その授業がその学生に役に立っている、刺激になっているかどうかが、一致している場合もあればそうでない場合もあるということがあると思います。
学問や知識には、興味を持てば持つほどより知りたくなるという性質があるでしょうから、「顧客満足」という言葉はなんだか違和感を感じます。その言葉の意味を間違う先生や学生が多くなるのではないでしょうか。
それだったら「顧客刺激」の方がまだいいかなあ(広い意味で言っている方は、それも含めての「顧客満足」ってことなのでしょうけれど)。一寸、脱線したかな。
続々ミクシィ(MIXI)日記の反応者から
●2006年12月06日 14:48 反応者(9)
芦田さんへ
「実力がマーケティングを主導するような体制」というお話,新聞にたとえて,以下のように理解してみてもいいでしょうか?
新聞は真実を伝えるべきものだから,売ることを最優先して,真実を歪めた,あるいは,誇張した記事を書いてはいけない。そんなことをしたら,記事が記事でなくなってしまうから,短期的には利益があがっても,長い目でみれば,新聞社はつぶれてしまう。だから,新聞においては,編集部は営業部から分離していなければならない。でも,一方,どんなに意味のある記事を書いていても,新聞が売れなければ,会社の経営が成り立たなくなり,やはり新聞社はつぶれてしまう。難しい問題だけれど,どちらが主導かといえば,編集が主導であるべきだ。
●2006年12月06日 17:21 続・反応者(9)
まともな組織がCS(顧客満足)を意識するともっとまともになるけど,まともじゃない組織がCSを意識するともっとまともじゃなくなるってことではないでしょうか?
>反応者(8)さんへ from Ashida
そうですか。そんなことを高校生の私は口走っていましたか。なんとなく覚えがあるような気がしますが、むしろランさんがそのことを覚えていたことに驚いています。小学生の時には割と交流があったような気がしますが、高校の時にはそれほど話さなかったよね。だから驚きました。あれから35年近く経っている。お互い老いぼれたものです。
影響とは自己影響だ、という考え方を私が当時、何からの“影響”でそう思ったかわかりませんが、その後、大学・大学院の勉強の中で、(さらに)はっきりしていった考え方です。
一つは、カント。カントはまさに『啓蒙とは何か』( http://astore.amazon.co.jp/ashidanomaini-22/250-8318235-4754668?node=21&page=5 )の中で(特にその冒頭だったと思いますが)、啓蒙は自己啓蒙だと言っています。したがって、カントは啓蒙主義者ではない(普通はそう言われていますが)。
一つは、ライプニッツ。彼の主著の『モナド論(単子論)』( http://astore.amazon.co.jp/ashidanomaini-22/detail/400336161X/250-8318235-4754668 )の中で、「モナドには窓がない」が世界は「予定調和」的に存在している、と言いました。〈モナド〉は人間と読み替えてもとりあえずいいのですが、〈モナド〉は全世界を単独で反映しているが、そうであるが故に「窓がない」。全世界を反映している〈モナド〉が多数存在しており、それらの一つ一つが全世界を反映しつつ、対立関係を持たない=調和的に存在している。一言で言えば、バカはバカなりに全世界を生きている。この思想には(いい意味でも悪い意味でも)圧倒されました。孤独と希望がその極点で同時にやってきた感じでした。
一つは、ヘーゲル。特に彼の『大論理学』の第一巻( http://astore.amazon.co.jp/ashidanomaini-22/detail/4000268007/250-8318235-4754668 )。「対他的に」存在しているものは「即自的に」も存在しているという思想。言い換えれば、自分自身が自分にとってもっとも遠いところにあるという思想。他者とは自己自身なのだという思想。これにも衝撃を受けました。
一つは、ハイデガー。彼の『存在と時間』( http://astore.amazon.co.jp/ashidanomaini-22/detail/4121600517/250-8318235-4754668 )。人間が世界の中に存在するということは、彼が死ぬということの自己触発なのだ、自己の死の振動なのだということ(〈世界〉もまた死の振動であるようにして)。この具体性はカントからライプニッツ、ヘーゲルとたどる思想を集約する上で、たいへん有益でした。
高校時代にあなたが私から聞いた言葉を、私はどこから得たのか、まださだかに思い出せません(この2日間ほどずーっと考えていましたが)。その頃、すでにカントもライプニッツもヘーゲルもハイデガーも読んではいましたが、生半可にしか読めていなかったし、解説書(今から思うとろくでもないものばかり)半分の理解でしたから、いい加減なものだったと思います。
でも高校時代の直感は、間違ってはいなかった。未だにそう思い続けています。
「学生は顧客か、学校教育とは何か」と言った文脈で、こんな話が出てくるとは思いもしませんでしたが、たしかに〈教育〉もまた、啓蒙主義的にではなくて、自己触発的に展開するときにこそ、もっとも力強いものとなるのでしょう。啓蒙主義が忘れているのは、教えるもの自身に否定(=反省)の契機がないということです。教員自身が何よりも自己触発的な自己啓蒙の契機を持たなくてはならない。それが啓蒙主義では棚に上げられてしまう。
啓蒙主義の歴史的な失敗は20世紀の社会主義運動です。トロツキー( http://astore.amazon.co.jp/ashidanomaini-22/detail/406198361X/250-8318235-4754668 )だか、埴谷雄高( http://astore.amazon.co.jp/ashidanomaini-22/detail/4003412796/250-8318235-4754668 )かどっちが言った言葉か忘れましたが、「ロシア共産党は古いロシアのすべてを革新したが、唯一革新できなかったものがある。それは革命を指導した共産党自身だ」という印象的な言葉があります(私が記憶の中で勝手にまとめた文章なのでこの通りの文章は元のテキストにはありませんが)。革命の中で、共産党自身がもっとも保守的になってしまった。それがスターリン以後の共産党(共産主義運動)の悲劇を生む。
「顧客満足」主義と啓蒙主義(前衛主義)とは、対極にありながら自分自身への問いを棚上げにする点で似ているわけです。
>反応者・続(9)さんへ from Ashida
その通りですね。教務がしっかりしていると、募集もしっかりする。しかし募集がしっかりしても教務は良くならない。学生がいくら集まっていても中身の悪い学校はいくらでもある。
募集がよければそれ以上のことを私学経営者は考えないからです。募集が良いことは、私学教育にとっては出発点にすぎないのに、最終地点(あるいは別の金儲けの出発点)だと思ってしまう。これが私学経営者の悪いところです。
その一方で、教務がしっかりしているのに募集は悪いという学校はあり得ない。それは結局、教務が悪いのです。どこかで教務が学校内教務になっていて、社会性(=社会的な洞察)を失っている。本来は、教務こそが社会性を持つべきであって、募集はどこまで行っても戦術に過ぎない。
五反田にある船井総研とかいう中途半端な経営コンサルタント+セミナー屋のパンフで、「教育重視の学校は募集が悪い」なんて言うセミナー広告がありましたが(笑ってしまいましたが)、むしろ深刻なことは、募集がいいのに教育が良くならないということです。
教務→募集という矢印は存在しますが、募集→教務という関係は存在しない。この矢印(→)の意味するところは上位関係、下位関係というのではありません。教務は自立的に社会化するしかないということです。つまり募集の責任は(募集部隊にあるのではなくて)いつでも教務側にある。それがこの矢印(→)の意味であり、教務の自立性ということの意味です。船井総研にはそれがわからない。
あなたの言う新聞社の「編集」と「営業」との関係も同じだと思いますよ。