拓郎&かぐや姫・2006年つま恋コンサートをまた見逃してしまった ― 拓郎は叙情的な体育会系 2006年10月31日
昨日は、NHK・BSの拓郎&かぐや姫2006年つま恋コンサート(http://www.ashida.info/blog/2006/09/_2006_1.html#more)をまたふたたび見逃してしまって、後悔。
そこでやけくそで“TAKURO-GROUP-2005-RARE-Films” (AMAZONで頼んだら早速今日来ていた。
相変わらずの拓郎だが、年齢の割にはよく声が出ているし、最後までよく伸びる。たばこもやめたからだろう。和田アキ子もたばこをやめればこの程度には歌えるのにバカな女だ。
しかし『さんまのまんま』で、さんまは、拓郎が「たばこは身体に悪い、だからやめた」とまじめに言ったときに、完全に拓郎を見限っていた。おかしい、フォークの神様(若者の代表)が、何で「身体に悪い(だからたばこはやめた)」なんてことを真顔で言うのか、おかしい、とさかんに叫んでいた。
私は、こんなに痛切な拓郎批判はないと思って、その光景をまじまじと見ていた。つい2、3年前のことだ。私なら、若いときの私と今を比較してこんなことを言われたら、死んでしまいたい。
そんなこんなで、私は拓郎にあまり関心がない。拓郎は私から言わせれば、叙情的な体育系に過ぎない(あるいは間違ってなってしまった左翼の体育会系)。私は、体育系は嫌いだ(スポーツはするのも見るのも好きだが)。体育系はどこか致命的なところで雑なところがある。
ところで、このDVD。一つ目にとまったところがあった。あの遠藤由美さん(http://www.enyumi.net/enyumi.html)がバックコーラスで歌い、踊っている。遠藤由美さんと言えば、ユーミンのコンサートでもバックコーラスで歌い、踊る伝説的なあの人だ。
今回は、私が最初に見て10数年ぶりの遠藤由美だった。歳を取った由美さんはなおさらに美しい。ユーミンの伝説のコンサート、というか彼女の頂点のコンサート映像『WINGS OF LIGHT』(http://www.amazon.co.jp/WINGS-LIGHT-%E6%9D%BE%E4%BB%BB%E8%B0%B7%E7%94%B1%E5%AE%9F/dp/B0000687TM/sr=1-2/qid=1162217777/ref=sr_1_2/250-9636255-3183452?ie=UTF8&s=dvd の時には ― このコンサート映像だけは一度見ておいた方がいい。身震いするくらいに素晴らしい ― 、私は小太りの高橋洋子さんの方が好きだったが、この拓郎のコンサートでは拓郎よりも光っていた。カメラも何度も由美さんを写していた。
このDVDの感想はそれだけ。拓郎ファンのみなさま、失礼しました。
※追伸:でも「恋歌」「家へ帰ろう」「時は蠍のように」「大阪行きは何番ホーム」「パラレル」の5曲はなかなか聞かせましたよ。あとの曲もみんな80点以上です。いいコンサートだったと思いますよ。
(Version 2.0)
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ここにも書かせてもらいますが、拓郎が叙情的な体育会系ですか?しかも、”過ぎない”って・・・。間違ってなってしまった左翼の体育会系?よくもまぁ、拓郎にあまり関心がないと言っておきながら、言い切るもんですね・・・。
拓郎の何処に体育会系を感じるのか理解出来ませんが、まして左翼?拓郎の歌じゃないですけど、”お笑い種だぁ~”って感じです。関心がないのに、中途半端に断定するってどうなんですかね?恐れ入りました。
拓郎に関心があるのでしょう?あるのにないフリをして、評論してみせて、基本的に小馬鹿にしてる感じですか?人は其々の音楽的な嗜好があるので、私も拓郎が全てだとは思いませんよ。良い歌もあれば、そうでないものもあるでしょうね。
アーティストは、その表現したものについて評価されるべきではありませんか?確かに表現の背景に、その人の人間性があるには違いませんが。ただ、そこに触れるには、それなりの見識がなくてはならないと思います。
つまり、”吉田拓郎の歌”という表現の結果について評論するのは自由だと思いますが、”吉田拓郎その人”について評論する場合、少なくとも、関心と相応の見識がなければ、評論するべきではないと思いますよ。それは、芦田さんのような、ものを書く立場の人は尚更でしょう。
