序文について ― 〈始まり〉とは何か(1982年) 2006年04月03日
書店ではなかなか手に入らなくなった私の著書『書物の時間』(行路社 1989年12月15日刊) ― この著作は私の精神や思考の、つまりはBLOG『芦田の毎日』の源泉です ― を今後徐々にこのBLOG『芦田の毎日』でも読めるように公開していきます。
※BLOG版『書物の時間』への註
1)原書にあるドイツ語表記は英語表記に変更されています。またフランス語表記におけるアクサンなどはすべて省略されています。
2)原書にある傍点はすべて(残念ながら)捨象されています。
3)括弧類(《》〈〉“”)の表記についても、原書に一部変更を加えています。
4)読みやすさを考慮して、原書の段落区切りをさらに分割し、改行しています。
5)句読法の修正を中心に一部文章を読みやすく変更しています。
公開の順序は、まず著作の序文である、私が28歳の時に書いた「序文について」から、その後、後書きである「累積について ― 後書きにかえて」。その後は、第1論文(ヘーゲルと書物の時間)から第4論文(非性の存在論的根源について ― 『存在と時間』論)まで順番に公開していきます。
たぶんゴールデンウイークが終わる頃までには全文公開できると思います。これを機会に“純粋な”哲学の世界にどっぷりはまりこんでください。抽象的な思考にも実体があるということを是非理解して欲しいと思います。わからなければどこまでも教えます。感想欄か、メールでいつでも書き込んでください。哲学通信教育を行いたいと思います。
●〈序文〉について(1982年)
哲学とは何か? このような問いは、やはり、あれこれの哲学的意匠への参照を要求することになるのだろうか。それとも、そのことなしに済ませることができるのだろうか。
人が前もって知っていないことについて参照を要求することは、奇妙なことである。仮に、ヘーゲル哲学への参照がヘーゲル哲学の理解を前提することなしになされるとしたら、それは一つのこけおどしの参照にすぎないだろう。もともと“参照”は、いつでも既得の知識への参照のはずである。
もし、そのとき人が〈ヘーゲル哲学〉を知らないとすれば…、このような懸念は、参照のそのつどの必要とともにおこるものだが、しかし誰でもが知っている参照というようなものは、もはや参照ではないにちがいない。誰でもが知っているようなことを、わざわざ参照する必要はないのだから。
それゆえ、参照の論述は、最初から特定の知識の内部でしか進行しない。
哲学とは何か?という問いについて、だから参照を要求してしまうことは特定の哲学をもって答えに代えることになるだろう。結果的に、そのことは〈哲学〉に言及する者の数だけの哲学(観)があることを認めてしまうことである。
これは、哲学とは何か?という問いの意図を初めから挫く。問われていたのは、〈ヘーゲル哲学〉でも、ヘーゲル的哲学でもなく、まして私の哲学(観)などではなかったのだから。
にもかかわらず、ことさらに特別なことへの参照を必要としないようなものを、つまり、誰でもがこれということもなく知っているようなものをわざわざ書いたり読んだりする必要がないのも確かなことである。
もし〈ヘーゲル哲学〉がありふれた(allgemein) 哲学であるとすれば…、そしてまた哲学そのものが、ありふれたもの、ありふれた知識一般であるとすれば、事は参照の問題にとどまらず、哲学とは何か?という問い自体にまで及んでしまう。
というのもヘーゲル哲学が本当にありふれてしまえば、それは〈ヘーゲル哲学〉という固有の名を冠した一哲学の消失をいみすることになるだろうし、またそのようにして〈哲学〉という固有の名を冠した知(識)の一学科も消失してしまうだろうからである。
事実、人はこれということもなく一人のヘーゲルであったり、一人のカントであったりすることができる。これは人が無知であるからではなく、かえってヘーゲルやカントの哲学が、普遍的(allgemein) だからである。それゆえ、一人のヘーゲルに〈ヘーゲル〉という実名をなおふたたび帰せしめることは倒錯している。そのようなところに哲学(〈ヘーゲル哲学〉)とは何か?と問う必要 (die Not)=窮乏は生じはしない。
