専門学校における「自己点検・評価」の諸課題 ― なぜ「自己点検・評価」は停滞するのか 2006年05月27日
自動車系専門学校の全国組織JAMCA(http://www.jamca.jp/)の機関誌「JAMCAニュース」第49号の原稿依頼(「自己点検・評価」について書いてほしいとの依頼)があって、以下のような原稿を脱稿しました。関心のある方は参考にして下さい。
●なぜ、専門学校の「自己点検・評価」は停滞するのか
「自己点検・評価」という言葉が専門学校の関係者になかなかなじめない理由がいくつかある。
一番大きな違和感は、「一条校」の「学校」群に比べれば国家助成はほとんどゼロにも等しい、授業料収入だけで経営される専門学校にあって、つまり最初から市場競争の波に直接のみこまれざるを得ない状況の専門学校にあって、ことさらに「自己点検・評価」を行う動機が見出しづらいということ。
或る意味では、マーケット評価(=募集)というものこそが、一番厳しい「自己点検・評価」=第3者評価なのだから、それ以上に何を今さら、という気分が専門学校関係者を支配している。
特に90年代初頭から始まる少子化は、官許的な「点検・評価」以前にはるかに強烈なプレッシャーとなって専門学校経営者たちを神経質にさせていたことを考えれば、平成14年の「自己点検・評価」の「努力義務」については、今さら何をしろと言うのだという気分が“われわれ”には強かったと言える。
実際、「自己点検・評価」という言葉は、大学の「自己点検・評価」を起源にしており(平成三年の設置基準の改正)、この「自己点検・評価」は、設置基準の「大綱化」、つまり基準緩和によって(国立大学さえをもまた)市場競争(=少子化状況)の中に開放することを意味していたわけだから、大学に比べればもともとはるかに“大綱”的な専門学校の「自己点検・評価」とは一体何なのか、という疑問は最後まで残ったのである。
●“内面”評価としての「自己点検・評価」
しかし「一条校」にも専門学校にも、共通の課題はたしかに存在していた。それは少子化以後の勝ち残り戦略は、広報・募集上の学生の奪い合いではなく、教育の中身の検証が問われるということだった。
なぜか? 少ないパイの取り合いということになれば物量だけでは割が合わなくなっていくということ。ウソも方便、という古典的な広報も役に立たなくなってきたということだ。
専門学校経営で言えば、これといった内実のない新科を打ち出し、マーケットの目先の変化を追ったり、教務強化よりは広報費に納付金収入(=学費収入)の多くを費やす“経営”は、一種の麻薬のようなもので、一度それに手を付けはじめるときりがない物量を強いられる。これが国家助成のある大学よりも先に少子化の洗礼を受けつつある専門学校の教訓だった。
つまり専門学校の広報主義や新科主義は、学生数が右肩上がりの時代の専門学校経営であって、少子化は、各学校が自分たちの“内面(=教育)”に目を向けるまたとないチャンスだったということ。つまり経営者たちに狭い経営主義を脱して、“教育”そのものへ関心を向かわせるまたとないチャンスだった。
パイが小さい中での生き残りの方策は、各学校が「建学の理念」や「特徴」や再発見し、それを強化するということでしかない。つまり競争は、共存戦略の中でしか機能しない。生き残れない学校というのは、分野間の凹凸だけではなく、同じ分野の中でもこれといった特徴のない学校なのだということ。
●社会的な流動性の高まりと特徴ある学校作り
この問題は、別の言い方もできる。90年代の中盤以降のインターネットとグローバリズムの興隆(=社会的な流動性の高まり)は、〈人材〉育成に関わる教育機関にも大きな影響を与えている。人材目標の高度化はもちろんのことだが、その多様化も視野に入れざるを得ない。均質で統一的な人材像を描きづらい状況が存在し(そのあだ花が「コミュニケーション能力」「自己表現力」「人間力」などの“人材”論だ)、逆に言えば、多様な、特徴を持った人材が企業活動を活性化しつつあるということだ。企業側も教育側も、長い期間にわたって通用する人材目標(人材像)を描きづらい状況にある。
