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 Mさんの結婚式 ― 女性は男性より先に死んではならない 2006年03月12日

今日は、結婚式。一度聞いたら忘れられない名前を持つMさん(新婦)の結婚式の主賓でご招待を受けた(於・品川プリンスホテル)。※この記事の初版ではすべて固有名詞を上げていましたが、「はずかしいからやめて」と今朝本人からの電話があり(3/14)、謹んで略称に致します。お父様と一緒に写した写真も掲載を取り下げておきます。ご迷惑をおかけしました。

三月は卒業式、4月は入学式と校長の私には「式辞」のラッシュで、緊張の連続の季節。それに今日の結婚式。これはどう考えても余分だ。しかも主賓の挨拶だから、相手方に“負ける”わけにはいかない。

このMさんは、私が社会人の教育課程の責任者だった頃、わが学園に“入社”してきた女の子(といってももう30歳になる)。

入社して1年経つか経たない頃に、実家の松山で療養中のお母さんが突然お亡くなりになり、私が急いで航空券を手配してあげたことを今さらのように覚えている。「先生、お母さんが死んだ…」とぶしつけに、無愛想に私の机のそばにやって来た。

この娘は、喜怒哀楽をあまり顔に出せない。目も細いし、鼻も口も小さい、声も小さいから、そもそもの表現装置がない。

しかし、だからこそ「先生、お母さんが死んだ…」という無表情がそのときもまた忙しくしている私の手を止めさせた。「すぐに行けよ」「でも四国だよ。どうやって行くの」「飛行機だろ、飛行機しかないよ」「今から席、取れる?」「日航に後輩がいるからすぐに取ってやる」「ありがとう」。滅多に助け合わない、私とMとの短い会話だったが、このときだけは余計なことを一言も言わずに“通じ合った”。約5年前の話だ。

そのMさんが今日結婚する。

そういった私とMとの関係を紹介しながら、私の主賓としての挨拶が始まった。


●今日は、そのように5年前にお亡くなりになったお母様の代わりに私がここにいる、と思って話をさせていただきます。

私は〈結婚式〉というものをたいへん残酷な儀式だと思っております。

二人は祝福の絶頂にありますが、一方で二人は、お互い愛しながらも分かれざるを得ない死の離別を覚悟した二人でもあります。二人を引き裂くものはもはや死以外ではあり得ない。そういった二人の出会いを〈結婚〉と呼ぶのです。

大概の離別は、嫌いになったり、関心がなくなったりの離別、また新たな出会いを求めての離別でありますが(したがって別離でもないでもないのですが)、嫌いになることもなく、好きかどうかを疑うことも問うこともないくらいに愛し合ったまま離別する者たちを結婚する者(家族を持つ者)と呼びます。〈別離〉とは、愛し合ったまま別れざるを得ない者たちにしか使ってはいけません。別離とは死別以外にありえないものです。こんなにもつらいことはありません。

結婚する二人は、もっとも決定的な出会いを体験したが故にもっともつらい別れを覚悟しなければならない二人でもあります。結婚式が酒宴の席でもあるのは、その耐え難いつらさをかき消すための場でもあるからです。

キリスト教では「死が二人を分かつまで…」と言います(私はクリスチャンではありませんが)。これは半分真理、半分は正しくありません。実際には二人は同時に死ねるわけではないからです。

世の中では“良妻賢母”などと言いますが、私は、掃除が上手、料理が上手、子育てが上手、そんなことはどうでもよいと思っております。

このあいだ、戦後詩の代表的な詩人、茨木のり子が死にましたが、その大先輩にあたる永瀬清子の詩に『悲しめる友よ』という詩があります。

悲しめる友よ

女性は男性よりさきに死んではいけない。

男性より一日でもあとに残って、挫折する彼を見送り、またそれを被わなければならない。

男性がひとりあとへ残ったならば誰が十字架からおろし埋葬するであろうか。

聖書にあるとおり女性はその時必要であり、それが女性の大きな仕事だから、あとへ残って悲しむ女性は、女性の本当の仕事をしているのだ。

だから女性は男より弱い者であるとか、理性的でないとか、世間を知らないとか、さまざまに考えられているが、女性自身はそれにつりこまれる事はない。

これらの事はどこの田舎の老婆も知っていることであり、女子大学で教えないだけなのだ。

(実際に私がこの披露宴で暗唱したのは3行目まで)