哲学とは何か? それゆえこの問いは大上段に構えたものかもしれないし、凡庸さの極みであるかもしれない。
言いかえれば、哲学の個別的な研究を、ということは誰も知らない研究を長年にわたって積み重ねてきたひとりの大家が参照のかぎりを尽くして、あるいは、参照の用不用について適当の按配をしてやっと問いかけることのできる体のものであるかもしれないし、また誰でもが知っている程度にしか哲学を知らない人の問い、つまり誰でもが問える程度の問いであるかもしれない。
どちらにしても、哲学とは何か?という問いは、うまく機能していない。大家の問いが結局のところ、《私の哲学(観)》に終わるのは目に見えているのであって、この問いが大家に固有なのは、駆け出しの哲学(研究)者が《私の哲学》を語るのは不遜であるからに過ぎない。そしてまた凡庸な問いには凡庸な答えがふさわしいに決まっている。
とすれば、哲学とは何か? ― この問いは誰の問いであるべきなのか。そして誰に対して答られるべき問いなのか。
表題として、哲学とは何か?とまず真先に問われているのは、ふつう、《哲学入門》などと題されている書物であるが、こういった書物は大学教授の慣習的な授業用のものでもないかぎりそれなりの大家が著者であることになっている。もしこういった書物が、あれこれの参照なしですませることができる ― 著者は、そのことを気づかって「平易」な表現を心がけるものであって、実際「平易」なコトバで哲学を叙述することこそもっとも困難なことであり、そのためにこそこういった任は大家に任せられているとおもわれているのだから ― としても、そのようなことが可能であるのならば、いったいそれは誰のための入門であるか、特定することはできないだろう。哲学とは何(である)かが《哲学入門》でわかるとすれば、その書物は《哲学入門》ではなくて、すでに〈哲学〉である。
けれども、《哲学入門》は〈入門〉の哲学であることができるだろうか。
仮にそれが可能であれば、そのような書物を真先に読まねばならないのは哲学(研究)者自身である。とはいえ、哲学(研究)者が読むに値すると認めている《哲学入門》はいつでも誰かの哲学入門である。
ヘーゲルの《プロペドイティク(『哲学入門』)》 ― ローゼンクランツの編集したもの ― が研究者に読まれるのはヘーゲル哲学の理解のためであって哲学の《入門》のためにではない。
そもそも、字義通りのいみでの《入門》書を読まねばならない研究者というのは、一人の出遅れた研究者に過ぎないだろう。
そのうえ、ヘーゲルの『哲学入門』は決してやさしい《入門》書ではない。もし《入門》という語を真面目に受とって凡庸な読者がそれを繙くとすれば、哲学とは何か?という凡庸な問いの以前に、そこに出てくる、一つ、一つのヘーゲル(哲学)の用語のいみを画定していくことから始めねばならないに決まっている。
けれども、読者がほかでもない入門書を手にしたのはそのような回り道を省くためであったのである。
ところで、そのような回り道に、いったん読者が入りこんでしまえば、彼はすでに一人の哲学(研究)者“である”。
実際のところ、《哲学入門》における、哲学とは何か?という問いは哲学的な作法に熟達した、一人の哲学(研究)者において最後に問われるべき問いであるようにおもわれる。
つまり、哲学入門にも入門の作法というものがあって、それ自体が哲学的でなければならないというわけである。
けれども、そうなれば、《哲学入門》はいったい誰のための入門書なのであろうか。哲学以前としての哲学の入門が、それ自体、哲学〈である〉とすれば。
もし、哲学とは何か?という問いが、すでに、その問い初めから凡庸であることを拒んでいるとすれば、この問いはもとから答え難い問いである。
というのも、哲学とは何か?という問いは、哲学がそれ(哲学)でないところのものとの区別の意識を含んでいるのであって、この区別を哲学的に裁断してしまうことは、とりもなおさず哲学的な凡庸さに後退することであろうからである。もちろんそしてこのような凡庸さには哲学的でない凡庸さ、やはり凡庸さが控えているにちがいない。