軽率に独善的な断定を繰り返して良いんですか?ワイドショーの芸能報道と大差ないですね。
”吉田拓郎その人”に感謝し、”吉田拓郎その人”を敬愛する者として、或いは、芦田さんのような人に無遠慮に”常になで斬りされる側”として、無礼覚悟で申し上げました。
何を言っているのですか。
あなたが何歳の方かよくわからないけれども、私は拓郎のほぼ同世代です。
彼の時代には、“左翼”の岡林信康、高石ともや、小室等などがいた。学生運動も花盛りだった。
拓郎は、これらの連中にシンパシーは感じてはいても、どこかにうさんくささやうっとうしさを感じていた。
それが彼の日本フォーク史における登場の意味です。さだまさしのような“平和主義”とは異なる吉田拓郎の独自の立ち位置が存在していた。
私が彼を体育系というのは、岡林信康、高石ともや、小室等などとの距離の置き方についてです。
最大の難点は、彼の「人生」論です。人生を語るなと言いつづけながら人生に最後まで拘ったのは彼です。だから、さんまに「たばこ」を止めたのを揶揄(批判)されたのです。さんまの批判はもっとも良質な拓郎批判です。
今いちいち彼の詩を取り上げる暇はありませんが、彼の「人生」(あるいは年齢)についての比喩(要するに時間と空間の比喩)は通俗そのものです。『落陽』における男(=ばくち人生論)の描き方も通俗そのものです。岡本おさみの詩の世界への傾斜もその流れでのことです。私が吉田拓郎論を書くとしたら、それをテーマにします。
通俗的になるのは、感性が基本的に体育会系だからです(そうでないと浅田美代子となんか絶対結婚しない)。それは安易に岡林にならない、学生運動に落ち込まない吉田の特異点だったわけですが、左翼運動が衰退するにつれてよりどころがなくなっていった。
フォーライフレコードを作って、井上陽水なんかと一緒になるのは、その迷走の一つです。拓郎が陽水と一緒になれるわけないじゃないですか。でも一緒になったかのように見えたのは、井上陽水が、学生運動(左翼運動)なしではじめて(吉田には)敵に思えた新人だったからです。拓郎自身の出自がはじめて揺らぐ瞬間だったのです。だから彼は70年代にたくさんのアーティストに歌を作るようになる。70年安保も不発に終わったこの時代に何を歌えばいいのかわからなくなった体育会系左翼だったのです。
その後の彼の歌は、郷愁(人生)の歌です。体育会的左翼が左翼ロマン主義にまでなりさがります。拓郎も人並みになったのです。それを批判したのが、明石家さんまでした。吉田拓郎は、さんまさえも乗り越えていないのです。
拓郎は、私よりも少し上の全共闘時代の世代です。この左翼世代こそが定年を迎えて、健康幻想にとりつかれたり、自民党で市議会議員になったり会社の役員に転身して多少ともリッチな老後を迎えようとしている。その連中と何も変わらない。拓郎よ、お前もか、と私は言いたい。これは拓郎に一時期でも期待したときがあった私こそが言える諦念です。あなたは拓郎に絶望する私の複雑な気持ちが何もわかってはいない。それでは拓郎ファンとは言えません。私の方がはるかに拓郎ファンです。
経験者として言わせてもらうと、学校・部活動・稽古塾・バイト先・会社どこへ行っても体育会系は理不尽な上下関係と精神論を押し付け、先輩・教師・上司など上にはペコペコ。
下には、事あるごとに自分に都合の良い人間に仕立て上げようと、
●思い通りにならないと暴力・脅迫・威嚇で押し切る
●都合の悪い口答えを許さない
●お強い自分を見せる「おかず」に使う
●コソコソ根回しして「むこうも俺と同じ事いってんだろうがよ」「俺の言った通りになっただろうがよ」「だから俺が正しいって事なんだよ」
●わざと失敗させ、その失敗を責める勢いを利用して、でたらめや関係のない事をこじつけ「ハイ」と言わせようとしたり「この失敗をどうにかして欲しいか、なら今後はこうするんだろうな?」と説得するフリした脅迫
●頑張って成功しても「調子に乗ってると殺すぞコラ」と自信をもつ事を許さず、卑屈にペコペコさせようとする
●見え透いた姑息な真似を繰り返しておきながら、それがばれてないと夢見てる
●いざばれてるとなると「お前のためにやってんだよ」と自分の言う「ためになる」の価値観や、自分のした事の責任を押し付け正義面
●見え透いた姑息な真似に騙されたふりをするようになった者を見て、自分にはカリスマや信頼や素晴らしい人生観があると自惚れる
…とても書ききれない。
ほとんど全ての体育会系は、この手の自惚れた勘違いをしているのだろうか?