私は、今日新婦の立場を代表してこの席におりますが、ここだけは男性の立場から、“良妻賢母”というのは一日でも男性よりも後まで生き残る、そして彼を見送ることのできる女性のことだと言いたい。どんなに美人で料理が上手で、近所や親戚に評判のいい女性も、先に逝く女性はすべて“悪妻”であります。

3年前、私の家内は難病を患い、レッサーパンダよりも長く立てない状態になり、今では日常生活全般を私がまかなっています。彼女は食事も掃除も上手ではありませんが(ましてことさらに美人でもありませんが)、もはや半分は「悪妻」であります。

家内が難病になるまで、私は自分が家内の世話をすることなど夢にも思いませんでした。これは私の一生の“不覚”であります。結婚というのは、二人が同時に死んだりはしないこと、別離の契りでもあることを忘れていた私の“不覚”です。独り者よりも家族を持つ者の方が楽しい、というのは、半分以上ウソなのです。

永瀬清子は、「挫折する彼を見送る」ことが一日でも後にまで残る女性の意義としています。男性というのは今日も後悔、明日も後悔、死ぬまで後悔する弱き者であります。そうやって死ぬまで裁きを受ける者であります。その裁きを見届けるのが女性の役目です。まるでその裁きの後の余生こそが女性の人生そのものであるように、女性は裁きの前後〈である〉のです。

Mさん、私は、あなたに一日でも長く新郎よりも生きてもらいたい、そう思います。それが家族の幸福というものです。“家族の幸福”というのはこの世には(そして特に男性には)存在しない。一日でも長く女性が生きること、それが“家族の幸福”です。したがって、“家族の幸福”というものは、すでに一歩はあの世に足をかけているものなのです。だからこそ、私は女性であるあなたにこそ、一日でも長く生きてもらいたい、と願います。それこそが“家族の幸福”です。

Mさん、そしてそれが、お父様よりも先に逝かれたお母様の悔いをはらすことでもあります。お父様も1人残されて大変だっただろうけれども、何よりもお母様の先立つ悔いはそれよりもはるかに重いものだっただろう、と私は思います。今日のあなたの結婚こそ、そのお母様の悔いを受け止めて、あなたが元気で健康で一生添い遂げるその始まりの日となるはずです。それがあなたのお母様への今日の報告でなければなりません。

私は、5年前、あなたが「先生、お母さんが死んだ…」と言い寄ってきたときから、そのことを伝えなくてはならないと思ってきました。今日、やっとお母様のかわりに出席した私の気持ちを伝えるチャンスを今日のこの日に得ました。本当に感謝しています。

健康でいてもらいたい、それが結婚するあなたに私が唯一伝えたいことです。結婚おめでとう。これをもって祝辞に代えたいと思います。(以上、記憶をまさぐって今日話したことを文章で補いました)

(Version 2.1)

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投稿者 : ashida1670  /  この記事の訪問者数 :
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感想欄

政ちゃん!
おめでとうございます。
お幸せに!

投稿者 中野@みやした : 2006年03月13日 13:58

「先に逝く女性はすべて“悪妻”であります」
これに似た言葉を本で読みました。
「いかなる理由でも、親より先に死ぬのは親不孝者だ」

「Mさん、そしてそれが、お父様よりも先に逝かれたお母様の悔いをはらすことでもあります。お父様も1人残されて大変だっただろうけれども、何よりもお母様の先立つ悔いはそれよりもはるかに重いものだっただろう、と私は思います。今日のあなたの結婚こそ、そのお母様の悔いを受け止めて、あなたが元気で健康で一生添い遂げるその始まりの日となるはずです。それがあなたのお母様への今日の報告でなければなりません。」

この文、良いです。

Mさん、お幸せに!!

投稿者 ドクターペッパー : 2006年03月13日 22:59

芦田様の祝辞には心打たれるものがあり、人が最後まで生きるのは大変なことだと思いました。

今朝ドクタッペッパーさんの返信を読んでこの解釈にまたすごく感動しました。

投稿者 つくしんぼう : 2006年03月14日 09:42

いま、涙が止まりません。なんでだろう。

投稿者 コーノ(kono_00) : 2010年04月19日 00:03
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