どちらを選ぶわけにもいかないことは、確かであるだろうし、選んだところで選ぶべき理由が凡庸なものにとどまることは明らかである。凡庸であるからこそ、人は何かを選ぶことができるのだから。
それは、どういうことか。
もともと、誰でもが最初から哲学的であったわけでは決してない。どこかでか(どこからか)人は哲学者で〈ある〉ことになったのである。つまりどこかでか、彼は事実上すぐれた《哲学入門》に出会っている。
このような《哲学入門》が、仮に、一冊の書物であるとしても、一冊の固有の名を冠した書物であるとは限らないだろう。それは、一つの書物の内容の問題であるというよりは、やはり〈事実(Faktum)〉の問題なのである。
この種の事実を、形(定)式化すること、つまり哲学とは何か?という問いに答えるにあたっての手立てとすることは、可能なことだろうか。
実は、そのことが、最初から問題であったのだが、けれども事実上の哲学入門=哲学に、問いなしの〈方法〉は遅れてしまっているのではないだろうか。
哲学とは何か? という問いの形式的な切り詰めにおいて遭遇する困難は、事実的にはいつでも解決されているのではないのか。哲学とは何か?という問いに、どのように答えるべきかと、その問いに答えもせず、回りくどくもったいぶって議論を引き延ばすこと、これこそ哲学的凡庸さの一つではないのか。
それは、哲学的凡庸さというものを形式化(相対化)しようとする試みそのものが、一つの哲学的な - ここでの議論があまり上等なものでないにせよ - 形式=内容に後退しているということなのである。
本当のところ困難は、哲学的、もしくは非哲学的方途のどちらを選んでもうまくいかないということ - これは単なるロマン主義的諦念にすぎない - ではなくて、そのような選択の不可能性が、一方の選択(一つの選択)の内部でしか指示されえないということなのである。それが凡庸さということの本当のいみである。
一つの後退によって浮上している形式(=内容)は、もちろん名指されていた当初の哲学/哲学以前(非哲学)という対立の内部での「哲学」ではない。この対立の枠(形式)としての哲学は、内容的には当初隠れていたはずのものであって、隠れていなければ哲学/哲学以前という対立(区別)はいみをなさなかったにちがいない。
これは、書き手の技量の問題であるよりはむしろ事実的なことである。言いかえればそれは、手直しの対象としての形式の問題であるわけではない。〈形式〉がそのように隠れることなしには、叙述の内容を展開することなどできないだろうといういみで、それは技術的問題ではないのである。〈眼〉を、その眼で見ながら〈もの〉を見ることなどできない。〈もの〉を見るためには〈眼〉という〈形式〉は、〈内容〉としては後退していなければならない。〈形式〉と〈内容〉とが一致するのは〈形式〉のこの種の後退においてほかにありえない。
そのいみで〈形式〉というものは形式化されうるものではないし、形式主義的に処理できるものでもない。内容的に扱われる《形式》(当初の「哲学」/「哲学以前(非哲学)」)、あるいは内容的な諸々の区別は、いわば一つのメタファーなのであって、それらは本質的にあれこれのコメント(別のコンテクスト)を、そしてときとして弁解がましいコメントを招き寄せるものなのである。それは《形式》と《内容》とが〈形式〉の、事実的な後退において分離できないからこそおこっている。
哲学的論述が、論究の〈方法〉、あるいは論述の形式的枠組みについて〈序文〉で言及するのは、そのことからきている。それは〈本文〉へのコメントとしてのみ可能なことだからである。
そしてもし哲学というものが形式一般にかかわるものだとすれば、〈序文〉は単に一つの哲学的論述の〈序文〉であるばかりでなく、哲学そのものが諸学の〈序文〉でもあるだろう。哲学は諸学をコメントするのである。
このような体裁は、〈形式〉と〈内容〉との分離が不可能なことを踏まえているところからきている。分離できないからこそ〈本文〉とは別のコンテクスト=〈序文〉 - それは、〈本文〉以前に書かれたり、ときとして以後に書かれたりもするが、いずれにせよ、一つの〈本文〉入門である - において、やっとその〈本文〉の〈形式〉にふれられるのだから。