設置基準の“大綱化”(=カリキュラム作成基準の柔軟化)が進み、同じ設置科目の並びで比較出来た従来の学校間評価が無くなった分、「自己点検・評価」しなさいというのが、大綱化=「自己点検・評価」の趣旨だが、この問題の本質は、教育目標を官許的・統一的に管理出来る状況にはもはやないという社会的な認識に重なっている。
教育の“規制緩和”は、単に国家財政の急迫の問題だけではない。言い換えれば、「自己点検・評価」は、一般的な〈質〉の評価やその維持(のコスト)に関わっているのではなく、〈特徴〉ある学校作りの成果評価に関わっている。
ここでもまた専門学校には「自己点検・評価」に馴染みづらい風土が存在している。こういった特徴ある学校作りに反して“認定校”がらみの資格教育の風土(もう一つ別の“設置基準”)が、〈専門学校〉には存在しているからである。カリキュラムの全体が国家認定、業界認定などの資格合格を目標にしている学校が(まさに自動車系のように)専門学校には多い。
「自己点検・評価」が大学におけるカリキュラムの“大綱化”に起源をもっているとすれば、専門学校が認定主義的な資格教育主義に立つ限り、「自己点検・評価」の風土は生まれようもない。〈資格教育〉と〈特徴ある学校作り〉とは(論理的には)敵対しているからである。
しかし学生数が右肩上がりの拡大するマーケット時代には、認定と資格という規制はそれ自体マーケットの保証(セグメントされた学生数の保証)とワンセットになっていたために魅力があったが、学生数が減少すれば「資格取得は当たり前。資格プラスαは何?」とマーケットの要求が高度化する(=資格という規制的な「質」を求める以上に「特徴」を求める)のはごく自然なことだ。あるいはまたどんな国家資格、業界資格も昔に比べればはるかに流動性が高くなっており、自立的な目標形成の訓練は“資格の専門学校”こそが真っ先に取り組まなければならない課題だったと言える。
つまり「自己点検・評価」は、「一条校」の助成や規制の有無にかかわらず、少子化以後、特徴ある学校作りをせざるを得なくなっている教育機関の普遍的な課題なのである。
●「自己点検・評価」と「第3者評価」との関係
〈質〉の維持ということと〈特徴〉ある学校作りということとは、ある意味で矛盾している。〈質〉を維持したければ、規制を強化すればいいだけのこと。しかし規制を強化すれば特徴あるカリキュラムや学校は生まれない。
「第3者評価」も含めて「自己点検・評価」以降の学校の〈質〉の問題は、もはや質(基準)が単数ではなくなった、ということを意味しており、その意味では一般的な質(特定の統一的な目標の押しつけ)の解体を意味している。社会的な〈変化〉の加速度に応じてそれは解体している。〈変化〉の時代に有為なのは、〈質〉ではなくて〈特徴〉なのである。
問われるべきなのは、何らかの一般的な質=規制ではなくて「特徴」の客観性や妥当性であって、「第3者評価」もその特徴に応じて複数存在すべきだということ。
言い換えれば、「第3者評価」の在処は「自己点検・評価」を第3者評価することでしかない(この学校が自ら掲げる“特徴” ― 「自己点検・評価」の結果としての“特徴” ― は、本当に特徴と言えるものなのかどうかということを“第3者”が評価するというように)。
「第3者評価」は当事者が一番得意なもの(優位だと見なしているもの)について行うのでなければ、健全な発展を見ない。
何らかの一般的な質の補完として「第3者評価」を導入すれば、それは資格主義と同様、専門学校をふたたび形式的に萎縮させるだけのこと。「自己点検・評価」以上に主観的な「第3者評価」に堕するに違いない。各専門学校が自らの学校の〈特徴〉を競う形で、同じ分野であっても多様な(=特徴ある)人材を輩出することこそが、専門学校“業界”全体が活性化し、“業界”全体への期待と信頼を勝ち取る王道なのだと言える。
今後、「自己点検・評価」は第3者評価に展開せざるを得ないが、各学校が自らの〈特徴〉を健全な仕方で発展させていくような「第3者評価」のあり方が専門学校関係者全体に問われており、何よりもそれは「自己点検・評価」の本旨そのものだった、ということを忘れるべきではない。(了)
(Version 1.0)
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