〈序文〉は、ことさらに〈本文〉と別のことを語るわけではない。それは〈本文〉を読めばわかるようなこと、〈本文〉に書いてあることを語るのである。にもかかわらず、しかし〈本文〉が自分で言い出してしまえば自分が言おうとすることを言い損ってしまうようなことを語るのである。
〈本文〉は自分で、自分の形式を語ることができるだろうか。もしそのようなことができるとすれば、自分で自分の形式を語るコトバの形式とは、いったい、どんなものなのだろうか。
語り出された形式は、潜在的であれ顕在的であれ、いつでも傍点(ルビ)付きのものであってレトリカルなものとして以外に受け取りようのないものである。それは、ひと息おいて理解されねばならない。
透かせば見えてくるもう一つの〈形式〉がそこ(Da)では押し黙って後退しているのである。もし仮に、自分の形式に自分で言及するシステムを生み出そうとすれば、それはこのような、形式の後退を防ぐものでなくてはならないだろう。
〈序文〉は、それゆえ一つの書物において〈本文〉に書いてあること、つまり〈本文〉の形式(=内容)を語りつつ〈本文〉のコトバでないものとして機能することによって、そのような後退を防いでいるようにおもわれる。
ところで、このような〈序文〉が自らの形式(=内容)をもつことは許されないだろう。そうなれば、その〈序文〉をコメントする〈序文〉がふたたび必要となるだろうからである。そのためにも〈序文〉は、いわば純粋な内容、もしくは形式的な形式でなくてはならない。
そこで、もし〈序文〉が〈本文〉と同じことを語っているのだとしたら、そのことは〈序文〉の形式をコメントするものが、実は〈本文〉であること、〈本文〉が〈序文〉の同じく純粋な形式(=内容)であることをいみするにちがいない。〈本文〉とは序文の〈序文〉なのである。
結局のところ、問題はふり出しに戻る。〈序文〉:〈本文〉(=〈本文〉:〈序文〉)の関係そのものが、ふたたび〈形式〉:〈内容〉(=〈内容〉:〈形式〉)の関係にはまりこんでいるのである。それは、一つの書物の形式なのである。
〈本文〉の形式と内容との分離の困難を〈本文〉と〈序文〉との区別において処理しようとすること、つまり〈本文〉のメタ・レヴェルを〈序文〉で《表面》に出すことは、もう一つの、形式と内容との分離の困難に出会うことであって、〈序文〉と〈本文〉との区別(の形式)=書物の形式は、それ自身が一つのメタファーである。言いかえればこの区別は、ふたたびそれと同じことを語るもう一つ別のコトバ=コメントを必要としてしまうだろうということである。
この別のコトバが、もはや著者のコトバであることは許されないだろう。少なくとも同じ書物のコンテクストに属するものでないことは明らかである。
一つの書物を書き上げること。そして、この書物に仕上げの一筆を加えるようにして《あまりたいしたものではないのですが……》と言って、自分でコメントして差し出すこと、それはすでに、一つの言い損ないである。あまりたいしたものではない…、と本人がわかっているのなら、初めから書かなければよいし書かないまでも書き直して出直せばよいのだから、このコトバはまじめに言われているものではない。かといって自作について《すぐれたものだ……》と、自分でまじめに言うのも気がひける。
このコトバが通常、《形式的》なものだと言われているのは、そこからしてのことだが、それは〈序文〉が《形式的》であると言われているのと同じいみでのことである。
かつて、〈序文〉にこのような形式性以上のいみがあたえられたことがあっただろうか。けれども、この形式性のいみは、もうすこしは詰められるべきである。というのも、この形式性は通常認められていることであって、論理的なパラドクス以上のいみを有しているからである。
《あまりたいしたものではない……》という発言をリテラル(《おもて》のいみ)にとればそのような書物をわざわざ読む者はいないだろう。けれども、このコトバのメタフォリカルないみ(《裏》のいみ)を決定できるのは、もはや著者(発言する者)の側の力 (Macht) によってではない。
著者は自分の発したコトバをリテラルにとられると、おそらく憤慨するだろうが、またメタフォリカルにとられることを自分で指示することもできないのであって、《いえいえそんなことはない…》という《形式的》な返答(礼辞)を《形式的》には拒み続けねばならない。著者ができることは、自分が《本当に》おもっていること=《言おうとおもっていること》を〈他者〉に言ってもらうことを《待つ》ことだけである。そうでなければ、このコトバは《形式的》であること、メタファーであることをやめてしまう。そのときには《角が立つ》のであって、このコトバの形式性に《本当のいみ》などというものはもともとないのである。
ところで、〈序文〉は〈本文〉のことについて書いてあるのだが〈本文〉のこと《すべて》が書いてあるわけではない。《すべて》のことが書いてあるとすれば〈序文〉以上、先へ進む必要はないだろうし、すでにそれは〈序文〉なしの〈本文〉であることになるだろう。
けれども、《すべて》のことが書いてないからといって、〈序文〉は〈本文〉の《部分》なのではない。《部分》であれば、それは〈本文〉の中の《第一章》もしくは《第一部》であるにすぎない。《終章》にしても事情は同じである。〈序文〉は〈本文〉の《すべて》を語っていないというのは、そういういみでのことではない。ときとして〈本文〉の《すべて》を費やして《言いたかったこと》を語る〈序文〉が単なる《部分》にとどまることができるだろうか。
とはいえ《言いたかったこと》を押し黙らずに言ってしまえば、ふたたび、それはコメントを引きよせてしまう。《なぜ、そんなことを言いたいのか…?》と。裏(本文)の裏(序文)は、ふたたび〈表面(おもて)〉である。そしてそのコメントの領分は、もちろん〈本文〉に属している。
〈裏〉のいみを〈序文〉で言ってしまうということは、だから、ふたたび〈本文〉という《背後》を残すことである。
けれども、〈本文〉が〈序文〉のコメントとして〈序文〉とは別のことを語っていないのならばそのような言い残しは《同じこと》の言い残しであって、〈序文〉は自分の言いたいことを言い残すことによって、むしろ自分自身を語り始めるのである。
それゆえ、〈序文〉に書いてあることをリテラルにとることも単にレトリカルにとることも許されない。〈序文〉に単なる裏のいみなどないのであって、そのいみでなら〈序文〉は〈本文〉の《すべて》を語っているし、〈本文〉を拒み続けねばならない。〈序文〉が裏のいみを背後に残すのは、むしろ〈本文〉のいみを《すべて》語り尽くしてしまうからである。そのことが〈序文〉を逆に空虚なものにしてしまう。
〈序文〉は、もはや何も言うことなどないのである。〈序文〉がそのいみで別のコトバ=〈本文〉を待たなければならないのは明らかなことのようにおもわれるが、待つのは自分自身の《言ったこと》を待つのであって、〈序文〉とは、それが自分自身で〈ある〉ことによって自分自身に言及することを禁じられているテクストである。それはよく言われるように形式的なテクスト=メタファーなのである。
もしそうであるとすれば、〈序文〉から〈本文〉への《移行の必然性》は《待つ》ことの必然性であるだろうが、待つことは、来るべきものが来ないことがあることも含まれているだろうから、それは《必然性》のいみを少しはずらしてしまうようにおもわれる。
メタファーとしての〈序文〉は、そのいみで、一つの、読み損なわれることの可能性として、書物の〈一体性〉を最初から危くするかのようである。それは、さしあたり、いちかばちかで《あまりたいしたものではないのですが……》と言って差し出すほかないもののようにおもわれる。
一つの書物の〈真理〉は、いつでも、遠回りをしてやってくる。
もし、その書物の〈真理〉が、自分自身をこそ待たねばならないものであるとすれば、そして、待つことが、一つの出会い損ねでもあるとすれば、たとえば『ヘーゲルと書物の時間』などというタイトルで始まる論考を書き起こすということは、いったい、どのような出来事なのだろうか。(この章、了)
(Version 2.0)
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